アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品
◆第二部 07◆
目を開いた時に飛び込んできた景色が見なれぬものだったため、氷河は激しく混乱した。
……?
どこだ?
今はいつだ?
記憶があいまいで自分がどこにいるか思い出せない。
体を起こそうと身じろぎして、全身が倦怠感に包まれていることに気づき、ようやく断片的ながら何が起こったのかを思い出した。
洋服はきちんと着ている。が、覚えのある違和感を下腹部に感じる。夢ではない。
畜生、ミロの奴!
信じられない!何を考えているんだ!あんな人だとは思わなかった!
怒りで体が震える。
が、同時に気づく。
俺は、『怒っている』のか……。
海底神殿の戦いからずっと、氷河にとって世界はすべてフィルターを通したかのようにおぼろげだった。
笑っていても怒っていても、現実感がなく、本当の氷河はふわふわと拡散して、焦点が合わない虚像でしかなかった。
それなのに、今、怒りを怒りと正しく認識できるほど、不思議と頭がすっきりと冴えている。
そうか……眠ったんだな、俺は。
ミロが指摘したとおり、氷河は海底神殿から帰ってから一度もまともに眠っていなかった。
前にもあった。
あの時もきっかけはアイザックだった。
俺は、またアイザックを殺した。
今でも大好きなのに、二度も。
最初の時、俺を救ってくれた先生はもういない。
……それも、俺が殺したから。
自分の手が、拭い落ちない血で染まっているのを感じる。
だけど、俺は、そのことで傷ついてはいけない。
後悔しても、泣いてもいけない。
命をかけてくれた先生の思いにこたえるために。
絶対に、絶対にもう揺らがない。
自分が弱いことは知っている。
一度でも、立ち止まってしまったら、もう歩き出せないほど、俺は弱い。
自分のしたことを考え始めたら、絶叫しそうだ。
氷河は、また拳を握り、唇をギリリと結ぼうとする。
世界がまたぼやけはじめ、氷河の心は拡散していく。
と、背後から、筋肉質の逞しい腕が伸びてきて、氷河の唇の間に、ぞんざいに人差し指が突っ込まれた。
驚いて振り向く。
「いたのか」
「俺のベッドだからな。そりゃいるとも。……噛むなよ」
そう言われた途端、恰好の獲物が目の前にあることに気づき、氷河は力いっぱいミロの人差し指に噛みついた。
「痛いじゃないか。これでは技が撃てないぞ」
ミロは全然痛くなさそうにそう言った。
だが、氷河の唇から引き抜いた指には血がにじんでいた。
「自業自得だ!」
氷河は怒りで真っ赤になって震え、おもむろにミロに殴りかかってきた。
手加減なしで左頬に拳を叩き込んだつもりだったが、あっさりとかわされ、逆に腕をとられてミロの上に転がり込む。
「今日は積極的だな。朝からか?」
「違う!!大嫌いだ!貴方なんて!殺してやる!」
「ほう。いつでも受けてたとう」
氷河が沸騰しそうな勢いで憤っているのを、ミロは笑ってかわし、額に唇を押し当ててきた。
「やめろ!……離せよ!」
「朝から元気だな、ぼうやは」
少しは眠れたみたいでよかった。
そう、心の裡だけで付け加えて、ミロは氷河の体を強く掻き抱いた。
「ふざけるな!」
と、氷河はミロを突き飛ばし、荒々しくベッドから下りると、寝室を飛び出していく。
ミロはその背にからかうような口調で投げかける。
「また包帯かえてやろうか」
氷河は、これ以上ないほど赤くなり、悔しそうに顔をゆがめると、ミロの方へ踵を返して、再度力いっぱいの拳を繰り出してきた。
ミロはさらにそれを片手で受けるとニヤリと笑った。
「なんだ、今すぐかえてほしいのか」
「ほんとに一度死ね!!」
最後にもう一度氷河が叩きつけてきたのは拳ではなく、凍気で、ミロの前髪をかすめて、こめかみに綺麗にヒットし、少し溜飲を下げた氷河は今度こそ寝室を出て行った。
よけることもできたにもかかわらずあえて受けてやったのだが、凍気とは反則だ、と思い、こめかみを押さえてくすりと笑った。
凍りついた前髪がパラパラと粉になってベッドに落ちた。
初めて、氷河の本当の顔を見たと思った。
例え、それが怒りであっても、あんな風に心を閉ざしてしまうよりはずっといい。
さて、どこへ逃げたか、と後を追う。
てっきり、もう天蠍宮にはいないだろうと思い、探しに行く前に目覚ましにシャワーでも、とのぞいたバスルームに氷河がいて、ミロは拍子抜けした。
またからかってやろうかと口を開きかけたが、その前に氷河が濡れたタオルをミロのこめかみに押し当ててきた。
「それ……すぐ手当てしないと傷跡になる」
こめかみの一部が凍傷になっていることを言ってるのだ。
ミロは驚きを通り越して呆れた。
拳ではなく凍気をぶつけてくるほど怒り狂っていながら、どこへもいかず、治療の用意をしているとは。
変な奴だ。
でも……そういうところはカミュに似ている。
「やった本人がいう台詞か?」
「謝るつもりはないからな!……綺麗な顔に傷を残して、後々ずっと嫌味を言われるのはごめんだからな。それだけだ。勘違いしないでくれ」
後々ずっと、だって?
あんなことした俺と、「後々ずっと」つきあうつもりがあるのか、君は。
そう言いそうになった。言うと本当に天蠍宮から出ていきかねなかったので、口には出さなかったが。
氷河は自分が凍らせた部位に熱が戻るまで、何度もタオルをかえ、押し当てた。ミロは黙ってそれを受けた。
温かいタオルと氷河の冷たい指の感触が気持ちがいい。
「君は……カミュに似ている」
皮膚が熱を取戻し、傷がないことを氷河が確認して離れた時、ミロはそういった。
氷河の動きが止まる。
「カミュに……?」
「そう。似ている」
氷河の顔が、一瞬、泣き出しそうに大きく歪んだ。
が、慌てて、拳を握り、唇を結んで耐える。
ミロは氷河の手を取り、優しくその拳を開かせて握った。
そして、固く結ばれた唇に自分の唇を重ねる。
唇を重ねたまま、言う。
「噛みたいなら俺を噛め」
氷河は首を左右に振る。
ミロの手をふりほどこうとするが、優しく握られているだけなのになぜかふりほどけない。
昨日から泣き叫んだり、激しく怒ったり、感情が大きく揺れ動いているせいで、ちょっとしたことで涙腺が緩みそうだ。
カミュの名を聞いただけで、もう、瞳の奥が痛い。
ミロに無理矢理侵入された心の扉がまだ閉まりきっていないうちに、さらに踏み込まれ、息苦しくて窒息しそうだ。
だめだ。
いやだ。
こんなところで折れたくない。
折れたらもう戻れない。
カミュの死が無駄になる。俺のために死んだのに。
大嫌いだ、あなたなんて。
なんで、俺を揺さぶるんだ。
せっかく、揺らがずに立っているのに、なんで。なんで。
歯を食いしばっていないと。拳を握っていないと。
でも、今はそのどちらも封じられている。
一度揺さぶられた感情は制御がきかず、氷河の眦から一筋涙がこぼれた。
ミロはそれを指先でぬぐい、氷河の髪を優しく撫でた。
「よし。いいこだ」
『よし。いいこだ、氷河。』
ああ……
せんせい……
氷河の押し込めていた感情が堰を切って流れ出した。
涙があふれ、嗚咽が漏れる。
ミロを『せんせい』と呼んで、小さくすがる。
ミロは優しく、宥めるようになんども背を叩いてやる。
せんせい、おしえて。
おれはどうしたらよかった。
アイザックを殺したくはなかった。
でも、せんせいが命を懸けて教えてくれたことにも背けなかった。
アイザックはその左目を失ってまで俺を救ってくれたというのに、俺はアイザックを殺した。
ころしたんだよ、せんせい。
こわい。
また間違ったんだったらどうしよう。
せんせいは死んだのに。
アイザックまでも。
せんせい。
あいたい。あいたい。あいたい。
嗚咽の合間に、小さく譫言のように繰り返される氷河の懺悔を、ミロはその体を抱きしめながら聞いていた。
何度も、大丈夫、大丈夫だから、と頭を撫でてやる。
氷河にミロの声が届いたのかどうかはわからないが、長い間、そうして氷河の感情を受け止めていた。
氷河の感情はさまざまに揺れ動き、カミュへの思慕の念を語ったかと思えば、罪への懺悔に変わり、また、不在への寂しさの吐露へと変わる。
不安定に揺れる想いをミロはすべて聞いていた。
やがて、嗚咽が小さくなり、氷河はミロの腕の中で泣きつかれて眠りに落ちて行った。
さきほど目が覚めたばかりだというのに。
よほど、張り詰めていたのだ。
ミロは氷河を抱きかかえ、もう一度、寝室へ戻り、ゆっくりとベッドへその身を下ろした。
涙に濡れた寝顔をじっと見つめる。
張り詰めていた糸は切れた。
あとは、正しくつなぎなおすだけ。