寒いところで待ちぼうけ

旧・手のひらの花(初出版)

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品

第一部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11
第二部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11

◆第一部 03◆
 氷河がふらふらとした足取りでようやく起き上がってきたのは3日目の朝だった。
 顔色はだいぶ良いようだったが、師弟はお互いにかけるべき言葉が見つからず、静かに食卓を囲んだ。
 もともと一番口数が多かったのはアイザックだったのだ。カチャカチャとスプーンが皿にあたる音だけが響く。
 永遠に食事が終わらなければいいのに、とも思ったが、すべてのものに終わりは訪れる。
 カミュは、大きく肩で息をして「師」の顔に変わると口を開いた。
「氷河……お前だけでも生きていてよかった」
「そんなこと言ってもらう価値など俺には……」
「いや。命を落とさないこと、それも含めてお前の価値のうちだ。死んでは女神の守護はできないからな。死ぬ時があるとしたらそれは女神を護る時でなければならない」
「でも……アイザックは……今ここにある命は本当はアイザックのものです」
「それも違う。アイザックに助けられたことも含めてすべてお前だ。アイザックのことはお前自身とは関係ない。それは、私が負わねばならない荷だ。お前が気にすることではない」
「違います。おれの責任です」
「うぬぼれるな!!」
 突然、カミュが氷河の頬を張った。
「責任などと口にできるのは、荷を負うのにふさわしき実力を備えたものだけだ!聖闘士でもないお前に、どれほどの荷が負えるというのか!師であるこの私を差し置いて、どんな責任がとれるというのか、答えてみろ、氷河!」
 カミュの言葉に、氷河は稲妻に撃たれたように硬直した。
 カミュは激しい叱責の言葉の後、今度は打って変わって静かに続ける。
「氷河、お前は、私を、弟子に荷を持ってもらわないとならん非力な男だと思うか」
「!……いいえ!いいえ!」
「では、師として命令する。アイザックのことは私の責任だ。お前はもう探しに行ってはならん。考えることも許さぬ」
「そっ……………………はい」
「アイザックがいない今、白鳥座の聖闘士候補はお前だけだ。氷河、私は聖闘士の一人も育成することができない無能な指導者か?」
「いいえ!必ず俺が聖闘士になってみせます!」
「よし。では、体調が戻ったのなら、早速、訓練に戻らねばなるまい。休んだ分、体がなまっているはずだ」
 カミュは、冷酷に会話を切り上げ、外に出た。
 氷河の頬を張った手が燃えるように熱かった。
 こんなふうに手をあげたことは初めてだった。
 さまざまな感情が去来する。
 師をこれ以上失望させまい、と悲愴な顔をして後をついてくる氷河の表情が心に痛い。
 訓練中以外は常に甘い顔を見せてきた自分の、突然とも思える残酷な厳しさを氷河はどう受け止めただろうか。
 弟子たちに常に言っていた自分の言葉が蘇る。
 感情の揺らぎを抑えよ、か。
 わかっていてもできないこともある、と、したり顔で弟子に説諭する以前の自分に教えてやりたい気分だった。



 それから、来る日も来る日も二人は異常とも思えるほど厳しく訓練に取り組んだ。
 二人を突き動かしている感情は、種類こそ違えど、罪の意識だという点で根っこの部分が同じだった。
 体を動かして、極限まで疲れ切ってしまわなければおかしくなりそうなほど、その感情は常に二人の間に横たわっていた。
 主のないベッドや、一脚だけ余った椅子が目に入るたびに、二人の感情が、罪悪感という楔で濃密に混じり合う。昏い深淵を二人のぞきこんでいるような日々。

 さらに困ったことに、そういった懊悩からくる部分をのぞいても、アイザックの不在が二人の関係性を変えつつあった。
 明るく、ムードメーカーだったアイザック。カミュも氷河も口数が多い方ではない。
 いつも話の中心はアイザックだった。言葉足らずな師を「氷河、先生怒ってるように見えるけど、ほんとはお前のこと心配しているだけなんだぜ」とフォローしたり、「先生、氷河が熱があるみたいです」といちはやく知らせたりしていたのも彼だった。
 三人でいるときは「師と二人の弟子」でいられた。
 だが、いまやその境界がゆらぎはじめている。


 カミュも氷河も、なかったこととして、あれ以来、一度も話題にすることはないが、原因の一端があの夜の口づけにあることは明らかだった。
 カミュの中でアイザックの方を聖闘士に、という思いは最初からあった。
 1年早く弟子に取っただけあって、愛着もあったし、1年分、何ごとにつけ彼の方が先んじていたからだ。
 しかし、二人の実力が伯仲するようになってからもその思いは変わることがなく、むしろ、成長するにつれて、氷河ではなくアイザックの方を候補として見る思いが強くなった。
 それは、氷河自身の問題ではなく、主にカミュの心の問題だった。
 あの、澄んだ湖のような瞳を見るたびに、彼を生き死にの世界から遠ざけたいと、胸が痛む。
 その感情を何と呼ぶか、名を考えたことはない。
 だが、アイザックを愛しいと思う気持ちと氷河を愛しいと思う気持ちが微妙に種類が違っていたのは確かだ。
 アイザックがいれば、永遠にその感情に気づくこともなかっただろう。
 しかし、あの日に、激情に任せて、境界を越えてしまった。
 そのことの意味をカミュはもう自覚し始めている。
 一度超えてしまった境界を戻ることは難しく、カミュはもう一度、触れて、その熱を感じたい誘惑に打ち克つために、相当己を厳しく律しなければならなかった。
 三人でいた頃、同じ寝室で休む習慣をやめずに続けていたことが今更ながら悔やまれた。
 明かりの消えた部屋で、氷河の息遣いを背中に感じながら、触れることがかなわない日々を過ごすのは耐え難い苦痛だった。