アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品
◆第一部 05◆
カミュは聖域から帰ってきたところだ。
呼び戻されないのに、自分からシベリアを離れて聖域へ行ったのは、覚えている限り初めてのことである。
疲れていた。死なないのが不思議なほど厳しい訓練を氷河に施していることにも、張り詰めた糸のような緊張状態で生活することにも。
だが、氷河から離れて、苦しさから解放されるかと言えば、そうではなく、むしろ、余計に、その姿や声が思い出されて、苦しさが増すのだった。
この苦しさから逃れられないなら、聖域にいる意味はない、と、諦め、疲弊した精神に鞭打って、氷河に告げていた予定より早くシベリアに戻ることにしたのだった。
家へ戻ったが、氷河の姿はなかった。
顔を合わさなくていいことに安堵するも、すぐに、師としての自分が、日暮れまでわずかな時間であっても訓練の相手をしてやらねば、と思い直す。
カミュは休む間もなく、雪の中へと足を踏み出した。
だが、予想に反してどこにも氷河の姿はない。
まさか、と信じられない思いで、カミュは氷河の母が眠る海域へと足を向けた。
その光景を見たとき、カミュを絶望にも似た虚脱感が襲った。
一度見たことがある光景だ。氷原に穿たれた大きな穴。
冷たい水の底の方で氷河の小宇宙がゆらめくのが感じられる。
氷河が上がってくるのは待たなかった。
あれから半年以上たつ。カミュの無茶苦茶とも思える厳しい訓練に耐え抜いた氷河ならば、もう潮流に流されることもないだろう。
重い足取りで家路につく。
衝撃的だった。
氷河にとって、血の絆というのはそれほどまでに大事なものなのか。
なぜ、自分にはその代わりができないのだろうか。
そこまで母を求める気持ちがカミュにはどうしてもわからない。
今日はたまたま予定外にカミュが早く帰ってきたから、その現場を目撃する羽目になったが、もしかしたら、カミュの知らない間にもう何度も会いに行っているかもしれなかった。
彼の心はいまだ死者に囚われているのだ。
怒りは感じていない。ただ、哀しかった。
このままでは聖闘士としてはもちろん致命的だろう。死者を追い求める気持ちが強い彼は、死線を彷徨うことになったら、いつ何時、彼岸への誘惑に負けてしまわないとも限らない。
氷河がそんな風に死んでいくことは耐え難かった。
カミュの心に、またも後悔が押し寄せる。もっと早く、非情であっても、母への思いを断ち切らせるべきだった。それができないなら、氷河を脱落させてやるべきだった。
だが、カミュはわかってもいた。例え、時間が巻き戻せたとしても、自分は氷河を前にしては、そのどちらも選択できなかっただろうことを。
結局、自分は氷河にどこまでも甘いのだ。それが、結果的に彼をより苦しめることになるにもかかわらず。
死んだ人間は、もう二度と氷河を抱きしめてはくれないのに。
氷河が母と過ごした時間と同じくらいの時間を、自分と氷河も共有してきたはずなのに。
自分なら、いくらでも抱きしめてやれるのに。
落ち着かない感情が、ぞろりとカミュの中をなでていく。
それは師としての指導の域を既に越え、ほとんど嫉妬に似ていた。
氷河の中に、絶対不可侵の領域があることに対しての。
死んだ人間にはどうあっても勝てるわけがない。
自分がどんなに氷河を大切に想っていても、氷河の心がどうしても手に入らない。
氷河は戻り、戸を空ける時、鍵がかかっていないことに驚いた。明かりはついていない。
「カミュ……?いらっしゃるのですか?」
シベリアの夜は早く、室内は既に薄暗い。
椅子の背にカミュの外套がかけてある。帰っているのだ。だが、明かりどころか、暖炉の火もついていないままだ。
不審に思いながら、一部屋一部屋探して歩く。
寝室の扉を開けた時、窓際にそのシルエットを見つけた。こちらに背を向けているが、東の空に昇りはじめた月の光が紅い髪に反射していて、それでそこにいるのは確かにカミュだと知れる。
カミュが腰かけているのがアイザックのベッドだと気づき、ギクリとする。
師の指先が、かつてそこを使っていた人物の頭を撫でるように優しく往復している。
「……せんせい……」
ただならぬ雰囲気に、躊躇しながらも氷河は声を絞り出す。
カミュは振り向かず、
「潮の香りがする」
とだけ言った。
ドキンと氷河の心臓が跳ねた。
カミュが戻っていると思わなかったから、海から上がったそのまま帰ってきた。
そのことを指摘されたのだとはっきりとわかった。
恐怖で臓腑の奥からぐっと吐き気がせりあがってくる。
叱られることは怖くない。破門でも構わない。
ただ、これ以上拒絶されることだけが怖い。でも、もうきっとダメだ。
嘘の言い訳をすることも、正直に答えることもできず、ただ、だまって俯いた。
金色の髪の先からポタリ、と潮の香りがする滴が落ちて、床に落ちる音が意外に大きく響いた。
カミュがゆっくりと振り返った。逆光でその表情を見ることはできない。
「……髪が濡れているな」
ひどく優しい声が降ってきて、氷河の髪へ指を伸ばした。掌で落ちる滴を受け止めている。
氷河は身じろぎひとつできない。
そんなに優しい声を出されてはどうしていいかわからない。師の心の中が見えず、余計に恐怖がつのるばかりだ。
「氷河」
カミュがまた優しい声でその名を呼ぶ。
氷河は恐怖で震えだしそうになる。実際に指先が細かく痙攣しはじめた。
「氷河」
カミュは、もう一度名を呼ぶと、氷河の腕をとり自分の方へ引き寄せると、そのまま胸の中へと抱き込んだ。
痛いほどの強い力で抱きしめられ、氷河は驚いて息をとめた。
時間が止まったかのようにどちらも動かない。
あたりを互いの鼓動が聞こえそうなほどの静寂が支配する。
カミュの指が、氷河の濡れた後ろ髪を撫でている。
その意図がわからず、氷河の体の震えは止まらない。
だが、数か月ぶりに他者から与えられる温もりが、ただ、氷河を酔わせる。
長い抱擁の後、やがて、カミュがその力を緩めた。
「……濡れたままだと風邪をひく」
氷河の体を押し戻すように、視線を背けながら言った。
氷河は離れていくカミュの腕に、咄嗟に小さく指先だけですがった。ほとんど無意識の行動だ。
カミュはそのわずかな引き止めに気づくと、驚いたように、氷河の顔を見た。
二人の視線が絡み合う。
瞬きも息もできない。
せんせい、はなれていかないで。
氷河は心の中でそう叫んでいた。だが、口には出さない。
かわりにその叫びは涙となって、氷河の瞳からこぼれ、氷河の頬を唇を濡らしていった。
カミュの心も激しく乱れた。
氷河、なんて顔をするんだ。お前にそんな切羽詰まった寂しげな顔をさせているものは一体何だ。
そのあまりに痛々しくいじらしい姿に、もう、愛おしさを抑えきれない。
ついに、溢れんばかりに湛えられていた水は張力を失い、コップの淵から溢れ出した。
カミュは氷河を勢いよく抱き寄せると、荒々しく、唇を氷河のそれへ押し当てた。
涙か、それとも潮のものか、微かに塩辛い、柔らかな唇を強く二度、三度と吸うと、さらにまた塩辛い液体が落ちてきた。
氷河の腕がカミュを求めるように首筋へとまわされる。
月明かりしか届かない、薄暗い室内で二つの影が濃密に一つに混じり合う。
泣きながらカミュを求めてくる氷河の姿に狂おしいほどの愛しさを感じる。氷河のすべてを自分のものにしたいという衝動がカミュを支配する。
カミュは歯列を割って舌を差し入れ、奥で小さく震えている氷河の舌を絡め取る。軽く吸い上げると、切なげなため息を漏らして、ますます氷河がしがみついてきた。氷河の下の唇を食み、ゆるく扱くように舐めあげる。
氷河の膝が、立っていられないほど震えていることに気づき、カミュは激情のまま氷河をベッドへ押し倒した。
すると、されるがままになっていた氷河が視線を彷徨わせ、初めてわずかに逡巡した。
カミュはその視線を追い、逡巡の意味を正確に理解した。
ああ。
アイザックがいた場所だ。ここは。
わたしの甘さとおまえの弱さが生んだ罪の場所。
救いがたく罪深い私たちにはふさわしい。
逡巡の理由が自分ではないならカミュにはもう止まる術はない。むしろ、そんな背徳的な思いが、より一層、カミュの情欲を刺激する。
氷河の両手のひらに指を絡ませ、カミュは再び、氷河の唇を貪り始めた。