アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品
◆第二部 01◆
予感がしたのか、それとも、かすかな気配を感じたのかはわからない。
だが、その日、ミロは気まぐれに宝瓶宮へと足を向けた。主がいなくなってずいぶんたつ。
宮の中は暗く、静まり返ったままだ。
たいてい、主を失った宮はひんやりとその温度を下げるものだが、なぜか宝瓶宮は主がいなくなってからの方があたたかである。
だが、そのあたたかさが逆に主の不在をまざまざと知らしめていて、却って寂しげな空気を放っている。
奥の方から、微かに凍気を含んだ空気が流れてきた気がした。
「カミュ?」
返事があるはずはないとわかっているのに呼びかけずにはいられない。
かつて、何度もこうしてここを訪れた。
カミュの方がミロを訪れることはまれだった。いつだって、ミロがカミュを訪れていた。
また来たのか、と邪険なそぶりを見せるくせに、ミロが長居しても文句は言わなかった。
お前、本当は俺が来るのを待ってたんだろう、と、もういない友人を思いながら感じた凍気を頼りに奥に進む。
「……何をしている」
そこにいたのは見覚えのある金髪の少年。
柱に背をもたれかけさせ、長い二本の足を投げ出して力なく座っている。
感じた凍気は、彼がつくりだしたものだったようだ。
彼のまわりにだけ雪がチラリチラリと降って、その髪に、肩に、指先に真っ白に積もっている。
キラキラと雪の結晶が淡い光を放っているさまは幻想的で美しかったが、だが、少年のしていることは正気の沙汰とは思えなかった。
「氷河、何をしているんだ、こんなところで」
答えがなかったので、さきほどよりも、いくぶん詰問口調で尋ねる。
名前を呼ばれて、ようやく自分に話しかけられたことに気づいた、という様子で氷河はこちらを見た。
「別に何もしていない。ここは暖かすぎるな、と思っていただけだ」
氷河の左目の白い包帯に血がにじんでいる。
女神をはじめ、青銅聖闘士達は海底神殿における闘いから戻ったばかりだった。
闘いの概要はだいたい聞いていた。
友のもう一人の愛弟子のこともそれとなく聞いた。目の前のこの少年が何をしたのかも。
「だからって、ここをシベリアにでもするつもりか?来い、寒くて堪らん。天蠍宮に戻るぞ」
ミロは努めて明るくそう言って、氷河の体に積もった雪を払ってやる。睫毛や髪の毛の先が凍り付いている。
一体どのくらいの時間、こうしていたのか。
冷たい氷河の体を半ば引きずるようにミロは階段を下りて行った。
天蠍宮に戻り、氷のように冷たい体の氷河を有無を言わさず浴室に押し込んで、自分はコーヒーを淹れるためにそこを離れた。
流れ落ちるシャワーの音が響いている。
さて、一体、こういう場合はどうしたらいいのか。
海底での話を聞くのは氷河にとって酷だろうか。
だが、聞かないでいるのも変ではないか。
すぐには判断がつかない。
とりあえず、カミュの名は氷河が持ち出すまでは言うまい、とだけ決める。
淹れたコーヒーを運んでいるところにちょうど氷河が姿を現した。
一目見て、ミロは盛大に吹き出す。
「笑うことないじゃないか」
ミロが着替えに出しておいたシャツもズボンも、氷河には相当大きかったようだ。
襟ぐりはだらしなく開いているし、袖も丈もだいぶ余っている。
ズボンも、とても穿いている、とは言えない状態で、服の中で体がすっかり泳いでしまっている。
「あなたがだいたい大きすぎるんだ。一体何食べてそんなに大きくなるんだ」
ミロが笑い転げていることに氷河は腹を立てた様子で、耳まで赤くしてそっぽを向いている。
「ああ、悪い。まあ、いつか坊やも大きくなるさ」
「俺は『坊や』じゃない」
余計に怒らせたようだ。坊やと言われて怒っているようじゃまだ子供だ。
「怒るな。コーヒー、ブラックで淹れたけど飲めるか?」
ミロは笑ったまま、カップを差し出した。
氷河はそれを受け取るか受け取るまいか考えていたようだが、やがて黙って受け取った。
ミロはしぐさでソファへ座るよう促す。
今度は素直に氷河もソファへと座った。
座った後で、ちょっと考え、氷河はズボンを脱いでシャツだけになる。
「もういい。寒くないし、用をなさない布きれをまとっていても仕方ない」
そう言って、ミロにズボンを返してきた。
まあ、シャツだけでも十分丈は余っているから、確かに寒くないことだろうが、とミロは笑いを咬み殺した。
氷河は眉間に皺を寄せてカップに口をつけている。
しっかり髪を乾かしてこなかったのだろう、毛先からポタリポタリと滴が落ちて、シャツの肩を濡らしている。
ミロはタオルをとって、氷河の髪をガシガシと拭いてやった。
「痛い!痛い痛い痛い!零れる零れる!」
「いやなら自分でちゃんとしてこい!お前、まさかカ……」
危ない。
カミュに頭を洗ってもらったりしてたんじゃないだろうな、と勢いで言いそうになった。
今決めたばっかりの方針が早速反故になるところだった。
ちらりと氷河を見るが、気づかなかったのか反応はない。
氷河は、ミロから乱暴にタオルを奪った。
「自分でできる!」
ミロはちょっとホッとした。
先ほど、宝瓶宮で見かけた時は、元気のない様子だった。
宮に連れ帰ったものの、めそめそと泣かれたら面倒だな、と思っていた。
ミロには慰めようがない。
カミュから聞いていた氷河は、甘えん坊で、母親を求めて泣くばかりの小さな子どもだった。
そんな彼が、師に引き続いて兄弟子までも自分の手にかけることになるという過酷な運命にさらされて、それをどんなふうに受け止めたのか、見当もつかない。
だが、ここで簡単に潰れてほしくはなかった。
あのカミュが命を懸けて導いたというのに、そして、自分も、それを覚悟して先へ進ませたというのに、それが無駄になったかもしれない、と考えることは耐え難かった。
こんなところで折れるなら、あの時、俺はとどめをさすべきだった、とも。
だが、杞憂だったようだ。
目の前の少年は、昏い戦いの影を引きずることなく、きちんと前を向いているように見える。
よかった。ならば、カミュと俺の選択には意味があった。
「包帯を替えてやろう。濡れたままだと傷によくない」
氷河の髪があらかた乾いたのを見て、ミロは新しい包帯を出してきた。
氷河は大人しくミロにされるがままになっている。
まだ怒っているのか唇は結ばれたままだ。
濡れた包帯をはずすと、瞼の上につけられた裂傷が目に入った。血がにじむはずだ。深い。まだ傷口が塞がっていない。首の後ろも同じだ。
「これだけ深いと治るまでにはしばらくかかりそうだな。瞼の方は傷跡が残るかもな。眼球じゃなくて幸いだった」
「俺は眼球でもよかったんだ」
「何?どういうことだ」
「別に。ミロには関係ない」
氷河はまた唇を引き結ぶ。
その言い方はなんだ。
関係ない、と突っぱねるくらいなら、最初から何もしゃべるな、とやや腹をたてながらミロは包帯を巻き終えた。
「君はこれからどうするつもりだ?女神はしばらく聖域にいらっしゃるみたいだが……」
氷河は俯いて言った。
「シベリアに帰る」
長い前髪に遮られて表情はうかがえない。が、声が小さく震えたのにミロは気づいて、思わず言った。
「一人で毎日包帯を替えるのは難儀だぞ。せめて傷が塞がるまでは俺が替えてやろう。少しの間、ここにいればいい」
長い沈黙があった。
やがて、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、
「傷が塞がるまでの間だけ」
と返事があった。