寒いところで待ちぼうけ

旧・手のひらの花(初出版)

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品

第一部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11
第二部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11

◆第二部 05◆

 天蠍宮に戻ると、氷河は入り口の柱にもたれて立っていた。
 ミロの顔を見ると、待っていた、というように、その表情が少し緩んだ。
「体がなまる。修練、つきあって欲しい」
 昨夜のことがなかったかのように、明るくそう言って寄ってくる。
 でも、もうミロの方は、そんな氷河が痛々しいとしか思えない。
 氷河を無視して宮の奥へ戻る。氷河は追いかけてきて、さらに、なあ、やろう、と背中に声をかける。

「怪我が治るまではもう無理だと言っただろう」
「……だから、治ったって言っている」
「治っていない」
「治った」
「治っていない」
「治った」
「……なぜ、体を動かすことにそんなにこだわる」
「それは……少しでも強くなりたいからに決まっている」
「体を動かさないと眠れないからじゃないのか」
 ミロが氷河を射すくめるように向き直る。氷河はわずかにひるんだようだ。
「別に……眠ってはいる」
「じゃ、昨日のあれはなんだ」
「あなたもしつこいな……昨日はたまたま目が覚めて散歩しただけだ。いつもはあなたと同じで朝まで一度も目が覚めずに眠っている」
「俺が朝まで起きないことを何故知っている。君は起きているからだろう」
「……いちいち突っかかる人だな、あなたって。そうかな、と思っただけだ。俺も寝ているから知るものか」
 氷河はプイとそっぽを向いてしまう。

 違う。

 これでは昨夜と一緒だ。
 ミロは思い通りにならない歯がゆさを感じてイライラと神経がささくれ立つ。
 有無を言わさぬ力で氷河の肩をおさえ、ソファへと座らせる。そして自分も隣へ座った。
「君は、毎晩カミュのところへ行ってるんだろう」
 久しぶりに聞く、カミュ、という単語に、氷河は一瞬ビクリと身を震わせた。
 また、唇を引き結び、拳を握る。
 ミロは氷河の両手をとって、力任せにその拳を開かせた。

 俺の前であんなことは絶対にさせない。

「別に……。昨日のあれは……関係ない」
「じゃ、アイザックか」
 今度はさらにはっきりと身を固くし、また拳に力が入る。
 ミロはそれを阻むように指先をきつく握る。

 氷河は、何度か肩で大きく息をし、しばらく沈黙したあと、冷たい無表情でミロに返した。
「……関係ない」
「じゃあ何だ。海底神殿で何があった。彼と何か言葉をかわしたのだろう」
「……戦って……俺が、殺した。それだけだ」
「それだけ、ということはないだろう。彼とはシベリアで一緒に過ごし」
「俺に何を言わせたい!俺が殺した!敵として目の前に現れたからだ!!」
 ミロの言葉を遮るように氷河が強い口調で言った。
 氷河の中にある激しい感情と、それを押し込めようとする強い力とがせめぎ合っているように声が揺れている。

 氷河。
 なんでそんなに頑ななんだ。
 痛々しすぎて見ていられない。
 ここは戦場じゃないんだ。
 俺しかいない。
 だから、君は泣いていい。
 泣いていいんだ、氷河。
 カミュだって戦いを離れてまで、君にそんなことを求めてない。


 ミロは氷河の両手を強く引いて、体を抱き寄せ、昨日、そうしたように、氷河の頭を強く自分の胸へ押し付ける。
 ミロの手の中で柔らかい金糸が抵抗して激しく揺れている。


 困った。
 氷河が痛々しい。


 違う。


 愛おしい。


 カミュ。
 悪く思うな。

 ……だがお前はもういない。

 ミロは暴れる氷河の頭の後ろ髪を引いて、無理やりに上を向かせると荒々しくその唇を塞いだ。
 氷河が驚いて息を飲む。




 錆びた鉄の味がする。

 血だ。

 思わずミロは唇を離した。
 自分は痛くない。
 噛みつかれたわけではない。

 氷河の顔はほとんど蒼白だ。唇をしっかり結んでいる。
 ミロは氷河のおとがいに指をかけた。指先に力を入れ、無理やりに口をこじあける。


 真っ赤だ。
 それに、血の匂い。
 無理にこじあけた唇のはしから、つ、と一筋赤い滴が流れる。

 俺を拒むために自分を噛んだのだ、と一瞬思い、だが、それにしては傷が多いことに気づく。

 今できた傷だけじゃない。


 信じられない。
 血まみれの拳と同じだ。

 氷河は唇を結んで、その内側を、噛んでいたのだ。ずっと。
 歯を食いしばるだけじゃ足らずに。

 そんなにまで。

 そこまでしないと耐えられないほどなのに、それでも、まだ我慢するのか。

 なんて健気で、なんて頑固なんだ、君は。
 ミロはその身を駆け抜けた激情のままに、もう一度氷河を強く抱きしめた。

 そうだった。
 この少年は、アンタレスを受けてもなお、先へ進もうとするほどの強靭な意志をもっていたんだった。
 傷つきやすく、脆い心を、その意志の力だけで覆い隠して、必死に心を殺そうとしている。

 だが、だめだ、氷河。
 そんなに張り詰めていてはいつか切れる。
 君のその意志の力にもいつか限界はくる。
 その「いつか」が戦場であってはいけないんだ。
 カミュが心配していたのは、まさにそれだ。
 今の君は危うすぎる。

「痛い、ミロ」
 氷河がミロを押し返してくる。

 俺を拒むのは、カミュじゃないからか。

「痛いって。いい加減に離せ」

 カミュの前でなら君は泣けるのか。

「……ミロ?……本当に痛いんだ。離してくれ」

 だが、そのカミュはもういない。
 ……もういないんだ、氷河。


 氷河にのしかかるようにして黙り込んでしまったミロを不審に思い、氷河はその背を優しくトントンと叩いた。
「ミロ……?痛いし、重い。……ほら、あなたが頭をつかむから包帯もほどけてきた」
 ミロがゆっくりと視線を上げると、確かに目の包帯が緩んで落ちそうになっている。
 ようやくミロはその身を起こした。
「わかった。また俺が巻いてやろう」
 解放された氷河は安心したように小さく笑った。
 だが、笑顔を見せることが余計に痛々しさを増している。
 ミロの中に激しい感情が渦巻いている。
 氷河が痛々しく哀れで胸が詰まる。
 それと同時に、そこまで氷河に想われているカミュに嫉妬する。
 俺も君の心に触れたい。