寒いところで待ちぼうけ

旧・手のひらの花(初出版)

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品

第一部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11
第二部01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11

◆第二部 03◆

 ミロの眠りは深い。
 戦士として必要な嗅覚の鋭さは当然持ち合わせているが、無意識であっても必要もないのに目を醒まさない勘の良さも同時に備えている。
 だから、その日は本当にたまたま目が覚めたにすぎない。
 喉が渇いたので水でも、と寝室を抜けた。

 氷河はソファで寝起きしている。
 ミロは自分のベッドを使うことを許したが(キングサイズのベッドだ。男二人寝てもまだスペースが余る。)、氷河は頑なにソファでいい、と辞去した。
 だが、そのソファででも、氷河が眠っているところを見たことがなかった。ミロが起きた時にはたいてい氷河も起きていて、朝食の準備などしていることが多かった。
 だから、チャンスだ、氷河の寝顔でも見てからかってやろうかと、足音を消してソファに近寄る。
 そっとのぞきこんだが、案に相違して、そこには氷河の姿はなく、ミロは拍子抜けした。
 布団もきちんとたたまれているままだ。
 一瞬、挨拶もなく氷河が出て行ったのかと思った。
 だが、それにしては荷物などは残っている。ミロは、氷河の姿を探して、宮の中を歩いた。
 どこにもその姿はない。
 こんな夜中にどこへ、とさすがに気になって宮の入り口まで出てみると、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。

「ミロ……こんな夜中に何を……?」
「それはこっちのセリフだ。どこへ行ってたんだ」
「別に……月が綺麗だからちょっと散歩していた」
 そういって、氷河は夜空に視線をうつした。
 確かに、今日は満月で、離れていてもお互いの表情がわかるほどに明るく照っている。
「いくらシベリアより暖かくても夜はそれなりに冷える。散歩もいいが、月なら部屋から見よう」
 そう言って、何気なく氷河の手を引こうとした。
 が、触れるいとまもなく、さっと身を躱された。

 ……?
 気のせいか?
 今、拒絶されたよな?

 昼間、ミロがなんだかんだとスキンシップをとっても、何だよ、とかやめろ、とか言い返しはするが、今のように躱されたことはなかった。
 どうした、と訊くつもりで、氷河の顔を見たが、青白い月の光に照らされた氷河の貌は能面のように冷たく、その唇はしっかりと引き結ばれている。
 何かあったのか、と訊こうと口を開きかけたが、それよりも早く、氷河は天蠍宮の中へと歩み去った。

 なんだ?
 何を一人で怒っているんだ、坊やは?

 天蠍宮の中に消えて行った氷河の影を追って、混乱しているミロもやや遅れて後を追った。



 氷河は戻るなり、洗面所へ直行したようだ。
 蛇口から水が勢いよく流れる音がする。
 しばらく待っても出てこないので、様子を見に行こうとしたが、ドアに鍵をかけられていた。
 ますますミロは訝しむ。
「おい、氷河」
 ドアを乱暴に叩いて氷河を呼ぶ。
 少し間があって、やがて薄くドアが開けられた。
「どうしたんだ?」
「別に……」
 そう言って氷河は視線を逸らす。
 ミロは氷河の手元に視線をうつした。タオルを手に押し当てている。
 視線を感じて、氷河は咄嗟にそれを隠すように背中を向ける。
 が、ミロの戦士としての感覚はそんなものではごまかされない。

 血の臭いだ。
 空中に鉄の錆びた臭いが混じっている。

「君は……怪我をしたのか」
 ミロが氷河の腕をつかんで自分の方を向かせる。
 氷河はまだ目を合わせない。唇をギュッと結んで俯いている。
 包帯は白いままだ。古傷が開いたのとはわけが違う。
 この臭いは間違いなく鮮血だ。
「ちょっと見せてみろ!」
「やめろ!関係ないだろ!」
 暴れる氷河の両腕を押さえつけ、ミロはその手を見た。


 血まみれだ。

 固く握られた拳から、赤い滴が手首を伝ってポタリと落ちた。
 その拳を無理矢理に開かせる。


 手のひらの、もっとも柔らかな皮膚から、脈打つようにどく、どく、と赤黒い血があふれている。
 傷口は一つではない。
 無数にあった。
 治りかけて、皮膚が白く盛り上がっているものもあれば、深く抉れて、赤い血をこびりつかせているものも。
 小さな、その傷の形は特徴的だ。


 爪だ。

 自分自身の。


 わけがわからず、氷河の顔を見る。


 伏せられた睫毛の端に小さな雪の結晶がひとつ引っかかっている。

 と、同時に、その意味に気づいて、ミロの中を強い衝撃が駆け抜けた。
 思わず、氷河の頭を強く自分の胸に押し付ける。


 君は……

 また宝瓶宮に行っていたんだな。

 いつからだ。
 もしかして、毎晩、ずっとか。あの日だけじゃなく。

 そこで泣いていたのか。
 いや……違う。
 泣いてはいないのか。
 そうだ。
 俺はまだ一度も君の涙を見ていない。

 君は、もしかして、涙を流す代わりに、血まみれになるほど自分の拳を握りしめて耐えていたのか。

 カミュが言っていたのに。
 泣き虫で、脆くて、聖闘士になるには優しすぎる子なんだ、と。

 バカだ、俺は。
 何故、気づかなかった。
 君がつらくないわけないのに。
 見せかけの元気に騙された。

 自分と同じ傷を氷河は共有していると思っていた。
 違う。
 俺は傍観者だった。
 氷河は自分の手を汚した。
 何年も前に覚悟を決めていたミロと、聖闘士になったばかりで、十二宮に辿り着くまで、師と対峙することになると知らなかった氷河と。
 同じ傷であるはずがない。

 二人でいたら、心の隙間を埋められるような気がしていた。
 でも、救われていたのは俺だけだ。
 氷河は、たった一人で血を流し続けていた。

「ミロ、痛い」
 頭を強い力で押しつけられて、氷河は、ミロの体を両肘で押し戻す。
 衝撃に感情を揺さぶられていたミロは、あっさりとその体を離した。
 氷河はするりとミロから離れ、タオルを両手に押し付け、まだ流れている血を押さえながら、ミロの方を気まずそうに見た。
「何を勘違いしているか知らないが……ただ、転んだだけだ」
 この期に及んでも、まだミロを拒絶している。
「氷河……泣きたいなら、泣けばいい」
 ミロはかける言葉に散々悩み、結局、ストレートにそういった。駆け引きは苦手な性質だ。
 氷河は、ミロの言葉に一瞬その動きを止めたが、困ったように笑って言った。
「何か誤解してるだろう。……ほんとうに月を見て歩いてただけなんだ」
 やめろ。
 もういい。
 そんな風に笑うな。
 ミロは氷河の手首をつかんで、それを目の前に掲げだ。
「じゃあ、これは何だ」
「今言ったじゃないか。上を見て歩いていたから転んだって」
 そう言って、氷河はまた唇を引き結んだ。

 黙り込んでしまったミロを前に、氷河はちょっと笑って、
「散歩も終わったしもう寝る」
 と言った。
 そして、ソファへ横たわって、小さく丸まり、毛布をかぶってしまった。
 その背中はすべてを拒絶している。
 いままでその拒絶に気づいていなかった自分に呆然とし、なすすべなくミロは立ち尽くしていた。