アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
改稿前の2011年初出作品
◆第一部 02◆
家への数キロの道程が気が遠くなるほど長く感じられた。
ようやく戸口にたどりついたときには、氷河だけではなく、カミュの濡れた体もすっかりシベリアのすさまじい冷気に凍り付いていた。
カミュはまず、凍り付いた衣服を融かすべく、浴室へ直行した。
蛇口をひねり、勢いよく水を出す。氷河を抱きかかえたまま、冷たいシャワーの下へ自らの体をおいた。
低体温症を起こしている場合、急激に温めることは逆に危険を伴う。
カミュは慎重に、流れ落ちる水で、凍りついた衣服をゆっくりと融かしていく。普段であれば身を切られるように冷たいと感じる水も、氷点下の海へ潜った後の体には、心地よい温さをもたらした。
長い時間をかけて、凍り付いた衣服や髪を融かし、自分と氷河の濡れた衣服をすべて取り去った。
自分もともかく、長時間濡れたまま戸外で倒れていた氷河の体はびっくりするほど冷たい。
氷河の胸へ耳をあてると、弱い鼓動が微かに聞こえているので、どうにか生きてはいると知れるが、それさえなければ死人も同然の冷たさだった。カミュは丁寧に氷河の体から水滴を拭い去り、乾いた洋服を着せると毛布でくるんでやった。自分も手早く着替えをすませると、氷河を抱いて浴室を出た。
氷河を抱いたまま、ソファへと体を沈め、天を仰ぐ。
カミュの指先が、小さく震えている。
寒さからではない。自分の最も大切なものが足元から崩れていく恐れによって、だ。
カミュは自分を責めた。
もし、自分が不在にしていなかったら。
もう少し、早く帰っていたら。
弟子たちにもっと自分を守る術を教えていたら。
自責の理由はいくらでも思いついた。
だが、カミュの心を最も深く苛んだのは、氷河の母への想いに今まで正面から向き合ってこなかった、そのことだった。
氷河の母への思慕の念が強いことを知っていたのに、カミュは、それを不憫と思い、ずっとそのままにしておいた。
いや、あまつさえ、氷河を鼓舞するために利用したこともあるのだ。
「この程度でへこたれるな。母に会いたくないのか」と。
そのくせに、母を想って涙を見せると「甘い」と断罪した。
カミュのその矛盾した姿勢が、氷河に、こうして「師が不在の時を狙ってこっそり母に会いに行く」という行動をとらせてしまったのに他ならなかった。
自分が母への想いを認めていたら、氷河は、カミュに隠すことなく堂々と会いに行ったはずだ。カミュが見ている元で安全に。
あるいは、早い段階で母への想いを正しく昇華させてやっていれば、ここまで執着することもなかったはずだった。
中途半端に抑圧し、中途半端に煽った、まさに自分の罪の結果が、今、抱いている冷たい氷河の体とアイザックの不在だ。罪の大きさを自覚すると、指先と言わず、体中が瘧にかかったように震えた。
アイザックの存在が、カミュにそんな中途半端な態度をとらせてしまった原因でもあった。二人のうちのどちらかが白鳥座の聖闘士に、と言ってはいたが、心の奥底では、アイザック、と決めていたような気がする。
情に篤い氷河は戦士には向かない、と決めつけ、戦士を育成しているにもかかわらず、氷河のその決定的な致命点を取り除く努力もしてこなかった。最初から氷河一人だったなら、絶対に起こりえないミスだった。
カミュの震えはとまらない。
生まれて初めて、神に祈った。
どうか、氷河だけでも……!
氷河の体は相変わらず冷たいままだったが、弱々しかった鼓動が、やや力を取り戻しかけている。濡れた前髪の先から滴が落ちて氷河の頬を濡らしている。その滴をカミュは親指の腹でぬぐい、急激に温めすぎないように細心の注意を払いながら、暖炉に小さく火を灯した。
そうして、一晩をかけて少しずつ少しずつ氷河の体温をあげていった。カミュの献身のかいあってか、夜が明けるころに、氷河の頬に少し赤みが戻ってきた。最も危険なところは脱したようだ。完全に安心することはできないが、ようやく、カミュの震えも落ち着いてきた。
氷河の呼吸が落ち着いているのを確認し、カミュはそっと外へ出た。
夜明けの太陽を待って、再度、昨日氷河を見つけた場所へ向かう。
「アイザック!」
何度も名前を呼び、小宇宙が感じられないか精神を研ぎ澄まし、海へも何度も何度も潜った。日の光の元であってもなお昏い海溝深くへも、氷山の分厚い氷の下へも。
一晩をこの氷の海の中で耐えきれているとは思っていない。それでも、たとえ変わり果てた姿であっても、連れ帰ってやりたかった。
かけがえのない一番弟子だった。数年の間にたくましく成長し、おそらくあと1年を待たずして、白鳥座の聖衣を手に入れることができるはずだった少年。
幼い頃から手元で育て上げ、せんせい、せんせいと慕ってくる笑顔を、自分のせいで、おそらく永遠に失ったことに対する深い罪悪感と喪失感が激流のように押し寄せてきた。
何度目かの潜水の後、ようやくカミュは諦め、自分の中をかけぬける暴風に身をまかせて、氷原に向かって悲痛に咆哮した。
ひとしきり感情を爆発させた後、カミュは立ち上がり、自宅へと足を向けた。
アイザックヘの様々な思いはひとまず封印せねばらなない。
掌中の珠を一つばかりか二つとも喪うことになれば、引き起こしたことの大きさにおそらく自分は気が狂ってしまうに違いない。
氷河を責める気持ちはみじんも起こらなかった。氷河をそうさせたのが自分だという思いしかなかった。あの、美しい空色の瞳までもが二度と開かれないようなことになったら、と思うだけでカミュの胸が引き裂かれるように痛んだ。
家の近くまで来たとき、戸口が開いていることに気づいた。そして、扉から数歩離れたところで雪に埋もれている金の髪を見つけて、心臓をつかまれたような衝撃を受けた。
自分が出ているすきに、氷河は意識を取戻し、あろうことか、あの体で外に出てきたのだ。
「氷河!」
鋭く叫ぶと、その身にかけより、あわてて抱き起す。
「……せ…んせい……?……俺を運んでくれたのは……せんせいですか……?」
「そうだ」
「アイザックじゃ……なかったんだ……。アイザックじゃ……なかっ…た……せんせい……アイザックは……?」
既に瞳がうるんでいる氷河は気づいているのだ。アイザックの小宇宙がどこにも感じられないことに。カミュは静かにかぶりを振った。
「……う、うそだ……うそだうそだうそだ」
「残念だが……私も今まで探したが彼はおそらくもう……」
「……うそだ、そんな……いやだあああああああ!!アイザック!!」
パニックに陥り、暴れだした氷河をカミュはきつく抱き留め、優しくなだめながら言った。
「氷河……家に入ろう。体を休めないと」
氷河がとめどなく流す涙がカミュの胸を濡らす。カミュの腕の中で氷河は、アイザックごめんなさい先生ごめんなさい……とずっと繰り返していた。
家に入っても、氷河の心の昂ぶりはおさまらず、その体は激しく震え、涙はとどまることを知らない。
「せんせい、ごめんなさい……俺のせいなんです……俺が、俺のせいで、アイザックが……」
カミュは氷河の体を腕の中に柔らかく包み、あやすように後ろ髪を優しく撫でながら、その懺悔の言葉を聞いていた。
氷河の気持ちが痛いほどわかったが、氷河の、自分自身を責める言葉は、そっくりそのままカミュの心に刃となって突き刺さった。だが、それもすべて自分が受け止めなければならない。
カミュは、努めて冷静な声で、冷淡とも思えるほどの割り切りぶりを氷河に見せなければなかなかった。
「氷河……大丈夫だから、落ち着きなさい」
「……俺、探しにいかないと……」
「無茶を言うな。私がさんざん探して見つからなかったのだぞ」
「いやだ……アイザック……アイザック……!」
「休まないと、お前まで参ってしまう。せっかくアイザックが助けてくれた命をお前は無駄に捨てるのか?」
「……うう……いっそ……いっそ俺が死ねばよかった」
「責任を感じることはない。責任があるとしたら、すべて師であるこの私にあるのだ」
「違います。貴方は何も悪くない。俺の私的なことに二人を巻き込んだんです。アイザックも貴方も忠告してくれていたのに……あああああ……どうして……!」
「お前の未熟さも含めてすべて私の責任だ。お前が気に病む必要はない」
「いやだ、いやだ、どうしてこんなことに……!せんせい……俺を殺してください……!」
何を言っても、カミュの言葉は氷河の中をすり抜けていき、その感情の爆発は激しさを増す一方だ。
無理もないことだ、とカミュは思った。
氷河はアイザックのことをライバルとも友とも兄弟とも思い慕っていた。幼いころから猫の子がじゃれあうように、何をするのも一緒で、互いを助け合いながら生きてきた。師には言えないこともアイザックとは共有し合っているようだった。そのアイザックが、自分を助けて海に消えたとなれば、冷静でいろという方が無理な相談だ。
ましてや、アイザックが消えた海は氷河の母の命を奪い去った海なのだから。
氷河のあまりの乱れようにいっそのこと、カミュはすべてを白日の下に曝け出したい衝動に駆られる。
お前は悪くないのだと。お前を、戦場に送る覚悟がなかった自分のせいなのだ、と。
だが、生き残ってしまった氷河には、まだこの先が残されている。師である自分が、お前を聖闘士にしようとは思っていなかったなどとは口が裂けても言えない。
自分の気持ちを楽にするためだけに、氷河をさらに傷つけるようなことは言えなかった。どんなに苦しくても、この感情は自分が墓場まで持っていくしかない。
氷河は、恐慌状態に陥り、過呼吸を起こしかけている。自分の意志と関係なく四肢が大きく震えているのに、なおも泣き叫ぼうとする氷河を抱く腕に力を込め、氷河の金の髪を下から掬い上げるようにして後頭部を抑え込み、そのまま氷河の唇に自分のそれを重ね合わせた。
氷河の唇から、これ以上、自身への呪詛の言葉を紡ぎださせまいと、噛みつくように。
氷河は抵抗して、長いこと喉の奥で叫んでいたが、カミュが放そうとしないのを知ると、ようやく叫ぶことを諦め、ぐったりと体を預けてきた。
唇を塞いだことで過呼吸は収まり、四肢の震えも止まった。部屋に静寂がおりる。
長い静寂だった。
暖炉で火が爆ぜる音だけがしている。
カミュの身の内に収まる程度の、薄いからだ。何より、傷つきやすく脆い精神。
自分は、この少年を戦場へ送り出さねばならない運命が義務付けられてしまったのだと思うと、狂おしいほどの氷河への愛おしさがこみ上げてきた。
カミュは、過呼吸を抑えるという目的を達した唇を一度離したが、愛しさが抑えきれず、すぐにまた、優しく、いたわるようにそれを重ね合わせた。自分でもほとんど無意識の行動だった。
一度唇を解放された後、二度目がくるとは思わなかったのだろう、重ね合わせた瞬間、わずかばかり、氷河の肩が跳ねた。だが、カミュが激情のままに唇を割って舌を差し入れ、氷河の舌を絡め取っても、氷河は抵抗しなかった。
永遠とも思えるほどの長い時間、そうしていた。気づけば、氷河の涙も止まっている。
口づけによる刺激のせいか、氷河の肌はかすかに上気していて体温はだいぶ上がったようだった。
体の方は、数日安静にすればなんとかなるだろう。だが、まだ瞳には力がなく、呆然自失の体だ。
今しがた起こったことの意味も理解できているかどうか。
だが、殺してくれ、と泣き叫ばれるよりはいい、とカミュは思った。
「氷河……今はまだ眠っておきなさい」
カミュは氷河を抱き上げ、寝室のベッドに横たえた。そして、自身も隣に横たわり、幼い頃時折してやったように、氷河を胸に抱いて頭をなで続けてやる。
カミュの指が氷河の金糸を何度も往復するうち、寝息が聞こえてきて、カミュはほっと安堵して、ベッドを抜け出した。
こんなにも愛おしさで胸が張り裂けそうなほどなのに。
その相手を、死地へ向かう戦士に育て上げる。
できるだろうか。自分に。
運命を初めて呪った。
だが、やらねばならないのだ。
氷河の目が覚めたなら。その時から、もう。