寒いところで待ちぼうけ

ネタ


お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
潜入捜査官ミロ妄想。ミロ氷ベースの氷河総受風味。

設定の性質上、反社会的行為に関する記述が多数表現しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。


◆潜入捜査官ミロ ⑨◆
 
 潮風がミロの巻き毛を揺らして通り過ぎた。
 よくよく海に縁があるのか、カミュから教えられた場所は市街地から遠く離れた入り江にあった。
 あまり水質はよいとは言えなさそうだが、堤防で区切られた遊歩道沿いにマリンレジャーの古びた看板や廃屋と化したヨットハウスなど、一応はリゾートと銘打って売り込もうとしたらしい形跡がそこかしこにあってかつての賑わいの名残を残している。
 今はあまり近寄る者も少ないのか、動くかどうか怪しいような朽ちかかったヨットや、廃棄場所に困っているとしか思えないボートが桟橋にただ係留されているばかりで、動くものと言えば、堤防の上に羽を休めに降りてくるカモメやカサカサとアスファルトを横切る蟹くらい。
 人影がないおかげで尾行がついていないことを確認するのは容易だったが。
 ミロは入り江の端、丸太小屋の前で途方に暮れていた。
 ───氷河までがいないとは予定外だ。
 さて困ったぞ、とミロは扉を背に座り込んだ。会えない、という可能性はあまり考えずにここまで来た。
 鄙びた小さな町だ。来る途中にろくな店もなかったから買い物のために遠出でもしているのか。ならばもうお手上げだ。
 会えるまでここで待つ、という選択はない。
 一晩。どれほど多く見積もっても丸二日。不良患者が退屈をもてあまして病院を抜け出した、として内々の処理で済むのはせいぜいそれくらいだ。それを超える不在は組織上層部に報告を上げられて捜索網が敷かれることになる。警察官は病気休暇中であっても、報告なしに居所から遠く離れてはならないきまりだ。
 参ったな……。
 どうしても一目会いたい、もうすぐ会える、と思って来たのだ。失望感たるや半端ではない。
 立ち上がる気力も奪われてミロは座り込んだまま、ただ、ぼんやりと波の音を数える。
 故郷の青い海も。鄙びた入り江でも、黒いタールの埠頭でも、それは、常に同じリズムを刻んで、寄せては返してを繰り返している。
 時折、目の前を横切っていく蟹の行方を見るともなしに追いながら、どれほどの音を数えただろうか。
 ミロは、潮騒に合いの手を入れるかのように、わん、と吠える声があるのに気づいた。
 野良犬だろうか。
 どうせなら蟹よりもう少し感情のある生き物に慰めてもらうか、とミロは立ち上がった。
 左手に海を見下ろしながら、声のした方角を探して腰の高さほどの堤防に沿って歩く。
 穏やかな波音を聞きながら海風を受けて歩くのは、鬱屈した気分が晴れるようで心地よかった。これで海がもっと澄んだ青だとなお良かったが、贅沢も言えない。
 いくらも歩かないうちに、堤防が逆L字型になって終点を迎えているところへミロは行き当たった。
 わん、という声はその向こうから聞こえてくる。
 向こう側は海のはずだ。
 なぜそんなところから、と、ミロは堤防の上へ肘をついて少し身を乗り出した。
 堤防はくっきりと豊かな海水を切り取っているのかと思っていたが、のぞき込んだ下方には、ほんのわずかではあったが砂浜があった。
 おそらく、干潮の時だけ現れる浜なのだろう。
 岸壁と海水とで囲まれた小さな三角地帯の砂地で、真っ白な毛並みの中型犬が波打ち際で、沖の方角へ向かって、わん、わん、と吠えていた。

 ああ……
 刹那、ミロの胸にぐっと熱い塊が込み上げる。

 ───犬の視線の先に、少年がいた。

 服のままで膝までを海水に浸した金色の髪の少年が、両手を広げて、来い、と犬を呼んでいるのだ。
 犬は、少年の声に従おうと足を進め、だが、波飛沫を怖がって、どうしても一歩を踏み出せずに砂浜で右往左往している。
「大丈夫、怖くないって!一緒に泳いでやるから!」
 猫撫で声で懇願して。
 叱るように低い声を出して。
 手を変え品を変え何度も少年は犬を呼んでいるが、白い犬は頑固に足を突っ張って、わんわんと吠えるのみ。
「強情だな、お前は」
 ついには策が尽きたのか、少年は呆れたように天を仰いでため息をついた。
 わん、とまた吠えた犬に向かって、こら、バカ犬め!と手のひらで掬った海水をバシャ、とかけたままむくれてしまった少年の姿に、飼い主が強情だからな、とミロはくすりと笑う。
 が、笑みの形に崩れた表情はすぐに胸にこみ上げていた熱いものによってたちまちくしゃりと歪み、目頭がぐっと熱を帯びて景色が滲んだ。

 強情に、この世界から抜けられない、と言い張ったはずだ。
 君はずっと闘っていたんだな。
 あの時も。あの時も。あの時も。
 節が白く浮き出るほど握られた拳が、物言いたげに瞬く瞳が思い出されて、痛いほどに胸が締め付けられる。
 だが、必死に心を鎧い隠して闘っていた少年の姿はもうここにはない。
 胸を痛ませた想いはやがてじわりと解けて、やさしい温かさへと変わる。

 ふ、とミロは再び笑みを取り戻した。
 西の空に傾き始めた太陽が水面にきらきらと反射していて、少年の肩まであるブロンドをオレンジ色に煌かせている。
 ミロは、砂浜へ降りる階段を探すために左右に目をやった。
 堤防の終点へコンクリートで設えられた、人一人通るのがやっとの細い階段を見つけて、足を踏み出す。
 少年以外の人間の足音を敏感に察知して、犬がまず振り返った。
 その反応に気づいて、一拍遅れて少年も石段の方向へ顔を上げる。
 ミロと少年の目が合った。
 青い瞳は、幽霊でも見つけたかのように丸く見開かれたまま時を止めた。
 ひとつ、またひとつとミロが階段を下りる間も、少年の瞳は瞬くことも忘れて、じっとミロの軌跡を追っている。
 最後の一段。
 同じリズムでそこまで下りて、一瞬だけ動きを止め、そして、さく、と乾いた砂へミロは足を下ろした。
「……っ!」
 ミロの靴底が砂を鳴らした音で、初めて幻でないことを確信したかのように、少年が短く息を呑んだ。
 次の瞬間。
 少年はくるりとミロに背を向けて海水をかき分けるように沖へと逃げ出した。
 同時に、砂浜を行ったり来たりしていた白犬が、ぐっと砂地を蹴ってミロへ向かって走り出す。
 ……!?
 狭い砂浜を一瞬で駆けてきた犬は最後に高くジャンプして、少年を追って動き出そうとしていたミロへ勢いよく飛びついた。
 飛びついてきた白い毛の固まりを、仕方なく両腕で抱き留めておいてミロは苦笑する。
「違う、お前じゃない」
 つれないミロの台詞に怯むことなく、白犬は盛大に尻尾を振って、全身で喜びを表現している。
 予定では少年の方がこんな風に駆けてきたのを抱きしめるはずだったのだが。
「おい、お前の主人はなぜ逃げる」
 と、ミロは白犬の顔をのぞき込んで───おや、と首を傾げた。
 どこかで見たような顔だ。
 初対面にしてはやけに懐っこくミロへと駆けてきたので変だと思ったが……
「もしかしてお前はあの時の……?」
 成長して「子犬」と呼べない大きさになってはいたが、それは確かにあの時氷河が隠れて飼っていた犬だった。
 お前も生きていたのか、とミロが頭を撫でてやれば、かつての子犬はたいそう喜んで、わん!と尻尾を振るスピードを速めた。
「俺を覚えているならわかるな?氷河に会いに来たんだ。俺は海へは入れない。連れ戻してきてくれるか?」
 身体に巻かれた消毒薬の臭いのする包帯を見せてやって、海の方向を指させば、存外に賢そうな白犬は丸い瞳を輝かせて、嬉しそうにまた一声吠えてくるりと向きを変えた。
 一目散に波打ち際へ駆け戻った犬は、水に足をつける前に、やはり躊躇するようにその場で幾度かくるくると回った。
 逃げる少年の背は既に腰までを波に濡らして消えようとしている。
 困ったようにミロを一瞬振り返って、犬は、だがしかし、ざぶ、と水飛沫を上げて海水へと飛び込んだ。
 うぉん!うぉん!と大きく吠えて少年を呼ぶのに、波間で金の頭が振り返って驚きに目を瞠る。
 だが、勇ましく飛び込んだはいいが、少年へまるで届かないうちに、吠える声は、がふっげふっという水を飲み込む音に変わり、水をかいているように見えた前足はすがるものを探して闇雲にばちゃばちゃと海面を打ち───要はこれ以上ないほど明らかに溺れ始めた。
 いかん、犬のくせに金づちだったのか!
 命じた手前、責任を感じて、ミロは大急ぎで靴を放ってざばざばと大股で海水の中を走り寄った。
 膝上まで浸かった海水が完治していない左足の傷を痛ませて、つ、とミロの顏が顰められる。
 しまった。
 こうなるとわかっていたのに、うっかり入る羽目になってしまったぞ。
 ミロは苦笑して浅瀬で浮き沈みしている白い毛並みに向かって腕を伸ばす。
 パニックに陥って暴れる身体を掬い上げようとした瞬間、自分のものと違う腕がそれを追い越すように延ばされた。
 見れば、息を切らして大慌てで海水をかき分けて駆け戻ってきていた少年の腕が犬の身体を海水から抱き上げていた。
「お前、泳げないから入りたがらなかったんだな……」
 ごめん、と俯いて、濡れた毛並みに顏を埋めた金の頭へ、ミロは行き場のなくなった手のひらをぽん、と乗せた。
 たったそれだけで、びく、と少年の濡れた身体が大きく跳ねた。
「……俺は来ない方がよかったか」
 責めたわけではない。ただ、目が合うなり逃げられるとも思わず、削がれた余裕に思わず問うただけだ。
 俯いた少年はミロの問いに、ぐっと喉を詰まらせ、そして、犬を抱いたままわなわなと激しく肩を震わせると、喉奥から絞り出すように細い声を発した。
「あなたに……合わせる顏なんて、あるわけがない……」
 いつもと違う少年の声を驚いている白犬の毛の上に、ポタポタといくつもの透明な雫が落ちる。
 色が抜けるほど唇を噛んでいるその姿に、『酷く取り乱して』というカミュの言葉が思い起こされて、ああ、とミロの胸が再び締め付けられた。
 ミロの傷が塞がっていないだけ、彼もまた血を流し続けていたのだ。
 バカだな、とミロは犬ごと少年の濡れた身体を抱き締めた。冷えた身体は感情の高ぶりを抑えられずに激しく戦慄き続けている。
「君は君の正義で、俺は俺の正義で全力を尽くしただけだ。だからもっと胸を張れ、氷河」
「だけど、あなたは俺のせいで……」
 こら、とミロは少年の言葉を遮る。
「俺を自分の行動の責任を誰かに負わせるような情けない男にするつもりか?」
 慌てて否定に首を振って、だが、自分を責める気持ちと葛藤して、少年はまた肩を震わせる。
「大丈夫。ちゃんと生きている。君も。俺も。それで十分だろう。なんの問題もない」
 な?と髪を撫でれば、少年の頭が小さく頷いて、鼓動を確認でもするかのように自らミロの胸へ強く耳を押し当てた。
 ざんざんとさざめく潮騒に強い鼓動はリズムを合わせ、どくどくと巡る血脈は震える身体を温かく包み込む。
 何度も背を撫で、高ぶった感情を宥めるそのうちに、ひどく戦慄いていた身体はいつしかその震えを止めていた。

 満ち始めた潮に、膝までだった海水はさらにその上へ登ろうとしていた。
 二人の身体の間にきつく挟まれた犬が居心地悪そうにもぞりと尻を動かしたのを合図に、氷河は顔を上げて拳でごしごしと瞼を拭ってミロから離れた。
 無造作に擦った目の縁と鼻の頭が赤い。
 だが、押し込めていた感情を涙で解放させたせいか、ミロを見上げる瞳はすっきりと青く澄んでいた。
 満足げに頷いて、ミロは砂浜を目指して歩き始めた。
 ミロ、と犬を抱いたまま、氷河が彼を呼ぶ。涙の名残かそれはまだ鼻声だ。
「いつ退院を?まだまだかかりそうだと聞いていたから、俺、驚いて……」
「それで幽霊が化けて出たと思って怖くて逃げた?」
 くくっと喉奥で笑ったミロに、そういうわけじゃない、と唇をへの字に曲げながら、それで、いつ?と少年は再び問う。
 濡れたシャツの合間から透けて見える包帯が気になっているのだ。
 まさかと思うけど、と氷河は海の中で立ち止まった。
「……勝手に抜け出してきた……?」
 ざ、と一足早く、海水を滴らせて乾いた砂へ足をついたミロが振り返る。
「どうかな。なし崩しに退院ってことになりそうな気もするが」
「ミロ……!」
 少年はバシャバシャと飛沫を上げて近づき、砂浜の上へ犬を下ろして、ミロの腕を掴んで首を振った。
「駄目だ、どうしてこんな無茶を……!」
「『どうして』?わからないか?」
 ミロの真剣な声に氷河はそれは、と声を詰まらせた。
 自分の方がミロの腕を掴んでいることに気づいて、狼狽えたように手を引こうとするのを、ミロは彼の背に腕を回して押とどめる。
 さら、と肩へ流れ落ちた巻き毛で氷河の上へ影が落ちた。
「こうでもしなければ君に会えないからだ」
 会いたかった理由も説明が必要か?
 そう視線で問えば、応えるための言葉を探して薄い唇は何度も躊躇いに動いて、最終的にそれは、ただ、ミロ、と形作られた。続く言葉が見つからないのか、困ったように、ミロ、ともう一度唇が動いて、後はそれきり沈黙が落ちる。
 主人の窮地を悟ったわけでもあるまいが、二人の足元をくるりくるりと回っていた白犬が、わん、と一声鳴いた。
 多分、次の言葉をうまく見つける自信がなかったのだろう、氷河の肩がほっと緩んで、思わぬ助け舟に縋るように、どうした、とあたふたと足元へと屈み込む。
 自分の顔を隠すようにきゅっと犬の首を両腕で抱いた氷河の、俯いたうなじが真っ赤に染まっていることに気づいて、ミロは密やかに笑った。
 ───これは、答えを知っているうなじだ。

「そいつは、あの時の犬か?」
 ミロの問いに、話題が変わったことを安堵してか氷河が無音でこくこくと何度も頷く。
「驚きだな。死んだと思っていた」
「……せんせ、いが」
 発した声があまりにも上擦っていたので、氷河は一度深呼吸して自分を落ち着かせ、もう一度、先生が、としっかりと発声し直した。
「咄嗟の機転で助けてくれた。こいつ、あの時、耳元で響いた轟音に驚いて気絶しただけだったって。俺もずいぶん後から知った」
「ああ……そうだったのか」
 言われてみれば、誰も死んだところを確認したわけではなかった。
 窓枠の外へ突き出したカミュの手の先は巧みに彼の背中で皆の視界から遮られていた。
 駆け寄って、窓の下を覗き込んだ少年が、意識なく地面にぐったりと横たわる子犬の姿に見せた動揺がそのままミロの、そしてカノンの目をうまく真実から逸らしめたのだ。
「前にも言ったと思うけど。先生はすごくやさしい。だから……」
 だからこいつも先生のこと大好きなんだ。だよな?と犬の頬を両手で挟んだ少年の姿に、ああ、とミロは嘆息する。
 自覚があるのかないのか。
 こいつ「も」好きとごく自然に口をついて出た、そこには何者にも入り込めない信頼と絆があった。
 ───カミュが余裕でいられるはずだ。
「……妬けるな」
 思わず漏れた率直な呟きを耳ざとく拾って、ちょうど犬の額に唇を触れさせていた少年はまた一瞬狼狽えて、でもこいつはただの犬なんだけど、と気まずげな顔をする。
 今のところはどうやら競うべき相手は犬のようだが。
 誤解を解かないまま、ミロは、氷河の隣へ屈み込んだ。
「なあ」
 語りかけた相手は犬だ。
「俺はお前のご主人が好きなんだ」
 ミロの横顔を見ていた隣の気配が息を呑む。
「ご主人の方はどうだか知ってるか?」
 わん、と一声鳴いて、犬は千切れんばかりに尻尾を振る。ミロに声をかけられたこと自体が嬉しいのだ。
 言葉のわからない犬が答えないのはもちろんのこと、氷河は固くなって唇を結んだままだ。
 だがミロは深追いするでなく、知るわけないよな、と犬の頭を撫でてあっさりと立ち上がる。
 答えが欲しかったわけではない。ただ、過ぎった嫉妬に負けて少し意地悪をしてみただけだ。
「風が冷たくなってきた」
 戻ろう、と少年を促せば、主人より先に犬がわん、と返事をする。
「氷河」
 ミロが何度か呼んでも砂の上に座り込んだまま氷河は動かない。
 ひた、と足の裏に冷たい海が忍び寄り、満ちる潮が二人を追いかけて、砂浜を覆い隠そうとしている。階段の方角へ爪先を向けたミロとじっと黙り込んだ主人を白犬が困ったように見比べている。
 あまりに固い少年の姿に苦笑して、今のは忘れてくれ、たいした意味じゃない、そうミロが言おうとした時だ。
「犬は、」
 不意に少年が声を上げた。
 怒っているかのような尖った声だ。
「犬の気持ちは飼い主とシンクロするんだ。だから、」
 息を大きく吸い込んで、あなたに懐いているということは、と少年が続けた瞬間、折り良く、(それとも折り悪しく?)白犬がミロの足元へと近寄ってきた。
 撫でてくれ、と言わんばかりに摺り寄せられる頭に、反射的にミロが大きな手のひらを乗せれば、ふるふると振り子のように揺れていた尻尾は体の両側面を打つほどに大きく振られ始めた。
 目が合うなり駆け寄って飛びついてきたことといい、懐っこい性質の犬だ。
 俺に懐いているのがどうしたって?とミロがさらに構ってやれば、尻尾だけでは足らないと小さな身体全体で喜びと甘えを表現して何度も足元へ飛びついてはじゃれ回る。
 終いには興奮気味にひっくり返ってミロに全てを委ねるように腹まで見せてしまったのを撫でてやりながら、これが君の気持ちってことでいいのか?と少年を見やれば、このバカ犬、と彼は真っ赤になって犬を恨めしげに睨みつけた。

 水平線へくっつきそうなほど傾いた太陽の端が長く伸びて揺らめく海面を鮮やかな朱色に染めている。
 色合いだけなら温かだが、海水浴には時期外れだ。
 せっかく砂浜へ戻ったはずが、満ちた潮によって再び海の中へ座り込んだ格好となった少年を、そら、とミロは彼の二の腕を掴んで立ち上がらせた。
「犬に代わりに言わせようとしたのは間違いだったな」
 ミロの含み笑いを、わかっている、と言いたげな頬は少し拗ねていた。
 残りわずかな砂浜へ向かってミロが引いていた腕を、駄々でもこねているかのように逆に引いてその場に止まり、氷河は、ミロ、と呼んだ。
 なんだ、と背中で軽く応えたのを、また氷河の腕が引いて、ミロ、と呼ぶ。
 振り向けば、長い睫毛で縁取られた瞳がまっすぐにミロを見ていた。
「会いたかった。ずっとあなたのことばかり考えていた」
 強気に名を呼んだ時よりもずいぶんと早口で掠れた小さな声だった。
 ひと息に言い切って安心したのか、会いたかった、と今度は、ミロに聞かせるため、というより、自分の内側を確認するための独り言のように、一音一音を区切って呟く。
 その真摯な響きに、応える言葉などあるはずがなかった。
 掴んだ腕を引いて、ミロは氷河の身体を胸に抱く。
 こみ上げた愛おしさを隠そうともせず、ミロは唇を氷河の額に押し当てた。
 くすぐったそうに眼を閉じた隙を逃さず、そのまま唇を重ねる。
 ほんのりと海の味を唇の上へ残したまますぐに離れ、ミロは少し意地悪な笑みを唇の端に貼りつけて問う。
「そういえば、キスをしてはいけない決まりだった。そうだな?」
「…………わかっているくせに、しておいて聞くのは狡い」
「今のはまだキスじゃない」
「え……ぁっ」
 強引に奪われた再度の口づけは、疑問の声をも飲み込んで、今度は深く。
 驚いて逸らされた上体を強く掻き抱き、ミロの指先は滑らかな金の髪に挿し入れられ、少年の身体が逃げるのを阻む。
 だが、戸惑いに逃げたのは最初の一瞬だけ。
 唇の合わせ目を割った舌へおずおずと温かな舌が触れ、ミロの誘導に応えてそれは拙く絡み合わされる。唇の上に乗っていた潮の味は混じる唾液へ飲み込まれ、波のものとは違う水音が腔内に響く。
 息継ぎに離れた唇は、は、と熱い吐息を吐いただけでまたすぐに重ねられて、息は上がり熱は高まる一方。
 ミロの背に回された指先はきつくシャツを握り締めていて、まるで溺れる者が助けを求めて縋っているようだ。
 これまでの想いを全部乗せて。
 先のわからぬ未来の分まで、刹那の、今この瞬間にすべてをぶつけるように。
 それは長く。激しく。

 うぉん!という大きな鳴き声が響くまで、影は夢中で一つに重なっていた。
 気づけば砂浜は既に全てを海へと飲み込まれ、階段の上まで上った犬が痺れを切らしたように二人を呼んでいた。
 ああ、と目をやっておいて、もう一度、と唇を重ねた二人に、ぅわふっ!と抗議する犬の声が裏返る。
 重ねた唇の上で同時に小さな笑いが起き、わかったわかった、とようやく二人は身を分けた。
 空も海も、二人を呼ぶ犬の背も、全てが夕陽の色に赤く赤く染まっていた。


 堤防に沿って歩く二人の長く伸びた影の先で白犬が右に左にと遊びながら行きつ戻りつを繰り返す。
 氷河の足元で甘えていたかと思うと、好奇心いっぱいの瞳を輝かせて道端の草むらへ飛び込んで、そしてまた戻って来ては今度はミロの足元で尾を揺らす。
 やんちゃに駆け回る姿からして、中型犬だと見えたが、もしかしたら、犬種的にはまだ「子犬」の域であるのかもしれない。
「名前は?」
 呼びかけてやろうとして、それを知らないことに気づいて、ミロが隣を歩く氷河へ首を傾けた。
 ひょうが、と怪訝な顔で名乗りかけて、すぐにああ、と氷河は犬の方を見た。
「……ベルーガ」
 呼んだわけではないのに、敏感に反応して、白犬の──ベルーガ?の──耳がぴん、と氷河の方を向く。
「ベルーガ?酒の名だ」
「いかにも『大人の世界に片足突っ込んだ不良少年』がつけそうだろう?」
 氷河は肩を竦めて、それから懐かしそうな表情になって赤く染まった空を見上げた。
「酒の方が有名だけど……元は『真っ白』って意味だ。俺の育ったところでは」
 君の故郷か、と見えるわけでもないのに、つられて氷河と同じ方向へ視線をやると、うん、とやや幼い返事が返ってきた。
 そして、かなり遅れて、ぐっと大人びた色を乗せた声が「アイザックと、俺の、」と言い換える。
 同郷だったのか、と知らざる背景の一端を飲み込んで、そう言えば彼の本当の姿のことはまだ何も知らないと気づく。
 偽りで固められた鎧を脱いで、今、二人はようやく本来の姿で出会ったところなのだ。
 自堕落に夜の世界に浸っている不良少年ではなく。
 腕にものを言わせて粋がっている破落戸ではなく。

 きっと、空の向こうの故郷に思いを馳せているに違いない少年へミロは問うた。
「どんなところだ?」
「雪と氷ばかりで何にもない、かな」
「それはずいぶん寒そうだ。俺は寒いのは苦手だな」
 そうなのか、とこちらも初めて知るミロのことを興味深そうに頷いて、そして少し悪戯っぽい視線をミロへ流した。
「じゃあ、あなただったら音を上げてしまうかな。どのくらい寒いかと言うと、沸騰したお湯を空中に撒くと地面に落ちる前に一瞬で氷の霧になる」
「まさか」
「本当だ。家の中だって油断ができないから凍らせたくないものは冷蔵庫に入れておく」
「それは……俺が知らないと思って大げさに言ってないか?」
 どうかな、と氷河は笑う。
「吐いた息までが凍って微かな音を立てるんだ。俺たちはそれを星のささやきって呼んでいる。空気の澄んだ寒い夜は本当に空一面の星が語りかけてくるみたいに聞こえるんだ。あなたにも聞かせたい。寒いのが苦手なあなただってきっと気に入って、」
 楽しそうに夢中で語っていた氷河は、あ、と言葉を止めた。
 そして、気まずげに視線を伏せ、もしも、そのうち、だけど、と早口で言い添えた。
 伏せられた視線に気づかぬふりで、ミロは「話を聞くだけでなんだか寒くなってきたぞ。責任とって君が温めてくれ」と手を差し出す。

 ここで終わりではない。
 今はほんのひとときの休息。
 休息が終わればまた、別の方向に歩き出さなければならない、という切ない暗黙の了解は薄々と二人の間に流れている。
 見えぬ未来の約束をするにはまだ───早い。

 差し出された手をしばらく見つめ、氷河はその救いに乗るように手のひらを乗せる。
「どれだけ寒がりなんだ。困ったひとだ」
 ぐっと生意気に軌道修正した声は、だが、俯いているよりずっといい。
 手のひらをぴたりと密着させて指先をしっかりと絡めておいて、ミロは笑う。
「この程度で困った、などと可愛い坊やだな」
 後でもっと困らせてやろう、と耳元で低く声を落とせば、なっと声を上げて、少年の耳が瞬時に赤く色を乗せた。
「おや、一体何を想像したんだ?俺はまだ何も言ってないというのに」
「……っ……あなたは……結構、意地悪だ……っ!」
 どのくらい意地悪か確かめてみるか、とミロは喉を鳴らして笑う。
 知るものか、とむくれているのに、氷河は絡めた指を決して振りほどきはしないのだ。

 安穏とささやかな未来の話もできない我が身を不遇だとも、憐れだとも思わない。
 揺るがぬ使命感に衝き動かされて闘う者同士でなければ、ここまで強く惹かれることはなかった。

 だから───

 ただ、生きて出会えた喜びに誇れ、己を。


 先を行く、酒の名を冠した真っ白な犬が振り向く。
 指先を絡めたまま、むくれた少年を宥めて一つに重なろうとしている影に、呆れたように、わん、とまた吠えた。