お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
潜入捜査官ミロ妄想。ミロ氷ベースの氷河総受風味。
設定の性質上、反社会的行為に関する記述が多数表現しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。
◆潜入捜査官ミロ ⑧◆
瞼を閉じていても明度の変化を人間は感じられるようにできている。ゆっくりと明けてゆく夜、といった緩やかな変化には鈍い。だが、突然に灯された明かりや、あるいはその逆、そういった急激な変化は例え意識がなくとも瞼の下で眼球はしっかりと捉えている。
それは眠っていれば通常ならうっすら覚醒に向かう程度の刺激しかもたらさないが、特別な訓練を受けているミロの意識はほんの僅かの明度の変化に敏感に反応した。
重い瞼を強靱な意志の力でパチリと開けば、目の前によく見知った端正な顔があってそれが天井の明かりを遮ってミロの上に影を落としていた。
「カノン、貴様、まだ……!」
ミロは猫のような俊敏な動作で跳ね起きて、咄嗟に枕の下へ手をやる。あるはずの拳銃がそこにないことに動揺したのと、体中に繋がれていたチューブやコードの類がブチブチと千切れて、横腹に激痛が走ったのは同時だった。
「……っ……!?」
一瞬、自分の状況がわからずに混乱に陥ったミロが、急激に起き上がったことによる貧血と激痛に身体を支えかねて倒れかかるのを、『カノン』が手を差し伸べて抱き留める。
コードが切れたことで、ビービーと激しく鳴り響く生命維持装置の警報に、白衣姿の看護師が慌てた様子でバタバタと飛び込んできた。
看護師はミロが起き上がっていることにまず驚きの声を上げ、だがすぐに、ほかに男が一人いることに気づくと、怯みもせずにキッと睨み付け、「誰です。ここは立ち入り禁止ですよ!」と叱りつけた。
すまない、と男は丁寧に頭を下げて、看護師のためにベッド脇の場所を明け渡した。
年配の看護師がてきぱきと包帯を巻き直し、処置をするのを、為されるがままとなってミロは天井を見上げた。
「俺は生きているのか……?」
独り言のつもりで言ったその言葉に反応して、看護師が手を止めずに頷いた。
「ええ、奇蹟的に。普通なら死んでいてもおかしくない酷い怪我でした。何しろ運ばれてきた時には心肺停止状態だったんですから」
「そうか。……世話になった」
そう言って、身体を起こしてベッドから下りようとするミロに、看護師が目をつり上げた。
「まだICUですよ、ここは!一週間も生死の縁を彷徨っていた人が意識が戻るなりどこへ行こうとしているんです!」
「一週間も俺は眠っていたのか」
「『眠って』って……死にかけていたと、今……」
絶句してしまった看護師に構わず、ミロは先ほどの男の姿を探す。病室内にはもうその姿はない。
「悪いがさっきの男を呼んできてくれないか。彼と話がしたい」
「……あなたは面会謝絶です」
「昨日までの話だろう?もう平気だ」
言葉もない、とばかりに呆れた看護師に向かって、頼む、とミロは手刀を切る。
「ほんの少し話をさせてくれたら後は大人しくしている。約束する」
「………………5分だけ」
「恩に着る」
ミロに見つめられて根負けした看護師は、ため息をつきながら男を探しに出て行った。
ふう、と息をついてミロは周囲を見回した。
真っ白なベッドの周りを人工呼吸器やら人工心肺装置やらがごちゃごちゃと取り囲んでいて、そこから大小様々、色とりどりのコードやチューブがまるで拘束具のように自分の身体に繋がれている。
死にかけたのは本当らしいがちょっと大げさすぎないか?と辟易して、ミロはほんの少し身じろぎをした。
途端に横腹に激痛が差して、ぐっと呻く。縫合跡だろうか、ほんの僅かな身じろぎだけで叫びたくなるほどの痛みが起こる。
肩や左足も撃たれたはずだが、そちらの痛みが可愛く思えるほど腹の傷は深かったらしい。
仕方がない。ほとんどゼロ距離で弾丸を受けたのだ。
だが、痛みのおかげで徐々に記憶が明瞭になってきた。
カノンはどうなった。氷河は。カミュは。
入り口に控えめなノックが響く。
視線をやれば、カノンと同じ顔の男が立っていた。
見分けがつかないほどにそっくりだが、冷静に見つめてみればカノンでないことはわかる。どこが違うのかと言われればうまく言葉では説明できない程度の差異でしかないが、どことなく受ける印象が違っているのは確かだ。
「先ほどは驚かせてすまなかった」
「わたしの方こそ失礼をしました」
あの時のやりとりが死に際に見た夢でなかったとしたら、目の前の人物は己の属する組織のトップだ。横になったまま、というわけにもいかず、身体を起こして敬礼しかけたのを、そのままで、と男の手が制し、再びミロをベッドへと横たえさせる。
「わたしの身内が……申し訳の言葉もない。長年扱いあぐねていた愚弟に引導を渡せたこと、お前のこれまでの働きに感謝する。ご苦労だった」
いえ、と首を振ったものの、ミロは言葉に詰まる。どのような事情が兄弟の間にあるのか激しく気になったが、総監───確かサガと言った───相手にずけずけとそれを尋ねるのは憚られる。
彼の方から、カノンの言うところの「飼い犬」が命を張った見返りにいくらか事情説明くらいはしてもらえるだろうか、という淡い期待があったが、サガは、私たちの間には色々と複雑な事情があってな、とのみ言って、後は纏う全身の空気がミロの質問を拒絶していた。
一介の捜査員ごときにそこまでを説明する気はないらしい。捨て駒の自覚はあったが、それにしても、命を張った潜入捜査だというのに核心に触れる最重要の情報を隠されていた、という不満が胸に過ぎるのは禁じ得なかった。
「カノンはどうなりましたか」
途切れた会話の糸口として、最も妥当な質問をミロはようやく探し当ててそう問うた。
サガは眉間の皺を深くする。
「無事に検察へ送った。お前と……麻取のあの男が積み上げた証拠でまず実刑は固いだろう」
「そう……ですか」
通常であれば苦労が報われた、と幾ばくかの感慨が込み上げる場面ではあるが、どうにも心の内側に重いものがずしりと幅をきかせていて喜ぶ気にはなれない。
そんなミロの気分に追い打ちをかけるように、サガがさらりと言葉を重ねた。
「カノンの裁判は公開されないことになった」
「……?非公開とせねばならない罪状が何かありましたか?」
被害者のプライバシーの保護やまだ進行中の捜査への影響など、公開することで不利益が大きいとされる法廷が非公開になることはある。だが、カノンにそのようなものがあっただろうか。第一、検察送りにしたばかりで起訴もこれからだと言うのに早々と法廷の非公開が決定されるものなのかと、ミロは男の顏をまじまじと見つめてハッと目を見開いた。
サガは、部屋の中の医療機器類を物珍しげに見て歩く素振りで、さりげなくミロの視線を断ち切るように背を向ける。
「……カノンには別名が与えられた。法廷でも刑務所でも彼は今後『海龍』という名で扱われる。……わたしとの繋がりを示すものは表には出ない」
つまり、この警視総監には兄弟は最初から存在していなかった、と……?
『カノン』は今後は誰からもその名を呼ばれることはなく、あれほど執拗に罠を張り巡らせて、警察という組織を(それとも、ただ兄を、か)陥れようと狙ったカノンの企みは、この、『偉大なる』兄の前にあっさりと潰えた……?
喜ぶべき、なのか。
己が属するところの組織の土台に回復不能なほどの深い亀裂が入ることを免れたのだから。
自分もカノンの企みを阻止しようと奮闘していたのだ、願いどおりの結果を得て、安堵するところなのだろうが。
何かが、厭な感じだ。得体の知れぬ黒い靄がミロの胸につかえていて気分が悪い。
サガがゆっくりと振り返った。
そういうわけでお前の口が堅いと助かるのだが、と困ったように笑っている。
カノンより優しげだと感じた瞳が微笑の形に崩れているというのに、ぞわ、とミロの背が総毛だった。
同時に、目を覚ますなり跳ね起きて拳銃を探した己の本能が捉えていたものの正体に気づく。
殺気だ。
俺は、この顏を視認してカノンだ、と判断したのではない。
目を開く前に既に殺気を感じていたから、刹那、カノンだと思い跳ね起きたのだ。
───口封じ、か。
考えてみれば、ICUに入っている捜査官を総監自らが一番に見舞うなどと聞いたことがない。
重大な秘密であればあるほど、それを知る者は一人でも少ない方がいいのは子どもでもわかる理屈だ。
殺し屋を雇って秘密を知る者全てを消す、などというのは、映画の中だけでの絵空事だ。リスクばかりが高く非現実的にすぎる。
だが、ミロは生死の縁にいたのだ。例えば生命維持装置のボタンを一つ切っておいたなら。
殺し屋の手を借りずともほんの一押しで「死」へ傾けることはできる。
ぞわぞわとミロの背が冷たく凍り付く。
俺が戦ってきたものは何だったのか。
得体の知れない、何かとてつもない深淵の縁を目隠しで歩かされているような、そんな気持ち悪さがつきまとう。
そもそも。
サガは、あの取引現場に何をしに来たのだろうか。
弟に兄自ら引導を渡すために、というのは建前だが。
警視総監たる立場にある者が、護衛もつけずにたった一人で乗り込んで来た(それも私服で、だ)違和感に答えるものではない。
自らの手で公正に裁きの場へ引き渡そうとする兄の姿と、別名を与えてまで弟の存在を秘匿しようとしている目の前の男の姿とは、どこかちぐはぐで噛み合わない。
正義を体現する組織を統べる者にする想像にしてはあまりに禁忌で畏れ多く、心の中であっても言葉にすることが躊躇われるのだが。
───サガは、もしかしたら混乱に紛れてカノンを殺すつもりでいた……?
衆目の裁きの場へカノンの身柄を引き渡しておきながら、その後で存在を秘匿するために動く、というのはまるで矛盾している。
サガとしては、カノンを逮捕するつもりなど最初からなかったのではないか。
潜入捜査の目的は───
裏社会で暗躍しては虎視眈々とサガの統べる組織の顛覆を企んでいたカノンを表の場へ引きずり出し、堂々と殺すための大義名分を得ることだった……?
逮捕に至る混乱の中でカノンを抹殺できればベスト、それができないなら、無能を装って取り逃がし、次なるチャンスを待つのが次善の策。
だが、多分、誰にとっても計算外のことが起こった。
思っていた以上に強かに立ち回った弟と、それから麻取の存在───
一度疑念が湧き起これば、そんなはずはない、と蓋をしていた事柄が連鎖的に次々と思い起こされる。
あの時。
ミロの意識が途切れる直前の出来事だ。
氷河は知っていたはずだ。カノンが銃を持っていないことを。
ほかならぬ氷河自身が彼の手から銃を撃ち落としたのだ。
カノンが丸腰だと知っていたからこそ、こみ上げる怒りを抑えて、一度は銃を下ろしかけた。
だが、最悪のタイミングでカノンが懐に手を入れた。
カノンとしては、氷河を(あるいは一同を)からかう意図しかなかったのだろう。
あの男には、己の一挙手一投足に周囲が右往左往するのを見て喜ぶような、子どもじみた一面がある。その愉しみのためなら撃たれるリスクもお構いなしだ。
あそこに居た人間はカノンのそんな習性への耐性もあったのだから、問題はカノンの行動ではない。
ミロは記憶を探る。
氷河が引き金を引く決定的な要因となったのは。
サガだ。
サガが、「やめろ、カノン」と叫んだ。
その叫びで氷河は誤認したのだ。丸腰であったはずのカノンがもう一丁、銃を隠しているのだ、と。
さらに言えば、その直前、「カノンには殺人容疑もつける」というサガの呟き。
あれがその場にいた者の心理を操作しはしなかったか。
カノン本人はいつもの調子で煽ってはいたが、事実がどうであったのか具体的な事柄には一言も触れなかった。なのにカノンが認めてもいない事柄を、サガは「殺人」と刺激的な単語で断定してみせた。
限界まで張り詰めていた氷河の潜在意識に、それが影響しなかったとは言い切れない。
「ないものをあるように誤認させて罠にかける」のがカノンのお決まりの手だ。
弟と同じやり方でサガが氷河を誘導しなかったとどうして言える……?
「あなたは……」
自分の手を汚すことなく、氷河にカノンを殺させようとしたのではありませんか。
その禁忌の問いは音となることなくミロの喉を締め付けて塞ぐ。
サガは、変わらず柔らかな微笑を湛えてミロを見つめているだけだというのに、カノンと対峙している時と同等の威圧感がミロを包んでいる気がして指一つ動かせない。
全ては自分の考えすぎだろうか。
長く続いた潜入生活に疲弊した精神が、サガの柔らかな微笑の向こうに勝手に恐ろしげな空想を膨らませているだけか。
だが、考えすぎだと言うのなら、この肌を刺すようなピリピリとした危うい緊張感は一体なんだ。これさえも自分自身の弱い心が生み出した幻影だというのか。
んん、という咳払いの音が突然に響き、ハッとミロはそちらへと視線を向けた。
「約束の時間は過ぎましたけど」
幼子を叱るように腰に手をやった看護師が扉のところで苛々と体を揺らしていた。
サガはゆっくりと振り返って、「ああ、あなたの仕事の邪魔をしてしまったか。申し訳なかった」と深々と頭を下げた。
長身の美丈夫が柔らかく微笑んだのに、続きかけていた看護師の小言はあたふたと空中で勢いを失い、代わりにほんのりと頬が染まった。
サガはミロの方へ「ゆっくりと養生するといい」と声をかけ、すぐにでも去る素振りを見せていたが、ふと思い出したように懐へ手をやった。
その仕草に瞬時に腹に受けた激痛の記憶が呼び起こされてミロの身体は強ばったが、サガが懐から取り出したのは煙草でも、ましてや拳銃でもなかった。
「お前に返しておこうと思ってな」
サガは点滴で繋がれたままのミロの手のひらにそれを握らせる。
「お前は『警察官』だ。───今後も頼んだぞ、ミロ」
そう言って、最後までサガは人好きのする優しげな笑みを湛えたままで去っていった。
後に残されたのは手のひらの上の重みだけ。
ミロはじっとそれを見つめた。
見慣れた黒皮の手帳と、細かなレリーフの施されたバッヂ。
紛うことなき正義を刻印した警官の紋章だ。
手放している間は、持っていないことが心許なく、一日でも早く取り戻すことを希求したものだが。
「肚の見えぬお人だ……」
ミロのつぶやきを、何ですって、と聞きとがめながら近寄ってきた看護師が、ミロをひと目見るなり「ひどい汗!」と驚く。
慌てた様子で、注射針を持って腕を取ろうとするのをミロは制止した。
「それは何だ?」
「何って……モルヒネを」
「痛み止めか」
「だって痛むのでしょう?酷い顔色ですよ」
「いや……それは打たないでくれ。眠くなるのは困るんだ」
「困るって……打たなきゃ当分眠れないほどの痛みが続くと思いますよ」
「大丈夫だ、そんなに痛みはない」
痛みはないどころか、歯を食いしばっていなければひっきりなしに呻き声が漏れそうなほどの激痛に苛まれているのだが、自分の意志で起き上がれないような、強制的に眠りの世界に留め置かれるような類のものは今はごめんだった。
考えすぎでもいい。長年つきあってきた自分の勘だけが今は頼りだ。
手のひらの重みをミロは己の胸へ引き寄せるように抱いてぐっとそれを握りしめた。
**
一般病棟へ移り、白い天井を何もせずに見つめていることに飽き飽きしている、そんな頃に、その訪問者はあった。
「看護師の手を焼かせているらしいな。一向に大人しくしてくれない、と困っていたぞ」
「………………なんだ、お前か」
拗ねたようなミロの声に、ベッド脇へ椅子を引っ張って既に腰を下ろしかけていた男は、誰か訪ねて来る予定があるのか、と生真面目にもう一度立ち上がった。
そうじゃない、と仕草で彼に座るように促して、ミロはため息をつく。
「目が覚めたら涙顔の氷河がベッドに取りすがっているんじゃないかと期待するだろう、あの流れじゃ。今日来るか、明日は来るかと首を長くして待っているのに一向に姿を見せないとは思ってもみなかった。……ちょっと自信を失ったぞ、俺は」
くだらないロマンス映画の見過ぎだ、と男は呆れ、だが、すぐに真面目な顔へと戻る。
「『目が覚めたら』が起こりえないほどの状態だったんだ、お前は。まさかこんなにすぐに看護師を手こずらせるほど回復するなどと誰も思いもしなかった。氷河は……酷く取り乱して大変だった。それで、わたしの判断で療養休暇とさせてある」
「……そうか」
「氷河に……カノンを撃たせないでくれたこと、礼を言う」
そう言って、男は深々と頭を下げた。
よせよカミュ、とミロはうんざりとした顔を向ける。
「そもそも元はと言えば俺が下手を打ったせいだ、誰からも礼を言われる筋合いはない」
「お前の、いや、我々の過去の行動のひとつひとつ、結果にどんな影響を与えたのかは検証しようがない。ただ、あの場にお前がいなければ氷河は、『丸腰の男を私情で撃ち殺した』として捜査官生命は終わっていた。それだけは確かだ」
今は『威嚇射撃の弾道に不幸にもミロが倒れこんだことによる事故』として処理されている。
少しは俺も役に立ったなら良かった、と言ってミロは言葉を濁した。
氷河に引き金を引かせたのは、己の属する組織が内包する昏いもののせいなのかもしれぬ、という疑念がある以上、手放しで喜べるものでもない。
ミロはよっとベッドの上で上体を起こした。ほとんど回復してはいたが、まだ動けばいくらかは痛む。つ、と顔を顰めたミロへ肩を貸すようにカミュが腕を伸ばす。
「……肩の傷は悪かったな。後遺症が残らないといいが」
己が撃ち抜いたミロの肩に巻かれている白い包帯を、さすがにカミュがばつが悪そうに見た。
ああ、とつられてミロもそこへ視線をやる。
「たいした腕だ。綺麗に動脈も神経も外していたそうだ。医者が驚いていた。おかげで元通り動く。───俺が両利きだと知っていたのか?」
「まさか。わたしも驚いた」
「利き腕と信じてつぶしたのか!」
「だから『悪かった』と言っている」
「……鬼だな」
「お前がウロチョロするからこちらの計画が破綻しやしないかと、気が気じゃなかったんだ、腕一本つぶしたくらいで済んで有り難く思え」
「お前なあ……『悪かった』って態度じゃないぞ、それは」
そう言いながらも、不快な気分は微塵もない。
犯罪抑止が主目的の警察の潜入捜査と違って、麻取のそれは、流通ルートの解明が主目的となる。それゆえに、警察がするよりも長く標的を「泳がせて」おくことが多い。せっかく泳がせているものを横からミロが押さえてしまっては台無しだ。気が気じゃなかった、というカミュの心情は同じ捜査官としてよく理解できた。
やり方は違っても、目指している大義は同じだ。ならば、恨みも蟠りもあろうはずがない。
ミロが怪我をしていない方の拳を握って持ち上げる。少々ぎこちなかったものの、カミュもそれに倣って拳を握り、ミロのそれにコツリと当てる。
それで十分だった。
さほど長いつきあいではないが、二人の間には同じ死線を潜り抜けた者同士にしか分かち合えない奇妙な連帯感が生まれていた。
カミュもまた、スーツの袖口から包帯がのぞいているのをミロは目ざとく見つけた。
「お前のそれは大丈夫なのか?」
「かすり傷だ。氷河はわたしと同じだけ腕はいい」
弟子自慢なのか自分の腕自慢なのかわからぬが、そう言ってカミュは満足げにジャケットの生地の上から撃たれたあたりを撫でた。
とんでもないな、お前たちは、とミロは苦笑する。
「味方同士撃ち合いまでしてみせたとは……正直、マトリなぞ薬剤師に毛が生えた程度の集団だと軽んじていたが……さすがに度肝を抜かれた。氷河の方は大丈夫なのか。俺が見る限り腹を怪我したようだが」
「いや、氷河の方は偽傷だ。どちらか一人は自由に動けるようにしておきたかったからな。……あの男が騙されてくれるかどうかは危険な賭だったが……夜目だったことと、お前が現れてくれたことが目くらましになった」
偽傷だったか、と今更ながらミロが安堵すると、思い出したかのようにカミュがため息をついた。
「氷河は少々不器用なところがあってな」
だろうな、とミロも頷く。
「その場の流れ次第で臨機応変に動くようシナリオはいくつか用意してあったが、わたしが氷河に撃たれることと、氷河が海へ落ちて姿を消すことは最初から決めてあった。カノンの目を欺くにはそれが最善だと思ったからだが……直前で氷河がわたしを撃つのを嫌がって……あれには困った」
「そういう演技だったのかと思ったがあれは素だったか……!」
ああ、と頷いて、困った弟子なんだ、とカミュは窓の外へ目をやった。
流れる雲を目で追いながら、本当に困った、とまたカミュは小さく呟く。困った、と呟くくせに酷く愛しげに細められる瞳に、ぐっとミロの胸に痛みが刺す。
絶対零度の瞳と恐れられた冷たい男の姿はどこにもない。
隠しきれない感情が滲む瞳は見たことがないほどやさしく空の色を映していた。
『お前は氷河をどう思っている』
かつてミロが投げかけた問いだ。
───酷なことを訊いたものだ。
この男はどんな思いで氷河をカノンの元へ送り出していたのだろうか。
我が身に置き換えて彼の胸の内を想像すれば息苦しさでまた胸が詰まった。
「……訊いてもいいか」
長い沈黙を破るミロの声に、その存在を忘れてでもいたかのようにカミュは少し驚いた表情で振り返った。
「何なりと。守秘義務に反しない範囲でなら」
頷くカミュに、ミロはいくらか逡巡しながら問う。
「……アイザックというのは……」
「ああ……」
カミュの表情が瞬時に曇ったのを見て取って、ミロは、いや、やっぱりよしておこう、と首を振った。
だが、カミュは、いいんだ、お前には話しておく必要があると思っていた、とミロを見つめた。
「アイザックというのはわたしのもう一人の弟子なんだ。氷河より先んじて潜入に出向き……連絡が途切れて気をもんでいたが、ある日、売人同士が利用している掲示板に一枚の写真がアップロードされているのを氷河が見つけた。……手酷く……痛めつけられ、片目を失った無残なアイザックの姿だった。生きていたのか……死んでいたのかは写真からはわからなかったが、画像には『UC 』とタイトルがつけられていた」
「UC……『Under Cover』?正体を知った上での警告メッセージか」
「我々はそう受け取った。アイザックはおそらく最後まで自分がどこに属する捜査官なのか口を割らなかったのだろう。それでそういう形での警告になったのではないかと」
「アップロードしたのはカノン?」
ミロの問いに、カミュは片腕を顎にやって少し思案する表情を見せた。
「我々はずっとカノンを追っていたのだ、当然彼だと思って探ってきたのだが……ついぞ証拠は挙がらなかった。検察へ送られた今も、カノンはその件についてはダンマリを通している。否認ではない。黙秘だ。まだ結論は出ていない。我々の目的の半分は未だ達せられないままだ」
「やりきれんな。それは氷河もさぞかし苛立っているだろう」
「それもあっての療養休暇だ。感情で動けば危険が増すだけだ。わたしが大丈夫だと判断するまで氷河には動くことを許可していない。落ち着いたら、また新しい道を模索しなければならない。カノンを別方向から攻めるか、あるいは一度積み上げてきたものを白紙に戻すか……」
そうか……とミロはしばし目を閉じた。
己の心に問うためだ。
彼らの戦いはまだ終わっていない。お前はどうだ、と。
目を閉じて思案していた時間はそう長くはなかった。答えはもう決まっていたのかもしれない。
『お前は警察官だ』
───その通り、俺は警察官だ。
あの正義の紋章にまるで曇りはないのだと信じられるまでは、ミロの戦いも終わらない。
「……氷河に会いたい」
唐突なミロの呟きに、まだそのような泣き言を、と苦笑しかけて、思いのほか深刻な表情を見つけてカミュは言葉を止める。
「居場所を教えてくれ、カミュ」
「……今か?」
「今すぐだ」
「退院後では駄目なのか。あるいはもう少し落ち着いたら氷河を見舞いに来させるが」
いや、とミロは首を振った。
「少し調べたいことがある。恐らく───調べることで俺には監視がつく。動けない怪我人だと思われている今しかチャンスはない。……一度でいい。自由に会えなくなる前に顔が見たいんだ。……駄目か?」
「……穏やかではない話だな。それを聞いておいてわたしが氷河に近づくのを許可するとでも?」
『保護者』はそう言って、唇を固く引き結んで黙り込んだ。
正直なところ、カミュの許可がなくとも氷河を探し出す自信はあった。何しろ本職は刑事だ。
だいいち、氷河とて一人前の人間だ。庇護の必要なか弱いだけの存在だと思っていれば痛い目に遭うぞ、そう言ったのはカミュ自身だ。ミロと氷河が会うことに第三者が口を挟めるものではない。
それでも律儀に彼の許可を求めたのは、事は単に、「好きだから会いたい」で済まないかもしれないからだ。
戦うものの全容がわからない以上、軽率な行動で彼らを巻き込むことにならないとも限らない。
同じあの場に居合わせた者同士、もしかしたら既に彼らは部外者ではないのかもしれないが、それでも、カミュの与り知らぬところで氷河と関って、彼らの戦いの障害になってはならぬ、と思ったのだ。
長いこと思案していたカミュは、やがて、難しい顏のままで「調べたいことと言うのは、」とミロを見た。
「それはお前が氷河の撃った弾をカノンの代わりに腹に受けたことと関係があるか?……つまり、氷河がなぜ引き金を引いたか、という意味だが」
てっきり、『保護者』の顔で、ミロを値踏みして(あるいは自分の気持ちとの天秤にかけて)葛藤をしているのかと思いきや、カミュの問いは思いのほか核心をついていた。
氷河のことを語るときには柔らかく解けていた瞳が再び冷たい焔を宿している。
カミュもまた、ミロと同じ違和感に辿り着いていたのか。
胸のあたりでつかえていた重いものがぐっとその重みを増す。
ミロは慎重に言葉を選ぶ。
「まだわからない。それを調べたい」
カミュはミロの答えにますます険しい顔となった。
「やっかいなことになるぞ。そこに何もなくとも、だ」
「リスクは承知の上だ」
「……難儀な性分だな」
「心配してくれているのか?」
「お前を、じゃない。氷河だ。ただでさえ情に脆いところがあるのだ、それをお前が……」
「つまりは許可できないということか。俺は近づかない方が氷河のためか。このまま他人に戻って、そして、」
早口で結論を急がせようとするミロに、カミュはまあ焦るな、と片手を上げて制し、またしばらく思案する。
彼の中でどのような議論が進行しているのか、その沈黙は何時間にも感じられて、カミュと同じだけミロの眉間にも皺が刻まれた。
やがて、カミュはふーっと長く深い息を吐き出した。
そして、是とも非とも返事をすることなく、さて、とのんびりとした調子で立ち上がった。
「そろそろわたしは仕事へ戻ろう。長々と邪魔をしたな」
そう言いながら、さりげなく動いたカミュの目線で、ミロはその意図を明確に察した。
爆発するように一気に高揚した気持ちを、どう、どう、と宥めて努めてこちらものんびりと、そうか、なら下まで送ろう、と言いながらベッドを下りる。
看護師の詰所の前を軽い調子で「送ってくる。ついでに売店も」と声をかけて通り過ぎ、監視カメラの存在を意識して実際に入り口でカミュへと手を振っておいて、ミロは病棟へは戻らず、一階の洗面所へと急いだ。
入院着から隠し持って下りていた普段着へと手早く着替え、洗面所の突き出し窓を押し上げる。ミロの体躯が通り抜けられるかどうか微妙な隙間だったが、窓の向こうの空間でカミュの手が、早く来い、と呼んでいるのに急かされてミロは窓枠へ手をかけて床を蹴った。
案の定、ミロの胸板を通すには少々狭すぎた隙間へ挟まった胴体を、カミュの腕が強く引いて地面へ下ろすのを助ける。窓枠に腹の傷口が擦れてずきずきと痛んだが、どうにかミロは地面へと下り立った。
久々に直に受ける日の光が目に眩しく、ミロは片手をやって光を遮る。
そんなミロを上から下まで値踏みするように見て、カミュは渋い顔をした。
「お前はどうしてそう派手なんだろう。目立っていけない」
退院時用にと用意してあった飾り気も何もない白いシャツにジーンズという、これ以上はないシンプルな出で立ちを非難されて、ミロは肩を竦めるしかない。
「せめてどこかで帽子でも買って顏を隠せ。道行く人に顏を覚えられたのではあっという間に居場所を掴まれて連れ戻されるぞ」
それはまずいな、と苦笑して、わかった、とミロは大人しく頷いてみせた。
カミュは左右に視線をやって人影のないのを確認し、おもむろに胸のポケットから紙片を取り出した。
指先へ挟んで、カミュは一瞬だけ躊躇う様子を見せたが、最終的にはミロへとそれを差し出した。
白い紙片を受け取って、ミロは書かれてある文字を読む。
今しがた書きつけたばかりなのかやや乱れた文字が十数文字並んでいる。左端から右端まで視線を流したのは一瞬。だが、一文字一文字を確実に頭へ刻んで、恩に着る、とミロはそれをカミュへと返した。
頷きながらカミュは紙片を至極大事なものを扱うように丁寧に折りたたんで胸へとしまう。まるで氷河の髪を撫でるような優しげな仕草で紙片の入ったポケットへ手をやるカミュに後ろめたさを禁じえず、思わずミロは問うていた。
「いいのか、本当に?」
それほど大事なものを、何故、という、心からの疑問だった。自分なら絶対に誰かに触れさせたりなどしないのに、と。
カミュは「お前が教えてくれと言ったんだろう」と不思議そうに首を傾げている。
「そうじゃない。お前は、その、氷河を、」
踏み込みすぎだろうか、と、珍しく歯切れ悪くなったミロに、ああそっちか、とカミュは虚を突かれたような顔をした。気づいていたのか、とほんの、ほんの一瞬だけ彼の頬に朱が差して、だがすぐに、お前と言う奴は、と呆れ顔となる。
「まだ手に入れてもいないのに、人を気遣う余裕があるとは自信過剰にすぎるな。言っとくが『譲った』とかそういうわけではないからお前のその気遣いは全く無用なものだ」
「……すまん」
取り立ててカミュは怒った口調ではなく、むしろ事実を淡々と指摘したにすぎなかったが、さすがにデリカシーがない余計なひと言だった、とミロは己を責めて黙り込んだ。
だが、何がおかしかったのか、カミュは突然にくすくすと笑い出す。
怪訝にカミュを見返したミロの肩を、それは、とカミュは指さした。
「その肩の傷だが」
「……?これが何か……?」
お前のその率直さに乗じてわたしもやはり懺悔しておこう、とカミュは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「実のところ、『うっかり外れて』心臓に当たってもやむなし、程度の気楽さで撃った。『いろいろな意味で』お前は目障りだったからな。お前は不幸にも殉職、そういうシナリオもわたしの中にはあった、ということだ」
「なんだって……?」
「お前がことのほか強運で、誰よりわたしががっかりしているぞ」
歯に衣着せぬ物言いでとんでもなく不穏な内容をカミュは告白したのだが。
からかうような声音に屈託はなく、言葉ほどに昏い感情は読み取れない。
彼が初めて見せた笑みは思いのほか人好きのする懐っこいもので、それは、どこかサガの笑みに似ていたのだが、受ける印象はなぜかまるで真逆だ。「お前が生き残って残念だ」と宣言されたにも関わらず、だ。
「……お前は怖い」
「フフ、その通りだ。だから氷河を泣かせてくれるな。次にお前を撃たねばならぬ場面で手元が狂わないとも限らぬ。……いつか…………時が来たら……その時には改めてわたしもスタートラインに立とう。お前の余裕の表情が崩れるのが楽しみだ」
きっと、これはエールなのだろう。カミュ独特の。
冗談とも本気ともつかぬカミュの言葉だが、「泣かせてくれるな」というのは間違いなく彼の真実だろう。
だからミロも彼なりの信実で応える。
「ならば遠慮などしない。こちらだって本気だ」
男達は互いに目を見合わせて、ふ、と笑う。
最後に強く頷きあって、男たちは背を向け、別々の方向へと歩き出す。
振り返りはしない。背を預けるのに足るだけの信頼がそこにはあるから。