お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
潜入捜査官ミロ妄想。ミロ氷ベースの氷河総受風味。
設定の性質上、反社会的行為に関する記述が多数表現しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。
◆潜入捜査官ミロ ⑦◆
血痕による道しるべが延々と深く入り組んだ倉庫の奥まで続いているのを、ミロは次第に不審に感じ始めていた。
途切れることなく続いた血痕は、最後にひとつの倉庫の扉の前でピタリと途切れた。
ミロはしばし思案し、ぐるりと裏へ回り、別の扉を見つけると、それをそっと肩で押す。と、扉は小さな軋み音をさせて簡単に開いた。
これから秘密の取引をしようかという人間が、あまりに無用心にすぎるじゃないか。
さすがにこれを幸運だと捉えるほどミロは甘くできていない。
手落ちも一つだけならありうる。が、あのカミュにあのカノンがこうも続けてミスを犯すとは思えない。
きっとこれもたくさん散りばめられた罠のひとつだ。
挑発的な物言いをしてとどめを刺さずに去ったのは、こうしてミロが追ってくることを巧みに誘導していた……?
何度も殺すチャンスはあったのに、ミロを生かしているのはカノンの中でまだ「使える駒」だから、か?
ミロは迷う。
わざわざ意図のわからない罠に乗ってやる法はない。カノンがミロの行動を読んでいたのなら、さらにその逆手を取って、奴の言うとおりに引き返し、本隊との合流を待つべきか。
だが、発信機でミロの位置情報を掴んでいるはずの本隊に動きは見えない。赤色灯が派手に回転しているのはまだ対岸だ。
このままでは、何の障害もなくなったカノンはのうのうと取引を終えてしまう。
例え罠だとわかっていても、ミロに引き返す選択はできそうにない。
ミロはそっと扉を開けて、薄暗い倉庫の中へと侵入をした。
動きの悪い左足がずるずると床を擦る音がやけに大きく響いている気がして、何度もミロは息を詰めて立ち止まらなければならなかった。
果物の輸出でも扱っている会社の倉庫なのか、整然と積み上げられた木箱から甘ったるい南国の香りが漂っている。
積み上げられた木箱の間の空間に、南国の陽性の空気にそぐわぬ男達がいた。
カノンとカミュ。
それから見たことのない男が二人。やけに体格の良い長身の男達だ。
一人は短髪で、彫りの深い顔立ちに特徴的な繋がり眉毛をしている。
もう一人は長髪を長く下ろして両の瞳を隠し、口元にはどこか人をくったような笑みを浮かべている。
二人ともきっちりとビジネスマン風の三つ揃いのスーツを着込んでいたが、ネクタイピンから腕時計などの小物に至るまで、喪服もかくや、の黒づくめで、堅気らしいところは微塵もない。
二組の男達の間には、しっかりと閉じられた銀色のジェラルミンケースがいくつか並べられていた。
カノンもそしてカミュも移動する時には特に何も携えてはいなかったから、ジェラルミンケースはあらかじめここへ運ばれて隠されていたのかもしれない。
くわえ煙草のカノンがスーツの内側のポケットから新しい煙草を取り出し、繋がり眉毛の方の男に差し出しているのが見えた。
受け取った男は唇に挟んで火を探していたが、カノンが顎をつきだして己のくわえた煙草を示すと、近寄って直接そこから火を取った。
巧い、とミロは思った。
確か初めての取引相手だと言っていた。
ほとんど唇が触れんばかりの距離に近づくことを許すことで互いに敵意がないことを示し合う。
同じ嗜好物を口にすることで連帯意識も生む。
それでいながら、カノンは火を「与える」ことで主導権を握っているのは自分の方だということを無意識に植え付けてみせた。
自然に身につくやり方ではない。以前から感じていたことだが、カノンはある種の独特な帝王学を学んだことがあるのではないかという印象はますます強くなった。
男達は何事か話をしながら紫煙をくゆらせている。 低く抑えられた声のせいで会話の中身まではわからない。
様子を窺うミロの額には汗が光る。
食品を扱っているせいか空調が割にしっかり効いていて、倉庫内の気温は低い。
だから暑いわけではないはずなのだが、怪我の影響で、ミロの身体は発熱し始めているのかもしれなかった。
目に落ちる汗を拳で拭った時、カノンが吸い終わった煙草を投げ捨てた気配がした。
それを合図として、男達の間に、ピリリとした緊張が走る。
やはり場を支配しているのは常にカノンだ。
長髪の方の男が手に携えていたジェラルミンケースをカノンに向かって差し出した。満足気に頷いてそれを受け取ったカノンは、カミュに手渡して中を改めるように指示している。
その傍では、繋がり眉毛の男が、机の上に乗っていたジェラルミンケースを開いて中身を確かめていた。
短くそのやりとりだけで二組の男達は互いに携えてきたジェラルミンケースの交換を終える。
その後は、別れの挨拶も交わさずに、あっさりと左右に分かれて別々の出口へ向かって動き始める。
背後から相手に不意打ちで撃たれることがないよう互いに牽制する動きは見せているが、まるで最初から関わりなどなかったかのように、どんどんと距離を開けていく二組の男達の姿にミロは躊躇った。
どちらを追うべきか。
もちろん狙いはカノンの方だ。
だが、男達にドラッグを持ったまま逃げられては終わりだ。カノンを逮捕したところで、あれが世に流通すれば、それは敗北に等しい。
それに、どちらを追うにせよ、長い追跡に足るだけの体力が自分に残っているかどうかが怪しい。
やむを得ん。
ミロは身を隠していた物陰から銃を構えて飛び出した。
「全員動くな!手を頭の後ろへやって膝をつけ!」
突然に響いたミロの厳しい声に、まず、ハッと反応して振り返ったのは取引相手の男二人だった。
カノンは、やはり予想していたとみえ、足を止めるだけ止めた後はずいぶんと鷹揚に振り返った。
両手をホールドアップさせかかっていた男二人は、飛び込んできたのがミロ一人、しかも手負いだと見るや、銃を抜く仕草でスーツの合わせ目に手を入れようとした。ミロは、動くな、と鋭くそちらに銃口を向けて彼らが動くのを制する。
男達はミロの出方をうかがって大人しく動きを止めたが、カノンだけは従う様子を見せずに乾いた笑いをひとつ吐いた。
気のせいかミロを見る瞳が愉悦に輝いている。
「四人を相手にたった一人でどうするつもりだ。逃げ帰れ、と言ってやったのに、呆れた忠犬ぶりだな、ミロ。自分のイヌが死に瀕していても助けにも来ない薄情な飼い主は今頃新しいイヌを飼う段取りをしているかもしれんぞ」
カノンの挑発を、ミロは長いこと従順な振りで頭を下げてきた鬱屈を吹き飛ばすようにニヤリと笑って挑発で返した。
「そうとも、俺はただの捨て駒だ。捨て駒はいくらでも替えがきく。俺が死んでもお前の周りは一生イヌがうろうろとつきまとうぞ。ご苦労なことだな、カノン」
「ふん、無駄吠えしかできんイヌごとき、どれだけうろうろされたところで痛くも痒くもないわ」
「ほう。の、わりにはまだ銃の扱いすら覚束ないひよっこをイヌと馴れ合ったというだけで縊り殺すんだな、お前は?ずいぶんと小心なことだ。ひよっこに怯えてろくに眠れもしないくせに、世界を動かすなどとお笑い草だ。お前はせいぜい日の当たらない狭い場所でお山の大将をやっているのが似合いだ」
「……べらべらとよく回る舌だ」
ミロの挑発を軽くいなしたように見えて、実のところ何かがカノンの地雷に触れたらしい。
カノンの、嫌味なほどに整った端正な横顔のこめかみが短く痙攣した。
それが交戦開始の合図だった。
素早く銃を抜くカノンの動きに触発されるように男達が次々に動く。
だが、既に構えていたぶんだけミロは誰よりも速かった。
銃を抜こうとしていたカノンへ向けてまずは一発、それから銃を抜いた瞬間の繋がり眉毛の男へ一発。
アクションの速いオートマチックだったことが功を奏した。
彼らが構えた銃のシリンダーが回り終える前にミロはほぼ同時に二人を撃ち終えていた。
氷河に撃たれた傷が影響したのか、珍しくカミュの反撃が一呼吸遅れ、その隙に、ミロは積み上げられていた木箱の陰に身を隠した。
長髪の男の姿を探したが、彼はジェラルミンケースと共に既にミロの視界から消えていた。
一人は逃したか。
だが、繋がり眉毛の男はミロに撃たれて銃を取り落とし、呻き声を上げて床に転がっている。一人を確保しておけばドラッグの行き先を吐かせることはできる。
ミロはそっと木箱の向こうを伺った。
その瞬間、盾としていた木箱が、バン、と衝撃で砕け散る。
姿勢を低くして次の木箱の陰へ移れば、またそれが砕け散り、移動しては盾を失い、を繰り返す。
ミロの頭の上に衝撃音とともに次々に木箱の砕け散った破片と、赤く熟れた中身が弾け飛んだ果肉が降ってくる。
咽かえるような南国の香りはますます濃くなった。
「さっきの威勢はどうした。逃げ回っていては俺をどうすることもできんぞ」
カノンの声が銃声とともに木箱の間を移動するミロの動きに平行して追ってくる。
弾丸は確かにヤツに命中したと思ったが、外したのか、とミロがもう一度木箱の向こう側をのぞき込めば、真っ赤に濡れた片腕で引き金を引くカノンの姿があった。───間違いなく命中はしたらしい。
いくら口径の小さな弾丸だったとは言え、普通はとてもではないが銃など握れたものではない衝撃があったはずだ。その一撃でカノンの動きを封じられなかったとは計算外だ。
カノンという男は何もかもが常人離れしている。
目の前の木箱がまた激しい音とともに砕けた。
辺りには砕け散った赤い果肉がまるで血の海のように広がっている。
もう身を隠すための木箱は残り僅か。
撃っているのはカノンだけだが、カミュも銃を構えてミロの退路を断つように扉の前へ立っている。
未だ床で激痛に呻いている男は数に入れないとしてもニ対一。
自分が万全の状態ならさほど不利とも思えない状況だが、そろそろ限界が近づいて来ていた。
ミロは木箱へ背を預けて深く息を吐く。
大量の汗で髪もシャツもぐっしょりと濡れいてた。
余裕を取り戻したのかカノンの声はいつもの調子を取り戻している。
「見ろ、お前のせいでめちゃくちゃだ。ここの持ち主が朝見たら泣くぞ。請求書は警察に回しておけばいいのか?それともお前に弁償するだけの個人資産はあるのか?」
もうミロに次の手などなかった。
それでも、声にだけは余裕をのせて、ミロは木箱の向こうの空間へと叫ぶ。
「心配しなくていい。請求書のあて先は自分の名でも書いておけ。どうせお前は20年は別荘(※刑務所)行きだ。その金も持っていたところで無駄金だ。せいぜいこっちで有効利用させてもらうさ。───ああ、そうだ。俺への傷害罪はなかったことにしておいてやろう。この程度のかすり傷でお前の別荘生活が伸びたのじゃさすがに憐れだ」
銃声が途切れ、代わりにカノンの笑い声が鉄筋の剥きだした高い天井にわんわんと響いた。
「お前ときたら、イヌはイヌでも去勢前の若犬だな。威勢がいいのは結構だが、そもそも、お前は、今し方お前が問答無用に撃ったせいでそこで苦しんでいる御仁が誰なのか知っているのか?」
ミロの片眉がぴくりと動く。
「冥途の土産に教えてやろう。冥界製薬の営業部長。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
冥界製薬……?
裏社会と繋がりがあるとか、副作用を金を掴ませて黙らせたとかきな臭い噂の絶えない企業だ。
それでも、どれも噂の域を出ず、度重なる検察の強制捜査にも未だ不法行為の証拠が挙がったことはない。表向きはこの国の経済を支えている優良企業のひとつだ。
限りなく黒に近いグレーの企業を取引相手としてカノンが選んだからと言って驚きはしないが。
───何かがおかしい。
国外へ持ち出す、という話ではなかったのか。某国に足がかりをつけた、と。
だから密輸で引っ張る、という段取りで動いていたのだ。逮捕状もそれで渡りをつけてある。
くく、とカノンの喉が鳴っている。
ミロの背をざわざわと不快な感触が駆け上がる。
「気の毒に。お前が『勘違いで』撃ったのは善良な市民だ。お前が何か早とちりしたようだから弁明する暇もなかったが、中身のブツはただのプロカイン(局所麻酔薬)だぞ?俺は輸入代行業も手掛けることにしたんでな……手始めに国外から仕入れたプロカインを彼らに卸した、その記念すべき最初の取引をちょっとドラマチックに演出してみたからと言ってまさか撃たれることになろうとは……!」
「……な、に……?」
「なんなら薬種商の免許も見せてやろうか。正当な売買をしただけで、威嚇もなしに撃たれるとは……これがマスコミに漏れればこの国の警察は終わりだな」
そういう仕掛けか……!
いかにも不法行為があるかのように餌を撒いて警察の目を引き付け、派手な捕り物劇を誘発しておいて、全て終わったところでそこに不法行為はなく、捜査自体が不当だったことを世に明らかにする。
うまくカノンが逃げおおせたならば警察の無能を笑ってそこで終わり、万一カノンの手の者が逮捕される運びとなっても、この仕掛けを施しておけば、悠々と警察の正面玄関から出て行くことができる。
対岸の派手な騒ぎは、警察にこの失態を秘密裏に握りつぶしてしまわないようにさせる布石だ。
鉄砲玉となったチンピラどもは銃刀法違反くらいには問われるだろうが、せいぜい不起訴処分にしかならない微罪ではカノンには蚊が刺したほども堪えないだろう。
だが、本筋の方でカノンを拘束できなかった警察の面子は丸つぶれになること間違いなし。
取引した物体が実際にプロカインだったかどうかは確かめようがない。現物はもう手の届かない所へいったのだ、本当は別のドラッグだったのだとしても、すり替えておく時間はいくらでもある。
だが──
「……騙されんぞ、カノン。正当な商取引の場に銃を持ち歩く『善良な市民』がどこにいる」
「銃……?」
カノンはしらじらしい仕草で首を傾げた。
男が取り落したまま、床の上へ転がっていたリボルバーへ近寄ってそれを爪先で蹴って部屋の隅へとやる。
「いや、彼は丸腰だった。丸腰の市民を問答無用で警官が撃った。今夜起こったのはそれだけだ」
威嚇などする余裕もないほど銃を抜くのが早い男がただの『善良な市民』であるはずがない。
だが、カノンがこれだけ自信たっぷりでいるからには、相手が銃を所持していたことは伏せて情報がリークされるのに違いない。あるいは奴の得意な隠しカメラでも仕込まれていて、都合よく編集された映像が流される段取りか。
「政界へ足がかりをつけようとしているお前の飼い主もこのスキャンダルでついに終わりだ」
そう言ってカノンは勝ち誇ったかのように酷く笑い転げた。
どこまで周到な男だろう。
木箱についていたミロの背が、意志に反してずるずると下に滑り落ちていく。
ここまで気力だけで支えてきていた身体はとうに限界を超えていたが、足掻いても足掻いても這い上がれぬ沼に足を取られたかのような感覚に、最後の気力すら失われてゆく。
カツカツと踵が床を打ち鳴らす硬質な音が近づいてくる。
死にゆく人間、最期まで残されている感覚は聴覚だと言うな、とミロは霞んでゆく意識の中でその音を聞いた。
すぐ傍でその足音が止まったかと思うと、ミロのこめかみにぐっと硬く冷たい銃口が押し当てられた。
ミロは目を閉じて荒く息をついているまま動けない。
それでも、最後の抵抗に口だけは開く。
「残念だがお前が思うようにはならんぞ、カノン……。俺は『警察官』じゃない。今はただのチンピラだ。上は俺を簡単に切り捨てられる。今日起こったことはチンピラ同士の抗争に市民が巻き込まれたってことで処理されて終わりだ」
「なるほど、奴らならやりそうな汚い手だ。だが、心配するな、ミロ。お前の死体にはきっちり俺が名札をつけておいてやる。『暴走した警察に取引現場に踏み込まれてパニックになり、たまたま持ち歩いていた護身用の銃が幸か不幸か命中してしまった。』こういうシナリオでどうだ」
ミロの耳元でカチリと撃鉄が起きた。
「心置きなく『警察官』として死ぬがいい」
次の瞬間、ミロの耳を衝撃音が劈き、こめかみに押し当てられた銃口が跳ねた。
あまりの衝撃の強さに一瞬、ミロの耳は音を失った。
無音。
これが死の世界か、と思う間もなく、唸るような残響と共に音が戻って来た。
「……ぐ……っ……誰だ……ッ!」
カノンが銃を取り落として、盛大に顏を歪めていた。
撃たれたのは自分ではない。カノンだ。
撃ったのは。
ミロの正面の位置で、退路を塞いでいたカミュに動きはない。
床に転がっている男も、ミロも同じ。
誰もが弾丸の出所を探す中、空間に充満していた甘ったるい香りを割るように、ふと、濃い潮の香りが混じった。
どこかの窓が開いて海風を運んできたのか……?
いや、これはまさか……。
その予感は、ミロの失われかけていた力を取り戻させる。
木箱へ背を預けて足を投げ出したままであったが、ミロは指先へぐっと力を込めて銃把を握りなおした。
銃を拾い上げようとしているカノンへ向けて引き金を引く。
それは、カノンの膝を正確に撃ち抜き、どっとその衝撃で彼の体躯が後ろへ下がった。
「……ッ。ぐっ……何を……やっている、カミュッ……そいつをどうにかしろ……ッ!」
普段はカノンの手足のように忠実で行動の早いカミュが、どうしたわけか先ほどから一向に援護射撃に動く様子がない。
まるで護衛の役目を放棄したかのような態度に苛立ったカノンは、カミュ!と再び叱咤するように叫んで振り向き、振り向いた先に至極冷たい緋色の双眸が瞬きもせずに己を見据えていることを発見し、目を見開いた。
「……貴様、この期に及んで裏切る気か……!」
カミュは答えず、ただ、ミロに対して構えていた銃口をカノンの方へと滑らせた。
己へ向けられた銃口を見つめるカノンの瞳がぞっとするほど冷たい怒りを放っている。
やがて、カノンの喉奥から、く、とひとつ狂気じみた笑いが迸った。
「俺を殺すか?今頃になって恨み節とはお前も人の子だったか。だが、忘れるな、氷河を殺したのはお前自身だ。俺を殺してもその事実は変わらんぞ」
「……別にあなたを恨んでのことではない。なぜなら、」
と、カミュは初めて口を開いた。
その視線はミロの背後に注がれている。
扉が開く音がした。
同時に、そちらへ視線をやったカノンの口元が、なに、と小さく歪められる。
ミロの位置からは木箱が邪魔して何が起こっているのか見えない。だが、答えをミロは知っているような気がした。
何か重いものを引き摺っているような、ズズ、ズズという音が扉の方角から近づいてくる。
それはミロのすぐそばで止まった。
ミロの視界の端に、ジェラルミンケースを抱えたまま呻いている長髪の男を、見覚えのある少年の細腕が引き摺っているのが映った。
その袖口から、ポタポタと水が滴っていて、それがミロの元へ潮の香りを運んでいる。
視線をさらに上にやろうとした瞬間、カノンの高い哄笑が響き渡った。
「まさかひよっこにしてやられたとはな……!この俺が!ただのひよっこごときに!」
狂ったように続く笑いを邪魔するものは何もない。
ひとしきり笑って、カノンは血に濡れた身体を木箱を支えとして引き起こした。いくらか時間をかけて、カノンは木箱へと腰かける。この状況下でも、男は誰よりも高い目線を保ち、見下ろすことを忘れない。
警戒に少年の全身が強張るのを、カノンはニヤリと笑う。
「たいした腕だ、小僧。その男は傭兵訓練を受けていたはずだがな。お前は一体何者だ」
少年は答えない。
代わりにカミュがカノンへ数歩近寄った。
二つ折りの黒革の手帳を開いてカノンへ掲げる。カノンの目が微かに見開かれた。
「……お前は……マトリか……!」
「そうだ。あなたを麻薬取締法違反容疑で逮捕する」
マトリ……!
カノンと共にミロの中にも驚きが広がる。
麻薬取締捜査官。通称マトリ。
薬物事件の捜査に限って特別司法警察職員と同等の権限が与えられ、拳銃の使用も囮捜査も許可されている。
警察とは別系統の組織であるため、互いに顔も素性も知らないのはもちろん、情報共有も行わないため、時に同じ獲物を追って縄張り争いすら起こることもある。
噂では聞いたことがあったが、実際に自分のヤマでかち合ったことはなかった。
は、と笑って、カノンが血に濡れた手で長い髪を煩わしそうに掻き上げた。
美しい白金色の髪に、どぎつい鮮紅色が混じる。
「お前がマトリだったとはな……まるで眼中になかった」
「だろうな。あなたは警察を出し抜くことしか考えていなかったからな。自らの毒が回ったな、カノン」
「ふん」
出し抜かれたというのに、「眼中になかった」というのはどうやら本心のようでさほど悔しそうな様子も見せず、カノンはまだどこか余裕の笑みを浮かべている。
「それでマトリが俺を何だって?面白いことを言っていたようだが」
「あなたを逮捕する、と言ったんだ」
「意味が分からんな。俺は違法薬物など扱っていない。プロカインは麻薬ではあるまい?」
「もちろん。だが、プロカインの下に別の薬物を敷き詰めたはずだ」
「ああ……確かお前にそれを手伝わせたのだったな。だったらなおさら知っているだろう。あのドラッグはまだ指定薬物にはなっていない。『プロカインの中にうっかり開発途中の新薬が紛れた』……何か罪になるのか?」
ならないだろう、と退屈そうに首を回したカノンは、きっと、誰よりも法律を読み込んでいる。
絶対の自信があるから落ち着いていられるのだ。
だが、カミュの方も自信たっぷりに、観念した方がいい、あなたはもう終わりだ、と首を振る。
カミュを援護するように、少年が一歩前へ進み出た。
少年は、己が引き摺ってきた男の腕からジェラルミンケースを取り上げると、それを開いてカノンに見せる。
「証拠がここに」
「……?それが何の証拠だ。プロカインとその下に詰まっているのは、」
「『フェニチルメチルアミノプロパン』」
「……何を言っている。そんなものを詰めた覚えはない。俺がこの目で確認した」
紛れもない第一級指定の違法薬物の名前が飛び出し、カノンの声が低くなる。
カノンは、少年と、カミュの顏を交互に見た。
どちらも、己の立つ正義からほんの少しも揺らぐことなくカノンを刺すように見つめている。
は!とカノンは嫌悪を滲ませて唾棄するように言い捨てた。
「……なるほど、すり替えたな。お堅いマトリが証拠捏造ときたか!堕ちたものよな」
「捏造か……正直なところ、最悪の場合はそれも考えていた。だが、カノン、あなたは思った以上に真っ黒でその必要はなかった。ここにあるドラッグは全てあなた自身の所有物だ。嘘だと思うなら自分の私室を確認してみるといい。ベッドの奥の隠し扉───お宝がまだそこに残っているかどうか。あれほどの量、自分一人で使う予定だったはずはあるまい。捜査攪乱の隙をついて、これから取引の本番のつもりだったか?───いや、答えなくていい。調べは既についているが、あなたにも黙秘権はある。『捏造』とはないものをあったかのように偽装することだ。あなたは、紛れもなく自分自身の罪で裁かれるのだ」
なんだと、なぜそれを、と顔を歪めたカノンは目を細めて記憶を探るような表情をし、そして、少年の方へ視線をやった。
「なるほどお前だな……。たかが愛玩動物と侮っていたが……ミロ、聞いたか!お前の可愛いヒヨコは男を咥えこんでいても抜け目なく周囲を観察する余裕があるとんだ淫売のようだぞ」
挑発し、嘲りの言葉で罵る以外にカノンにもう手はないのだろう。それでも、ミロの隣で、少年の、引き金にかけた指先が震えていてとても見ていられるものではない。
いい加減に黙れ、とミロが声を上げようとした瞬間、ギ、と軋む音が扉のところで響いた。
「もうよさないか、みっともない」
深いテノールが響くのに驚いて、誰だ、とミロは顔を上げる。
引き締まった長身に纏わせた仕立てのよさそうなスーツを着崩すことなく首元まで几帳面にボタンを留め、非の打ちどころなく整った美貌を彩るプラチナブロンドを肩のところで緩く結わえたその姿は───
カノン……が、もうひとり……!?
そこに立っていたのは、カノンと瓜二つの男だった。
瞳の色から髪の毛の先に至るまでまるで同じ。涼やかな目元がやや柔和な印象であるほかは見分けなどつかないほどにそっくりだ。
全身に警戒を漲らせて、ミロは正体のわからぬ男に銃口を向ける。
その様子にカノンは身体を二つに折って笑いだした。
「ミロ、お前はまさか、」
後は引き攣る笑いで声にならない。
ミロはわけがわからず、銃口をどこへ向けるべきか戸惑う。カミュもそれは同じようで、その瞳が猜疑に満ちて男二人を見比べていた。
やがて目じりに涙をためるほど笑ったカノンが顔を上げる。
「顔も知らない飼い主のために命を張っていたとは、お前は大したヤツだ、ミロ。……相変わらず、非道だな、兄さん。意図的に情報を伏せられたせいで飼い犬が命を落とすのもお構いなしか」
ミロは驚いてカノンと瓜二つの男を見た。
飼い主……?
兄さん……?
男は『兄さん』と呼ばれたことを厭うように眉を顰め、だが、カノンの言葉を何一つ否定せず、ゆっくりと状況を確認するように室内を見回した。(纏う空気はまるで似ていないが、帝王然とした鷹揚な仕草はカノンにそっくりだ。)
銃撃戦で混沌とした室内と傷ついた男たちの姿でだいたいのところを察したのか、男は、最後にカノンを見、ひとつため息を吐いて、名乗った。
「わたしはサガ。…………そこなる愚弟の双子の兄」
感情を抑えた短い名乗りを揶揄するようにカノンが声を上げる。
「えらく控えめな自己紹介じゃないか!兄さんがどこの誰なのか皆わからずに混乱しているぞ。飼い犬にソウカンの顔くらい教えておいてやればよいものを!」
ソウカン……ソウカン……?
警視……総監か……!?
ミロが顔を知らないのも無理はなかった。総監と言えば雲の上の存在。末端の捜査官が直接指示を受けることなどない。
加えて、現総監は人前に姿を現さないことで有名だった。
現さないはずだ。
裏社会のボスとしてカノンの顔が知れている以上、血の繋がりを隠しようがない外見は、警察という組織を一つに束ねるのに障壁となるに違いない。
下手なスキャンダルよりこれは、よほど……。
カノンが徹頭徹尾強気でいたのも頷ける。
逮捕され、有罪となったとして。
カノンの罪が重ければ重いほど、カノン自身が受けた以上の痛手を兄が───ひいては警察という組織は被ることになる。
何故、兄弟がこのような形で両極端な形で相対しているのか事情は知れないが、カノンという男が(あるいは警察という組織が?)抱えた闇の大きさに飲み込まれたかのように、皆、一様に言葉を失った。
衝撃で水を打ったようにしんと静まり返る中、いち早く自分を取り戻したのはカミュだ。
慇懃にサガへと近寄り、カノンにしたように二つ折りの手帳を示して見せる。
「わたしは麻取です。……憚りながら、カノンについてはこちらも長年追ってきた身、いくら実弟と言えどやすやすとそちらに身柄を引き渡すわけにはいかないのですが」
できる限りの丁寧な言葉でくるんではいたが、要は、身内の恥を揉み消しに来たのか、と問うたにすぎないカミュの言葉の意味を過たず察したのか、サガは滲み出る不快感を押し込めてぎこちない笑みを浮かべて首を振った。
「身内だからと言って横車を押しに来たのではない。……一族の恥ゆえ、自らの手で始末をつけに来ずにはいられなかったのだ。もちろん、本筋はそちらで処理してくれて構わない。ただ、その男は麻取法違反以外に、いくらでも叩けば埃の出る身だ。うちの優秀な捜査官(と、サガはミロへ向かって労るように目礼をした)が集めた情報が役に立つだろう。麻取法であげる(※逮捕する)なら送検まで72時間しかない。そちらは拘置施設も持っていない以上、いずれにせよ、共闘、とした方が互いのためだ」
カミュはサガの真意を測るように思案していたが、最終的には、承知した、と頷いた。
サガもひとつ頷く。
「ならばすぐにでもカノンはうちへ移送しよう。今、車を手配する。担架も……3……4つか、必要だろう」
カノンもミロも、それから男達もまともに自分の足で歩けそうにないことを見て取って、サガが、携帯電話を取り出しててきぱきと事務的な手配を始める。
共闘、と言いながら、既に主導権を握り始めている男にカミュが鼻白んだ表情をした。チラリとミロへ投げられた視線が、紛れもなく兄弟だな、と同意を求めていて、ミロは苦笑しつつ頷いた。
ついに終わったか……
長い夜だった。
目の前で急展開を見せた決着にミロは大きく息をつく。
気を抜けば瞼が重くなってくる気がして、慌ててミロは意識を覚醒させておくために、自分の頬をピシャリと叩いた。
今、意識を失うと戻ってこれる気がしない。
カノンは。
優雅に足を組んでどことなくこの状況を愉しんでいるような笑みを口元へ湛えている。
裏社会の帝王は流石にみっともなく足掻いて逃げるような真似はしなかった。
一目見た限りではとても何発も被弾しているようにも、移送されるのを待っている犯罪者のようにも見えない。やり手の青年実業家がお抱え運転手つきの車を待っているところだ、と言われたならそのまま信じてしまいそうなほど落ち着き払っているのが小憎らしい。
やれやれ、最後まで振り回されるな、と、ミロは息をつきながらぐるりと視線を巡らせて、そのカノンを少年の瞳が食い入るように見つめていることに気づいた。
全ての決着はついたはずなのに、少年の指はいまだ握った銃の引き金にかけられたままだ。
酷く全身を強張らせている姿に尋常でないものを感じ、ミロは声をかけようとした。
が、その瞬間、少年が一歩、カノンへと近寄った。
「あなたに、どうしても俺自身で聞いておきたいことがあります」
少年の腕がゆるゆると持ち上がって、カノンへ向けて銃口が定められる。緩んでいた空気がそこだけピリリと緊張を増す。
サガと打ち合わせをしていたカミュがすぐさまそれに気づいて顔を上げた。
「よせ、氷河。今は堪えろ」
少年はその言葉が耳に入らなかったかのようにじっとカノンを見据えている。
「答えてください。アイザックはどこですか」
「……アイザック……?」
「知らないとは言わせません。あなたが……片目を……!」
コイツは何を言っている?と言いたげにカノンはカミュへと視線をやった。たったそれだけの仕草なのに、動くな!と銃を握った手を震わせて少年は鋭く叫んだ。今にも切れそうなほど限界まで張られた弦のように危うい緊張が彼を包んでいる。
カミュが険しい顔で、再び、氷河、と呼びかけた。
「銃を下ろせ、氷河。その件は正当な手続きに則って調べを進める」
今度の言葉は彼に届いたようで、でも、と、引き金にかけた指先が躊躇いに揺れる。
「アイザックは……生きて……いるんですか」
銃を下ろすか下ろすまいか躊躇って、それでも聞かずにはおれなかった少年の必死のその一言を、カノンは残酷に退けた。
「まるで知らんな。お前はいちいち踏み潰すアリの名を確認するのか?」
「!!!!!カノン、あなただけは、許さない……絶対に……!」
真っ青な顔でぶるぶると震える両手で銃を握りしめ、少年は薄い唇を血が滲むほど噛む。一筋の赤いものが唇の端から零れ、それでも、彼はどうにか引き金を引くのを堪えた。
いざとなれば氷河を撃ってでも止めようと銃に手をかけていたカミュの隣で、サガが、カノンには殺人容疑もつけておく、と誰にともなく呟く。
まだ緊張の冷めやらぬその時、カノンがスーツの合わせ目へ手を入れた。
その、銃を抜く仕草に少年が激しく反応して、その肩がびくりと再びの緊張に跳ねる。
サガが叫んだ。
「やめろ、カノン!」
カノンはお構いなしに懐から手を抜く。
「……っ!」
少年の震える指先が引き金の上で曲げられた。
だめだ、違う、カノンを撃ってはいけない……!
ミロは反射的に地面を蹴っていた。瞬間、傷口から大量に血が噴き出したが、何歩も駆ける必要はなかった。
ほとんど倒れ込むようにして少年の身体を抱いた瞬間、どぅっとミロの腹に激しい衝撃があった。
「……っ………え………っ?」
何が起こったのか瞬時にはわからず茫然と立ち尽くす少年の手から零れた銃から硝煙が立ち上る。
ずるずると少年の腕に抱きかかえられるように崩れ落ちたミロが肩越しで振り返れば、サガとカミュに取り押さえられたカノンは悠々と懐から取り出した煙草を咥えようとしているところだった。
少年の腕に抱かれて真っ赤に霞むミロの視界はもう僅か。
「……嘘だ……ミロ……死んだら……いやだ……!」
焼けつくような激痛は一瞬、後は急速に意識が遠のいていく。もう目を開けていることもできない。
ミロの頬に温かい雫がいくつも零れてくる。
ああ……残念だ。
やっと本当の君に会えたのに、最後が泣き顔とは。
ミロ、と呼ぶ声は次第に遠くなり、そしてやがてはそれも途切れた。