お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
潜入捜査官ミロ妄想。ミロ氷ベースの氷河総受風味。
設定の性質上、反社会的行為に関する記述が多数表現しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。
◆潜入捜査官ミロ ⑤◆
消えかかって明滅する蛍光灯の、頼りない光源に目が慣れてきた。
大小さまざまなコンテナが乱雑に転がった倉庫。
どうせ所有はカノンの息がかかった脱税のためのトンネル会社だ。まともに営業などしていないのだろう。どこもかしこも埃だらけで、中二階へ続く階段は錆が浮いて朽ちかけている。
カノンは高級そうなスーツが汚れるのを気にする風でなく、コンテナの一つへ腰掛けて長い足を組み、煙草へ一本、火をつけた。
カノンを取り囲むように、幹部と呼ばれる位置にある男たちが立つ。
ソレント、イオ、バイアン、カーサ、クリシュナ、それにカミュに氷河……。残りの者は扉の外へと締め出された。
意図的に側近のみをここへ集めたのだ、とすぐにわかる面子だ。
ミロはさりげなく周囲を観察する。
カノンが何をどこまで気づいたのか。行動に起こすのはそれを確認してからでも遅くない。
自分のほかには7人。氷河まで含めると8人だ。一人で相手にするにはあまりに不利な状況だ。言い抜けできる可能性があるならそちらに賭ける方が吉だ。
扉の外、どこか遠くの方で銃声が飛び交っている。
もともと取引現場とされていた倉庫を囲むように敷かれていた配備は、今頃カノンの手下達によって攪乱させられているのだろう。
捜査本部は本丸へ切り込むような機能を失ったことだろう。あれではせいぜい鉄砲玉となった連中をごろごろ引っ張って終わりだ。きっとカノンにまで到達はできまい。
蜂の巣をつついたかのように混乱している彼らを後目にカノンは、別の場所で悠々と取引を終える算段に違いない。
カノンがふーっと長く紫煙を吐き出した。
氷河へ向かって、そばへ来い、と指先を軽く曲げて呼ぶ。
緊張を漲らせてカノンへ近づいた氷河の腰を背後から抱き抱えるように引き寄せて、カノンは氷河の顔を一人一人に向けた。
「なあ、氷河、ユダはこの中の誰だと思う……?」
自分たちが「容疑者」の一人なのかと、そこでミロ以外の者に初めて激震が走ったようだった。
てっきりカノンはユダの正体を知っていて、自分たちはそいつの制裁のために集められたのだと信じて疑っていなかったような、そんな動揺が淀んだ空気を震わせていた。
ミロも一応の驚きの表情を張り付けて見せる。
カノンは唇に氷河の柔らかな耳朶を含み、その感触を楽しんでいる。
「今夜、どういう取引があるか事前に知っていたのはここにいる人間だけだ。なのになぜあんなに見物客が来ている……?氷河、ユダはお前か?」
唇に含まれていた耳朶に鋭い痛みが走り、氷河は思わず、あぅっと短い叫び声をあげる。
おっと悪いな、と悪びれもせずに言ったカノンの唇には薄く赤いものが滲んでいた。
いたぶっているのか愛玩しているのかわからぬ動きでカノンは氷河の身体をなで回す。
挑発されているのは俺だ、とミロは思った。
カノンはきっと知っている。氷河をいたぶって、本物のユダが名乗りを上げるのを待っている。
それとも、ミロの後ろめたさがそう思わせているだけで、カノンはただ、追いつめられた「ユダ」がカノンを突然に撃つような暴挙に出ないよう、氷河を盾代わりに使っているだけなのだろうか。
「震えているぞ、氷河……」
カノンの唇が氷河の首筋に押し当てられる。白い肌はきつい吸い上げに赤く花を咲かせた。
「……れじゃ、ない……」
「聞こえないな」
シャツの裾を割って、カノンの指が直接氷河の肌をまさぐる。恐怖で粟立つ肌を確かめるように撫でて、それは胸の先端をピンとはじく。
「っ……俺じゃ、ないっ……」
もちろんお前じゃないさ、知っているとも、と言いたげにカノンが氷河の頬をピタピタと撫でる。
「だ、そうだ。聞いたか?となると、残るはお前達だ」
俺だって違う、と一様に否定する男達を、カノンは氷河をぴったりと抱いたまま見回した。
「困ったぞ、氷河。皆違うと言っている」
外の銃声はますます激しさを増している。
うるさくてかなわんな、と煩わしげに首を振って、カノンは言う。
「正直、俺はビジネスさえ順調ならユダが誰かなどどうだっていいんだ。今夜のところは、な。だがな、大事な客が来る日にこれだけ舐めた真似をされたんだ。死体の一つもなし、というわけにはいかないことはわかるだろう……?」
幼子に噛んで含めるような優しい口調ではあったが、男達は、緊張を漲らせたまま口を噤む。迂闊なことを言えば即命取りになる危うさがそこにはあった。
「さあ、誰だ……?名乗り出るなら死に方くらいは選ばせてやってもいい」
逆に言えばそれ以外の選択肢はない、というわけだ。
長い静寂にカノンはふーっとため息をついた。
「仕方ない。では、氷河に決めさせよう」
何を、とその場にいる全員が、カノンを(そして氷河を)見た。
カノンが氷河のブロンドを指で梳きながらさらに言う。
「どいつが薄汚いイヌなんだ、お前はイヌが好きだったから匂いでわかるだろう?」
撃たれた子犬を思い出したのか、氷河の頬が微かに引き攣った。
さあ、と氷河の身体を這ったカノンの手が、腰のホルスターから拳銃を抜き出し、氷河の手に握らせる。
「……知らない……」
「嘘はよくないな、氷河」
「……本当に知らないんだ……」
「そんなはずはない。よく思い出せ。知っているだろう、氷河?」
「俺は……何も……」
「強情だな。『先生』の腕の一本もなくならないと思いだせないか?」
「……ッ!」
茶番はいいからさっさと俺を撃て。
そう叫びたくなるほど、カノンの瞳は残酷に輝いていた。肉食獣が捕えた獲物の生きの良さを試すために戯れでもしているかのように、口元に笑みすら浮かべて、手元に抱いた氷河と、居並ぶ男たちの表情を観察している。
氷河の肩に手をおいて、カノンは低く囁いて唆す。
「深く考えずに好きに選べ、氷河。俺は正解を知らない。この際、お前が嫌いな人間を指しておくのも手だぞ。お前を手酷く扱った奴がいるだろう……?復讐のチャンスだ」
ほんの囁き声ではあったが、それは男達の耳にしっかり届き、そして戦慄させた。
誰でもいい、と……?
氷河の心象ひとつで裏切り者として処刑されるなどと、そんなバカな話が。
カノンが拳銃を握る氷河の手に己の手を重ねて構えさせ、居並ぶ男達に向かって、「Eeny, meeny, miny, moe……(=どいつにしようかな)」とふざけた調子で銃口を揺らす。
と、ミロの2つ隣でカーサが落ち着かなく身体を震わせ始めた。
後ろめたい奴がいるようだぞ、とカノンが低く笑って氷河に言う。
揺らぐ感情を映したかのような焦点の不確かな氷河の瞳がカーサの上を行ったり来たりする。
カノンに誘導されるように、持ち上がった氷河の腕は、のろのろとカーサへと銃口を向けた。
ひっと喉を鳴らして、いやっおれはただ、そんな、裏切りなどと滅相も、と、次々にカーサの口から弁明の声が漏れる。
リボルバーを握る氷河の手は細かく震え、息は乱れて肩が上下に揺れている。
「よし、そいつだな?……おっと、間違うな。頭はダメだ。心臓も外せ。一発で死んではつまらんだろう。なるべく長く苦しまなければ、俺の傷ついた心の帳尻が合わないだろう?」
そう言われて黙って立っていられる人間はいない。
あわわ、と情けない声を出して、カーサはその場へと腰を抜かして座り込んだ。
だが、氷河の震える手に握られていた銃口はその動きを追わなかった。
代わりにそれは、再び躊躇うように右に左に揺れ、最後は───ミロの前でピタリと止まった。
しん、と落ちた沈黙はカノンの口から漏れた感嘆の声で破られた。
「……ほう」
俯いた氷河の表情は長い前髪に隠れて見えない。
死の恐怖から解放されたカーサはここぞとばかりに、そうだ、そいつが怪しいと俺も思っていた、と喚き立てる。
ミロはといえば───奇妙なことだが、なぜか不思議に安堵していた。
まるで褒められた生き方をしていない彼らであったが、理不尽に命を奪われていいはずはない。そして、それを氷河に背負ってほしくもなかった。
撃つなら自分を撃てばいい。真実、自分は彼らにとっての裏切りのユダだ。チンピラなりの「正義」に則れば、正当性は(それを正当性と呼ぶならば)十分にあった。
「氷河、ミロなのか?」
カノンの問いに氷河はただ唇を引き結ぶ。肯定はしなかったが、否定もしないことが氷河の答えだ。
「なぜそう思う?お前はそいつにずいぶん世話になっていただろう?」
その問いにも氷河は答えない。
だが、きりりと一文字に結んでいた唇が、今度ははっきりと、この男はサツ(=警察)の人間です、と明瞭に音を発した。
カノンは片手で自分の顔を覆って、肩を震わせて笑い始めた。
「ミロよ、可愛がっていた『坊や』に売られた気分はどうだ?」
カノンが挑発し、期待しているほど、ミロの中には失望も恐怖も、何の感情も起こってはいなかった。
氷河がどこでミロがそうだと確信するに至ったのか、それとも確証はないが、それでもミロを陥れたい、と望んだのか、その真意は気になったが、組織に売られる覚悟でいろいろと逸脱したのはミロ自身だ。そして氷河はミロを拒絶した。いつかこうなるのは必然だったと言えた。
表情を変えないミロに、つまらなさげにカノンは鼻を鳴らした。
「言い訳も命乞いもなしか、ミロ」
カノンの声に僅かに苛立ちが混じる。
おや、とミロは気づいた。
言い訳をしてほしかったのか。
そうであることを証明することは簡単だが、一度疑われた者が身の潔白を証明することは意外に難しいものだ。
決して信じることのない言い訳でも聞かずにはおれないほど、案外とこの男が孤独を抱えているのは真実かもしれないな、と先ほどの横顔が脳裏をよぎる。そのことに同情できるほど余裕のある状況ではない。が、警察官らしい正義感ゆえに、この男にも血を分けた家族くらいはあっただろうに、いつから孤独を抱え込むようになったのか、という思いがミロの脳裏の片隅をよぎった。
一言の弁解なく、認めたも同然のミロの態度に、貴様ァ!といきり立つ男達をカノンは片手で制す。
「手を出すな。こいつは氷河にやらせる」
カノンにはこういう嗅覚がある。
単純に痛めつけられるより、氷河の手が血に濡れること、そのことの方がミロを苦しめることをよく知っているのだ。
強張る氷河の指先に、再びカノンの手が重ねられる。
「それでは撃てない」
ひどく優しげな声で手ほどきをして、カノンは氷河に銃杷を正しく握り直させる。そして去り際にカノンの親指がカチリと撃鉄を起こす。
「ミロ、言い残すことはないか」
「俺一人撃ったところで何も変わらないぞ、カノン」
捨て駒が去っても、また次の矢が放たれるだけだ。カノンは一生、孤独を抱えて、裏切り者の陰に怯えて生きることになる。
初めて対等に己を呼び捨てた男を、カノンは目を細めて見た。
「変わらないかどうかは、貴様が死んだ後でゆっくり確かめるさ」
カノンは氷河の腕を支えて狙いを定め、耳元で告げる。
「さあ薄汚いイヌは始末しろ、氷河。それができればお前も一人前だ」
氷河がのろのろと視線を上げる。
氷河の視線とミロの視線がこの日初めて絡み合った。
ミロ、と感情を押し殺して何度も名を呼んでいた、透明なブルーは変わらずそこにあった。
やはりそれは、ミロ、と苦しげに彼の名を呼んでいる。
やめろ、とも撃つな、ともミロは言わない。代わりに心の内で告げる。
後悔はない。君と出会えてよかった、氷河。
それはひどく優しい瞬きとなって氷河へと届く。
氷河の瞳が一瞬の躊躇いに揺らいだ。それは縋るものを探して、カミュの方へと泳ぐ。
カミュが叱咤するように首を振る。
それを受けて、スッと氷河の瞳の温度が下がった。
それはもう、ミロの名を呼んではいない。冷たく凍ったアイスブルーが、訣別のために一度だけ瞬く。
それを合図としたかのように、リボルバーを構えていた氷河の腕の内側の筋肉がく、と収縮した。
バン、と耳をつんざく破裂音が響いたのと、ミロが身体をねじるように低く後ろへ跳んだのは同時だった。
その動きを予想していたのか、カノンは、撃った反動で跳ねた氷河の手から即座に銃を奪って自ら引き金を引く。
間髪入れず、二度、三度と続く銃声に、ミロは、乱雑に積まれたコンテナの陰へと回り込みながら己の銃を抜いた。
コンテナを盾とし、カノンへ向けて銃口を向ける。
位置的にもタイミングも千載一遇のチャンス。
だが、カノンの腕は氷河を抱え込んだままだ。
「……くっ」
引き金にかけた指に力が込められないでいるミロの、その、銃を握った腕の肩に、突然に重い衝撃があった。ミロの身体が衝撃で後ろへ跳び、だらりと腕が落ちて銃が床へ落ちる。
「……ぐぅ……っ」
カミュの手に握りしめられた暗い銃口が火を噴いていた。
焼け付くような熱さが肩を中心に広がったが、すぐにミロは反対の手で、取り落とした銃を拾い、コンテナの間を駆ける。
薄暗い倉庫内でミロの姿を見失って、男達が怒声を上げながら闇雲に撃つ銃声に混じってカノンの哄笑が響く。
「どこまでもお前は甘い男だ、ミロ。なぜ俺を撃たない。あの距離だ。氷河もろとも撃てば終わっていたのに。己を売った『坊や』がそんなに可愛いか」
まったくだ、とミロはどくどくと鮮血の噴き出す傷口を押さえた。
焼き鏝を押し当てられたかのような熱さは今頃になって眩暈がするような激痛を連れてきた。
だが、幸い、弾は貫通しているようだ。
ミロを探す男達の声の位置を気にしながら、ミロはジャケットを脱いで袖を引き裂くと傷口をきつく縛った。
カノンの低い声が遠くから聞こえる。
「もうすぐ時間だ。俺は先に行く。利き腕をつぶしたんだ、手こずるような相手じゃない」
「は」
「カミュ、よくやった。お前は俺と一緒に来い。氷河もだ」
3つの足音が遠ざかっていく。
カノンは今夜取引を決行する気だ。この、混乱の最中で。まだこのヤマは終わっていない。
ミロ!と男達の威嚇する声が響いている。弱い犬ほどよく吠える。
だが相手は5人へと減った。最も威圧感を放つカノンはいない。
ミロは手の中の拳銃を静かに握った。
**
ぐ、と苦悶の声を響かせて男達は地に伏せていた。
取り落とした銃を探して床を這う男の手首を、ミロは、動くな、と踏みつけた。
他愛ない、とは言わない。幹部にまでのし上がった連中だ。それなりに腕は良かった。ミロのこめかみには汗が光り、簡単に止めただけの傷口からは血が噴き出し、シャツを真紅に染めている。
専門的な訓練を長く受けていただけ、ミロの方が僅かに巧みだった、というだけだ。
「……貴様、利き腕を封じられてなぜそこまで……っ」
ミロによって膝を撃ち抜かれた男が、悔しげに見上げる。
そもそも、その思いこみが彼らの油断だ。
ミロは左手に構えた拳銃を器用にくるくると回してみせた。
「悪いがこっちも利き腕だ」
「……っくそっ……そういうことか!」
ミロは回していた拳銃を、端で膝をついている男の眉間にピタリと狙いを定めて止めた。
「さあ、カノンはどこだ。本当の取引場所はどこにある。言え。知っているんだろう」
男の名はソレントだ。
少女のような柔和な顔つきで、チンピラ連中の中にあって物腰も柔らかだが、カミュが入るまでは彼が不動のナンバー2だった。頭は切れ、状況を読むのもうまい。その上、無駄な血は流さない主義だときている。話ができるとしたらこの男をおいてほかにない、とミロの直感が告げていた。
誰がお前などに言うと思うか、と、倒れている割に威勢良く吠えたのはイオだ。
そのイオをソレントが指先で制する。
ミロは銃口を定めたまま彼に語りかける。
「考えてもみろ。俺にこうまで体よくあしらわれたお前達をカノンが生かしておくと思うか」
おかないだろう、きっと。手負いのイヌ一匹始末できないとは、とバッサリと切り捨てられるのがオチだ。
「だったら俺にカノンを逮捕させた方がいいんじゃないのか。カノンをぶち込んでしまえば、お前達には手は出せまい。まあ、お前達も銃刀法違反で繋がれるだろうが……幸い俺には弾は当たっていない。傷害容疑がつかなければ不起訴も十分にあり得る。さあ答えろ、ここで降伏するか、それとも死を選ぶか」
何を勝手なことをべらべらと!といきりたつ男達の中でひとり、やはりソレントは静かにミロの言葉を咀嚼している。
やがて、いいでしょう、とソレントは頷く。
何を、と驚愕している男達にソレントは目をやる。
「別に命が惜しくて組織を裏切ろうとかいうわけではない。ただ……ここで吐こうが吐くまいが、私たちの持つ情報にはおそらくそれほどの意味などない。どうやら私たちは最初から蚊帳の外だったようだ」
どういうことだ、と今度はミロが怪訝に眉を顰める。
「第1突堤。△×運送第2倉庫。これがわたしの持っていた情報です」
なに、と声を上げたのはミロではなく、ソレントの隣へ並んでいたバイアンだ。
「……俺は第2突堤だと聞いていたが。××商船第5倉庫。……違うのか?お前達は?」
男たちは困惑した顔で互いを見返し、絶対に吐くものか、とそっぽを向いていたイオですら、俺が聞いていたのと違う、と動揺を隠そうともせずに口を開く。
ソレントは、肩を竦めてミロをみやる。
なるほど、そういう仕掛けか、とミロにも状況がつかめてきた。
カノンは、誰にも本当の取引場所を教えていない。
情報の漏えいが懸念されていたのならもっともなことだ。
だが、単に情報の漏えいを防ぐためだけなら、こうまで見事にバラバラな情報を伝えておく必要はない。全員に同じ偽情報を流せば済む。
単なる気まぐれか?
違う。あの男のすることには全てに意味がある。
これは罠だ。
内通者の存在をあぶり出すための。
全員にバラバラの場所を教えておけば、警官隊の配備がどこにあるのか、それさえ確認できれば、誰の情報が流れたのか一目瞭然だ。犯罪者というのは常に警察の目を避け、逃げ回るものだという、先入観を利用して攻めに転じた、これはカノンの仕掛けた、単純だが非常に有効な罠だった。
内通者を詳らかにするだけではなく、加えて、まさか反撃に遭うとは思っていない警官隊を撹乱し、指揮系統を乱すという離れ業を為してのけたのだ、カノンと言う男は。
だがしかし。
もやもやと厭な気分がミロに纏わりつく。
だとしたら、カノンは一同を前に誰がユダなのか問うた、あの時には既に何もかも承知だったことになる。
今夜、埠頭に警官隊を招き入れたのはミロだと知っていて、なぜあんなまだるっこしい真似を……?
コイツがユダだ、と最初からつるし上げなかった理由は何だ。
───氷河、か。
ミロではない。
試されていたのは氷河だ。
裏切り者を過たず見つけ出すことができるか。
その裏切り者を組織に売れるかどうか。そして、自らの手で躊躇いなく処刑できるかどうか。
カノンは(あるいはカミュは)「情報屋」としての氷河を重用していたのだろう。
その氷河が、今回に限って裏切り者の正体を見つけられないことに不審を感じていないはずはない。
カノン自ら罠を仕掛けるまで動きのない情報に、氷河を無能ととったか、裏切りに加担したととったか。
カノンは正解を持っていたのだ。
氷河が正解を指さなければ今頃はきっと……
いや。
カノンはそれほど甘い男だろうか。
ミロは結局こうして生きている。
結果が伴いはしなかったが、お前はよくやった、と簡単に不信感を拭い去るような男ではない。
───くそっ。
俺のせいだ。氷河が危ない。
待て、と怒声を上げる男達を置き去りにミロは倉庫をを飛び出した。
誰も追っては来れない。
ミロの頬にぬるく吹き付ける海風は不吉な匂いを孕んでいる気がして、臓腑を冷たい手で掴まれているような不快感がミロを包んだ。
**
カミュは隣を歩く男の横顔を盗み見た。
恐ろしく整った端正な顔は、上機嫌なようにも苛立ちを隠しているようにも見える。
時折吹きつける海風が灯台の明かりに仄かに光るプラチナブロンドを靡かせ、闇に一筋の光の帯を作っていた。
まだやってるな、とカノンは対岸へ視線をやりながら煙草を取り出した。彼に火を差し出してカミュも同じ方向へ視線を流す。
彼らが歩いている埠頭の対岸ではまだ、警官隊とカノンの手下達の銃撃戦が続いていた。
今夜、カミュの合流が遅れたのは、警官隊の位置を確認していたせいだった。
サツがどこに配備を敷いているか確認して俺に教えろ、というのがカノンがカミュに密かに出していた指示だった。
指示の意味はわからずとも、何か罠を仕掛けたのだな、とピンときた。
まるで見当違いの場所に配備を敷いている警官隊の群れを確認し、そしてカミュはそれをカノンに告げた。
たいした訓練を受けているわけではないチンピラ連中の、目くらましの奇襲に意外と警察が手こずっているのは、それがまったく予想外の出来事だったからだろう。
風はカノンに吹いていると言っていい。───今のところは。
短くなった煙草を海へ放ったカノンは、煩わしげに頬へ流れる髪を掻き上げる。
カミュ、とカノンが半身振り返った。
「お前にとって氷河は何だ」
ちらりとカミュは後方に視線をやった。
氷河は二人から十数メートルほど遅れて背を丸めて俯いて歩いている。会話が聞こえる距離ではないが、それでもカミュは低く声を落とす。
「何、と、言いますと」
「可愛がっているだろう、特別に」
「……特別ということはありません。ほかにアレを教育してやる者がないものですから」
「だが氷河の方はお前を先生と呼んで懐いている」
「懐いているわけでは。わたしが口うるさいので顔色を窺っているだけでしょう」
確かにお前は細かいことに煩そうだ、とカノンはからかうように笑った。
「それでも可愛いだろう?ちょっと見ない綺麗な顏だしな。今はまだ乳臭いところが抜けないが、あと数年もすればきっと極上の美貌に育つ」
「容貌で何かを判断したことはありません。舎弟は皆等しく同じ。氷河ひとりを特別に引き立てた覚えはありません」
「そうか。……それを聞いて安心した」
カノンの腕がカミュの肩を抱くように引き寄せ、耳元へ唇を寄せる。一見すると恋人同士の甘い仕草のようだが、カノンに突然に首元を押さえられたカミュの背は冷たく凍る。
カノンがほとんど吐息だけで低く囁いた。
「氷河を始末しろ、カミュ」
カミュの足が止まる。
なぜです、と、声にならぬ疑問が刹那カミュの表情に上ったのを、カノンの冷たい双眸が見咎めて射る。
「不都合でもあるのか?」
「……いえ」
しつこいほど「特別か」と聞いたのはカミュの退路を断つためだ。だが、特別だ、と答えていればいたで、また別の罠が待っていたに違いない。
「不都合はありません。ただ、なぜなのかと。氷河はミロを撃ちましたが。サツとは無関係です」
「撃ったのはお前だ、カミュ。氷河は仕損じた。わざとでないとどうして言える」
わざと外すくらいなら、最初からミロを指したりはしない。
あの至近距離で避けてみせた、ミロの驚異的な勘の良さと反射神経の良さの責めを氷河に負えと言うのか。
だが、疑心に苛まれた男にはどんな抗弁も通じないことをカミュは知っている。
カノンにとっては結果が全てなのだ。
息苦しく狭まる包囲網に絡め取られてカミュは、静かにひとつ息を吐くと、ふと、何かを思い出したように顏を上げた。
「……氷河を始末するとなると……デモはどうするのです」
デモ?と首を傾げて、カノンはすぐに、ああ、と笑いだした。
「お前まで信じていたのか!デモならもう映像を送ってある。ミロの奴がまともに仕事をしないもんだからくそつまらん映像だったがな」
カノンが「マニアックすぎるぞ」とミロを挑発していたアレか、とカミュは記憶を探った。
ただ享楽的に戯れているだけに見えたカノンの行動は、すべてはこの日のための布石だった。
「カミュ、お前らしくなく愚図愚図しているな。何か不満でもあるのか?」
笑っていたカノンの声に鋭さが増す。
ほんの僅かの異論も疑問も彼の前では許されないのだ。
誰一人信じることのできない男の生とはどんなものだろう、とカミュは目を閉じる。
せんせい、と己を信頼して、全てを預け切っているあの青い瞳。
この男は、あんな瞳を手に入れたことがないのだろう、きっと。
「……わかりました。やりましょう」
カミュはスーツの内側へ手を差し入れて、ホルスターから己の銃を取り出した。
銃把を握り、撃鉄を起こす。
その瞬間、カミュの傍へ立っていたカノンの指先が煙草を探す仕草で己のスーツの胸元へと動いた。
孤独を生きる男はカミュのことをも信頼していないのだろう。
カミュの銃口が氷河ではなく、カノンに向けられたなら、そこから抜き出すのは煙草ではなく彼愛用のコルト・パイソンだ。
カミュはそのことには気づかなかったふりをして、ゆっくりと振り返った。
距離を空けて後方で俯いていた氷河が、目的地を前に足を止めた二人の男を不審がって顏を上げる。
「……せんせい……?」
「終わりだ、氷河」
カミュの言葉と同時に氷河がハッと身体を強張らせた。
カミュの手に握られたリボルバーを視認して、氷河の手は咄嗟に己の腰のホルスターへと動く。
「遅い」
カミュは躊躇いなく引金を引いた。
ドッと重い反動が、カミュの腕をびりびりと震わせる。
せんせい、という短い叫びは、残響に一瞬遅れてカミュの耳に届いた。