お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
オメガバース設定の学園もの妄想。カノ氷に始まり、ミロ氷を通って、最後はカミュ氷。
特殊な設定のため、社会規範に反する記述も登場しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。完全なる異世界ファンタジーとしてお読みください。
性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。
◆トキメキ☆聖闘士学園~なんちゃってオメガバ~ ⑨◆
「あれっ」
日が暮れて、ネオン街に酔客がちらほら姿を現すようになった時刻、いつものように、バーへと出勤した氷河は、扉に貼られた紙を見て、驚きと戸惑いの声を上げた。
『マスター急病のため、しばらくの間お休みします』
急病って。
どこが悪いのだろうか。休むということはだいぶ悪いのだろうか。
貼り紙の文字はマスターの字ではない。どこか近隣の、おつきあいのある同業者に頼んで貼ってもらったのだろう。
唯一の従業員に連絡もできないほどとは……と、そこではたと気づいて、氷河は慌てて肩のデイパックを下ろしてファスナーを開いた。
駅のトイレでこっそり着替えた制服の奥にスマホが入っている。
校内にいる間は電源を切っていて、その上、電車に乗っている時もたいていは単語帳か何かを開いているからデイパックの底に放りっぱなしだったそれを、取り出してみれば。
「ああ……」
やってしまった。
日中にやまほど着信と、それからメッセージ。
そのほとんどがマスターからだ。
連絡できないほど重症なのではなく、連絡はしたにも関わらず、氷河がそれに応答しなかっただけだ。
学生の身、仕方のないこととはいえ、こういう時は非常に後ろめたいし申し訳ない。社会人ならすぐにでもかけつけて、病院につきそうくらいはしてあげられたかもしれないのに、と、嘘をついている自分が心苦しい。
どの程度の病気か知らないが、もし、今も病院にいるなら電話には出られないだろうと思い、着信には折り返さず、メッセージのアプリを開いてみる。
『寝てる? 何度も鳴らしてごめんなさいね。なんだかおなかが痛いなって思ったら盲腸ですって。これから手術みたい。10日くらいは動けそうにないから、お店、しばらく休ませてね。ちなみに、主治医、イケメンよお』
最後にはしっかりハートマークつき。
急病ではあるが、思いのほか元気そうでほっと胸をなでおろして、氷河は、ええと、と扉へ視線をやった。
月給ではなく、歩合制であるから、正直、10日近くアルバイト先がなくなってしまうのは痛い。
が、それは氷河側の事情でしかないが、店のことを考えると、突然の休みということは、冷蔵庫に入っているあの食材とか、あの食材とかが無駄になるわけで。
えーと、少し掃除して、食材とか片付けておくらいは、従業員として、しておいた方がいいだろうか。
万一の時のために、スペアキーは預かっている。
責任のとれない学生の身、恐らく使うことはないだろうと思い、気軽に預かったが、もしかしてこれは、その『万一の時』なのではなかろうか。
マスターが一緒にいるのならともかく、学生一人で夜の街に長居するのはあまり好ましくないことは理解している。氷河が大人なら、マスターの代わりに店を切り盛りして、くらいはさせてもらっただろうが、さすがに高校生がそれをやってはまずいだろう。氷河とてそのくらいはわかる。
でも、掃除と片付けだけだ。
30分もしないうちに終わる。
それくらいなら、高校生が代行していい許容範囲だ。緊急事態なんだから。
日頃お世話になっている人の一大事、何か役に立てればという責任感から、氷河はデイパックのポケットからスペアキーを取り出した。
*
明かりのついていない店内は、どこか少し不気味だ。
己が働いている時間は常にマスターがいて明かりがついているものだから、スイッチの在り処を探すのに氷河はずいぶん苦労した。
入り口の壁を手探りで伝って、ようやく明かりをつけ、店内を見回す。
掃除はたいてい閉店後にマスターが簡単に少し、それから開店前に氷河がもう一度しっかりとし直すというルーティンになっていて、つまり、今は、昨夜の閉店後の簡単な清掃しかできていない状態だ。
マスターは翌日も自分が出勤することに何の疑いも抱いていなかったのだろう。
飲食店として、この状態で10日閉めきりは多分、少しまずいよな?という程度に、食材の廃棄物などは簡単な処理しかされていない。
やっぱりだ、と頷いて、氷河は手際よくホールとカウンターの中を片付けていく。
ひととおり拭き掃除も終わり、あとは、生ごみを外へ出して、戸締りをするだけだ、という段になって、チリン、とドアベルが鳴った。
一人きりの作業に没頭していた氷河は、わ、と驚いて振り返る。
若い男が一人、扉を開いて立っていた。
三つ揃いのスーツを纏ってはいるが、長い銀髪をひとつに結わえていて、醸す空気が勤め人のそれではない。どこかの店、あるいは会社の経営者だろうか。見覚えはなく、常連客ではない。かといって、初めて訪れた店を品定めするような視線の配りもなく、目元を隠す長い前髪の奥の瞳は真っ直ぐに氷河を見つめていた。
まさかあの貼り紙を見て扉を開く客がいるとは思わず、鍵はかけなかったが、よくよく考えてみれば酔客ばかりの街だ。貼り紙などろくに見ずに「Bar」の看板だけで惰性で扉を開く客がいてもおかしくはなかった。
「すみません、本日はお休みで……あの、表に貼り紙が、」
いつもの黒ベストにスラックス、というバーテンダーの衣装を着ていない、普通にジーンズとトレーナーという格好の氷河は、さすがに成人男子には見えないだろう。
男の視線が、店内ではなく、氷河に真っ直ぐに注がれているということは、己がまだ未成年であることがバレたのかもしれない。私服の警官だったらどうしよう。学生を働かせている、なんて、マスターが逮捕でもされたらすごく困る。
後ろ暗いことのある身、男を一刻も早く追い払いたくて、接客業にあるまじき非礼さで、表の貼り紙が読めなかったのか、という非難を滲ませた声でそう言えば、男は、意に介した風もなく、ふふ、と笑った。
「知っていますよ。文字は読めますから」
ぞわりとしたのは、過去に遭遇してきた同様の厭な笑い方に対する本能だ。
背を悪寒が駆け上がるや否や、氷河は、裏口のドアノブに飛びついた。
単なる間違い客、という可能性も大いにあったが、直感的に退路を確保せずにはいられなかったのである。
が、裏口の扉を開けようとしたとき、それが強い力で押し戻されて、氷河は、裏口から侵入してきた別の男に肩を掴まれて店内へと戻された。
「傷つきますねえ、何もしていないのにいきなり逃げ出されるとは」
入り口にいた男はそう言って、後ろ手に、入って来た扉を閉めた。カチリ、と鳴った金属音は内鍵の音か。
裏口は、今しがた入って来た破落戸風の男がそのまま仁王立ちに立ちふさがっている。
強盗、だろうか。
あんなに堂々と「不在です」「しばらく無人です」と店の前に宣伝していたなら、売上金とか高級な酒を狙ってそうした輩を引きつけてしまったとしても無理はない。
どうする、昨日までの売上金はまだ金庫の中だ、と、やや緊張した面持ちで、ちらとそちらに視線をやると、男は再び、あの厭な乾いた笑いを発した。
「まさか、わたしのことをケチな強盗とでも?こんな小さな店の売り上げなどたかだか知れているでしょうに」
銀髪の男は、二重に傷つきましたよ、と、言いながら氷河にゆっくりと近づいてきた。
「……っ、何が目的だ」
氷河はまだしまう前だった箒を拾って柄を握り、男に、近づくな、と威嚇した。
男は鷹揚にピタリとその場にとどまり、両手をホールドアップさせて、ふふ、と唇の端を上げた。
「あなた、オメガでしょう」
くそっ、薄々そうじゃないかと思っていたが、やっぱりそっちか、と氷河は唸った。金を出さなきゃ殺すぞ、と脅された方がずっとずっとマシだった。
「……なんのことだ」
「隠しても無駄です。抑制剤を飲んでいても、ある種のアルファには嗅ぎ分けられる。わたしのような特別に選ばれたアルファには、ね」
あなた、わたしを誘う甘い匂いをずっとさせていた、と男が笑う。
お前など誰が誘うか、と氷河が吐き捨てれば、威勢のいい獲物は好きですよ、屈服させる瞬間がとてもぞくぞくする、と、男の長い前髪の下の瞳が弧を描いた。
男が氷河にじわりと近づく。
「ヒート中のオメガとのセックスはドラッグセックスなど目ではないほどの快感だそうですよ。ふふ、楽しみですねえ」
「は!残念だな、俺にヒートは来ない」
己をオメガと認めたも同然の台詞だが、すっかり握られてしまった主導権を取り戻さんと氷河も必死だ。強気でいなければ、男の奇妙な余裕に呑まれて、逃げ出す気力も奪われてしまう。
「抑制剤を飲んでいるから、ですか?あれ、効果、どのくらい続くんでしょうねえ。あなたが飲んでいるタイプは6時間おき?それとも12時間?飲み忘れるとすぐに効果切れてしまうんです?」
興味深いですね、わたし、まだ、ヒートが起こる瞬間というものに立ち会ったことがなくて。
そう言いながら男はカウンターのスツールに座った。破落戸風の男は彼の忠実な番犬のようにまだじっと裏口の前へ立ちふさがっている。
「かわいいバーテンさん、ビトウィーン・ザ・シーツを所望しても?……長い夜になりそうですから」
氷河は愕然とした。
抑制剤の効果が切れて、氷河が氷河ではなくなるまで、この場に監禁するつもりだ、この男たちは。
「ああ、明かりは消しておきましょうねえ。あなたの『王子様』が不審に思ってはやっかいですから」
せっかく見つけたオメガだというのに、なかなか隙がなくて困りましたよ、ほんとに、そう言って笑う男の瞳は、ようやく手に入れた獲物をいたぶる愉悦をぎらぎらと輝かせていた。
**
教室の扉を開いてまっさきに氷河の机が目に入ったのは、それが特別な存在だったせいではない。
そこが空席になっていたからにほかならない。
教師として、遅刻者、欠席者をまず確認するのが慣習となっているからだ。
一人いないな、ということにまず気づき、それから一瞬だけ遅れて、それが氷河だ、ということに気づいて、ミロは眉根を寄せた。
欠席連絡も遅刻連絡も受けていない。
だが、それが、即、心配しなければならない事態なのかそうではないかはすぐには判断は難しい。
彼には、普通ならその連絡を寄越してしかるべき保護者がいないせいだ。
誰も起こしてくれるもののない身、寝坊しているだけ、とも考えられるし、具合を悪くしたかなにかで連絡も寄越せないトラブルが起きた、とも考えられる。
(さぼっている、という心配は彼に限ってはないだろう)
昨夜は深夜のアルバイトはなかったはずで、寝坊という可能性は少なそうなのだが。
昨日の昼間、バーのマスターからミロのスマホにあててメッセージが届いていた。
しばらく店を閉める、連絡先のわかる客には知らせている、という内容のメッセージは、客に無駄足をなるべく踏ませないように、という配慮だろう。
当然ながら氷河にも同じ内容のメッセージは届いているはずで、ならば、しばらく氷河はあの街には近づかなくてよいのだな、と安堵したものだ。
酔客に、破落戸、女衒に詐欺師。夜の街は氷河のような人間がうろつくには危険すぎる。教師としては看過し難いところだが、彼が遊ぶ金欲しさにそんなことをしているのではないことは明白で、校則違反を単純に罰してしまうにはあまりに忍びなかった。
教師としての責任感だけならもっとほかに関わりようはあったはずだが、そうはしなかったのは、要は、惹かれていたのだろう。学校という狭い箱の中では興味を引かれることもなかった生徒のひとりと、全く予想外の場所で予想外の状況で出会った時点で。
久しぶりにゆっくり家で課題の時間が取れ、調子が狂って却って寝坊、はあの天然坊やにはありそうなことだ、と、出席簿を閉じながらくすりと笑ったミロは、だがすぐに笑みを消した。
確かに寝坊はありそうなことだが、それなら、マスターからのメッセージを気づかずに無人の店へ間違って出勤、というのはもっとありそうなことに思えたからだ。
一度、そうかもしれない、と思い始めると、それはほとんど確信めいてミロの鼓動を速めさせる。
無人の店へ出勤、だけなら笑い話だがそのまま学校へも来ていないとなると。
──なにかあったな、これは。
ざわざわと胸に厭なものが渦巻き、職員室へ向かう足が自然と早くなる。
「ああ、ミロ、三時間目のことだが……」
職員室の扉を開くなり話しかけてきた同僚の顔も見ずに「悪いが俺の授業、お前が代わりに頼む!」と告げて、ミロは己の机から、時折、通勤に使っているバイクの鍵を急いで取り出した。
「え、ええ……?……俺の専攻は家庭科だが……」という戸惑いの声に、「大丈夫、お前ならやれる」と背で答え、ミロは、職員室を飛び出した。
**
昼間の歓楽街は夜とは全く趣が異なる。
路地にはサラリーマンが多く行き交い、夜はピカピカと派手に存在を主張している電球も、明るい陽の光の下ではただのくすんだガラス玉だ。
人の往来に邪魔にならない路肩へと跨って来た愛車を停め、息せき切ってミロはバーの扉の前へと駆け寄った。
休業を知らせる貼り紙がしてあって、明かりは消え、扉はしっかりと閉まっている。
ノックをして、「氷河?いるのか?」と声をかけてみたが反応はない。
なんだ、俺の思い過ごしだったか……とミロは扉に手をついて息を吐いた。
「坊やのこととなると、どうも判断が狂うな……」
俺らしくもない、とミロは自嘲的に笑った。
氷河とて、遊びたい盛りの高校生。たまには授業をさぼってみたくなったのかもしれないし、アルバイトのない夜に羽目を外して夜更かしをして寝坊したのかもしれない。
だというのに、大事な授業を放り出して、いるかどうかもわからぬ、こんなところまで彼のために駆けつけてしまうとは。
教師として許容できる範囲を逸脱しかかっている自覚は少なからずあったが、これほどとは思わなかった、と、感情的に行動してしまった己を顧みながら大きなため息をついたときだ。
うう、という微かなうめき声が聞こえたような、気がした。
「……氷河か?」
ハッとして、慌ててもう一度、扉を叩いてみてもやはり内側からは静寂が返るだけだ。
だが、再び、ざわざわと大きくなった厭な予感を、今度は気のせい、と流してしまうことはできなかった。
ミロは隣のビルとの狭い路地を回り込んで裏口へと向かう。
いつものミロの定位置も、今は表の入り口同様にしっかりと閉じている。
だが、その、扉の前に。
──吸い殻……?
煙草の吸い殻が2本。
まだ真新しい。
バーの従業員しか用がないような、どこにも通じていない細い路地だ。
誰かがここで、中から人が出てくるのを待った、か、あるいは、入るタイミングをはかっていた。その痕跡に見える。
顔を跳ね上げ、ミロは裏口のドアノブを強く引いた。ガチッとラッチが引っかかる音がするだけで、やはり閉まっている。
が、もはや、氷河はこの中にいる、それも第三者と一緒にだ、ということは確信に変わっていて、ミロは、おい!ここを開けろ!とドンドンと扉を叩いた。
しばらく叩き、反応のないことに焦れ、ミロは大急ぎでバイクまで取って返し、シート下の工具入れからメンテナンス用に入れていたドライバーを取り出して裏口へと戻る。
毎日のように氷河をそこで待つ間、見るともなしに見た扉。
古いビルとはいえ、今どき時代錯誤な簡易な円筒錠を使っている扉は不用心に過ぎると気になっていたが、その不用心さが今は幸いした。
ドライバーを隙間に差し込んで、二度、三度とラッチを押し込んでみると、いともたやすく、扉は、ガチャリと音を立てて開いた。
「氷河!」
昼でもなお薄暗い室内に足を踏み入れた瞬間、ミロの足はぐにゃりと何か柔らかいものを踏みつけた。
「……っ」
危うくバランスを崩しかけたのを、咄嗟に掴んだドア枠で支え、ミロは慌てて足元を見下ろす。
……男……?
ミロが踏みつけて、うう、と呻いたあたり死んではいないようだが、やくざ者の風体をした男が一人、ビールケースの傍でぐったりと伸びていた。
男が倒れた拍子か、それともそれで殴られたのか、ビール瓶が無数に割れて、濃い酒精の香りを撒き散らしている。
「氷河……?いるか?」
尋常ではない状況に予感が的中したことによる冷たい汗を流しながら、ミロは奥へ進む。
が、数歩進んで、ミロは声を失った。
スツールは倒れ、酒瓶は割れ、机もあちこちに散らばっている。床に落ちた柄の折れた箒には血までついていて。どう考えても中で大乱闘があったことは間違いなしだ。
想像していたより酷い状況だ。これで氷河が無事だとは考えにくい。
「氷河!いるなら返事をしてくれ!」
明るい陽の下から急に薄暗いところへ飛び込んだがために、視界がうまく働かない。
冷静になって電灯のスイッチを探せばよいものを、氷河の姿がない焦りでそのことにも思い至らずに、ミロは倒れた椅子やテーブルをひとつひとつ起こしながら姿を探す。
氷河、と、何度目かに呼んだとき、ミロ、と聞きなれた声で反応があったときには、安堵で膝から崩れ落ちそうだった。
声のする方を振り向いたとき、氷河の声が、「だめだ」と鋭くミロを制止した。
「氷河?」
「来ないでください、俺……」
「無事なのか?怪我は?」
俺は大丈夫だから、今は近づかないで、という少年の声が涙で揺れている。わかった、と退ける状況では到底ない。
声を頼りに少しずつ距離を詰めるうちに、暗さに瞳も慣れてきた。
折り重なったテーブルの下。
まるまるように膝を抱えて小さくなっているのは紛れもなく氷河の姿だ。
硝子で切ったせいか、それとも殴られたか、少し腫れた顔は血だらけで、その、赤いものがこびりついた顔を、ふるふると振って、ミロ、いやだ、来ないで、と泣いている。よく見れば、彼の手首は、手錠で重いテーブルの脚と繋がれて身動きがとれなくされているのだった。
「酷いことを……何があった。あそこで転がっている男が君にこんなひどいことを?」
涙と血に濡れた彼の顔が横に振られる。
「もう一人いる……俺……俺、死ぬ気で抵抗して……わからない、殺してしまったかもしれない……」
怯えた様子で身を縮ませているのは、害される恐怖ではなく、必要以上に害してしまったかもしれないという罪の意識からか。
少年の華奢な手首を鋼鉄で縛り付けるような輩だ、死んでいたとしても自業自得だ、という思いしかなかったが、ミロはあたりを見回して、その姿を探す。
ほどなくして椅子の下敷きになってのびている銀髪の男が見つかった。
ずるずると無造作にひっぱり、氷河に「気絶しているだけみたいだ。2人だけか?どっちも君がのしてしまった?」と問うと、氷河はこくこくと頷いた。
ははっ、よくやった、とほめてやると、氷河は初めて少し引きつった笑いを浮かべた。
「俺……あの、慣れているから……あいつら完全に油断してたし」
少年がなぜ慣れているか、何に慣れているかを考えると暗澹たる気持ちになる。
金目当てなら、問答無用で殺すか(そうではなかったことに今は感謝せねばならないが)、脅すだけで済む。
拘束してまで氷河に拘ったのは、氷河そのものに下衆な目的があったことは明白だ。
そんな目に遭い続けて、自ら身を護る術を身につけざるを得なかった彼の苦境を思えば、胸がぐっと締め付けられる。
「少し待っていられるか?」
ミロが問うと氷河は頷いた。
ミロは、男二人を無造作に引きずって路地へと出る。ゴン、ガン、とあちこちの角や段差に身体がぶつかっても気にしてやりなどしなかった。
すっかりのびてしまった二人をずるずると、店から離れた通りの端まで引っ張って行って電話を取り出し、救急車を呼ぶ。
ケガの手当てをしなければなどという親切心からではなく、彼らをここから物理的に遠ざけるために、だ。
酔っ払い同士の喧嘩みたいです、2人倒れています、と匿名で通報だけして、ミロはのびた男たちを見下ろした。
見慣れない顔だ。バーの客ではない。
だが、狙いすましたかのようなマスター不在での襲撃は、常に氷河を見張っていてチャンスをうかがっていたということなのだろう。
なんと卑怯な、とふつふつと怒りが湧いてくると同時に、オメガの存在はどんな人間もおかしくさせるのだ、ということを頭では理解していたに関わらず、彼を無防備にさせた瞬間があったことが悔やまれる。氷河が相当に暴れまわったらしい痣が男たちのあちこちにできていることだけが小気味がよかったが、ほんの少し留飲を下げたところで重くなった気分は晴れなかった。
意識でも戻れば俺がとどめを刺してやるのだが(無抵抗の人間を痛めつけるのは、例え相手が同情の余地のない悪人でも憚られる程度にはミロは真っ当な人間である)、と思ううちに救急車のサイレンが近づいてきて、ミロはそっとその場を離れるのだった。
再びバーへと取って返し、ミロは裏口の扉を開いた。
薄暗い店内に再び戸惑い、ミロは、明かりのスイッチを探して、壁へと手のひらをやった。
「点けないで……」
気配で、ミロが明かりを点けようとしたことに気づいたのだろう、そう制止する氷河の声が酷く揺れている。
「だが、氷河、君も手当てをしなければ」
俺なら平気だから、と抵抗するのを、そういうわけにはいかん、と言って、ただ彼の求めどおり明かりをつけることはせずにミロは氷河へと近づいた。
それ以上来ないでください、と、首を振っている彼の、その抵抗の理由はわかっている。
初めて裏口を開いた瞬間から、オメガのフェロモンが濃く漂っていることには気づいていた。
当てられてくらくらとしてしまうほどには、ミロはしっかりとアルファの雄だ。
大事な生徒を傷つけられた、という怒りが、どうにかミロにまだ理性を保たせていただけで。
「抑制剤はあるか?……今からでも効くといいが」
ミロのその問いで、氷河は、己が発情していることを悟られたと知ったのだろう。羞恥に耳を赤くしながら俯いて、力なく首を振った。
「あいつに取られて……トイレに流された」
「……なんと下衆な」
「でも、俺、間抜けな面でトイレのレバーひねってる奴の急所蹴り上げてやったから」
「はは、そいつはいい」
少し緩く解けた空気に乗じて、ミロはそろりと氷河との距離を詰める。
近づくほどに理性が揺らがされる音がする。
初めて浴びる抑制剤抜きのオメガのフェロモンは強烈だった。
教師であることも、彼が今、酷く傷ついていることも何もかもどこか遠くへ行ってしまって、己の中の獣性が力を増していくことにミロは驚いた。
アルファによるオメガへの暴虐は、法には問われない。オメガとて同じ人間であるのに、その人格を無視した非道い法もあったものだと、これまでミロはそのことを批判的に捉えていたのだが、なるほど、このフェロモンは、理性で制御できるものでは全くないのだ。政治家だろうと聖職者であろうと、虫も殺さぬ善人であろうと、ただの獣に変えてしまう。獣に対して適用される法はない。だから、アルファがオメガに何をしようと罰せられることはないし、社会はそのことに寛容だ。
(発情期のオメガに対しては、だ。抑制剤を服用しているオメガに無理を強いれば当然それはアルファであろうと犯罪にあたる)
「……ミロ、それ以上来ないで……」
はあ、はあ、と苦しそうな、だが、やけに艶めかしい息を吐いている氷河は血で濡れた額に汗を浮かべて首を振っている。
「大丈夫、手錠を外してやるだけだ。そのままというわけにもいかないだろう」
「でも、俺、今、」
「わかっている。俺も苦しい。早く外させてくれないと俺がもたない」
正直にそう告白すると、氷河はハッとしたような顔をし、それから苦し気に唇を噛んだ。
でも、このまま繋がれていないと、俺、あなたを誘ってしまう、いけないことなのに、と、涙とともに零されたその言葉にはもう、甘い、男を誘う毒が潜んでいた。
ぐ、とミロは奥歯を噛みしめる。
理性と本能の葛藤は酷く苦しいものだった。
時間が経つにつれてどんどんと増すオメガのフェロモンが、ミロを、ただの雄へと変えてしまうことがこんなにも辛い。
ごめんなさい、と、泣いている氷河の涙すらも、今や欲を煽る。
ミロは、奥歯を噛みしめたまま、彼に近づいて、先ほど男のポケットから取っておいた鍵を使って手錠を解いた。
長時間繋がれていたのだろう。手首の周りが真っ赤に腫れて痛々しい。
「……大丈夫か」
そう言って、手首に触れる、たったそれだけで氷河は、あっと感に堪えない艶めいた声を漏らして赤くなり、ぶわ、と、またフェロモンの濃度を上げた。
ミロ……と、見上げられる、欲情で潤んだ瞳に、いったいどれだけの人間が抵抗できるだろう。
世間的には、支配する階級はアルファで、オメガはいつだって搾取される側だ。法だってアルファを守るものばかり。希少なオメガを得るために為した行為は、それがどれだけ倫理的に問題があったところで合法だ。
法だけではない。生物学的にも、アルファが優位な性だとされている。つがいになるという意思決定ができるのはアルファだけだからだ。無理にオメガのうなじを噛むことはできても、オメガはアルファに無理にうなじを噛ませることはできない。
その上、つがい関係を解消できるのもアルファ側からのみ、と来ている。
だから、オメガとは、アルファに隷属して存在する性属性なのだと誰しもが思い、単体では人間として完成していないとして、人並の扱いもしてもらえないことも多いのだが……これは。
実際に経験してわかる。
隷属しているのはアルファの方だ。
氷河の声にはまったく抗いがたい、アルファを従属させるだけの強い毒が含まれている。
「…………おいで、せめて血を拭おう」
氷河が血塗れでなければ、とうに誘いに負けていた。どうにか、彼を心配する気持ちの方が勝って、立てるか、と彼の腕を取ってやれば、恥ずかしそうに身を捩る身体は、ミロが少し触れるたびにびくびくと戦慄いた。
骨が折れているわけではなさそうだが、氷河の身体は全く頼りなく芯を失って、すぐにぐにゃぐにゃと崩れてしまう。数歩で歩かせることは諦めて、その身体を抱き上げれば、ミロを絡めとるかのように氷河の香りが濃くなって、ぞわ、と背に甘い熱が駆け抜けた。ずくずくと下半身が疼いて、急速に血が巡る。
くそ、と、その熱を振り切って、倒れた椅子やテーブルの間に散乱する割れた酒瓶をまたいで、唯一ガラス瓶の欠片のないカウンターテーブルへと彼を腰かけさせる。
ミロよりほんの少し視線の高くなった氷河は、汗と涙と血で濡れた顔で、また、ごめんなさい、と言って身体を震わせた。
「君が謝る必要はない。……酷く殴られたな」
綺麗な顔がかわいそうに血塗れだ。手のひらで、乾いてこびりつく血を拭ってやれば、倍は殴り返したから大丈夫、と返って来た。
「はは、頼もしいな。君が強くて幸いだった。……だが、もっと早く気づいてやるべきだった。遅くなって悪かった」
ミロがそう言うと、氷河は、首を振った。
「ミロのせいじゃないから。こんなの、誰にも見られたくない……でも……うん……あなたなら……いや、違う、俺……俺、ずっと、ミロが来てくれないかなって待ってた……来てくれたの、あなたでよかった……」
俺、あなたのことすきなんだ。
掠れた声のその告白は望んでいなかったかと言えば嘘になる。
だが、それは、もっとずっと遠い先の未来、互いに理性が働いている明るい陽の光の下で、だ。
こんな、酒と血の臭いのする、既に淫蕩な空気に支配されかかった薄暗い部屋で、心が言わせたのか、昂る淫熱が言わせたのか判別のつかない状況でのことでは断じてなかった。
淡く色づきかけていたはずの曖昧な関係が、酷く乱暴に獣欲に穢されて塗り替えられていくのが忌々しくて仕方がないくせに、ミロは腕へ抱いた少年の身体がもう離せない。
「ミロ、俺、あなたがほしい……」
潤んで見下ろす青い瞳が、耐え難く雄の欲を煽り、もうすべてが限界だった。
ミロは汗で濡れた氷河の後ろ髪を引き寄せた。
それを待っていたかのように、氷河の両腕がミロの首へと回されて、唇が重なる。
禁忌に躊躇いが残っていたのは触れた瞬間だけ、血の味が残る薄い唇が開かれて、ミロ、と蕩けた声が零れるに至っては、制御できなくなった熱に浮かされるように、濡れた口腔を貪る。
「……っ、……、ん」
ミロが舌を吸い、上あごを舐めるたびに、氷河の身体が戦慄いて、背へ回された腕の輪がミロの体躯を引き寄せるように縮まる。
苦しそうに喉を鳴らすのに、離してやろうとすれば必死にすがりついてくる様がひどくいじらしく、いとおしかった。
ようやく離れたときには、互いに肩で息をしていたが、氷河はまたすぐにミロの腕を掴んで、唇を強請った。
「俺、こんな、こんなになる前から、ミロとこうしたかった、から」
ほんとなんだ、うそじゃない。
触れた唇のあわいでそう必死に訴えるのは、オメガという性属性とまだうまく折り合いがつけきれていない彼なりの抵抗なのだろう。
互いの意志と違うところで強制的にもたらされることになった交わりを、どうにか、普通の、愛情確認のそれに持ち込まんとしているのが痛いほど伝わってひどく切ない。
わかっている、俺もだ、と言ってやりたいが、だが、それはできない。
まだ、だった。
全く、まだ、こんな形で彼に触れるつもりでいたわけではなかった。
苦い嘘も、彼のためになるならばついてみせただろうが、ヒートが終わった後のことを考えれば、ついてはならない嘘だった。
彼を傷つけまいとする心はまだありながら、だが、それとは裏腹に、激しく込み上げる雄の本能が問答無用で断続的にミロを苛む。
もはや、それに抗うことは到底できないと腹は括っていたが、せめて、乱暴な扱いで彼を二重に傷つけてしまうことは避けたかった。それほど、烈しい征服欲が、ミロの中には渦巻いていた。
ミロ、ミロ、と何度も己を呼ぶ唇に応えてやりながら、彼の衣服を剥ぎ取る。
きつく彼の下半身を包み込むジーンズが下げられないことに若干のもどかしさを感じていれば、ミロの愛撫に甘い声を上げて身を捩っていた氷河が、荒い息を吐きながら、ミロの手に己の手を重ねて、自分で脱ぐから、と言った。
「……ひとまわり小さいサイズ、穿くようにしてる……あいつらも脱がせられなくて……だから苛立ってたくさん俺を殴った」
なるほど、自分の意志以外で事に及ばれないように、氷河なりの自衛なのだろう。
問題は、ヒートが起こると、その自分の意志が危うくなる、ということだが。
ミロが、「いい心がけだ」と氷河の頭を撫でてやれば、自分でも脱ぐのに難儀しながら、氷河は、ふあ、と気持ちよさげな声を出した。
「それ、きもちい…」
「撫でられるのが?」
「わからない……声かな……あなたの声、おれ、好きみたいだ……ずっと聞いていたい…」
淫熱に浮かされていなくとも、こんなことを言われては堪ったものではない。氷河はあまり自分の感情を素直に言葉にする方ではないが、箍が緩んでいるのか、日頃の彼なら恥ずかしがって絶対に言わないであろう言葉が次々に零れて、どうにも堪らない。
あんまりかわいいことを言ってこれ以上俺をダメにしないでくれ、と、彼の耳朶を戒めるように噛めば、途端に氷河は、あーっと背をしならせて身体を震わせ、ぐらりとミロへと倒れ込んだ。
弛緩して荒い息と濃くなる牡の香りに、彼が吐精したのであろうことが知れる。既にもう何度か達していたのか、羞恥などどこかへやってしまって諦めた様子の氷河が、ミロ、挿れられないでいくのすごくつらい、もう限界、と切なげな吐息ですがった。
限界などこちらはとうに超えている。やさしく、時間をかければかけるほど、彼を苦しめているのだと知ればもう、ミロを留めるものはない。
膝まで下ろしただけで、それ以上進む気配のなくなったサイズの合わないジーンズを、氷河がのろのろ足から抜くのが待てず、ミロは彼をそのまま立たせて後ろを向かせ、カウンターに上体を預けさせた。
引き締まった双丘をやや乱暴に掴むと、甘い声が期待に打ち震えて、みろ、と誘う。
双丘の奥、普段は密やかに閉じているに違いない秘所は、ミロの常になく昂った熱い切っ先が触れるや否や、ぐち、と濡れた音をさせた。
彼の身体を傷つける心配がないことを確信して、ミロは、ぐ、と一気に氷河を貫く。
「ア、ア、ああーっ」
愉悦極まった高い声を上げて、氷河は汗で濡れた髪を振り乱し、その身体は小刻みに痙攣する。
ミロ同様にぱんぱんに張りつめていた氷河の雄から、びゅる、と白濁が零れだし、挿れただけで極まってしまったことが知れる。
力の抜けた氷河の身体がカウンターに崩れたが、ミロは構わず彼を突き上げた。
「あ、ん、ふぁ、ア、いい、……ああ、っ、すご…い、これ、んあ、」
氷河の中は、じゅくじゅくに熟れた果肉のように、ミロを飲み込んで、それでいて、もっと、と強請るように締め付ける。
突き上げるたびに、ぐちゅ、と、太腿を甘露が伝いおりて、氷河のジーンズが濡れてゆく。
氷河は嬌声を通り越してもはや嗚咽をもらしている。射精もなしに激しく極まっては震え、時折意識すら失って、みろ、みろ、と甘えた声で泣いてすがる。
あまりの官能の強さにミロの鼻梁にも流れる汗が伝って落ちる。
愉悦も極まればまるで拷問だ。
なぜこれほどまでに強い性衝動と官能を備えて生み出したのか、一度、神に問いただしてみたい。「あ、んあ、いく、またいく、だめ、へんになる、ア、やあ。ああーっ……」
ミロの、太く張った傘の部分が濡れた肉を嬲るたびに、いや、いや、と甘い声で髪を振り乱し、それでいて腰を引けば、ぬかないで、と懇願し、氷河の身体は弛緩と痙攣を繰り返す。
ミロの中からはもうすっかりと分別は消え、彼が極まっていようといまいとお構いなしに、少年の細腰を掴んで、氷河の爪先が空に浮くほど、深く突き上げる。もはや意味を成す言葉は何も紡げないほど、ただ、交わりあった。
今、何時かな、と、ミロの胸に抱かれていた氷河がポツリと言葉を漏らした。
起きたのか、とミロは彼の髪を撫で、少し冷えた彼の腕を手のひらで擦ってやった。
立ったまま何度交わっても、驚くべきことに限界というものは全く訪れなかった。極まった次の瞬間には飢餓感に苛まれて、貪欲に相手を求めてしまう。
何度目かの吐精の末、くらくらと回り始めた視界に、脱水症状を起こしかけているのだ、ということに気づいて、ようやくミロは、少し休もう、と氷河を手放したのだ。ミロの体格でそうなら、一回り小柄な氷河はもうとっくにそうしていなければならないはずだった。
まだ氷河の瞳は淫蕩に溶け切って、生命維持に必要な寝食よりも性衝動が優先されるオメガ性のヒートそのものの様子を見せてはいたが、身体は限界だったのだろう。
ガラス片が散らばっていた床を少しばかり片付けて、互いの衣服を広げた上へ横たわり、燻る淫熱に蓋をして、少しの間、抱いていてやれば、つらい、まだおさまらない、ミロがもっとほしい、と零していた泣き言は、やがて、寝息へと変わったのだった。
「動けそうか?」
ミロの問いに氷河はしばらく考え、小さく頷いた。
「動けるけど……」
「もう少しこうしていたい?」
くすりと笑えば、氷河は赤くなって、だが、否定はせずに、わかっているくせに、とミロの胸へ顔を押し当てた。
その姿にはいとおしさが込み上げて、ミロは腕の輪を縮めて彼を抱きしめる。
「わかっているさ。俺も同じだが、動けるうちに一旦撤収しよう。君も俺もひどいなりだ」
このままぐずぐずと抱き合っていればまたすぐに次の嵐が込み上げて、彼が立ち上がれなくなるまで犯してしまいたくなることはわかっている。氷河の中からもミロの中からも、まだ、あの、理性を奪う発情の嵐は去っていない。
「でも、ここ、」
ゆるゆると身を起こして、氷河が戸惑いの声を上げた。
惨状をそのまま去るのは気がひけたのだろう。
「落ち着いて片付けにくればいい。どうせまだマスターは戻ってこられない。……それに、早く抑制剤を飲んだ方がいい」
さらりと告げたミロのその言葉に、氷河ははっきりと傷ついた顔をした。
そうなるとわかっていて言わなくてはならなかった自分の分別が厭わしい。
「バカだな。勘違いはするな。君の身体のためだ。俺の理性が少しでも働いているうちにそうしていないと、俺はきっと君を壊してしまう」
ミロになら壊されてもいいよ、と俯く金色の頭をコツンと叩いて、軽々しくそういうことを言うな、と叱れば、氷河は、急に先生に戻るのはずるい、と唇を噛んだ。
情交の後だけ簡単に片づけて、氷河をバイクの後ろへ跨らせて、彼の住むアパートへ連れ帰って来たのは日が変わる頃だった。
これまで、一度もくぐることのなかった彼のアパートの扉を、まだ帰らないで、薬が効くまででいいから、という少年の求めに従って、初めて、内へと入る。
ベッドと机だけ、ダイニングテーブルすらなく、床におかれた食器類が少しわびしく、ああ、彼はこの年で本当に独りなのだ、と胸が締め付けられる心地がする。
氷河は、ベッドの傍へいくと、紙の薬袋を取り上げ、抑制剤、とだけ言って、それを喉に放り込んだ。
放り込んでおいてから、水、と言いながらキッチンへきて、蛇口をひねり、手のひらに水を受けてそれを飲み干す。
「……すぐには効かないと思うから」
まるで、そうであってくれ、と願うみたいな声色に、ミロは、おいで、と氷河を抱き寄せた。
「効くまではここにいるよ」
だからまたおかしくなっても大丈夫だ、と背を撫でると、もうとっくにおかしいよ、と返って来た。
「……シャワーを浴びよう。いろいろ洗い流した方がいい。俺も君も」
ん、と頷いて浴室に向かう氷河が、ふと気がついたみたいに振り向いて、「でも、狭いよ、うち」と言ったことで、ミロは、「交互に」と言ったつもりだったが、「一緒に」の意味に彼が誤解したことに気づいたが、正すことはせず、「中で運動でもしなければ平気さ」と笑った。
赤くなった耳を俯けて、じゃあいいけど、と、血やら白濁やらで汚れた服を脱ぐ氷河の背に、ずくずくとまたミロの中心が熱を帯び、やっぱり平気ではないかもれん、と胸の内で苦笑する。
あまり勢いのないぬるい湯のシャワーの下に二人で立ち、ミロは、彼の頬や耳の後ろにこびりついていた血を手のひらで拭って洗い流してやる。
「血の量ほどには切れてないな」
「わざと血がよく出るところを殴らせてやったから……たいていのやつは、血が出た時点でびびって拳が鈍る」
「どこでそんなことを覚えた」
「カノンが教えてくれた」
「カノン?」
「身を守るために覚えておけ、だって」
突然に出てきた同僚の名前に、驚きと、ちりちりとした妬気がミロの欲を刺激する。
「氷河、足を、」
氷河の片側の大腿を抱え上げると、わ、とバランスを崩した少年はミロの首へ支えを求めて両腕を回した。
「そ、そこはいいよ、」
「いや、奥にたくさん出しすぎた」
「でも、……っ、あっ、んあ……」
言葉では羞恥を見せていても、まるでマタタビを嗅いだ猫のように、濡れた隘路に埋めたミロの指に感じ入って、喉をさらけ出して氷河は喘ぐ。
まだ熱くぐずぐずに濡れた媚肉が締め付ける指を鉤のように曲げて、まとわりつく粘液を掻き出せば、氷河の両足を白いものが大量に伝い下りた。よくもまあこんなに、と自分で呆れ、だが、極んだ瞬間のとてつもない官能の記憶が再び押し寄せて、ミロを昂らせる。
「……ミ、ロ……、あぅ……ふ、く、んぅ」
眉間に皺を寄せて、必死に声が漏れるのを耐えている氷河の雄がゆるゆると立ち上がっている。狭い浴室で密着した身体は、また、抵抗し難い熱を上げ始めている。
結局、浴室の狭さなど、今すぐに繋がりたい、という獣の欲求には何の障壁にもなり得なかった。
氷河の両足を抱え上げたミロは、壁に彼を押しつけるようにして、熱を帯びて濡れた媚肉に昂りを含ませる。
自重で深く沈む身体を、だが、深い、深いのきもちいい、いく、またいっちゃうと悦がって、氷河はまた泣いて、ミロは彼の声が安アパートに響くのを防ぐために、ずっと彼の唇を塞いでいなければならなかった。
浴室の外でも。
ベッドの上でも。
多分、とうに抑制剤の効果は出ていた。出ていたのだろう、と、思う。ただただ、彼の奥へ己の昂りを捻じ込みたいだけの欲求は、途中からずいぶん緩やかになって、代わりに、彼の薄い皮膚で覆われた耳だとか、赤く色づいてつんと尖る胸の先だとかを口に含んで、ゆっくりと甘くいたぶる営みへと、行為は自然に変わった。
だが、氷河はそうだと言わなかったし、ミロもまた氷河には効果はどうだと聞かなかった。
放心状態でベッドへ伏せる背をひと撫でして立ち上がったら、「……もう、帰る?」と切なげに聞かれて、ミロは少し困って、「……いや、水を飲もうと思っただけだ」と嘘をついた。
実際、乾いていた喉を潤すために、勝手に、狭いキッチンから、未使用らしきグラスを2つとって水道の水を入れ、ベッドへ戻って氷河へ差し出す。
シーツに顔を隠すように伏せてしまった氷河の背へ、ここへ置くぞ、と言ってベッドサイドへグラスを置いてやる。
ん、とシーツに押し当てた顔は動かない。
ミロはベッドへと腰かけ、まだ汗で濡れている彼の髪を梳いてやる。
金色の髪から、細いうなじがのぞいている。
少し赤くなっているのは、ミロが何度か唇で愛撫したせいだ。
噛んでください、と乞われた。
意志があるのかないのかわからないような、激しい交わりではなく、薄い皮膚の感触を甘く堪能している余韻の中でのことだ。
背へ、耳へ、ちゅ、ちゅ、と啄む音をさせて触れるミロの唇がうなじへと差し掛かったときに、おねがい、そこ、噛んでください、と氷河が言った。
唇の愛撫を甘噛みに変えてやると、いやだ、ちがう、ミロ、と泣かれたが、できるはずはなかった。
彼を己のものにしたい、という征服欲は未だ残っていたが、床にちらばる教科書だとか、昨夜きっと勉強したに違いない、開かれたままの参考書類だとかが、ミロを、ただの男から、現実に引き戻していた。
身体は成熟していても、氷河はまだ大人とは到底言えない。
どうしてこんなに性急に未来永劫縛る枷を与えてしまえるだろう。
淫蕩に男を強請る、それは彼の本質ではない。素の彼は、好意を伝えるカップケーキひとつ、まともに渡しもできないような不器用な少年でしかないのだから。
ゆっくりと距離を詰めていければいい、程度にしかまだ始まっていなかったのに、つくづくと彼にそんなことを言わせてしまった、この状況が疎ましい。
氷河がのろのろと身体を起こした。
泣いているのかと思ったが、瞳は乾いて、だが、何かを堪えるかのように瞬いていた。
「ごめんなさい……あの、あなたに、学校、やすませてしまって」
「俺のことはいい。気にするな」
「……校長先生に怒られないかな」
「どうせしょっちゅう怒られているからいいんだ。君こそ大丈夫か?」
「………さあ、どうだろ……担任の先生に単位が大丈夫か確認してみる」
俺か、と、ミロは苦笑して、氷河の頭を撫でた。
淫蕩に貪り合った者どうしには似つかわしくない会話だったが、今はその日常へと戻る道筋を二人は必要としていた。
「そろそろ俺は帰る。君は無理しなくていい」
「……ん、でも、大丈夫、と思う。あ、でも、店を片付けにいかないと……」
「ダメだ。一人では決して行くな。……いや、できればもう行くな。俺が鍵を預かっておこう」
ミロの強い口調の制止に、氷河はしばし考えて、そして大人しく頷いた。
氷河からバーの鍵を預かったミロはジャケットを羽織って、それからもう一度氷河の髪を撫でた。
何度触れても足らないほど、いとおしさを感じていた。いとおしさだけなら、激しく交わっているときよりよほど今の方が強く、抱きしめてしまいたくてしかたがなかったが、いつまでもそうしているわけにもいかなかった。
何かもの言いたげにしている少年に背を向けて、じゃあまた学校でな、とミロは彼の部屋を後にする。
どうあっても傷つけてしまうなら、せめて、教師として、正しく、彼を導いてやるよりほかにない。
もっとずっと先、氷河がしっかりと自分の足で歩けるようになって、今日の日の傷の癒えた頃に、それでもどうしても、と、氷河が望むなら喜んでミロは彼のつがいとなるだろう。
だが今は、こうするよりほかに、ミロにできることは、ない。
例えそれがミロに痛みをもたらしても。