寒いところで待ちぼうけ

ネタ


お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)

オメガバース設定の学園もの妄想。カノ氷に始まり、ミロ氷を通って、最後はカミュ氷。

特殊な設定のため、社会規範に反する記述も登場しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。完全なる異世界ファンタジーとしてお読みください。



◆トキメキ☆聖闘士学園~なんちゃってオメガバ~ ⑩◆


 氷河の朝は早い。
 朝というよりまだ夜のうちに起きて新聞配達へ出かけ、配り終わったその足でそのまま学校に向かうせいだ。
 朝の学校はほとんど人けがなく、氷河は教室で一人過ごす時間を結構気に入っている。
 本当なら、帰宅後に課題を終わらせておきたいところだが、部活にバイトとなるとさすがに疲れているのかいつも途中で眠ってしまい全く勉強にならないため、近頃は、朝のこの時間に課題をすることにしている。もちろん、時間切れになって全部はできないことも多いけれど、それでも、多分、一日で一番集中して問題に取り組めるせいか効率はいい。
 あれからほどなくして、バーのバイトは辞めた。
 酒瓶や椅子やとても弁償しきれないほど物を壊してしまったはずなのだが、ミロは何をどう処理してくれたのか、マスターが退院してきた時には店はすっかり元通りで、だから、マスターは、氷河が辞めることを告げると、自分が休んでしまった間にもっといい店に引き抜かれていくのだと酷く落ち込んでいた。
「違うんです、やりたいことが見つかったので」と、マスターを納得させるためにわざわざ探してきた、スポーツジムの夜間のアルバイトは、時給は半分以下になったものの、泳ぐことの好きな氷河にはぴったりで、結局、今もそこに落ち着いている。
 新聞配達が終わってすぐ登校したのではまだ薄暗く、以前は日直の教師が出勤してきて正門が開くまで氷河は門の前に座り込んで、デイパックを机代わりに課題をするしかなかったのだが、どうやら学校に寝泊まりしているらしいカノンがそれに気づいて、氷河の時間に合わせて解錠してくれるようになったおかげで、飛躍的に過ごしやすくなった。

 氷河を除いては、一番早く登校してくるのは野球部の生徒たちだ。
 基本的に朝練は学業に差し障るため禁止の学校であるが、野球部だけは、めざせ甲子園、特別扱いというわけらしい。始業時間の2時間ほど前には彼らは登校してきて、一汗流している。
 顧問のミロは、いたりいなかったり。
 いても、さすがにジャージに着替えてまで指導をしていることは少なく、出勤してきたスーツ姿のままで、時折、何か指示をしているくらいだ。(指導の途中で熱くなったのか、上着だけ脱いでバットを振っているのを見かけたこともあるけれど)
 今日は……いる、方だ。
 グラウンドにいる金色の髪が昇り始めの朝日に反射している。
 あの出来事以来、彼とは授業以外で口をきくような機会は訪れていない。
 氷河がバーのバイトを辞めてしまったから、校外で秘密の逢瀬はわざわざ申し合わせでもしておかない限りできなくなったからだ。
 ただ、時折、混んだ電車の隣車両に、背の高い金色の巻き毛が見えることがある、ような気がしている。
 会いたい、と願う、氷河の願望が、よく似た他人をそう見せているだけかもしれないし、もしかしたら、氷河にそうと知らせないまま、行き帰りに危険がないか見守りをそっと続けてくれているのかもしれなかった。個人的に話す機会がないものだから、真相はわからないままだ。

 あの日、好きだと言った氷河に対して、ミロが何かを答えることはなかった。
 だから、ミロが自分をどう思っているのか、あの日のことはミロの中でどういう形で処理されたのか、氷河は知らない。
 狂ったように熱をぶつけ合っていても、ひどくやさしく扱われていた、と思うのだが、彼は誰に対してもあの状況ならそうするような気もしたし、自分が正しく彼の気持ちを読み取れるほど恋愛ごとに長けているかと言えば全くそうではなかったから、氷河にはミロの気持ちはわからない。

 オメガ性の体質は、本当にやっかいだ。
 特定のつがいを持たないオメガのヒートはまさに動物的で、アルファを、時に一部のベータをも強く惹きつける強烈なフェロモンをまき散らして、交合相手を求める。その強い誘引にはどれほど意志の強いアルファでも抗えない。むしろ、ミロやカノンがそうであったように、アルファとして優秀であればあるほど、強くオメガのフェロモンの影響を受けてしまう。
 そこには、人間を人間たらしめている意志はありはしない。ただ、互いの性属性のみ一致していれば、例え普段は犬猿の仲であろうと、口を聞いたこともない行きずりの相手であろうと、時には、親の仇であったとしても、狂ったように求め合ってしまう。
「お前が誘ったくせに」「誰でもいいんだろう」
 侮蔑的に投げかけられがちなその台詞は、だがしかし、ある意味正しい。
 氷河も二度経験して思い知った。
 あの時、抑制剤の効果が切れかかったとき、目の前に自分を害する男がいたというのに、その男であってもいっそ構わないから、ただただ、腹の奥へ熱いものを埋めて欲しい、という強烈な衝動が起こって、そんな自分が恐ろしくて、ほとんどパニックになって、必要以上の反撃で男たちをのしてしまったのだ。
 ヒートは、理性も人格も氷河から奪い去って、別のものへ作り変えてしまう。
 ただ───それは、ヒートの間だけだ。
 おさまってしまえば、ベータともアルファとも全く変わらず、心もプライドも羞恥心もあって、氷河など、好きだという感情がどんなものかもわからない、人づきあいも下手な、どちらかと言えば晩熟な人間でしかない。
 オメガという性は、淫蕩であると誤解されがちだが、他の性属性より、貞操観念が強い性とも言える。
 一度、つがいをもったオメガは、つがい以外の人間を受け付けなくなるからだ。
 オメガの方からつがい関係を解消できず、もしも、アルファからつがいを解消されたとしても、そのオメガはもう、ほかの者とは一生交わることはできない。無理に性交に及ばれたら、中には苦痛のあまり死んでしまう者もあるほどで、その一途さはアルファにもベータにも見られない、オメガだけの特異な性質だ。
 オメガにとっては、「ひとを好きになること」は文字どおり、命をかけねばならぬほどの真剣さを伴うものなのだ。
 ミロに真意を聞くことができないのはそのせいだ。
 彼が担任教師だからではない。
 ヒートという特殊な状況下ではあったが、気持ちの通じ合った交合だと思ったから、このひとなら、と思ったのに、うなじを噛むことを拒絶され、彼のことがわからなくなった。
 真意を問うて、あれは同情だった、あるいは、責任を感じただけだ、と困った顔をされたら、きっともう一生誰のことも愛せない。
 自分の置かれた運命がこれほど呪わしかったことはない。

 結局、熱くなってきたのか、マウンドに登ってスーツ姿のまま自らボールを投げ始めたミロを見下ろしながら、氷河は深くため息をついた。
 勉強しよう、そうひとりごちて、氷河は、視線を手元のノートへと移した。
 教科書から書き写した数式をしばし眺め、うーん、と少し唸りながら、シャープペンシルを握りなおした、その時だ。
 ガシャーン!という硬質な音をたてて氷河のすぐ横の窓ガラスが砕け散ると共に、白い硬球が教室に飛び込んできた。
「……ッ」
 硬球は、ガラスをぶち破っただけでなく、黒板に当たって跳ね返り、氷河の机の上でバウンドする。
 咄嗟に左腕で頭をかばったものの、椅子から転がり落ちて、氷河は床へと投げ出された。
「……った、」
 激痛が両の手のひらに走り、氷河は顔を顰める。
 直撃は免れたが、床へ投げ出された拍子に散らばっていたガラスの上に手のひらをついてしまったのだ。
 外では、電気がついている教室だ、人がいる、とざわめく声がしていて、そのうちに、ドタドタドタドタ、とすごい勢いで足音が階段を駆け上がってきた。
 スパイクを履いたままの足音がほとんど飛び込まんばかりの勢いで近づいてきたかと思うと、バン、と音を立てて教室の扉が開いた。
「すみませ…っしたアアア、ッ、氷河か、いや、おま、血、」
 慌てふためいて飛び込んできたのは、隣のクラスの邪武だ。
「わり、俺、防球ネット越しちまって、」
 大丈夫か!?と氷河の傍まで駆け寄ろうとする邪武を、待て、と氷河は片手を上げて制止した。
 そこかしこにガラスが散ってしまっている。無防備に駆け寄られては二次災害が起こる。
「気にするな。箒かなんか取ってくれれば片付けておく」
「いや、気にするの、そこじゃねえよ!?」
 血、血が出てんだろうが、ティッシュ、いや、ハンカチ、と慌てているジャージ姿の邪武がそんなものを持っているはずもなく。
「あー、まあ、洗ってくるから……」
 そう言って立ち上がりかけたが、割れた瞬間に頭の上に降り注いでいたガラス片がバラバラと滑り落ち、落ちしなにそれは氷河の頬に無数の小さな傷をつけた。
 ああ、それ以上動くなって、と邪武が腰を浮かせたとき、「大丈夫か」と言いながら教室にミロが入って来た。
 ガラス片の中に手を突いている氷河を見て、ミロは、君か、と眉間に皺を寄せ、邪武に、「下がっていろ。これ以上怪我人が増えては困る」と言って、割れた窓から距離を取らせた。
 代わりに近寄り、傍へ膝をついて、ミロは血を流している氷河の手を取る。
「球が当たったのか」
「……いや、それは大丈夫だった」
 つい先ほどまでミロのことを考えていて、盗み見までしていたのだ、鼓動はばくばく跳ね回りっぱなし、耳まで熱くなって、氷河はすいと視線を逸らす。
 当たらなくてよかった、とミロが小さく息をつく。
「だが……これは少々深そうだな。立てるか?」
 保健室へ行こう、ムウはまだいないと思うが消毒が必要だ、と、ミロが手を差し出した。立ち上がるのに手を借りようとして、己の手のひらがどちらも血で濡れていることに気づいて躊躇い、氷河は手を引っ込める。
 だが、完全に引っ込める前にミロの手が氷河の手首をぐっと掴んだ。
「ミロ…ッ、せ、んせい!汚れるから!」
 気にしている場合か、とミロが氷河を立ち上がらせる。
 そして、ミロは、氷河の肩や頭に乗ったガラス片を払い落としながら邪武へ視線をやった。
「俺は氷河を保健室に連れていく。ガラスには触るなよ。カノンを呼んで片付けてもらえ」
 はい、と邪武が頷いたとき、その背後で「派手にやったな、また」と、そのカノンが顔をのぞかせた。ガラスの割れた音を聞きつけてきたのか、既に手にはゴム手袋、箒にちり取り、という手際の良さである。
「悪いな、助かる」
 カノンにそう言って、ミロは氷河を教室の外へと連れ出した。

「ごめ……すみません、血が、」
 氷河の手首を掴んだミロが、床へ血が垂れないように肩の高さにそれを上げたために、腕を伝い下りた血雫は氷河の制服の袖のみならず、肘まで捲り上げていたミロのシャツの袖をも赤く染めてしまっていた。
 ミロのシャツに入った透かしのブランド名を横目に、俺で弁償できる額だろうか、と胃がきゅっと縮まる思いがしたが、ミロは、「構わん、替えなら置いている」と首を振った。
 階段を急ぎ足で下りて、1階にある保健室へ辿り着く。
 ミロが出入り口の引き戸を引くと、それはカラリと簡単に開いたが、室内には誰もいなかった。
「……?ムウがもう来ているのか……?」
 施錠されていない主のない保健室に不審げに首をひねりながら、ミロは、入室はせずに、氷河を保健室前の手洗い場へと促した。
「俺は薬品棚の鍵を取って来る。君は傷口を洗え。痛むと思うが流水でしっかり流すんだ。ガラス片が残っているといけない」
 そうてきぱきと指示をして、ミロは職員室の方角へと去っていった。
 氷河は言われたとおり蛇口をひねり、両手のひらを流水の下へ置いた。

 先生、みたいだ。ただの。

 みたいも何も、教師であることに間違いはないのだが。
 甘やかなやりとりを覚えていて、その一挙手一投足に動じては胸の鼓動をおかしくしているのは氷河だけで、ミロは何事もなかったかのような態度だ。
 担任教師とその生徒、それ以上でもそれ以下でもない態度に、やっぱり、あれは同情だったのだ、もしかしたら彼とどうこうなれるかもしれないなどと勘違いをしてはいけなかったのだ、と氷河は落ち込む。
 じわりと涙が滲みかけ、だが、深みにはまる前に気づいてよかった、取り返しがつかなくなって捨てられるより、相手にもされない方がきっとまだ誠実だ、と、そう思いなおす。
 世の中には、アルファの側にのみ、つがい関係の主導権があるのをいいことに、オメガを隷属させては気軽に乗り換えるような酷いアルファもいるというから(そして世間はそのことを酷いとも思っていないようだから)、最初にすきになったアルファが彼のようなひとだということは幸運なのだ、と、そう思わなければならないのだ、きっと。
 そして、早くあの日のことは忘れてしまわなければならないのだろう。

「どうだ?」
 鍵を繋ぐリングに指を通してくるくると弄びながら戻って来たミロは、手洗い場でまだ傷口を流していた氷河へと近寄った。
「ん……多分、たいしたことはない」
 そう言った氷河に、見せてみろ、とミロが氷河の手首をつかんで裏返した。近づいた拍子に彼の巻き毛が頬に触れて、ドッと氷河の心臓が跳ねる。
「縫うほどではなさそうだが、血が止まらないな。……怪我ばかり、あまり心配させてくれるな」
 小さくつけ足された呟きを、えっ、と問い返す間もなく、ミロは、来い、消毒だけでもしておこう、と言って氷河の手を掴んで保健室へと入り、そして、扉を閉めた。
 だが、その時だ。
 ぴり、と、まるで雷に打たれたかのような衝撃が氷河の全身を駆け抜けた。
「……ッ、?」
 物理的な刺激とは違う、経験したことのない感覚は、失血からくる不調か何かだろうか。
 痛みとはその違う何かに混乱して立っていた氷河を、ミロが入り口すぐの丸椅子に座らせた。
 そして、今しがた取って来たばかりの鍵を使って、薬品類を入れているガラス棚を開ける。
「これで少し傷口を押さえておけ」
 頷いて、ミロからガーゼを受け取ったものの、先ほどの「何か」がまだざわざわと氷河を動じさせている。

 なんだ……?

 ドクン、ドクン、と全身が心臓になったかのように脈打ち続けていて、それは次第に大きくなっていく。
 消毒液と包帯を戸棚から取り出してミロが振り返った。
「痛むか?」
 そう言いながらミロが氷河の前へ膝をついて氷河の手を取った時だ。
 前触れなく、氷河の全身がかあっと熱を発した。
 悪い病にかかったみたいに視界がくらくらと回り、息が乱れ、ドッと汗が噴き出る。
 さっきまでグラウンドでボールを投げていたせいだろう、間近に迫ったミロからほんのりと汗が香り、香ると同時に、氷河の下腹部はずく、と疼いた。
 覚えのある甘い疼きに驚きと羞恥で、ますます全身が熱くなる。

 なぜだ。
 ヒート、なのか……?

 ありえない。抑制剤を飲んでいる間はヒートは訪れないはずで、だから、あの男たちだって時間をかけて氷河を監禁してその瞬間を待ったのだ。
 抑制剤なら、今朝、登校前に間違いなく飲んだ。自分の意図しない身体への変化が怖くて、何があっても飲み忘れないように細心の注意を払っているのだから絶対に確かだ。
 アルコールで効果が弱まったこともあったが、今は学校だ、当然ながら素面だ。
 混乱で頭の中がぐるぐるする間にも、氷河の呼吸は、まさしく発情した獣のように、は、は、と荒く乱れ続けている。
 効果が弱まった、どころではない。
 抑制剤を飲んでいないも同然の、急激な発情が起こりつつある、と認めざるをえないほど氷河の雄に血が集まり始め、ばかりか、きゅうっと疼いて濡れる感覚を腹の奥に覚えていた。
 激しい混乱とショックを凌駕して急速に淫熱が高まっていくのがわかる。
 自分を保てない。どくどくと巡る血脈が氷河から理性を奪っていく。
 氷河を揺さぶるミロの熱が思い出されて、もう一度あの熱いものを腹に埋めて欲しい、という耐え難い餓えが湧いてくる。
 このままではいけない、ミロから離れなければ、と、無意識に彼の肩を押したが、逆に氷河の腕をぐっとミロが強く掴んで引いた。
 ハッとして顔を上げれば、つい今しがたまで『教師』だったミロの表情は、込み上げる欲求と戦うように険しく歪んでいた。
 こめかみに汗を浮かべ、荒く息を吐き、それでも、教師と生徒としておかしくない距離をぎりぎり保ったまま、だが、離れることもなく、氷河を掴んだミロの拳は激しく戦慄いている。
 まるでデジャビュのように、本能と理性のせめぎ合う、危うい均衡が、乱れた二つの呼気となって保健室に響いた。

**

「ミロ、ガラスは片付けておいたが、病院へは……」
 そう言いながら保健室の扉を開いたカノンは、扉が全て開ききる前に異変を察して、うっ、と思わず上体を逸らした。
 この、強烈で、抗いがたく淫靡な熱を誘う空気───
 理性を手放してそれに身を委ねたことのある身、はっきりとわかる。間違いなく氷河の発するフェロモンだ。
 なんでまたいったいこんなところで。
 半ば混乱して室内に視線を巡らせば、熱っぽく潤んだ青い瞳が救いを求めるかのように、カノンを見上げていた。
 かのん、と舌足らずに己の名を呼びながら乱れ狂った肢体が、ぶわっと脳裏によみがえり、くそっ、とカノンは呻いた。
 無茶を言うのもいい加減にしてほしい。
 カノンとてアルファの雄だ、堪えられるような性質のものではないと身をもって知っている以上、救いを求める視線を投げられたからと言って、簡単に、ヒーローよろしく踏み込めるものではない。
 カノンは身体を保健室の内側へ入れないまま扉を全開にし、「飲み忘れたのか」と彼に問うた。
 思いのほか非難めいた口調になったが、校内で不幸な事故の(意図しない状況で意図しない相手と性交に及ばざるを得なくなるなど、事故か、さもなくば悪夢かどちらかだ!)起こらぬよう細心の注意を払っていたにも関わらず、少年の不注意でそれが起きてしまったのなら、責めずにはいられなかった。
 だが、氷河は、剣呑に顔を歪めて荒く息を吐くミロに腕を掴まれたまま、ふるふると首を振った。
「飲んだ、のに……」
 嘘をつけ、とカノンは胸の中で罵った。そうでなければカノンの理性が飛びそうなほど、濃くオメガのフェロモンが漂っているはずがない。前回より酷い、と感じるほどだ。
 両ひざをついたミロは頭を垂れるように俯いているが、ポタポタと床に汗の雫が落ちている。理性を奪われぬように己の本能と戦うのが相当苦しいのに違いない。
 この際、なぜこうなったか議論している暇はない。
 彼の驚異的な理性がもっているうちに引きはがさねば、二人とも(もしかしたらカノンも含めて三人ともが)我に返った後で酷く後悔する羽目になる。
 カノンは覚悟を決めて保健室へ一歩足を踏み入れた。
 それだけで、ぞくぞくと全身が甘美な熱に侵される。
 外に出ろ、と言って、ミロが掴んでいない方の氷河の腕をカノンは掴んだ。応急処置途中の、血に濡れたガーゼが床に落ちたが構ってなどいられない。
 やや乱暴に氷河を立ち上がらせようとしたが、腰が砕けているのか、ぐにゃりと身体が崩れてしまった上に、ミロが氷河の腕を離さないものだから、少年の身体はなすべなく床の上へ転がってしまった。
 ミロが、獲物を取られようとしている獣が威嚇するかのように、鼻の頭に皺を寄せてカノンを睨みつける。
 そこまで氷河のフェロモンにあてられていながら、腕を掴んだだけで済ませている、自制の強さたるや、その精神力は同じアルファの雄として称賛に値する。
「よく堪えた。その努力を無駄にしないために、今は少し頭を冷やせ。……密室でこれは俺も長くはもたない」
 氷河のためだ、そう囁くと、ミロは顔をくしゃくしゃに歪めながらかろうじて頷いて、ゆっくりと氷河の腕を離した。
 カノンは床へ崩れた氷河の腰を荷のように小脇に抱えて、速足で校舎の外へと向かった。
 前回と同じ轍は踏めない。
 正直、再び連れ去って、もう一度あの官能に身を浸せるのなら堕ちるところまで堕ちてもいい、という願望も脳裏を過ぎっていたが、どうにかそれは振り切って、カノンは校舎を回り込んだ。
 向かった先は裏庭だ。
 そこは、壊れた教材置き場になっていて生徒たちは出入りできないようにチェーンで施錠をしてある。実際には乗り越えられる程度の高さしかない鎖だが、行儀のよい生徒が多いせいか、立ち入り禁止の札を超えてまでやってくる者はいない。
 垂れ下がったチェーンを長い脚で跨いで、カノンは今はもう使用していない焼却炉の陰に氷河を下ろした。
 塞がっていない傷口から、氷河のシャツにもカノンの作業着にも血が垂れ、今、誰かにこれを見られたら、カノンが少年を物陰に引きずり込んで暴行しているという誤解を受けることは間違いなしだ。
 は、は、と息を乱しながらカノンは氷河を見下ろし、少しそこにいろ、と言ってその場を離れた。
 自力で立てもしない、ケガをして流血している氷河を裏庭に置き去り、とはあまりに冷たい仕打ちだが、別に誤解を受けることを厭うてのことではない。アルファである己は、傍にいる方が彼をつらい目に遭わせるのだからこうするしかない。
 つい今しがたまでは、少年を組み敷いて濡れそぼった媚肉をめちゃくちゃに犯さねば気が済まないほど昂っていたというのに、距離を取ったことで、凶悪な性衝動の詰まった脳蓋は、まるで夢から覚めたみたいに急速に人間らしい落ち着きを取り戻そうとしていた。
 少し歩みを緩めながら、カノンは、はあ、と息をついた。
 全く、神は人間にやっかいな仕組みを与えたもうたものだ。
 およそ人間の精神力で抗えぬ獣の衝動を遺伝子に組み込んでおきながら、一方で、それを是としない理性的な思考力をも付与するなど……社会規範上はヒート中のオメガをアルファが犯しても罪には問われないが、まともな倫理観のある人間なら、時と場所を選ばずやってくるそれは歓迎せざるお荷物のようなものだ。
 だから抑制剤まで使ってコントロールしようとしているものを……そうだ、抑制剤だ。
 氷河は飲んだと言ったが、ならばなぜ効かない?
 手に入れてやったカノンが断言できる。効かぬような粗悪品ではないはずだ。
 校務員室にたどり着いたカノンは、書類ではなく工具の乗った己の机の抽斗を開けて、薬の入った紙袋を取り出した。
 定期的に氷河のために取り寄せているそれは、来週あたり渡してやろうと用意していたものだ。
 薬剤名の入ったカプセルをプラスチック越しに確認したが、間違いなく正規のルートでも取引されているものと同じ薬だ。包装シートにも不審な点は見当たらない。
 薬袋をポケットに突っ込み、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り、簡易救急箱を小脇に抱えると、カノンは再び裏庭へと向かう。

 氷河は、カノンがおろした、そのままの位置に膝を抱えて座り込んでいた。
 だが、少し人心地を取り戻したのか、呼吸は落ち着いていて、赤く染まっていた頬はその色を薄くしている。
「大丈夫か?」
 用心にやや距離をとって、ペットボトルを放ってやれば、片腕でそれを受け止めて氷河は頷いた。
 ペットボトルの蓋を開けて喉を潤し、唇を拭って氷河はカノンを見上げる。
「……俺、本当に飲んだんだ」
 そう言いながら、氷河は制服のジャケットの内ポケットから銀色の薬のシートを取り出した。
 万が一にも飲み忘れることがないように、だろう。
 薬を押し出すタイプの包装シートを覆う薄いアルミ部分にペンで日付が記入されている。そして本日の日付部分は既に空となっていた。
 薬が不良品でないならば、彼がうっかり飲み忘れた可能性しかないと思っていたわけだが、これでその線はなくなった。
「飲んでいたならヒートは起こらないはずだが」
「……ヒートじゃない、と思う。よくわからないけど……なんか、今までのとまるで違った。今ももうなんともない」
 確かに、薬が効いていないがためにヒートが訪れてしまったなら、アルファが傍を離れたところでこうも簡単に収まるようなものでもない。
 試しに氷河の傍へ近寄ってみたが、カノン自身、理性を奪われる情動が込み上げるようなことはもうなかった。
 ほんの数分前には頭の中で彼をめちゃくちゃに犯していたのに、だ。
 ふう、と息をついてカノンは氷河の前へ膝をつく。
 救急箱を開けて消毒薬を取り出し、氷河の手を取った。
 応急措置の途中で放り出された傷口はまだ少し血を滲ませている。
「とりあえずそっちを先に手当てしておこう。あとでムウにもう一度見てもらえ」
「うん……………なあ、カノン」
 消毒液が傷口に触れても呻きもせず、心ここにあらずの風情で氷河がカノンを呼んだ。
「運命のつがいってあるって本当なのか?会えばすぐにわかる?毎日会っていたひとがある日突然、つがいだったとわかることってある?一生出会わなかったらどうすればいい?その人以外とつがいになってしまったらどうなる?」
「……急にどうした」
 うん、と言ったきり、氷河は躊躇うように唇を開いたり閉じたりし、視線をさまよわせた。
 カノンはうっとおしく頬に落ちる髪をかき上げて、は、とため息をついた。
 思いのほか荒っぽくなったその音に、氷河の肩がビクッと戦慄く。
「まさかと思うが、お前にとってのそれがミロだとか言い出すのではないだろうな」
 みるみるうちに氷河の顔が赤く染まり、俺だってつりあわないってわかってるよ、と俯いた。
 図星か、とカノンは天を仰ぐ。
「つり合う、つり合わないの問題ではない。一体なぜそう思ったんだ」
「……わからない。でも、変だったんだ、さっき。保健室へ入った途端に、俺……あの、な、なんか急におかしくなって、ヒートにすごく似ていたけど、でも、なんか、すごく、こう、背中がぞくぞくして堪らなくなって、ここ、あの、首の、首の後ろが焼けたみたいに熱くて疼いて、それで……」
 カノンが来なければ、俺、あそこでミロのことを誘ってしまったと思う、と小さな声で告白されてはカノンは呻くしかない。
「なるほど。抑制剤が効かなかったのは、お前にとって特別な、運命のつがいがすぐ傍にいたから、とお前は思ったわけか」
 金色の頭がコクンと縦に振られる。
 確かに、運命のつがい、というものがあるのだということはカノンも聞き知っている。
 人口比からしてアルファとオメガがつがい関係を結ぶこと自体がそもそも特別なものだ。
 多くのアルファは自分だけのオメガを見つけられずに、同じアルファやベータと通常の婚姻関係を結んで生を終える。
 ただでさえ、希少な繋がりであるのに、中でも、ごくごくまれに、運命と呼んで憚らないほどの特別な絆を結ぶアルファとオメガがある、という。
 そしてそれは、特別であるがゆえに、出会えば互いにそうだとはっきりわかるのだ、とまことしやかに伝えられているが、いかんせん、実例が少なすぎて本当かどうかはわからない。
「……あれは、都市伝説のようなものだ。そうそう運命など簡単に落ちてはいない」
「でも、カノン、ほんとにさっき、俺、『感じた』んだ、なんて言えばいいかわからないけど、何か、特別な、」
「氷河」
 思わず強い口調で遮ってしまったのは、もしかしたら嫉妬だろうか。否、きっと、運命などと目に見えぬものを簡単に信じてしまう少年の青臭さに少し苛立っただけだ。
「仮にそうだとして、なぜ、今だ。ミロとはこれまでも何度も接してきただろう。進路指導室で二人きりになったことなど一度や二度ではあるまい。身体に触れたことも皆無か?そうではないだろう」
 もっともなカノンの指摘に、答えを持っていなかったのか、氷河は、そう、なんだけど、と赤くなった顔を俯けた。
 会話の間に応急処置の終わっていた氷河の手のひらを離してやり、カノンはうなだれた彼の金色の頭に手をやった。
 白いうなじが金色の髪からちらりとのぞいていて、カノンは思わず目を逸らす。
「……焦るな、氷河。焦らずとも、いつかお前を、第二性ごとまとめて愛してくれる人間は見つかる」
 多分、氷河は過度に発情期を恐れているだけだ。
 誰彼構わずフェロモンをまき散らす発情期をあまりに恐れるがゆえに、手近なアルファが己のつがいになってくれればこの発情期からは逃れられる、と、無意識の逃避が、思春期の不安定な精神を動揺させているのだろう。
 カノンに対しても「カノンならいい」と、まるでデートでも誘うかのごとき気軽さでうなじを差し出そうとしていたくらいだ。
 もし、何かのきっかけで、ミロをアルファと知ったなら、逃避のあまりに、疑似的恋愛感情を抱いてしまっていてもおかしくはなかった。
 あの暴力的なフェロモンの中でミロが耐えきったことを思えば、彼が氷河を酷く扱うとは思えなかったが、それでも、だからと言って、ここで一生を運命づけてしまうには氷河はあまりに未成熟すぎるように思えた。
「もう少し自分を大切にしろ。つがい関係は、アルファにはたいした問題ではないが、お前には、お前が考えているよりずっと負担がかかるんだ。簡単に口にせぬことだ。……不安なら、抑制剤はもう少し強いものを手に入れておく」
 俯いて膝の間に顔を埋めた氷河は、うん、とも、ううん、とも答えずに黙ったままだ。
 まるい頭をわしゃわしゃとかき回して、カノンは、腕に巻いた時計を見た。
 そろそろ他の生徒たちが登校してきてもおかしくない時間になりつつある。
「今日は帰るか?校内での事故だ、欠課扱いにはならないと思うが。授業を受けるなら、校務員室に卒業生たちが残していった制服の予備がいくらかあるから着替えた方がいい」
 いつまでも座り込んでいるわけにはいかないことは氷河もわかったのだろう。
「……制服、借りる」
 俯いたままそう言った氷河に、よし、ともう一度頭を撫でてやってカノンは立ち上がった。
 遅れて立ち上がった氷河は、パタパタと尻についた泥をはたきながら、「でも、俺、本当に感じた」と聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
 強情だな、と苦笑しかけ、ふと、それならばミロの方も何か特別なものを感じたはずだが、とカノンは眉間に皺を寄せるのだった。

**

 冷たいリノリウムの床の上へ膝をついたまま、ミロは、はあ、と全身で嘆息した。
 ほのかに残る氷河のフェロモンに、ミロのアルファとしての本能は中途半端にまだ燻っている。
 危なかった。
 互いに、一度共有し合った狂おしいほどの官能を再び欲していたのは明白で、潤んだ瞳で誘うように見つめられては、相当な努力の末に取り戻した教師としての立ち位置など全くどうでもよくなってしまって、あと僅かでもカノンが来るのが遅ければ、込み上げた衝動を行動に移していなかったとは言い切れない。(単なる校務員がなぜ委細承知、みたいな顔で氷河を連れ去ったのか、氷河に身を護る術を教えた経緯と合わせて、後で問い詰めたいところだが)
 氷河が学生でいるうちはもうきっと訪れないだろうが、もし、次に氷河に触れることを許されるなら、発情期とは全く違う、己の意志、己のタイミングでそうしたい、と願っていた。
 だが、こんなにもすぐに、再び獣の衝動に己が支配されてしまうとは。
 いとおしさや、恋しさを感じた際にも相手を抱きたいと感じるのは自然なことだが、行きつく行為は同じでも、根底にあるものがまるで違う。性欲よりももっと強い、生命を脅かされた際の生存本能のような原始的な欲求に近く、そんな即物的な欲求に、彼をたいせつにしたいという思いがやすやすと捻じ伏せられてしまうことは耐え難かった。
「参ったな……」
 は、ともう一度深く息を吐いて、ミロはのろのろと立ち上がった。
 急激に全身を巡った淫熱はかなり落ち着きを取り戻してはいたが、保健室内にまだかすかに残るフェロモンが気になり、入り口と反対側の窓まで歩いて、それを大きく開け放った。
 朝の爽やかな空気がさあっと室内に入り込み、新鮮な空気の流れに、燻りを残していた最後のひと熱が消えていく心地がして、ほ、とミロは安堵した。
 窓枠を背にして何とはなしに振り返ったミロは、ふと視線をベッドの方へとやって、ギク、と動きを止めた。
 急病人が休むための2つのベッドは、今はいずれともにカーテンが引かれている。
 生徒も登校していない早朝だ。
 無人であるものと思い込み、気にも留めていなかったが──揃えられた革靴が、ベッドを囲うカーテンの下からのぞいていた。
 人が、いたのか。
 一部始終を聞かれていた。……否、聞かれていた、と言えるほど、氷河もミロも会話はしていない。口をきくような余裕もなかった。
 だが、もし今ベッドにいる人間がアルファなら、ここにオメガがいたことに気づかなかったはずはない。やっかいなことにならなければいいが───
「……誰かそこにいるのか?」
 返事はない。
 ミロはベッドへと近づいた。
 カーテンに手をかけ、開けるぞ、と言って少し待つ。
 眠っているのか、と不審に思いながら、ミロはそれを左右に開く。

「………………………カミュ」

 赤髪の化学教師はまるで高熱にうなされているかのように額に玉のような汗を浮かべ、苦悶の表情に顔を歪めながら、目玉だけを動かしてミロを見た。
「……大丈夫か」
 軽く頷く仕草をした彼は、肩で息をして酷く具合が悪そうだ。
 一瞬、氷河のフェロモンにあてられたせいかと思ったが、氷河が入室する前からここにいたということは、フェロモンに関係なくそもそも具合が悪かった、ということになる。
 カミュは普段から比較的出勤時間が早い教師の一人ではあるが、こんな早朝にわざわざ保健室で休まなければならないほど具合が悪いなら出勤などしなければよいものを。
 横になったまま会話をするのは居心地が悪かったのか、カミュが眉間に深い皺を寄せて呻きながら身体を起こした。
「………今……いたのは……オメガだったな……生徒にも教師にもいないはずだが……」
 それを聞く、ということは、彼も感じた、ということだ。あの耐え難く込み上げる、獣も同然の浅ましい征服欲を。
 感じたなら、己を誘引するオメガが誰なのか確認せずにいられなかっただろうに、彼は、それが誰か、ということに気づいていないらしい。
 第二性の属性は最も秘匿されるべき個人情報であるが、氷河は彼が顧問を務める水泳部の部員だ。合宿に遠征……今日のような不測の事態がいつ生じないとも限らず、ならば、事故を起こさないために顧問くらいはその事実を知っておくべきだろうか、とミロは逡巡したが、問うたくせにカミュは止めたてするように片手を上げた。
「いや、答えなくていい。独り言だ。誰だったのか知りたいわけではない」
 そう言ってカミュは両手で頭を抱えるように俯いた。やはりどこか苦しいのか、微かな呻き声が唇から漏れている。
「………ミロ、ひとつ頼まれてくれ」
「なんだ」
「化学準備室のわたしの机の抽斗に金属のケースが入っている。取ってきてくれないか」
 抽斗の鍵はこれだ、とカミュが胸ポケットから鍵を取り出す。
「今か?」
「……できれば。わたしの…………その、発作、を抑える薬が入っている」
 実際問題、カミュはとても苦しそうで、それが何かわからないが「発作」から来ているのであれば断る理由もなく、わかった、と言ってミロは鍵を受け取って化学準備室へ向かった。

 薬はすぐに見つかった。
 鍵のかかった抽斗から、ただの常備薬にしては物々しく錠前のついた、弁当箱くらいの金属ケースを取り出して、ミロは保健室へと取って返し、カミュに、これだな、と差し出した。
「すまなかった」
 青白い顔で再びベッドへ横になっていたカミュは起き上がり、ミロに向かって手を伸ばした。
 だが、金属ケースがカミュの指先に触れんとした瞬間、ミロは、すい、とそれを高く持ち上げてみせた。
「……ミロ」
「中身が何か聞いてもいいか」
「発作を抑える薬、と、」
「何の発作だ。個人情報に立ち入るつもりはないが、ただ、万一、違法薬物なら手は貸せないからな」
 常に施錠された化学準備室の、鍵のかかった抽斗、その上ケースにまで錠前がついているという厳重な保管法は、通常の薬にしては物々しすぎる。自身の健康を保つのに必要なものなら、自宅ではなく職場に保管している、というのも奇妙な話で、何より、大量に汗を流して苦し気に息をついているカミュの姿は、禁断症状のそれに近かった。
 ミロが違法薬物を疑ったのは無理もないことだった。
「………お前が心配するようなものが入っているわけではない」
 若干、苛立った声でカミュが、早くそれを貸してくれ、と手を伸ばす。
 ミロがなおも黙ったままでいると、苛立ちに歪められていたカミュの顔が観念したように、ふ、と緩んだ。
「抑制剤だ、ただの」
「抑制剤?」
 お前はオメガだったのか、とミロは言いかけ、だがしかし、オメガなら、同じ性属性である氷河のフェロモンに誘引されたはずはない、と気づいて不審に眉根を寄せた。
「……ミロ、頼む。まだ、オメガのフェロモンが残っていて耐え難い。抑えたいのは……発情だ。……はやく抑えねば生徒たちが来てしまう」
「お前はアルファなのか」
 ミロの問いにカミュはまるで厭な単語を聞いたと言わんばかりに顔を顰めた。
「そうだ。ミロ、だから、それを」
「カミュ、それで俺がごまかされるとでも思ったか。窓は開けた。俺もアルファだがもう何も感じない。発情が誘引されるほどフェロモンが残っているというのは嘘だ」
 ミロの指摘に、カミュは眉根を寄せて、感じない……?だが、こんなにまだ濃く……と怪訝な声を出し、そして考え込むように黙り込んだ。
「それに、そもそも、アルファ用の抑制剤など存在しない。そんなものがあるなら、今頃オメガの人権はもっとずっと護られている」
 氷河を不当に害しようとしたやつらも、結局、お咎めなしどころか、オメガと一晩過ごした(返り討ちにあったわけだが)ことをまるで武勇伝のように語っているという。氷河の方は深く傷ついて、あれ以来、あの街にはもう近づけず、ミロとも酷く距離が離れてしまったというのに、だ。
「………同感だ。彼らはもっと正当に護られる必要がある。…………わたしは、己が彼らを傷つけるかもしれない存在であることが耐えられない。だから、精製した」
「…………………お前が?」
 驚きのあまり下におろしたミロの腕からカミュはそっと金属ケースを受け取る。
「ああ。オメガの抑制剤の成分を参考に精製してみた。まだ試作品だ。オメガとアルファとではどうも発情の仕組みが違うようでな……オメガが定期的に発情するのはホメオスタシスを保つために必要な働きで生体維持に不可欠なものだが、アルファの方は、オメガの性フェロモンを誘因子として、自信の性フェロモンを拮抗させているフィードバック機構を乱すことによって起こる。単体でアルファが制御できなくなるほど発情しないのはそのためだ。だが、『事故』を防ぐには、オメガばかりではなく、アルファの方にも抑える仕組みは必要だ」
 つい先日、そして今も、できればずっとたいせつに取っておきたい処女雪を、自身が淫蕩に踏み荒らして、制御できない己を呪ったばかりだ。
 仕組みは聞いてもよくわからんが、言いたいことはなんとなくわかる、とミロは頷いた。
 カミュは金属ケースの中から透明な液体の入った小瓶を取り出し、小さな注射器を取り出すと、慣れた手つきで己の左腕の静脈にそれを注入した。
「だが……認可を受けていない薬品の使用はまずいだろう」
「例えばお前に使用したなら違法だが、わたしがわたしのためだけに精製して使用しているだけだ。禁じる法はない」
 青白いカミュの顔にはまだ薄らと汗が滲び、注射器のシリンダーをケースにしまう指が微かに震えている。
「法に触れる触れないではなく、ミロはあなたの身体を心配してそう言っているのですよ、カミュ」
「……ムウ」
 突然に割って入った声は、保健室の主だ。
 白衣を引っかけるようにして入って来た彼は、入り口付近へ滴ったまま、既に乾き始めた血の跡に目をやりながら、二人のいるベッドの傍へとやってきた。
「すまない、ムウ。出勤中に頭痛がひどくなってな……少し休ませてもらう予定がトラブルが起きた。今、ミロに抑制剤を取ってきてもらって打ったところだ。もう治まる」
「トラブル?」
 血の跡を振り返ったムウが片まゆを上げた。
 まさかオメガを、という表情で青ざめた彼に、ミロは片手を上げた。
「誤解はするな。お前が想像したようなことは何も起きていない。……だが、まあ、危なかった」
「抑制剤なしのオメガが校内にいた、ということですか?」
 ムウの素朴な疑問にミロもふと首を傾げた。
 氷河はカノンには「飲んだ」と答えていた。保健室に入る直前まで変わった様子はなかったのだから、その言葉に間違いはないのだろう。
 保健室に入るまで……?
 では、なぜその氷河は保健室に入ったとたん、急に様子がおかしくなった……?
 カミュの先ほどの説明では、アルファはオメガの発情なしで単体であんな発情を起こすことはない。ミロもおかしくなったが、氷河が先に発情したことが原因だろう。
 問題は、抑制剤を飲んでいた氷河がなぜ突然あんな激しい発情状態に陥ったか、だ。

 ミロは、ちら、とカミュを見た。

 ───いや、だが、カミュとて、水泳部の顧問として、化学の教師として何度も間近で氷河とは接しているはずなのに、未だ彼がオメガだと知らないということはこれまで何の問題もなかったのだろう。まだ、カミュが原因とは限らない。
 今日に限っておかしくなったのはなぜか。
 なにかいつもと違う要因があったはずだ。

「………カミュ、ひとつ聞きたい。お前、その抑制剤とやらは切れ目なく打っているのか」
 ムウの問いには答えず、カミュにそう問うたミロに二人の視線が集まる。
「切れ目なく、とはどういう状態をさすかはわからないが……抑制剤は化学準備室にしか置いていない。安易に持ち出しもできないからな。出勤してすぐと帰宅前には必ず打っているが……ああ、週明けだからそういう意味では抑制剤の効果はもうなかったかもしれない。人が来る前にすぐに打つつもりが、今朝は頭痛があまりにひどく先にここで休んでいたから、打つのが遅れたが」
 それが何かと首を傾げているカミュは、そろそろさきほど打った抑制剤が効き始めたのか、いつもの涼やかな表情だ。
 だが、ミロは、ぐっとせり上がった吐き気を堪えるために片手を口元へやった。

 カミュだ。

 氷河は自分でそうと知らず、普段は抑制剤で完全に抑え込められていたカミュのアルファとしてのフェロモンを今日初めて感知したのだ。

 オメガの抑制剤を服用していてなお特別に嗅ぎ分けたその意味は──

「ミロ?あなたも具合が悪いのですか?少し休みます?」
「…………いや、いい」

 そう言えば、ミロがもう感じない氷河のフェロモンをカミュは「まだ残っている。抑制剤なしではつらい」とも言っていた。
 ごく稀に存在する、魂で繋がる特別な、アルファとオメガ──
「ミロ、でも、あなた顔色が少し、ちょ、ミロ、ミロ!」

 ムウの声を背に、ミロは保健室を後にする。

 脳裏には、おねがいだから噛んで、と懇願して差し出されたうなじの白さが去来し、心臓は酷く熱く脈打っていた。