お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)
オメガバース設定の学園もの妄想。カノ氷に始まり、ミロ氷を通って、最後はカミュ氷。
特殊な設定のため、社会規範に反する記述も登場しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。完全なる異世界ファンタジーとしてお読みください。
◆トキメキ☆聖闘士学園~なんちゃってオメガバ~ ⑧◆
さて。
本日の家庭科の時間は、調理実習である。
一応れっきとした授業ではあるが、難解な古典を読み解いたり、難しい数式に頭を悩ませたりすることに比べると娯楽要素は強く、午後からの2時間を通して調理実習、その後はもう放課後を待つだけ、とあって、実習室はきゃっきゃと生徒たちの歓声であふれていた。
氷河はというと、正直、どうでもいいというか、興味がないというか、サボって保健室や校務員室に行っていないだけましというか。(サボりの時の行き先に化学準備室はさすがに憚られる)つまりは、面倒くさいな、と思いながら、ぼうっと椅子に座っていた。
ちなみに本日作るものはカップケーキらしい。家庭科教師のシュラが材料と分量、気を付けるべきことを説明している。
あまったるい匂いが既に充満しているが、その、きついバニラの香りで、自分の匂いを気にしなくていいところだけはいいが、材料やらオーブンの温度やら覚えたところで、絶対に自分では菓子作りなんかしないに違いない。普段の生活に役に立たないものを覚えても仕方ない。
数人の班ごとに分かれて作業が始まっているが、氷河は単語帳でもこっそり開こうか、と考えながらあくびをした。
「氷河ったら」
くす、と隣で笑ったのは瞬だ。
星矢に次いで、比較的氷河と話をするクラスメイトだ。やさしくかわいらしい顔立ちと仕草に、はじめ、「ここの学園は女生徒も男子の制服を着てもいいのだな」と誤解したが、れっきとした男子生徒だ。
「そんなに堂々と退屈そうにしないの。シュラ先生、怒っちゃうよ」
「……別にいい。菓子が作れなくても生きていくのに支障はない」
はっきり言いすぎ、と瞬は笑った。
「でも、一応ちゃんとやろ?ね?」
瞬の「ね?」は、全人類で一番清らかな笑みに見えるのに、結構な押しの強さで、どういうわけか氷河はこの笑顔にめっぽう弱い。星矢にだったら、俺はいいよ、面倒くさい、と言ってすませるところを、わかった、俺は何をすればいいんだ?などと言って頷いてしまう。
氷河が大人しく従ったことが珍しいのか、同じ班の女生徒が目を丸くして肘でつつきあっている。
「まずは材料を量るんだよ」
瞬に言われて、キッチンスケールの上に目分量で適当にカットしたバターを乗せた。10g多い。が、大は小を兼ねるというからまあいいか、とそのままボウルへ投入しようとすれば、向かいの女生徒が悲鳴を上げた。
「……なにか」
「お、お菓子づくりは適当はダメなの!材料は正確に!」
「…………でも、たった10gしか違わない。誤差の範囲だ」
「10gも!違うんです!出来上がりが全然違うの!!」
鬼気迫る様子に、氷河は瞬に向かって小声で「成功しないと死ぬのか、これ」と聞いてみる。出来が良かろうが悪かろうが、どうせ腹に収めれば同じだ。多めに切ってしまった10gを無駄にするほどの差異があるとは思えない。
ううん、と瞬が笑って首を振り、そしてこっそり氷河に耳打ちをした。
「あのね、上手にできたら、みんな、好きなひとにあげたいんだよ。だから必死なの。わかってあげよ?」
好きなひとに??と氷河は首を傾げる。周囲を見回して、くすくすと笑いあう女子生徒と、そわそわする男子生徒の姿に、はあ、なるほど、とうっすら理解した。あれか、バレンタインの延長みたいなものか。
そう言われてみれば、他クラスの女生徒から、調理実習の余りをよくもらうなと思っていたが、あれは、俺がよほどひもじそうに見えているのだと思っていたが、もしかして、違う意味のものがいくらか含まれていたのだろうか。
「僕もアフロディーテ先生にあげようと思って。あ、僕は、好きとかそういうことじゃなく、ね。ほら、いつもお世話になってるし」
瞬は園芸部なのである。
それなら少しは作るのも楽しくならない?氷河は誰かあげたいひといないの?と聞かれ、俺は……と氷河は考え込んだ。
真っ先に脳裏に浮かんだのはカミュだ。
何回か弁当のお下がり(?)をもらったが、お礼らしいお礼をしていない。カミュは、ゴミになるところだったのだからいい、と言うのだが、それでも、氷河の方は嬉しかったのだからお礼をしたいとは考えていた。改めて何か礼をすると困らせてしまうだろうが、調理実習で作った、というのなら気兼ねなく受け取ってもらえるかもしれない。
だったら……
「わかった、10g減らせばいいんだな?」
もう一度、キッチンスケールを取り出した氷河に、班員が一斉に、うんうん、と強く頷いた。
なるほど、目的ができてみれば楽しいものかもしれないな、と氷河は俄然やる気になって、次はなんだ、と瞬に訊く。(やる気は出たが、だからと言って菓子の作り方を覚えるつもりもないので自分では調べないのである)
小麦粉をふるって、と言われ、振り回したら零れるだろう?と首を傾げたところ、女生徒たちに、えっ、篩だよ、知らないの?かわいい、などと、きゃあっと歓声を上げられたものだから氷河は赤くなった。
普通の男子高校生は小麦粉などふるったことがないはずで、あっちこっちで同じ疑問が生まれているのだが、なぜ自分だけそんなに騒がれてしまうのかわからない。クラス中の女生徒の視線が集まって恥ずかしいことこの上ない。
なるべく雑音を遮断して、瞬に使い方を教えてもらったとおりに無心になって白い粉を篩にかけながら、そういえば、と氷河は思う。
ミロ、甘いもの食べるかな……
結局、毎晩の送りは続いている。
学校では一切そんな素振りはないのに、酒精が入ると、なのか、それとも、オフだと誰に対してもそうなのか、ミロは、人との距離が近くてすごく困る。送りの電車の中で、やたらと密着して囁かれるとひどくドキドキして、抑制剤が効いているのかどうかさっぱりわからなくなる。
「ミロ、近い……誤解されたら困るのはあなただ」
いくら混んでいる車内とはいえ、少し近すぎではないだろうか、と、彼の肩を押し戻しながらそう言えば、別に誤解ではない、と返された。
えっと驚いて顔を跳ね上げたら、とても教師とは思えないほど甘く弧を描いた瞳と目が合って、跳ね上げた勢いと同じ勢いで氷河は顔を俯けた。
くすりと笑った吐息が耳にかかって、もうどうしようもなく身体が熱い。揺れた拍子に唇が触れたりなどしたら、抑制剤の効果なんかなくなってしまうことはわかっている。
多分、からかわれているのだ、と、思う。
そこはかとなく好意を感じるような気がするが、氷河の方が本気にしたらその瞬間に、あの甘い笑みはすっと消えて、君はただの生徒だ、と線を引かれてしまいそうな怖さがミロにはある。だから、どれだけドキドキしても、勘違いしないように、と氷河は常に自分に言い聞かせている。
「氷河、いくついる?5つも6つもは無理だと思うけど、3つくらいまでなら分けても大丈夫そう」
いつのまにか材料の全てを混ぜ合わせてすんでいたボウルを片手に、瞬が、紙でできたカップケーキの型を並べ、そう問うた。
「……………1つでいい」
少し悩んでそう言って、だが、クリーム色のタネを型へ流し込む瞬の手つきを見ているうちに気が変わって、「やっぱり2つ」と氷河は言い直した。
別に、ミロに、とかそういうのじゃないから。
俺も食べてみたいって思っただけだから。
なんとなく、ざわざわする心によくわからぬ言い訳をして氷河はオーブンの蓋を開けたのだった。
*
「あの、氷河、くん、」
実習が終わればもう放課後だ。部活へ急ごう、と氷河が廊下を歩いていた時だ。
呼び止められ振り向いた先にいたのは、班は違えど、さっきまで同じ教室でカップケーキ作りにいそしんでいた女生徒である。
氷河の方から級友と口をきくことはなく、集団で取り囲まれることはあっても、一対一で話しかけられることもまれであるから、呼び止められたこと自体に驚いて返事もせぬまま立ち止まれば、女生徒は、呼び止めておきながら、赤くなってもじもじと俯いた。
彼女の手には、さきほど作ったカップケーキが可愛くラッピングされたものが握られている。
みんな用意周到に包装まで持ってきているのだな、と感心した氷河がそんなものを持っているはずもなく、氷河の分は、透明フィルムにリボンをかけるところまで含めて全部瞬が世話を焼いてくれた。
既に、氷河が作ったとして渡すにはだいぶあやしい代物になっているが、まあ、お礼代わりに渡すのだから下手に氷河の手を入れて不格好にするより失礼ではないだろう、と、一応、希望通りに2つ、これまた瞬が分けてくれた紙袋に入れてある。
「あの、これ、を、」
もじもじと俯いていた女生徒が紙袋を差し出して、意を決したように顔を上げた。
「ミロ先生に、渡したいの」
………………ええと。
だから?としか言いようがない状況である。がんばれ、と励ますべきだろうか、と氷河が悩んでいると、彼女は、「氷河くんから渡してくれない?」とあまりにも予想外の台詞を言い放った。
「……なんで俺?」
当然である。
だって担任だ。氷河にとって担任だということは、級友の彼女にとっても担任なわけで。
わざわざ氷河を介する意味がわからない。
───まさか、毎夜、ミロと校外で秘密に会っていることがバレているとかなのか!?
当然そのことに気がついて氷河は激しく動揺する。
「じ、自分で渡せば…」
「だって……先生、こういうの、受け取ってくれないもの」
ああ。
バレンタインの例で言えば、確かにミロは受け取りそうにないが(俺の「礼」も、もしかしなくても無駄になるな、これは?)……いや、調理実習の余りって言えばさすがに受け取るか?どうだろう。
「女子からだったらきっと断られると思って……あの、だめ、かな」
理屈は少し理解してきたが、それにしたって男子生徒はほかにもいる。
「野球部の奴とかの方が……俺はこういうのは……」
ミロとは、少なくとも学校では生徒と担任、それ以上でもそれ以下の関係でもなく、己が、こうした類の取り持ちには甚だ不適だという自覚もある。
「野球部の人はみんな、こういうの、先生に取り次がないように言い含められているの。その点、氷河くんなら警戒されていないし……」
警戒って。
これ、一応、好きだから渡したいって話、なんだよな??
まるで暗殺ターゲットにガードの隙をついて極秘裏に近づく方法を相談されているかのような言い方に、一瞬自信がなくなる。
赤い顔をしたまま、お願い、と必死に差し出された紙袋に入っているかわいいカップケーキの中に毒でも入っていたりはしないよな、と若干失礼なことを考えて氷河はたじろいだ。
「いや、でも、俺は……」
紙袋の中には、何やら、手紙らしき封筒が一緒に入っているのが見えている。
暗殺予告文書にしろ、恋文にしろ、そこまでして渡さねばならない大事な意味があるものならなおさら自分には無理だ。
「悪いが俺はそういうのは……」
だが、廊下を行き交う生徒たちにはこの図はどうも誤解を招いてしまったらしく、冷やかすような視線を投げて、「受け取ってやれよ!」「モテる男はいいよな!」などと野次を飛ばしてくる。
「どうしても、だめ?」
野次に対して、誤解を解くこともせず、むしろのっかるかのように、うっすらと瞳を潤ませて見上げてくるのは、ずるい、と思う。
女の子を泣かせてしまった、という罪悪感がすごい。
最終的に氷河は、「受け取ってもらえるか保証はできない」という条件つきで、しぶしぶ、彼女から紙袋を預かった。
預かった次の瞬間には、「やった!だめなら氷河くんが食べてくれていいから!」とケロリとされて、やめとけばよかった、と激しく後悔する羽目になるのだが。
こんなものをバーまで持って歩くのは気が重い。できれば校内にいる間に片付けたい。
ミロは、部活に出ているだろうか。
氷河は、はあ、とため息をついて、グラウンドを目指す。
*
グラウンドへ行き、野球部の生徒たちにミロ先生はどこだと聞けば、体育倉庫の近くで捕球ネットの補修をしているはずだけど、と返ってきた。
礼を言って、足早に校舎をぐるりと回って、中庭にある体育倉庫へ向かえば、果たして、そこにかの人の姿はあった。
ジャージ姿で髪をひとつにまとめたミロが、中庭の地面に広げた捕球ネットのそばにかがんでいる。つくづく、何を着ていても似合う人だ。着るもので印象が変わる、と言ってもいい。今は、少し悪い遊び人でもお堅い数学教師でもなく、爽やかなスポーツマンってところだ。
お誂え向きに周囲には人けがない。
誰かが来る前に、と氷河は急ぎ足てミロに近づく。
「ミロ、いや、あの、ミロ先生、」
なんとなく小声となってしまった氷河を振り返って、君か、とミロは少しだけ驚いたような表情を浮かべた。氷河が学校でミロに話しかけることはないからだ。元々、教師に懐こく寄っていくタイプではなかったが、毎夜、校外で秘密の時間を共有するようになってからは、なるべく視線すらも合わせないようにしている。
どうした、何かあったのか、と手をはたきながら立ち上がる、その気づかわしげな表情にドキリとして、氷河はどういう態度を取ればよいかわからなくなって、少し頬に血を上らせて視線をさまよわせた。
「あのさ、今日、5、6限が調理実習で、」
「ああ……甘い匂いがしていた」
「そう、それ、作ったんだけど、俺、ていうか、みんな、」
「知っている。俺のクラスだからな」
「そっか、そうだな、だから、えーと、あるんだ、そういうことで、今ここに、」
慣れないことなどするものではない。どう説明すればいいのかわからずに、しどろもどろとなって氷河は、預かった紙袋をミロの目の前に掲げた。
「こ、これを、先生にあげようと、……っと、あ、違う、俺じゃない、俺じゃないんだ、これは。俺のはまた別にあって、あ、それは今はどうでもいいんだけど、これは、だから、渡すように頼まれて、あー、と、誰だっけ、名前は忘れたけど、このくらいの髪の女子で、なんというか、作りすぎて余ったっぽい?から、いや違うか、残り物じゃ失礼だな、今のはなしで、残り物ではなくてわざわざ残したというか、だからおすそ分けというか、あ、わざわざ残しておすそ分けも変なのか、あー、まあ、つまり、好きな人に渡したいっていう文化があるらしく、あ、いや、俺は違うけど、俺のはそういう意味は全くないけど、みんながそう騒いでいたし、あなたはとても人気があるから、多分そうなんだろうと思うが、無理ならばもちろん仕方ないが、ほかの先生は他意なく気軽に受け取っているし、あまり難しいことを言って冷たくするのはかわいそうというか、調理実習の余りくらいは受け取ってあげてもいいような気がして、まあ、とにかく、頼まれて俺も困っているわけで、俺を助ける意味でも受け取ってもらえたら、」
多分、仲立ち役としては最低も最低の部類に属しただろう。
氷河なりに彼女の役に立てるよう難攻不落と名高いミロを精いっぱい説得するつもりが、途中から自分でも何を言っているかわからなくなってきて、早くミロが何か言ってくれればいいのに、と、ちらりと視線を上げると、さっきまでの柔らかな表情は消え、すごく冷たい視線がこちらに向けられていて、氷河は思わず声を失った。
しんと沈黙が下りる。
ありがとう、などと喜んで受け取るとも思ってはいなかったが、ここまで不機嫌に黙り込まれるとも思っていなかった。教師の堅さを崩さないまま「俺はそういうものは受け取らない主義だ」と断固として拒むか、悪い顔をしてニヤリと笑って「君からはないのか」とからかわれるかすると思っていたのだが。
真剣に怒っているのかすごく空気が強張っている。
「あ、の、て、手紙だけでも読んであげるとか、」
そこまで彼女を応援しているわけでもないのに、沈黙がいたたまれずに、何か言わなければ、と無理に紡いだ声が勝手にそう言っていた。
ミロが何か言ってくれないと退き際がわからない。そもそも、何がそこまで地雷だったのかもわからない。
「先生、あの、」
氷河を見つめていた冷たい瞳が、ゆっくりと瞬く。
「俺に、それを受け取れ、と」
「……無理に、とは言わないが、できれば。……そう、頼まれたから……」
「それで?受け取ってどうすればいい」
「……………食べ物だから、食べたらいいと思うけど」
「俺がそうしたとして、君は何も感じないのだな」
「え、俺……?俺はだって関係ない……」
いいもなにも。
ミロがすることに氷河が口を出せるわけはない。
氷河はただ、預かったものを頼まれたとおりに渡しに来ただけだ。
やがて、ミロは、は、と息を吐き、『関係ない』、か、と肩をすくめた。
「悪いがそれは君から返しておいてくれ。他意があろうとなかろうと生徒からは何も受け取れない」
ピシリと厳しく叱られたように感じて、身を竦ませ、俯きかけた氷河の頤へミロが指をかけて上向かせる。
「『生徒』からは、な」
唇が触れそうな距離でそう囁いたミロの瞳が氷河をまっすぐに捕えている。
どこかで、「ミロ先生―」と呼ぶ声が聞こえて、ハッとして、氷河は慌ててミロから逃げるように飛び退った。そしてそのままくるりと背を向ける。
な、なんだ、今の。
酒精混じりの常連客のからかいなら、夜の街にありがちな冗談にして受け流すこともできるのに、今は、全然、まったく、シチュエーションが違うわけで。
どういうつもりなんだ、ミロ……。
中庭を横切って逃げ出しながら、ばくばくと心臓は跳ね回り、吐息が撫でた頬はどうしようもなく熱く、ミロの声はいつまでも氷河の耳に響いていた。
*
「……カミュ、いいですか……カミュ?カミュ……?」
トン、と強いノックの音がして、カミュはハッと我に返って振り返った。
「入っても?」
化学準備室の扉を半分だけ開いたところで、養護教諭のムウがそう伺いを立てていた。
「すまない。もちろん大丈夫だ」
中庭に面した窓から少し身体を離して、どうかしたのか、とムウに問えば、逆に、あなたの方こそ何かありましたか、と訊き返された。
「何か、とは?」
「喫煙している生徒でも見つけましたか?ものすごい顔で睨んでいましたよ、あなた。ここ(と、ムウは自分の眉間を指し示した)、まだすごい皺が寄っていますよ」
そう言いながら、ムウはカミュの肩越しに見える中庭を覗き込もうとした。
ここは3階だ。
カミュの肩越しではムウからは何も見えないに違いないが……カミュはちらと窓の下へ視線をやった。
氷河の姿はもう中庭からは消えているが、ミロはまだ体育倉庫前に立っていた。
「いや、なんでもない」
するりと窓の前へ身体を移動させて視線を遮ったカミュに、ムウは、目を細めて意図を窺うようにしたが、やがて、まあいいでしょう、と肩をすくめると、これを、とカミュの前へ手を突き出した。
「昼間、保健室に忘れていきませんでしたか?生徒のものにしてはハイブランドすぎたので……あなたかと」
ピンクゴールドの金属のベルトに独特の書体の数字の大ぶりな文字盤、紛れもなくカミュのものだ。
個性的なデザインは気に入っていたが、その質量に手首を縛られているのすらも今日は苦しくて、ベッドを借りる際に外しておいたのをそのままにしていたらしい。
「すまない、わたしのだ。面倒をかけた」
「いえ、それはいいのですが……体調は大丈夫ですか」
「ああ、今はもう何ともない」
本音を言えばまだ声を出すことも苦痛なほど頭痛が続いているが、立っていられないほどの状態は既に脱している。
「…………口を出すつもりはないですが、医術をかじった身としては、あなたのしていることは推奨できません。危険すぎる。……それ、副作用でしょう」
「少し風邪気味だっただけだ。ベッドを借りたくらいでいらぬ心配されたのではかなわない」
「ですが、カミュ、」
「ムウ、明日の準備をこれからしなければならない。悪いが今日のところは……」
すまないが、と時計を巻きなおしながら、採点せねばならない課題のノートの山へ視線をやると、ムウはため息をついた。
「…………わたしの目から見て、あなたの身体が許容できない域に来ていると判断したならば、当局に通報してでも止めますからね」
「案ずるな。わたしも進んで早死にしようとしているわけではない。十分に気をつける」
だといいのですけど、と、ムウは肩をすくめ、そして、化学準備室を出て行った。
カミュは再び窓の傍へ近寄り、中庭を見下ろす。
校舎の影となって薄暗くなった中庭には、今はもう、誰の姿も見えなくなっていた。
*
落ち着かない気持ちで向かった部活にカミュが現れることもなく、結局、カップケーキは誰にも渡されることのないまま、そのままバイト先まで持ってきた。
多分、首尾がどうなったか気になったのだろう、校門のところで氷河を待っていた女生徒を見つけたときは申し訳なさといたたまれなさで逃げ出したくなった。
「すまない、俺では無理だった」
もっとうまく仲介してくれる奴がいればいいのだが、と、精いっぱいの謝罪の気持ちで頭を下げたが、彼女はなぜか落ち込むどころか、本当に本当に例外なくダメみたいだね、とすっきりとした表情を見せた。
例外はあると言えばあると言っていたような気もするし、受け取ってもらえなかった理由は、氷河の仲介があまりに下手すぎたせいで怒らせてしまったからなのだが、とても正直にそうとは言えない雰囲気である。
いいの、もうこれで諦めついた、それは予定通り氷河くんが食べてくれたらいいから、と、手紙だけ回収した彼女は、じゃあまた明日ね、と帰っていった。
泣かせてしまったとき以上に罪悪感がすごい。
こんなことなら、どれだけ泣かれても断固として拒絶すればよかった。普段の氷河なら、相手が女子生徒だろうが男子生徒だろうが、面倒なことに首を突っ込んだりはしないのだが、なまじ、女生徒たちの憧れの君と外でこっそり会っている(まあ向こうが勝手に通ってきているわけだが)引け目でつい、彼女たちへの罪滅ぼしのつもりで引き受けてしまったのがすべての間違いだった。
そんなわけで、自分が渡しそこなったものと、彼女の分と、合わせて3つ。
バカみたいに行き先のなくなったカップケーキがここにはあるわけで。
とても自分で食べる気にはなれなかった。
部活にカミュが現れていたとしても、渡すような気分になれたかどうかは怪しい。
どうもミロを怒らせてしまったらしいことに落ち込んでいたし、どういう意味であれを言ったのかまだうまく消化しきれずに心臓がドキドキもしていて、多分、きっと、それどころではなかった。
捨てようかとも思ったが、なんとなく、食べ物を粗末にするのも気が引けて、結局、氷河はグラスを磨いているマスターへと助け船を求めることにした。
どうしたの、急に、と目を丸くしているマスターに、うっかり「調理実習で」と言いかけて慌てて口を塞ぎ、「えーと、たまたま材料があったので、」と氷河は言い直した。
「嬉しいけど、3つは多いわあ」
じゃあ、1つだけいただいて(と、一番かわいい包装の──つまりは彼女の作ったカップケーキを取って)、あとは、並べておいて欲しいお客さんにあげようかしら、あなたのお手製って言ったらすぐ売れそうだけど、とカウンターへ並べてにこにこしているマスターに、氷河は、うっと青ざめた。
心臓をえぐる光景だ。
時間を巻いて戻したい。こういうイベントごとは得意ではないのに、どうして今日に限って瞬の言葉に乗ってしまったのか。慣れぬことをしようとしたからこういうことになる。
やっぱり持って帰ります、あんまり上手にできたとは言い難いし、と下げてしまおうと思った瞬間に、チリン、とドアベルが鳴った。
視線をやらなくても気配でわかる。
ミロだ。
なんとなく、今日は来ないのではないかと思っていた氷河は、ドキリとして頬に血を上らせる。
いつもの定位置、カウンターの端まで進んだミロは、スツールに座るなり、
「バーボンをショットで」
と言った。
ショットグラスに注がれた琥珀色の液体を一息で空にして、同じものを、と言うミロに、マスターが、どうしたの、何かあった?と、訊いている。
カウンターの上へ置かれたままの2つのカップケーキにミロの視線が注がれているのがわかり、氷河は逃げたくなった。
マスターがミロの視線に気づいて、この子が作ったのですって、甘いもの平気ならいかが?と訊いている。
触れないで欲しかった、特にミロの前では。全部自分が悪いわけだけれど。
訊くだけ訊いて、まだ返事もないうちに、マスターはほかの客に呼ばれてカウンターを出ていく。
カウンターを挟んでミロと二人きりになって、氷河は困って俯く。
「……君がつくったのか?」
グラス越しにそう問われて、知っているくせに、と氷河は俯いたまま頷いた。
「ならばひとついただこう」
そう言って手を伸ばしたミロに驚いて氷河は顔を跳ね上げた。
「待っ……」
既にリボンのかかった透明フィルムに触れていたミロの指を止めるように思わず掴んでしまう。
動きを止めてミロがじっと氷河を見つめる。
「…………なるほど。俺に、ではないわけだ、君のは」
怒ったような低い声に、氷河は泣きたくなった。
ひとつは本当にミロへ渡すつもりだった。
でも、ミロは一切受け取らないって言った、から。
……例外はあると言ったけど。もしかしたら、もしかして、「今の」氷河を指して例外と言ったのかもしれない、と、自惚れたい気持ちもあるけど。
でも、もし、もしも、その例外がこれなのだとしたら、こんな、誰でもご自由にどうぞ、みたいに転がしてあるのをミロが自ら取るのは絶対に絶対に違うと思ったのだ。
「違う、そうじゃない……」
首を振った氷河に、ミロは、鈍くて気づいてやれずに悪かった、気にするな、と肩をすくめて、手を離した。
誤解だ、誤解だけど、どう説明しても正確に伝わる気がしない。
ああ、今日は本当になにひとつうまくいかない。
もう一杯くれ、と空になったショットグラスを返すミロに、少しペースが早いような気がするけど、と小さく言えば、「一日で同じ相手に二度振られたんだ、やけ酒くらいいいだろう」と返された。
振られた、って、誰に。
二度っていつといつ。
今日、毅然と振っていたのは、ミロの方なのに。
氷河の方こそ、振られたみたいに、すごく胸が痛くて泣きたくて困っているのに。
どうしていいかわからない。
どうにかいつもの彼に戻って欲しいと思うけれど、今日の自分は何をやっても裏目に出るのだ。
氷河は黙ったまま俯いて、もうすっかりピカピカになって照明を反射しているグラスをひたすらに磨き続ける。
*
先に店を出たはずのミロは、いつものように裏口で氷河を待っていた。
きっと待っていない、多分彼はもう二度と俺を待たない、と思っていたのに、壁によりかかるようにもたれて立つ金色の巻き毛を見つけて、氷河の心臓は音を立てた。
「……ミロ、俺なら大丈夫だから、まっすぐ帰った方が……」
ずいぶんと呑んでいた。
氷河を送るどころか、彼の方が送りが必要になるのではないかと思うほど。
今だって、足元こそしっかりしているが、ゆっくりと氷河へ向けられた瞳は少し焦点が危うくなりかけている。
「別に君のためじゃない。今までだってそうだった」
酷く冷たく響く言葉に一瞬竦みかけ、だが、言葉の裏にある意味を考えて、氷河は視線をさまよわせた。
もう、やめてほしい。これ以上俺を動揺させるのは。
ミロといれば、心臓がおかしいほど鳴って、その上、どうしていいかわからないことばかりが起こる。
「行こう。さすがに今日は走れる気がしない」
氷河に背を向けてさっさと歩き出したミロに、氷河は困って、だから送らなくてもいいって、と何度も言ったが、ミロは聞く耳を持たずに歩き続け、そのまま二人はいつもの終電車へと乗り込むことになった。
ドア横の手すりへ氷河をつかまらせ、人込みの盾となるように氷河の脇へ片腕をついたミロは、珍しく言葉少なだ。眠っているわけではなさそうだが、眠いのか、立ったまま、目を閉じている。
「ミロ、」
俺のためではないならば。
どうしてここまでしてくれるのか。
俺が、裏口の扉を開いたときにオレンジ色の巻き毛が待っているのを見つけて少し気持ちが浮き立つのと同じに、あなたも、もしかして、少しはこの時間を楽しいと思ってくれているのか。
すごく聞いてみたいのに、ミロは目を開かない。
いつもは饒舌に氷河をからかっては困らせるのに、不機嫌そうに少し皺の寄った眉間は何を考えているのか。
「……………先生、」
本当に眠ってしまったのだったらどうしよう、と、あまりにも長く閉じられた瞳に不安になって、ほとんど吐息の密やかさでそう呼べば、長い睫毛がゆっくりと持ち上がって、熱っぽく溶けた蒼い瞳が現れた。
「それは反則だろう」
ルールなんて、取り決めを交わすような間柄ではないのに。
勝手に反則にされるのは、とても狡い。
「……あれ、本当は……本当に、あなたに渡すつもりでいたんだ」
すっかりと氷河の情けなさの象徴みたいになってしまったカップケーキは、結局、2つとも別の客にもらわれていってしまった。
気まぐれに手にした酔客が、いいのか?と言いながら無造作に鞄に突っこんで帰っていくのを、ミロは冷めた目で見ていた。
唐突な氷河の告白に、今更どうでもよかったのか、酔いが回って記憶が朧となっているのか、「『あれ』……?」とミロの瞳が瞬く。
「せん……ミロに、渡そうと思って、それで持っていた」
誤解を誤解のまま明日を迎えてしまっては、なんとなく、この関係は終わってしまう、と思った。否、終わると言えるような確かな関係でさえないが、でも、このまま別れてしまってはきっとすごく後味が悪い。
勇気がなくて……結局渡せなかった、と、視線を伏せると、くくっとミロが引き攣れたように笑った。
「俺にだってことは知っていたさ」
「………え……?」
まさか、もらえなくて拗ねていると思ったのか、発想が子どもだな、君は、と、ミロの肩が笑いを堪えてふるふると震えている。
ミロがいつものように笑ってくれて、膝から力が抜けそうなほど安堵しているけれど、でも、それでは、今も少し寄っている、不機嫌そうな眉間の皺の理由がわからない。
「俺をからかったのか」
「まさか。君ではあるまいし、そんな子どものような真似はしない」
いつもからかって困らせるくせに、と言えば、からかったことなど一度もない、俺は心にもないことは言わん、とまた眉間に皺が寄った。
次の停車駅が近づいたらしく、キーという軋み音をたてて電車が減速し、慣性の法則で前のめりとなった氷河の身体をミロが抱き留める。
急に濃くなった酒と汗の混じった男の香りに、全身に熱が回って、慌てて後ろへ身体を引こうとしたが、氷河を抱き留めた腕がそのまま輪を縮めるように力を込めたので、ミロの胸へ身体を預けたまま氷河は動けなくなった。
「ミロ、あの、」
酒のせいだ。
多分、酔いが回って、立っていることが難しくなってきたから支えがいる、とか。
そう思っていないと心臓が壊れそうだ。
二つ、三つ、停車駅を通り過ぎるたびに人が減っていく。
立っていられないなら、今ならもう座ることもできそうなのに、ミロは力を緩めることはなく、氷河も緊張で指先ひとつ動かせない。
「もうひとつ、あったな」
不意に、低い声が氷河の鼓膜を震わせた。
え?と顔を上げようとしたが、ミロの手が氷河の頭を胸へ押さえつけるように抱いているため、それは阻まれた。
「誰にあげようとしていたんだ」
ハッとした。
カウンターに並べられた、それぞれ、ラッピングされた二つのケーキ。
ミロに渡すつもりだったと告白したなら、当然、もうひとつの行方に疑問がわくわけで。
どうして気づかなかったんだろう。
やっぱり今日の俺は何をやっても裏目に出る。
ドクドクと、違う意味で心臓が跳ねる。
カミュ先生だ。顧問だから。そしてあなたは担任だし。いつも世話になっている二人に、と思ったから。
そう言うのは簡単だし、それが一番自然で誰も傷つかない答えだ。
でも、言いたくなかった。
誰にも知られたくない。からかわれるのも踏み込まれるのも邪推されるのもいやだ。あれは氷河にはとても大切なものだ。
それに、なぜかはわからないが、ひどく後ろめたい。別に、後ろめたく思わなければならないような関係など、カミュともミロとも何もありはしないのに。
『どっちもあなたにのつもりだった』
『マスターにあげようと思って』
『1つは自分用で』
『もうひとつどころかたくさんあって配りまくった』
たくさんの嘘がぐるぐると巡っていたが、どれも、言葉にはできなかった。ミロも、それ以上何も訊かず、車窓はもうすぐ氷河の住む街へと近づいていた。