寒いところで待ちぼうけ

短編:その


12345キリリク作品
お題は「カミュ氷に入りこむ隙のない、氷河へ片思いのミロが、真摯なカノンにほだされているうちにいつの間にか両想いの愛あるお話」でした

カミュ氷、ミロ氷前提のカノミロです。閲覧ご注意ください。

◆星のうた ③◆

 何度目かの杯を触れ合わせて、カノンはグラスを口に運んだ。
 ミロは爪の先で琥珀色の液体に浮かぶ氷をカラカラと弄んでいる。
 カノンが持参したボトルは既に空だ。ミロが新しく持ち出したボトルも残り少なになっている。そのほとんどはミロの胃におさまっていた。
 酒に強いのは体質によるところが大きいが、それにしても年齢のわりにずいぶん慣れた呑み方をする。
 とても昨日今日はじめて嗜み始めました、という呑み方ではない。自分のことを棚に上げていいなら、とんだ不良の黄金聖闘士があったものだ、と呆れたくなるところだ。

 まるで水でも飲む勢いで次々に杯を重ねてはいたが、ミロの酔い方は、絡むでなく、泣くでなく、説教するでなく、やはり彼らしく、ずいぶんさっぱりしていた。
 ただひとつの問題点を除いては。

 見た目は大して変わらない。
 酔いが回るにつれてほんの少し饒舌になる。
 何度か一緒に呑むうちに、最初の内はどれだけ酔っても見せていなかった本音を、最近では素直に吐露するようになっている。会うごとに引き出される本音は、鎧を一枚ずつ剥ぎ取っているようで、正直、そこまで踏み込むことを許されているとは、とカノンの胸をじんわりと甘く疼かせるのだが、問題はそこではない。

「氷河は俺を好きなんだ。あれは単に自覚がないだけだ」
 もう何度も聞いたセリフを、今夜もまたミロは繰り返す。
 この話が出始めたら、かなり酔いが回っているな、とわかるくらいに、いつも同じだ。
「根拠のない自信だな」
「なに?根拠ならあるぞ」
 だらしなくソファの背へ身体を預けていたミロが、がばりと身を起こす。そして、カノンににじり寄り、がしっと肩に腕を置いて引き寄せた。
「見ただろう?お前だって。俺とキスした時の氷河の顏を」
 そう言うミロの唇がカノンの頬に触れそうなほど近い。

 これだ、問題は。

 多分元々、人と距離をとってつきあうタイプではないのだろう。『何を考えているのかわからない』と称されることは彼にはないに違いない。もちろん、考えていることを全て口に出すような明け透けさはないが、それでも、カノンが抱えているような複雑に屈折した何かは彼からは微塵も感じられない。気持ちの良いほどにミロの好き嫌いは非常にはっきりしている。
 だから、我が同志よ、と一度認めたからには、たとえ、カノンがミロの耳に痛い指摘をしたとて、恋路を邪魔する障壁だったとて、何の警戒も敵愾心もなく、まるで長年の友のような親密さと距離感で接する。自分の物差しからすればあまりに近い距離感をするりと許されたとあっては……勘違いもしようかというもの。
 始めて酒を酌み交わした日、酔ったという自覚なきままに、『同志』に対するにしてはずいぶん親密な距離で、カノン、と呼ばれて、今にして思えば、めでたいことこの上ないが、カノンはすっかりと読みを誤った。
 酒の力は怖い、あのミロですらこうも簡単にガードが緩む、と、焦点の合わぬ瞳でカノンを見つめるミロを押し倒してみれば、酔っ払いとは思えない俊敏さで逆にのど輪を押さえて締め上げられた。
 何の罠だ、いったい。

 今もミロはカノンの顏のすぐ横で、なア、聞いているのか?とアルコール臭い呼気を撒き散らしている。
 一見いつもどおりに見えるくせに(実際、大部分の点でいつもどおりのくせに)、ほんの少しだけ赤くなった目の縁だとか、易々と境界を越えてくる距離感だとか───反則もいいところだ。
 わかりやすく酔われるより、自分にだけわかる僅かな変化というものにカノンのような人間は弱い。
 まるで自分が『特別』になったような。

 カノンはミロの額を手のひらで押し返しつつ、ため息を漏らした。
「お前が構うと氷河が顔を赤くするから、か?ずいぶん浅い根拠だな。百歩譲ってお前が言うことが正しいとしても、氷河にはカミュがいる。いい加減諦めたらどうだ」
「カミュがいるからと言って何故諦める必要がある」
「普通は諦めるものだ」
「お前に『普通』を語られるとは思わなかったな。氷河がカミュを好きならそれでもいいさ。───でも、あれは俺のものだ」
 高揚していた気分が萎えたのか、低くそう言ったミロは、カノンの方へ乗り出していた身を元に戻して杯をあおる。
 カノンはそこへ再び酒を注いでやった。

「お前が好きなのは、本当はカミュの方だろう」
 あまり聖域の中のことに関心を払ってこなかったカノンだが、二人の幼い頃はいくらか知っている。十二宮の守護者は歳の近いものばかりだが、気の合う合わないはやはりあるもので、宮の位置に関わらず交流する相手は概ね限られている。カノンの知る限りでは、二人はそれなりに仲が良かったはずだ。
 共に女神を護ると誓った相手に、もしかしたら女神以上の大切な存在ができたと知って、ミロはきっと一度は弟子にカミュを取られたような寂しさを覚えたはずだ。普段の彼らしくなく、あまりに強引なやり方で氷河を構うのは、その腹いせにも見えなくはない。
 だが、ミロは驚いたように片眉をあげ、それから引き攣れたように笑った。
「確かにカミュのことは好きだが、手に入れたいのとは違うな。俺が欲しいのは氷河だけだ」
「何故そんなにまであの小僧に拘る」
 確かに、時々はっと目を奪われるほどの涼やかな美形だ。
 だが、まだ大人になりきる前の青い果実でしかない。ミロほどの男がそこまで執着する理由がわからない。殺意すら翻して見せたあの柔軟性はどこへ行った。
「だってかわいいだろう?あの坊やは」
「かわいいだけならほかにもいるだろう」
「いない。氷河の代わりはどこにもいない。特別なんだ、俺にとっては」
「お前と戦ったからか?聖衣に血を与えたとも言っていたな?」
 聖闘士だ。戦うたびに相手が『特別』になっていたのでは、とんだ多情家だ。カノンなど戦った相手も数も覚えていない。
 ミロは答えず、また杯をあおった。
 そろそろ止めるべきかとカノンは注ぎ足すのをやめたが、ミロは勝手にボトルから自分のグラスに酒を注ぎ、ついに空になった2本目のボトルを確認するように振った。
 迷うことなく3本目を取りに立つミロの手を、待て、とカノンは引いて止めた。
 全く酔っているように見えなかったミロだが、そんなに強い力で引いたわけでもないのに簡単にカノンの腕の中に倒れ込んできた。
「今日はここまでだ」
「……まだ酔っていないぞ」
「わかっている。お前は酔っていない。だが、俺が限界だからもう勘弁してくれ」
 ミロはカノンの腕の中で「それでも黄金聖闘士か。不甲斐ない」と目を閉じて笑った。さらりと黄金聖闘士だ、と呼ばれたことは、ハッとカノンの胸を衝いたのだが、カノンに小さな衝撃を与えるだけ与えておいてミロは、そのままカノンの腕の中ですうすうと寝息を立てはじめた。

 これだから。

 ミロが氷河を特別だと言うように、カノンにとってミロも唯一無二の特別な存在なのだ。もしかしたら、もっとずっと切実に。

 無防備に目を閉じていてもなお、凛々しく結ばれた薄い唇を、カノンは親指でなぞる。
 ……今どき小娘でも、なんだって?
 隙だらけだ、お前は。
『夜這いに来た』と宣言した俺の前でこれはない。
 それだけ信頼されているのだと言えば聞こえはいいが、多分、真の意味では理解していないのだろう。己が氷河に対して切望するのと同じ情欲を向けられる対象になりうることを。
 ずっと真っ当に生きてきたお前らしい。


「……俺にしておけ、ミロ」
 聞いていないのを承知で声に乗せる。
 せめてもう少し届きそうなものを求めているなら、身を引いてもやれるが、酔うたびに呪文のように「氷河は俺が好きなんだ」と自分で自分に言い聞かせているのは見ていられるものではない。
 嫉妬、苛立ち、孤独感……負の感情がどんなふうにその心を苛むか俺はよく知っている。お前にそれは似合わない。

 カノンはミロの肩にかかる巻き毛を指に絡めてそれを指先で弄ぶ。ミロの胸が規則正しく上下している。本格的に寝入り始めたようだ。
 カノンは身体をずらして、ミロの背と膝裏に腕を差し入れ、抱き起した。
 そこまでしてもミロが目を醒ます気配はなく、力の抜けた体躯はずしりと重い。
 カノンより僅かばかり小さいとはいえ、鍛え抜かれた筋肉質の体躯は腕二本で支えるには少し無理がある。仕方なくカノンは、ミロの身体を、荷のように肩に担ぎ上げた。
 重いことには変わりないが、腕だけで支えるよりはいくらか安定して運べそうだ。
 さて、寝室はどちらだろうか、とカノンは立ち上がる。

**

 寒い。
 僅かに身震いしてミロは覚醒した。

 ブランケットもかけずに服のままでベッドの上へ横たわっている自分を発見し、寒いはずだ、とミロは合点した。
 落としたか、と、その存在を求めてミロは床の上へと手を伸ばす。
 慣れた障り心地の布が指先に触れ、やれやれ、これでもう少し惰眠を、と引っ張り上げようとすれば、どうしたことかそれは重い抵抗を返した。

 ……?

 怪訝に思い、目を開いてミロはブランケットの行く先を追う。
「……カノン。なにやってんだ」
「あれだけ呑んでよく普通に起きられるな、お前は」
 その言葉で昨夜の記憶が徐々に甦り、だが、甦ると同時にミロの頭には盛大な疑問符が生じる。
「宮に帰らなかったのか?それにお前のその格好は一体……?」
 ブランケットを巻きつけて、片膝を立ててベッドサイドに座り込んでいるカノンはたぶん───全裸だ。ミロの疑問も当然というもの。
「これはお前が原因だ」
「俺が?」
 記憶がないほどの深酒で。
 目が覚めたら隣に全裸の人間がいて。
「俺はその……やらかしたか」
「ああ、そりゃあもう。俺も悪かったが、止める間もなかった。おかげでこっちは下着まで濡れた」
「……服を着たままだったのか」
「ああ。出したお前はすっきりしただろうが、こっちは後処理が大変だった」
「そうか……すまん。こういうことを言うのは反則だろうが……俺にその気はない。その、アレだ。氷河と間違ったんだ……間違った、というのはお前に失礼かもしれんが。できればなかったことにしてくれ。悪いが責任は取れん」
 気まずそうな顔で、珍しく歯切れが悪くなるミロに、カノンはちょっと待て、とその先を止めた。
「別に俺はお前に抱かれたわけではない」
「なに?……なら、なぜそんな格好でいる。サガでもあるまいに」
 サガなら理由なく全裸でいても不思議はない、とでも言いたげなミロに、カノンは肩を震わせて笑った。
 そのまましばらく引き攣れたような笑いの発作を堪えていたが、ミロが、いいかげんにしろ、と苛立ちを見せたため、カノンはどうにか笑いを飲み込んで言った。
「咄嗟にそっちの失敗だと思ったお前の下半身事情を詳しく聞いてみたいところだが……昨夜に限っては何もなかった」
「もってまわった言い方をするな。だったら、」
「お前が原因だが、そもそもは俺の判断ミスだ。お前を運んでやろうという親切心を出したのが仇となった。しこたま飲んだ後に肩に抱えたもんだから、腹が圧迫されて、お前は吐いた。気づいた時には俺の背中はぐっしょりだ」
 それは。
 そっちはそっちでいたたまれないと言うか申し訳ないと言うか。
 酔って吐くことなどめったにないのだが、そのレアケースがよりによって人の背中とは。
「……すまん」
「いや、俺のせいだ。どうせ酒しか収めていなかったから濡れただけだ。まあ、ボトル2本分だから量はあったがな。……それだけ人の背中を濡らしておいてお前が無傷なところがお前のお前たる所以だな。着替えを借りようかと思ったが何しろ下着まで濡れたんでな。すまんが勝手にバスルームを借りて干してある」
 バスルームに情けなく一枚だけ干してある下着をミロが思い浮かべた瞬間、カノンと目が合い、二人は同時に吹き出した。
 しばらく、腹を抱えて痙攣のような笑いを爆発させる。

 もうこれ以上は笑えない、というほど笑った後で、ミロはカノンの肩を慰めるように叩いた。
「『夜這い』どころでなくて悪かったな」
 俺が何をしに来たと言ったのか、まんざら忘れていたわけでもないくせにあれなのか、とカノンは呆れ、鼻に皺寄せて唸る。
「昨日のお前は小娘以下だった。俺がその気ならいかようにもできた」
「小娘以下とは言ってくれる」
「いや、断言できる。小娘でももう少しまともな警戒心はあろう。昨日のお前の立場が氷河だったとしてみろ。お前なら無防備に腕の中で眠ってしまった氷河を前にどうする」
「……少なくとも俺は床では寝んな」
「それが答えだ。少しは自衛してくれねば、俺もいつも自制できるとは言い難い」
 カノンのため息交じりの言葉を、ミロはひどく不思議そうに聞いて目を眇める。
「もしかして、お前、本気で俺を抱きたいと思っているのか」
「そう言っている」
「性欲処理ならもっとほかに手ごろな相手がいるだろう」
「性欲処理なら、な」
 違うのか……とミロは渋面を作った。
「だったらなおさら無理だな。俺は男に抱かれて喜ぶような趣味はない。ほかを当たってくれ」
「氷河はどうなんだ」
「なに」
「氷河がもともと男に抱かれて喜ぶような趣味があるとでも?」
「………」
「自分には許さぬものを氷河には強いるのか、お前は」
 多分、痛いところを突いたのだろう。鮮やかな身のこなしゆえか、常に口元に浮かべている余裕の笑みのせいか、一見、傲岸な人間に見えて、実のところそうではない。それはそれ、これはこれ、と開き直ってしまえぬような生真面目さはミロの根底に流れているのだ。カノンの正論は届いたに違いない。
 ぐうの音も出ないほど言い負かしてはさすがに堪えたか、とカノンが気になるほどに長い時間沈黙し、だがしかし、再び顏を上げたミロはニヤリと不敵に笑っていた。
「そういうお前はどうだ、カノン?俺を手に入れるために抱かれる覚悟はあるか?今すぐその覚悟を見せるなら、お前のものになってやらんこともない」
 言うや、ミロは、僅かに体格で勝るカノンをベッドの上へ引き上げると、両腕を拘束するように組み敷いた。
 カノンは微かに笑って目を閉じる。
「いいぞ。好きにしろ」
 まさか肯定が返ってくるとは思わなかったのだろう。ミロからの返事は相当に時間がかかった。
 カノンの上に跨ったまま、呆然と意味を考えているのか、両手の戒めもいつの間にか緩んでいる。
「……いいのか」
「その程度のことでお前が手に入るなら安いものだ」
「意外だがお前はそっち側の人間か。経験があるのだな」
「あるわけがないだろう。お前だからだ」
「俺が好きなのは氷河だぞ」
「何回も聞いた」
「それでいいのか。言っておくが、抱いたからと言って情が移ることはないぞ」
「俺を氷河と呼んでみるか?それでもいいぞ」
「……それは無理がありすぎる。お前ほどの男が誰かの代用扱いなんかで甘んじるわけがあるまい。何をたくらんでいる?」
「別に何も。何年もサガの影だった男だぞ、俺は。今更、小僧の代わりにされたくらい、小虫が刺したほどにも堪えんさ」
「だが、お前」
「さっきからごちゃごちゃうるさいぞ、ミロ。怖いのか」
「怖いものか。お前のために訊いているんだ、俺は」
「それだけごちゃごちゃ訊けるなら、氷河にも同じように訊いてやれ。お前ときたら毎度毎度、バカの一つ覚えみたいに強引で、あれでは、氷河も」
「黙れ!」
 カノンの言葉をミロは唇で遮った。
 そうしておいて、自分でそのことに驚いたように怯んだ。だが、それも一瞬だった。
 自棄なのか条件反射なのか、重ねた唇の間からまだアルコールの香る舌で輪郭をなぞるように辿り、そのまま、下唇をはさみ、ゆるゆると吸い上げる。カノンは退路を断つように、ミロの頭を押さえつけ、唇を開いてミロの舌に応えるように自分のそれを柔らかく絡ませた。
 互いに主導権を奪い合うように、舌を絡ませ、唇を貪りあう。
 半ば成り行きで始まった行為ではあっても、それは成熟した男の熱を上げるのに障壁とはならず、次第に触れ合う粘膜からもたらされる甘い刺激に、二人を包む空気が淫らに変化する。

 ミロの唇が熱い吐息をひとつ返し、それはカノンの顎から首筋にむかって下りていく。
 そして肩のところまでくると、不意に何かを抉るように舌で皮膚を押した。

 爪痕を。

 スカーレットニードルの爪痕をなぞったのだとすぐにわかった。
 撃った本人にしかわからないほどの微細な紅い爪痕だ。
 カノンの予想通り、ミロはその後も、肩に胸に残る爪痕を一つ、また一つと舌で辿って降りた。
 二つ……五つ……十二……十四。
 そして、ミロは右の脇腹へ舌を這わせ、不意に動きを止めると、身体を起こした。

 熱に浮かされていたようだったミロの瞳が急速にその熱を失っていく。
 ミロは片手で顏を覆い、そのまま髪をかき上げた。
「駄目だ、カノン。お前では代わりにならない」
「さすがに代用にするには無理があったか」
「見た目の問題ではない。俺は氷河の見た目を気にいっているわけじゃない。それだけでいいなら代わりはいくらでもいる」
 ほう…?とカノンはゆっくりと腕を組んで頭の下に差し入れ、ミロの言葉を待つ。

「アンタレスだ。俺が氷河でなければならない理由は」

 それだけ言ってミロは黙ってカノンに背を向けた。

 アンタレス───?
 意味がわからない。
 ただ、こちらに向けたミロの背がずいぶん寒そうに見えたから、カノンは身を起こして、後ろから包み込むように背を抱いた。
 ミロはそれを厭う様子も見せず、カノンの体躯にもたれるように、四肢を弛緩させ(つまり結局警戒心は引き出せぬままか)、息を吐く。

「氷河に俺はアンタレスを撃った」

 刹那、カノンの全身の細胞は、あの、耐え難い激痛の記憶に軋み、だが、すぐにそれは嫉妬とも羨望ともつかぬ疼きへ変わり、最後にはその言葉の持つ矛盾への疑問となって眉間に深い皺を刻むことに収束した。

「アンタレスを受けて生きていられるものなのか」
「まさか!…………俺が助けたんだ。死なすには惜しいと思った。からかえばすぐに赤くなるような坊やのくせに、氷河は俺を変えた。俺の星を刻んでなお生きているあの命は、だから、どうあっても特別なんだ」
 どれだけアルコールを飲んでいても見せることのなかったミロの本音に今触れ、カノンの腹で、存在しないはずの蠍の心臓が熱く脈打つ。
 カノンを黄金聖闘士たらしめたのは撃たれることのなかったアンタレスにほかならない。だから、最後のひとつが欠けたままの十五の星が現在のカノンを形作っていると言っても過言ではなく、完成しない蠍の軌跡は間違いなく誇りであるのだが、この世に、完璧な軌跡を描く蠍の星をもつ人間がいるのだということ、その事実はカノンから言葉を奪い、胸にある種の疼きを生みだす。
 あの、氷河が。
 ミロが言うところの『坊や』が、カノンをして死を覚悟させた、あの耐え難い激痛を、最後まで。

 驚くと同時に、ただ、ようやく全てが腑に落ちた気がした。ミロほどの男が、なぜ、ひよっこ一人にそこまで熱を上げているのかも。

 お前もまた、星の宿命に囚われてる一人だというわけか。

 なぜ氷河なのかは理解した。軽薄を装うミロが、傍目で見えているよりずっと真剣にそれを求めていることも。
 だが、だからと言ってカノンの方も簡単に引くわけにはいかないのだ。永遠に完成しない蠍の軌跡が、あとひとつを切望する、その強さたるや。

「俺にもアンタレスを撃てば解決するぞ、ミロ」
 想像以上の障壁の高さに思案し、しばし沈黙していたカノンの口を最終的に衝いて出たのは、切望感を隠すかのような軽口だった。
 重く落ちる沈黙に、心の裡を曝け出しすぎた、と思ったのだろう。ミロはそのことに多分ホッとして、バカか、ととりわけ大きな声でカノンを罵ってみせた。
「撃てばお前は死ぬ、確実に」
「わからんぞ?氷河が見せた根性を俺も見せるかもしれん」
「見せるのは勝手だが、だからと言ってそんなバカを俺は助けたりはしないぞ。お前は犬死にだ」
「ではどうしろと?俺がお前に撃つのをやめたアンタレスがないことをもってだめだというのでは納得できぬな」
「あればいいというものでもない……だいいち、」
 と、ミロは半身をこちらへ傾けた。
「お前のはお前ので特別だった」
 なに、と問い返したカノンに、ミロはようやくいつもの調子でニヤリと笑った。
「お前には特別に通常より3倍痛いやつを撃っておいた」
「……なんだ、その3倍というのは」
「普通なら最初の1発目で発狂している。よく14発目まで耐えた。それだけで褒めてやろう。……ああ!そうか、俺を抱きたいなどと酔狂な発想はもしや、あれで精神が壊れてしまったせいか」
 真顔で冗談を言ったのか、それとも真実なのか。全くお前ときたら、とカノンは呆れ、そしてくつくつと笑い出した。
 ミロは、「悪いな。そういうわけだから、抱いてもやれん。諦めてくれ」と、どことなくばつが悪そうにベッドにどさりと身を投げ出した。
 上っ面だけでつきあっている時は傲慢にも思えるいい加減な態度でいるくせに、一歩踏み込めば存外に真面目だ。ミロにそんな表情をさせたところは一歩進歩したと見てとっていいものか。

 カノンは、なるほど、と頷いてベッドの縁へ体躯を移動させ、そして立ち上がる。
「わかった、と言いたいところだが、あいにく物わかりのよかった俺の精神はお前に壊されてしまったようだ。心を奪われた責任はどうあっても取ってもらいたいところだな」
 諦め悪い言葉に、盛大に顏を歪めたミロを笑って、そしてカノンは背を向けた。


**

 バスルームに干していたカノンの洋服は袖を通して困らない程度に乾いていた。
 身に纏ってようやく人心地をつけて、世話になった、と再び寝室をのぞくと、ミロも、ああ、と気だるげに起き上がり、カノンを見送りに立った。
「カノン。次から普通に来い」
「普通に?」
「だから……わざわざ、氷河が宝瓶宮に来ている時を狙わずに来ればいい。そういう時だけ来られるのは慰められているようで好かん」

 気づいていたのか。
 つくづくお前は機微を見るのに聡い。

 情に篤い男だ。それゆえに───届かぬ片恋が必要以上の深手を負わせていやしないかとどうにも放っておけなくなる。

 カノンはミロに向き直り、片手でその頭を引き寄せると、僅かに驚いて開かれた唇を己の唇で塞いだ。
 抵抗されるまで、のつもりだったが、いつまでもそれは訪れない。ならば、と、少しずつ深く侵入すると驚いたことにミロはカノンの舌に応えて同じように絡めてきた。
 先ほどの続きとばかりに、激しく長く互いの口腔を貪った後、ゆっくりと離れると二人の間を銀糸が繋ぎ、それは重力に従って弧を描くように落ちてやがて切れた。
「……どういうつもりだ……?」
 しておいてそれを聞くのか、とミロは笑う。
「意味はない。精神を壊した責任を取ってやってもいいかと少し思っただけだ」

 それは。
 またずいぶんと境界を許されたものだ。
 喜んでいいのか悪いのか。

「……撤回する。そういう責任の取り方をされたのでは、お前が戦う相手が増えるたびに、俺の胃が痛む」
「そうか?では、次に俺に触れる時はお前も問答無用で再起不能にしてやるから覚悟しておくことだな」
 ───極端な男だ。


 ミロに別れを告げて、カノンは石段を下りる。
 ミロの思いがけぬ本心に触れたことで、自分の気持ちが僅かに変化しているのをカノンは感じていた。

 何年でも待つつもりだった。
 どうあってもあの師弟の関係は崩せない。
 ミロがそれに納得するまで、つきあう気で。

 だが、ただ、年下の坊やとやらを愛玩しているだけではないのなら。
 カノンがミロを求めるのと同じだけの熱量でもって切望しているのなら、話は別だ。
 求める気持ちが強ければ強いだけ、傷が深くなるのをカノンは知っている。