寒いところで待ちぼうけ

短編:ザク



遠距離恋愛中なアイザック×氷河


◆Distance ep2 前編◆

「氷河、何笑ってんの?」
「え、俺笑っていたか?」
 氷河が暮らす城戸邸である。
 同じく一緒に暮らしている瞬は呆れたような声を出してソファの背もたれごしに氷河をのぞき込んだ。
 さきほどから、氷河はソファに上半身を沈ませて、長い足を肘掛け部分に乗せてブラブラさせながら、携帯電話の液晶画面に向かって見たことのないような満面の笑みを見せているのである。
 瞬が部屋に入ってきたことに気づいていなかったようで、無防備な状態で見せられたその顔は、まるで、液晶画面の向こうにいるその人に向けられているかのように蕩けそうな笑顔だった。
 瞬が声をかけた途端に慌てて笑顔を引っ込めてクールを装ったが、驚いたように見開かれた淡い色の瞳はまだ蕩けている。
「もしかして、アイザック?」
 兄(年下だが)弟子であるその人物のことを、氷河がものすごく慕っているということは周知の事実だ。正直言って、同じ聖闘士である自分たちより、海将軍である彼の方に氷河が心を許していることは、少々妬けるのだが、シベリアで一緒に育った歴史があるのだし、色々複雑な過去があるようなので、それほど慕うのも無理はないのかもしれない、と、そこはみんな大人の対応で、(なま)温かく見守っている。
「ああ。今度また日本に来てくれるってメールだった」
「?また?ついこの間来てたように思うけど……?」
 氷河の誕生日のことだ。
 みんなケーキを用意して氷河の帰りを待っていたのに、氷河ときたら連絡もなしに朝帰りだった。日が高くなってから城戸邸に戻ってきて、みんなに詰め寄られた氷河は、アイザックが日本に来てたから会いに行っていた、と説明したが、その頬はなぜか赤かった。
 今も瞬の指摘に、氷河は頬を染めて、しどろもどろで答える。
「ええと……ほら。前回のは……任務のついで、みたいなもんだったから。今度のはちゃんと休暇、みたいで」
「そうなんだ」
「ああ。日本を案内してやらないとな」
 途中で、氷河は表情を引き締めて瞬に向き直ったが、やはり、頬はほんのり紅潮していて、その上さらに、口角は上がっていて、嬉しさを隠しきれていない。
 今更。
 それでクールを気取ってるつもりなのかな。
 全面的に嬉しさを表現されるより、そんなふうに取り澄ました(けど、失敗している)顔を見せられた方がよっぽど可愛いんですけど……。
 年上なのに、どこか抜けている氷河が放っておけなくて、瞬はおせっかいかな、と思いつつもついつい世話を焼いてしまう。
「でも、この時期の日本て、どこ行っても寒いよね」
「寒いか?海も川も凍ってないし、こないだ降ったのも雪じゃなくて雨だったぞ?」
「……シベリア規格と一緒にしないでほしい。ああ!でも、温泉なんてどう?露天風呂とか……浴衣で日本庭園歩いたりするの、喜ばれそう」
「……ふ、風呂……」
「そう、ネットで色々旅館とか見てあげようか」
「……そ、そうだな。頼む」
 途中から何故か氷河は瞬から目を逸らして俯いてしまったのだが、携帯電話の液晶画面に視線を向けていた瞬はその耳がものすごく赤くなっていたことには気づくことはなかった。

**

「これ、すごいな」
 アイザックが感嘆の声をあげる。

 結局、日本を案内しようにも、氷河自身が日本に疎いので、瞬が細かく作った行程表を元に、新幹線を使う距離の遠出をして神社仏閣めぐりをしている二人である。
 あまりデートという感じではないが、行程表を作った瞬はデートであることを知らないのだからそこは文句を言える筋合いはない。
 しかし、日本そのものが珍しい二人にとっては意外にも興味を惹かれるものがたくさんあり、日本的な美に感動して歩いていた。(というか、二人でいられるなら何でもいいのだ、たぶん)

「本当だ、どうやって作っているんだ」
 今、二人は、とある寺の、見学用に開放された、本堂に続く濡れ縁にぺたりと座り込んで、枯山水の日本庭園を口を開けてじっと見ている。
 くっきりと定規で切り取ったかのような長方形の庭園に、美しく白い小石が敷き詰められている。まるで水の流れのように石の並びが整えられ、ところどころに苔むした大小さまざまな岩が島のようにぽっかりと浮かんでいる。
 ピンと張った糸のような緊張感を漲らせていながらも、どこか自然と融和した温かさも感じられる、一幅の美しい絵のような空間にすっかり二人の心は魅せられていた。
「石を水面に見立ててるんだな。ほんの少しも乱れてない」
「どうやって整えてるんだろ。足跡ひとつ、落ち葉ひとつないよ」
「日本人すごいな。『ZEN』だっけ」
「うん、禅。なんかさ、全然違うけど……違うのに、カミュを思い出さないか?」
「言えてる」
 その静謐で、寸分の隙もない美しい空間は、二人の師にどこか似ていた。
 少し里心がついた、といった風情で、寂しそうに睫毛を伏せた氷河の手をアイザックはそっと握った。氷河がぎゅっとそれを握り返す。時折雪が舞うほどの寒さなのに、触れている掌は温かい。
「先生は元気なのか」
「ああ。この間、俺が聖域に行った時は任務で出ていて会えなかったけど。……アイザック、今度一緒に会いに行こう。先生、すごく喜ぶと思う」
「そうだな」
 難しいと知っていても、そう返事をしてやる。
 氷河と会うだけでもそう頻繁に機会を持てないのに、二人で日程を合わせて聖域に、というのはさらに難しい。ましてや、聖闘士ではない、海将軍たる自分は氷河と同じように気軽に聖域に出入りしていいわけではない。
 しかし、それを言うと、氷河は、アイザックがなぜ聖闘士ではないのか、ということに想いを巡らさざるをえないだろう。
 たまにしか会えないのに、そのたまに、の時に氷河の顏がつらそうに歪むのは見たくない。

 しばらく二人で庭を眺めた後、氷河がアイザックを見て言った。
「そろそろ行くか?あっちで座禅体験できますって書いていた」
「ザ・ZEN?」
「座禅。ええと……正座……ってわかるかな。足をこうやって折って座って……うーんと……瞑想?する、たぶん」
「なんだ、お前もずいぶん怪しいじゃないか。行ってみようか」

**

「座禅とは瞑想ではなく、自我を極力排除し、自我以外の存在を全感覚で受動的に感じ取ることによって、自我以外の存在に縁どられていた自我自体の認識に立ち戻り、我欲を廃し、本来的に人間に備わっている仏性の自覚を求めること、即ちそれは……」
 目の前に立っている僧形の男性は立て板に水で呪文のような説明をとうとうと述べているのだが、既に二人とも理解することを放棄して遠い目になっている。
 しかし、そういう観光客は慣れているのだろう、彼はひたすら自分のペースで話を進め、もう帰ろうかな、と二人が挫折しそうになった頃、ようやく冗談めかして言った。
「と、いうことになっていますが、今日は体験ですから。そうですね、『心に抱えている心配事から逃げずに自分自身と静かに向き合う』と言えばいいでしょうか。『煩悩を捨てて無我の境地を目指す』でもいいですが」
 なるほど、だったら最初からそう言ってくれ、と思いつつ、二人は教えられたとおりに壁を背にして座った。
 氷河は正座、と言っていたが、正座ともどうやら少し違うようだ。坐蒲と呼ばれる小さなクッションに腰を下ろして、足を組んで膝を床につける。難しいな、これは、とアイザックがちらりと隣を見やると、案の定氷河はぐらぐら不安定に揺れていた。椅子文化の自分たちには座っているだけで結構大変だ。
 手を膝の上で組み、言われたとおりに視線を落とす。何度か深呼吸して、腹で息をして心を静め、自分の内面に向かって集中する。
 なんとなく、小宇宙を高めるのに似ているなあ。
 氷河、集中するのに目を閉じたら眠くなって、よくうとうとしていたよな。
 修行時代をつい思い出して、アイザックがクスリと笑うと、容赦なく警策と呼ばれる棒でビシリと肩を打たれた。
 いけない。
 己と静かに向き合うんだっけ。
 心に抱えている心配事か……心配事……心配事……今日の氷河はまた一段と可愛かった。会った瞬間のあの、嬉しそうな、少しはにかんだような顔はいつ見ても最高だ。あの顔は心を許してる者にしか見せてないはずだ。仲間の前では「クール」を気取ってるらしいから。どうも失敗してるようだが。腹立つよなあ、氷河が本当はめちゃくちゃ甘えん坊だと知ってるのが俺だけじゃないっていうのは……そういや、今日会った時、キスしなかったな。
 ビシッ。
 おっとっと。違うんだ。俺が今考えたのは、そっちのアレじゃなくて挨拶の……そっちのアレと言えば、この間の言葉、氷河覚えてるんだろうな。あれから、全然そのことに触れてこないけど、まさかなかったことに、とか言わないだろうな。もしかして、今日、キスさせてくれるような隙を見せないのはそのせいか。お前、いざって時になって「そんなつもりじゃなかった」とか言い出さないだろうな。冗談じゃない。こっちが、どれだけ焦れてこの一ヶ月
 ビシッ。
 あ、いや、つまり、あれだ。人間として、一度した約束は破っちゃいかんと言いたいんだ俺は。約束……約束だよな。俺が一方的にどうこうしたいって暴走してるわけじゃないよな。ちゃんと氷河だって……っていうか、氷河、お前、何をどうするか知ってんのか。キスの仕方だって俺が教えてやるまで知らなかったくせに。一体、誰からそんなこと教えてもらったんだ。まさか、「教えてやろう」なんて言って、口で説明するだけじゃなく手取り足取り腰……
 ビシッ。
 ……そ、それで、相手は誰だ。まさか、カミュって言わないよな。カミュだったらもう戦う前から負け決定じゃないか。いや、まさか、カミュに限って弟子に手を出すとかそんなことはない、はずだ。……今はもう弟子じゃないじゃないか!え?マジで?そうなのか?そういえば氷河の初恋は多分カミュだった。アイツ隠してたつもりだったみたいだけど俺にはわかる。カミュの方はどうだろう。氷河に甘いとは思ってたけど。でも、甘くもなるよな。あれだけ素直に甘えてこられて突き放せるわけがない。小さい時はそりゃあもう人形みたいだったし、いくら先生でもそんな気になっても無理はな
 ビシッ。
 じゃあ、誰だよ!……日本で一緒にいる誰かか。そういえば、今日の恰好ずいぶん洒落てる。絶対に、万年Tシャツとレッグウォーマーのお前が自分で選んだ恰好じゃない。そいつがお前に色々教え込んでるのか。まさかそいつに服を買ってもらったとか言うんじゃないだろうな。男が服を贈ってくれるのはなあ、脱がしたいからに決まってるだろうが!俺色に染まれ、って言われてんだよ!気づけよ、この鈍感!畜生、お前、無防備すぎんだよ!俺のこと好きだって言うなら
 ビシィッ!!
 さっきから、うるさいな、もう!俺にとってはコレが「己と向きあ」ってんだよ!こっちは今、正念場なんだ。離れてたまにしか会えないんだから、そのたまに、の時に、色々関係を進展させておかないと、寂しがり屋のアイツのことだからすぐにふらふら誰かにいかないとも限らないじゃないか。俺だって不安なんだ。キスだけじゃなくて、あの身体全部を俺のもんにしたい。透き通った白い肌に俺の徴を刻んで、俺の指と舌でめちゃくちゃに泣いて許しを請うまで感じさせて、それからあの細い腰をつかんで壊れるほどアイツの中に俺の欲望を何度も突っ込みまくっ
 ビシィッ!ビシィッ!ビシィィィィィィィッ!!!
 い、痛い、痛い、痛い!っていうか、すごいな、さっきから日本のブッダ(ちがう)、心が読めるのか!?
 仕方ないだろ、己の心を探索したらこうなったんだ。とにかく俺は氷河が大好きなんだ、今日は!絶対に!決める!文句は言わせない!!


「い、痛かった……な……」
 アイザックの隣で同じくらい警策に打たれていた氷河が肩を押さえて顔をしかめている。
「お前、ふらふら揺れすぎなんだよ。それで、己と静かに向き合えたのか」
 そう訊くと、氷河はなぜか真っ赤になった。
「お、俺のことはいいんだよ!アイザックこそ、俺と同じくらい打たれたくせに!」
「ああ、痛かった、こっちの心読んでるんじゃないかってくらい、的確な突っ込みだった」
「突っ込みって!……突っ込まれるようなこと考えていたのか」
「まあな。俺はお前のことが好きなんだってよくわかった」
 氷河の顏がますます赤くなった。俯いて、長い前髪で視線を隠しながら、俺も……アイザックのこと考えてたよ、とぼそぼそと言った。アイザックはその手を握り、氷河をそっと引き寄せて、耳に唇を触れさせた。
「ZENもいいけど、早く二人きりになりたい」
 一瞬にして、唇が触れている氷河の耳が熱くなる。
 氷河は、アイザックのばか、と小さく呟いたが、言葉とは裏腹にアイザックの手を強く握り返してきた。何言ってんだよ、と強く拒絶されるかと思ったのに、そんなふうに応えられて、アイザックの鼓動もドクンと大きく跳ねた。

**

「へえ……こういうのもいいなあ」
 旅館の部屋の窓から見える日本庭園を見渡してアイザックがまた声をあげた。
 先ほど見た枯山水の庭園とは違い、池を中心にして、小山を築き、大きな庭石や綺麗に刈り込まれた木々がそれを彩っている。日陰に薄く残った雪がその風雅な光景に色を添えている。
 しかし、背後に立った氷河は扉のところで竦んで一歩も動けない。
 結局、よくわからなかったので、旅館の手配なんかも全て瞬に聞いて言われたとおりにした。
 が、今、こちらです、と案内された部屋へ入ると、庭園が見える窓だとか、ぼんやりと壁を照らす間接照明だとか、窓に添うように並べられた二客の椅子だとか、全てが、なんだか「そういう」雰囲気を醸し出しているような気がして、今更ながらに恥ずかしくなってきて、まともに顔が上げられなかった。アイザックと早く二人きりになりたい、と思っていたくせに、いざ二人きりになってしまうと前回会った時の、風呂から始まる一連の流れが思い出されて、超絶に恥ずかしい。
 俺が、誘った、ん、だよな。
 いや、アイザックのことは好きなんだけど。べ、別に、嫌ではないんだけど。ちゃんと……い、いいかな、という覚悟は決めて来たけど、でも、いざとなると恥ずかしい。それから照れくさくてアイザックの顏がまともに見れない。
 扉のところで、荷物を抱えて、赤くなって身動きがとれなくなった氷河にようやくアイザックは気づいた。
 お前……そこまで緊張されたらこっちも緊張する。
 もっと自然にしていてくれよ!
 氷河の元へ歩み寄ると、氷河は身を竦めて俯く。ゆっくりと背に手をまわすと、大きくビクリと肩が跳ねた。柔らかく抱き締めると、小刻みに体が震えているのが伝わってくる。
「いきなり、なんてしないよ。こっちきて座ろう。そんなとこでじっと立っとくの変だろ」
 そう言って、とんとんと背を叩いてやると、氷河は少しほっとしたのか、肩の力を抜いてアイザックに身を預けてきた。
「……でも、キスはするけどな」
 えっ、と問い返す氷河の唇を塞いで、深く口づける。
 氷河はどさりと荷物を取り落とし、しかし、僅かに震える手をアイザックの背に回して、しがみつくようにして応えかけ……たが、その時、扉からノック音が響いた。
「わああっ!」
 悲鳴をあげて、氷河はアイザックを突き飛ばすようにして離れた。
「お客様……お部屋の設備のご案内に参りました。今よろしいですか?」
 顏を出した旅館の仲居が、不自然に突っ立っている二人を見上げながら問う。
「……どうぞ」
 口がきけないほど赤くなった氷河の代わりに、憮然とした顔のアイザックが答えた。


 仲居が去って行っても氷河はアイザックになかなか近寄ってこない。無防備にすり寄ってこられるのも考えものだが、ここまで警戒されるのも納得がいかない。
 お前がいいって言ったんじゃないのか。
 部屋の隅と隅に離れて座り込んだまま沈黙が落ちる。
 アイザックの身じろぎする物音一つにさえ、氷河はハッと身を固くしている。
 まいったな。
 いくら待っても氷河の緊張が解けそうにないので、アイザックはため息を落として言った。
「……わかった。氷河。いいよ。今日は何もしないから。だから、限られた時間をこんなふうにずっと黙って過ごすのやめようぜ」
 優しい声色で諭すように言われて、氷河は慌てて、少しずつアイザックに近寄る。
「違う。ごめん、アイザック。別にいやじゃないんだ。ただ……は、恥ずかしくて。俺……勢いであんなこと言ってしまって……」
「いいよ、わかってる。お前の心の準備ができるまで待ってやるよ」
「で、できてるから!ほんとにただ恥ずかしいだけ」
 氷河はおずおずとアイザックににじり寄って、その肩に顔を伏せるように寄りかかってきた。
「アイザック、会いたかった……」
 ようやく、二人の間に、蕩けるように甘い空気がおりる。
「俺も会いたかった」
 アイザックは氷河の肩を抱いて、額に、瞼に頬に、たくさんのキスを落とす。さんざん焦らした後に、ゆっくりと唇どうしを触れ合わせ、柔らかな唇を舌でなぞる。氷河は、身をのりだすように、アイザックの首に腕をまわして応えかけ……たが、その時、扉からノック音が響いた。
「わああっ!」
 悲鳴をあげて、氷河はアイザックを突き飛ばすようにして離れた。
「お客様、お夕飯の準備が整いましたので運ばせていただいてよろしいですか?」
 顏を出した旅館の仲居が、不自然に転がった二人に向かって問う。
「……どうぞ」
 口がきけないほど赤くなった氷河の代わりに、憮然とした顔のアイザックが答えた。
 振り出しに戻る、である。

 懐石料理が珍しく、食事の間は、張り詰めていた空気もなんとなく解けて、お互いの近況や思い出話などをしながら、もりもりと二人は食べた。育ちざかりである。色気もあるけど食い気も人一倍あるのである。
 食前酒だけは、アイザックが氷河から取り上げた。
 氷河はなんでだよ、と不審げな顔をしたがアイザックは説明しなかった。
 もう前回と同じ轍は踏まない。ほんのりほろ酔い、にも興味はあるが、コイツが酒に強いか弱いか知らない以上、今日という日にわざわざそれを確かめる必要はない。万が一、下戸並みに弱くて、また寝落ちされてはかなわない。
 食事が終わってしまうと、また、氷河の方がそわそわし始める。
 アイザックは笑った。
 同時に、愛おしい気持ちが湧き上がる。
 そこまで緊張するほど、なのにちゃんと逃げずに来たことに。
「風呂……行ってくれば」
「えっ……あ、アイザック、先に行ってこいよ」
「そう?じゃあお先に」
 氷河があまりに身を固くしているので、少しは息をつかせてやろうと、あえて、押し問答をさけて、アイザックは氷河に背を向けて立ち上がる。
 もちろん、一緒に入るなどというミスは犯さない。この間のこともあるし、ほかにも客がいる状態で平静を保つ自信もない。裸体ならどうせ後で拝ませてもらうんだし、とにかく、少しでも、不測の事態が起こりそうな状況は避けるに越したことはない。
 アイザックが後ろ手で扉を閉めると、その向こうでほっと息をついたように空気が動いた。


「お風呂……よかった……な」
 二人は浴衣姿でテーブル越しに俯きがちに座っている。
 わざわざテーブル越し、である。
 風呂から上がってきた氷河が、チラリとアイザックを見た後、一瞬悩んでそちらに座った。
 アイザックを見ない様にして、テレビをつけたりしているが、画面に視線を固定していても、内容を見ていないのがバレバレである。
 意識されすぎてこっちもやりにくい。
 お茶をすすりながらも会話が弾まない。
 囲碁の解説番組を食い入るように見つめる氷河の横顔をアイザックも見つめる。
 アイザックが見ていることに気づいているのだろう、耳が赤い。
 耳だけではなく、全身が、湯上りでほんのり桜色である。
 すっきりと髪を一つにまとめているせいで、白いうなじが浴衣の襟足からのぞいている。
 お前、それはわざとかよ。
 ……だめだ、俺もう限界。
「氷河、こっち来いよ」
 アイザックが声をかけると、氷河は、きた……!とでも言うかのように背中をビシッとのばし、しかし、視線はうろうろと空中を彷徨わせた。
「大丈夫、(まだ)何もしないから。せっかく会ったんだから離れてないで、そばにいようぜ」
「うん……」
 返事をして、氷河はためらいがちに、膝で一歩ずつにじりよってくる。一歩近づくたびに、ふう、と大きな息を吐いている。
 残り三歩は、待ちきれずにアイザックが手を伸ばして、腕をつかんで勢いよく引き寄せた。
 膝の上に横抱きに座らせて、額を触れ合わせて顔をのぞき込む。
「氷河……」
「アイザック……」
 氷河の身体は緊張で固く強張っているが、しかし、唇はアイザックを待って既に開かれている。
 アイザックはその唇にほとんど乱暴ともいえる動きで荒々しく口づけた。息を呑んで、アイザックの浴衣をぎゅっと握った氷河だったが、アイザックが深く舌を挿し入れて口腔を激しく犯すと、その動きに自ら応えかけ……たが、その時、扉からノック音が響いた。
「わああっ!」
 悲鳴をあげて、氷河はアイザックを突き飛ばすようにして離れた。
「お客様、お布団を敷かせていただいてもよろしいですか?」
 顏を出した旅館の仲居が、慌てて立ち上がった拍子にテーブルで膝を打って涙目になっている氷河をチラリと見ながら言った。
「どうぞ!!」
 アイザックは叫ぶように答える。
 日本の旅館のこのシステムは、一体何なんだ!!
 この、見ていたかのようなタイミングは!?
 頼むから俺たちをそっとしといてくれ!!!