聖戦後、復活のない世界における一輝×氷河
「カミュ」という名の猫を飼う一氷話です。(名前が「カミュ」というだけでただの猫です。カミュ先生ご本人様とは何のかかわりもありません。カミュ先生を貶める意図は全くありませんので何卒ご理解ください。)
◆Sweet Bitter Home ep2 ②◆
任務になど全然ならなかった。
案の定、沙織は一輝の顏を見るや、アラ喧嘩、と笑って、一輝の眉間の皺を深めさせたし、任務ときたら欠伸が出るほどつまらなかった。
辰巳でもいいほどの簡単な警護になぜ俺ばかり呼ぶんだ、と苛立ち紛れに一言文句を言ってやれば、会えない時間が愛を育むのです、とまた意味ありげに笑われた。
会議室の外、誰もいない廊下で沙織が出てくるのをぼんやり待って煙草をふかしながら、結局考えていたのは投げつけられた鍵のことばかりだ。
ただ、沙織からは、何故かいつもより早めに任務から解放された。過労死は困るので、と笑ってみせていたが、聖闘士相手に過労死も何もあったものじゃない。それが解放の本当の理由ではない気がしたが、全てを見通されていると思えばげんなりするので、深くは考えないことにした。
薄闇の家路を辿りながら、あの、バカみたいにご自由にお入りください、とした家はどうなっただろうか、と考える。
結局、一輝は、扉を開けたまま出てきた。施錠どころか窓すら閉めていない。ほとんど自棄だ。
盗られて困るようなものなどそう持ってないし、防犯に気をもむほど腕っぷしも弱くないときている。同じマンションの住人からの笑いを含んだ視線にさえ耐えられるなら、扉の前で子猫が哀れにみーみーと鳴く想像にもやもやするよりはマシだと思った。
一輝は胸元のポケットを探り、携帯電話を取り出した。
着信ゼロ。
日頃からメールの類は一切使わないヤツだ。携帯電話自体、『携帯』しないことも多い。沙織から、時代の流れですよ、と押し付けられてなければ持つことすらしなかっただろう。
だがこの着信ゼロはどういう意味だ。
猫は見つかったけど怒っているから掛けて来ないのか。猫が見つかっていなくてそれどころじゃないのか。
自分も電話していないくせにそのことは棚に上げて、一輝は反応のない小さな機械に八つ当たりをするように、それを乱暴にポケットへと戻す。
電話一本寄越そうとしない可愛くない氷河のことはどうでもいいが、猫だけは、自分の不注意で何かあったとあれば流石に咎めるので、一輝は辺りへ注意深く視線をやりながら歩みを進めていった。
駅からマンションまでの道は、さほど幅のない一車線の道路なのだが、近くに大きな幹線道が通っていて、朝夕は渋滞するその道路の代わりの抜け道となっているため意外に交通量も多い。
つい、そこらで猫がへしゃげてないだろうな、と探してしまうのは、そうした光景が珍しくないからだ。
氷河の脳裡にもきっと同じ光景が去来したことだろう。
子猫の足でどこまで来れるものだろうか。
初めて触れる外の世界。
猛スピードで走ってくる鉄の塊を咄嗟に避けることはできただろうか。
悪い想像ばかりしてしまうのは、実際にそれが起こった時の衝撃を和らげるための心の防衛本能だ。
カミュを心配しているのか、カミュを喪った時の氷河のことを心配しているのかわからないまま、一輝はゆっくりと家を目指す。
家までわずか数ブロック、のところで、道を逸れるように路地を曲がってみようかと思い立ったのはほんの気まぐれか。それとも、やはり人知を超えた能力が微かな気配を捉えたからか。
深い意図なく曲がった路地の見慣れぬ景色の中を歩きながら、一輝は不意に、夜の闇を裂いて響く異音を聞きとがめた。
金属音のような、幼子の叫び声のような。
そちらの方へ足を向けているうちに、次第にその音の正体がはっきりし始める。
猫の鳴き声だ。それも複数。
野太い声のほとんどは成猫のようだ。
なんだ、猫違いか。
猫語でも話せるなら、こんな猫見ませんでしたか、と聞いてやれるものを。
それでもまあ、念のため、と路地の奥へ進んでみる。
鳴き声は次第に激しくなっていく。
にゃっふぎゃっなごなご。
どうやら何匹かの猫が喧嘩をしているらしかった。そして、それをさらに何匹かが囲むように見守っている。
猫同士の縄張り争いなのだろう。
カミュは関係なさそうだ、と思ったその時、取っ組み合いで複雑に絡まった猫団子の中、見覚えのある鮮やかな赤毛の尻尾が蠢いた気がした。
……カミュか?
明かりの切れかかった街燈しかない暗がりでは、目まぐるしく上になったり下になったりする猫団子の中の一匹がカミュかどうかは判別しにくい。
だが、夜目にも鮮やかなあの赤毛は、そうそう普通の猫にはない色だ。
一輝はさらに近づいてゆく。
人間がそばに寄っても頓着せず、やはりにゃごにゃごと取っ組み合っている猫団子の一番下で、小さな前肢で防戦している一回り小さな影の───首元でどこかで見たような鈴がチリチリいっている。
カミュに見えるが気のせいじゃないよな?
『道路でへしゃげて』たんでなくて良かった、と、安堵した途端に笑いが込み上げてきた。
お前……ナニやってんだ。
多分、テリトリーに入ってきた見知らぬ子猫、ということでボス猫から上下関係を仕込まれようとしているところなのだろう。大人しく退けば、子猫ということもあって可愛がってもらえるに違いないのに、カミュときたら、二匹相手に、ものすごい勢いで猫パンチを繰り出していた。
一見、紙せっけんのようにしか見えない小さな爪の鋭さを、身を以て知っている一輝は、相手の鼻先につけられた幾筋ものひっかき傷をやや同情的な目で眺めた。と、同時に、少しも負けてない『我が子』の雄姿に満足げな笑みが漏れる。
よし、いいぞ。
俺と氷河の小宇宙を常日頃傍で感じてるお前が負けるわけないよな?
氷河なら一も二もなくすぐさま仲裁に入っただろうが、こんな面白いショーはない。
一輝は背後のブロック塀にもたれて煙草を咥えて火をつけると、世紀のタイトルマッチをニヤニヤと眺めた。
体格差はあるが、却ってそれはカミュの有利に働いていた。
小さな身体を相手の腹の下へ潜り込ませて、やわらかい剥き出しの皮膚のところに容赦なく爪を立てている。後肢を咬まれてもいたが、やはり肢の小ささが幸いしてするりと相手の口から抜け出していた。
よし、そこでトドメだ、咬め。咬みついてやれ。
一輝の声が聞こえたわけでもあるまいに、カミュはがぶりと斑の猫の耳に咬みついた。
んにゃっ!という悲鳴が響いて、斑の猫は怯んで飛び退った。
フーッと毛を逆立てて威嚇しているカミュの気迫に、さらに一歩後ずさる。
と、不意に一輝がもたれているブロック塀から、音もなく、さらにもう一匹の猫が飛び降りた。
黒っぽい毛足の長い猫だが、他の猫より圧倒的に体格がいい。多分コイツがボスだ、と一輝にもわかるほど、王者の風格を纏わせている。
その猫は、絡まった猫団子にゆったりと近づくと、突然にカミュめがけて飛びかかった。
おい、三対一かよ。プライドはないのかプライドは。
流石のカミュも相当な体格差のある猫に首元を押さえつけられて、身動きがとれなくなってしまった。
おい、カミュ、お前は男だろ。そのくらいの体格差がなんだ。
お前のその名は伊達じゃないってことを見せてやれ。
だが、今回ばかりはどうにもならないようだ。カミュの前肢が弱々しく地面を掻く動きを見せたのを機に、一輝は煙草を地面に落として踏み消した。
こういうものに手を出すのは好きではないが、何となく、我が子(???)が他人(他猫?)にやられている姿を見るのは悔しいものだ。だいたい、そろそろ止めないとさすがにあの体格差では怪我をしてしまう。
一輝は、猫団子に近づくと手を伸ばした。
斑の猫がシャーッと一輝に向かって威嚇し、三毛模様の猫は爪を立てて振り返る。カミュを押さえつけている黒っぽい毛足の長い猫がフーッと毛を逆立てて一輝を睨む。
人間相手にずいぶん逞しい集団だが、所詮は猫だ。
一輝が少し小宇宙を燃やして一睨みしてやると、猫たちは気圧されたように、一歩、また一歩と後ずさった。
ほぐれた猫団子の真ん中に残った、赤毛の子猫はやはりまごうことなきカミュだった。
怪我などはしていないようだが、美しい毛並みはすっかりボロボロに薄汚れてしまっている。
カミュは視界から猫たちが消えたことを不思議そうに見つめ、そして、その向こうに立つ一輝と目が合うや否や、にゃっと短く鳴いて飛びつき───一輝の顏をバリバリと引っ掻いた。
……そう言う奴だよ、お前はな。
まだ、半ば喧嘩の興奮状態から冷めやらず、一輝の手の中で、偉そうにフーッと背中の毛を逆立てているカミュを、一輝はブルゾンのジッパーをちょっと下ろして、胸の中にすとんと収めた。
ブルゾンの中で、にゃごにゃごカミュは暴れて爪を立てている。喧嘩相手がまだそこにいるかのように、薄い布地を通じて直接肌に立てられる爪が痛いことこの上ない。
これでまたTシャツが1枚駄目になったと思えばうんざりするが、とりあえずは暴れるほど元気で何よりだ。
ともあれ今夜は変な想像で眠れぬ夜を過ごさずにすんだ、と一輝はゆっくりと歩きだす。
遠巻きにそれを眺めていた猫たちも、獲物を取られて、一匹、また一匹と夕闇にその姿を消していった。
片手で服の上からカミュの身体を支えて歩いているうちに、その振動でカミュは落ち着きを取り戻したのか、もぞもぞと身じろぎをし、ひょこんとブルゾンの胸元から顔を出した。
一体どこまで足を伸ばしていたのか、瞳は好奇心にきらきらと光っていて、辺りの景色を興味深そうに見つめている。
だよなあ。
お前だって外に出たいよな。
氷河はカミュはまだ子どもだ、とずいぶん過保護に育てているが、そろそろ体つきもしっかりしてきて、狭いマンションの部屋で一日を過ごすのは退屈だったのだろう。
他の猫と出会ったのだって、今日が初めてだったのだから、そりゃあ引き際などわかるはずはない。初めてにしてはよくやった、と思ってしまうのは親(?????)ばかなのか。
いや、断じて違う。……違うはずだ。
おい、冒険は楽しかったか?
ブルゾンの端に掴まって景色を眺めているカミュは時折、なーお、と鳴いて、目を細めた。
マンションへ辿り着いてみれば、部屋に明かりが灯っていて、外廊下に面している、自分が開けておいた窓からは薄い光が漏れていた。
帰ってきたのか。
あれだけ開け放して出た家だ。不審者侵入という線もあるが、誰かを(というか間違いなくカミュを)待つように、一輝が開けたよりしっかりと開けられている窓は、やはり氷河なのだろう。
一日探し回っても見つからず、腹を減らしたカミュが戻ってくるとしたらここしかないことに気づいて、一旦様子を見に戻ってきたに違いない。
カミュのことがなければ、きっと戻ってはこなかっただろうということが業腹なのだが、それより明かりの灯る部屋に思わず自分の頬が緩んだことが一番忌々しい。
一輝は、キッチンの小窓の外へと立ってカミュを胸元から出した。
「ほら。マーマをあんまり泣かすんじゃないぞ」
手の上にのせてやると、既に何かを感じ取ってそわそわと落ち着かなかったカミュは、やはり一輝の掌に鋭い爪の一掻きを残して、室内へと飛び込んで行った。
一輝はそのまま自分の家の玄関扉を素通りし、外廊下の端まで歩いてゆくと煙草を取り出して火をつけた。
手の中の煙草を弄びながら、時折、扉の方角へ意識をやる。
カミュを待つ、という目的がなくなった氷河が、猫とともに大荷物を抱えて出てゆくかもしれないと思っていたが、扉は閉ざされたままだ。
出ていくのはやめたか。
カミュの姿に安堵して、それどころではなくなったか。
煙草の火が指先でジジ、と消える。
もう一本。
今度は紫煙の苦みを意識して深く吸い込む。そうしないと頬がまた緩みそうだった。