聖戦後、復活のない世界における一輝×氷河
「カミュ」という名の猫を飼う一氷話です。(名前が「カミュ」というだけでただの猫です。カミュ先生ご本人様とは何のかかわりもありません。カミュ先生を貶める意図は全くありませんので何卒ご理解ください。)
◆Sweet Bitter Home ep2 ①◆
「一輝……」
意識のどこか遠くで響いた己を呼ぶ声に、条件反射で一輝は腕を伸ばした。
隣に眠るはずの体温を求めて、しばらく一輝の腕はシーツの海を彷徨ったが、どれだけ伸ばしてもそれに触れないことに覚醒と微睡の間を行き来していた混濁した意識は次第に覚醒へと振れ始める。
「一輝……」
また、呼ぶ声。
その上、ゆさゆさと肩を揺すられる振動も。
なんだこっちか、と背後に手を伸ばし、肩に乗っていた手を引いて腕の中へと収めようとすると、強い抵抗が返ってきて、掴んだ手首が逃げて行った。
逃げるくらいなら呼ぶな、と軽い怒りを滲ませて肩まで布団を引っ張り上げると、背後の気配もそれに呼応して怒りを含んだ声を吐いた。
「一輝、呑気に寝ている場合じゃない。カミュがいないんだ」
意識の一部では、わざわざ氷河の方から呼び起こしにくるとは珍しい、何かあったか、と気になりかけていたにかかわらず、カミュの名を聞いた途端に一輝の興味は失われて行く。
昨夜眠りについたのはずいぶん遅かった。
一輝は、ここのところ連日のように、グラード財団総帥としての業務にあたる沙織の警護に就いていて、未明の帰宅が続いていた。
ふらふらと音信不通になっていたのは過去のことであるのに、あなたは放っておくと糸の切れた凧だから、と嫌がらせのように一輝を指名し続ける沙織も人が悪い。
氷河は氷河で、へー大変だな、俺はカミュの世話があるから代わってやれなくて悪いな、とニヤニヤして終わりだ。
一輝が疲れていると自分が構われなくてすむ、と思っているのが氷河の表情からありありと透けて見えてどうにも腹立たしい。
その氷河の最優先事項は『カミュ』だときている。
毎日猫の二の次にしている男をわざわざたたき起こしてまで一緒に探せと要求するとは、いくらなんでも図々しすぎやしないか。
だが、一輝の背中へ滲んだ拒絶の意志を気づいてか気づかずか、氷河は再び一輝の肩を揺する。先ほどよりも幾分乱暴に苛々と。
「一輝、起きろって。本当にいないんだ」
一輝は目を閉じたまま投げやりに答える。
「本棚の一番下の段の隙間。アイツの最近のお気に入りだ。見てみろ」
肩に乗った手の動きが止まり、ほっと安堵したような空気を残して体温が去ってゆく。
ったく、カミュのことになるといつもこれだ。
俺がいなくなったらお前はそれくらい真剣に探してくれるんだろうな、と少々大人げないことを考えて微睡んでいると、すぐに氷河の気配は戻ってきた。
今度は、さらに不安気な声とともに。
「いないぞ、一輝……」
いない?
眠りの世界へ未練たらしく足を突っ込んでいた一輝も氷河の不安気な声にさすがに一度眉根を寄せた後、うっすらと目を開いた。(だいたい、こう何度も微睡を邪魔されては眠るどころではない)
そういえば、日が昇りきる前からベッドへみーみーとカミュが食事を催促しに上ってくるという毎朝の光景が今朝は見られなかったような気がする。
いつもいつも、寝たと思ったら数時間も寝ないうちにカミュの声で起こされる。
一輝の腕の中で眠っている氷河の胸の上に乗って、なーお、なーおと鳴いて、氷河が起きるまでそれが続く。氷河が起きなければ、お前が悪い、と言わんばかりに、氷河の身体にまわした一輝の腕を容赦なく引っ掻いて、とにかく何が何でも食事にありつくまでは安眠妨害が続く。こちらが明け方にベッドに入ったばかりだろうが、気怠い余韻を楽しんでいようがカミュにはおかまいなしだ。
一度、業を煮やした一輝が、これでもかとキャットフードを山盛りにして置いて寝てやったら、それには見向きもせずにやはり氷河に、ごはんちょうだい、と甘えて起こしに来た。
どうにかならんのか、と氷河に言うと、じゃあお前だけ別室で寝れば、ときた。まことに冷たい。
そのカミュが飯を催促しに来ないと言うのは確かにちょっと変だなと、ようやく一輝は睡眠をあきらめてベッドの上に身を起こした。
中途半端な休息しか与えられていない身体は重く、頭の芯は痺れていたが、顏を上げて振り向いてみれば、そこに、半ば血の気を失った険しい顔があり、それで一気に目が覚めた。
氷河の頭に手をやって、わしゃわしゃと掻き回しながら、一輝はベッドから下りる。
「そんな顏するな。どっかに入り込んで出られなくなってんじゃないのか。もっとよく探してみろ」
一輝がリビングへと向かってみれば、テレビの横に設えているカミュの寝床は確かに空っぽで、おそらく今朝、氷河が用意したに違いないキャットフードは手つかずのまま残されていた。
「カミュ」と呼びながら、氷河はもう何度目かのソファの下、クローゼットの中、洗面台の下を確認して歩いているが、一向に鳴き声もしなければ、首につけてやっている鈴の音も聞こえてこない。
カミュはまだせいぜい生後半年を超えたばかりの子猫で、氷河を母のように見定めて片時もそばを離れないというのに、これだけ呼んでも姿を現さなければ鳴きもしない、というのは、今までにないことだ。
もし、家具かどこかの隙間に挟まって出られないまま息絶えるような事故でもあれば。
既に蒼白で、「カミュ」と呼んで探し回っている氷河がどういうふうになるか。
考えただけで気が重い。
だからその名をつけるのは嫌だったのに。
猫に師の名をつけてしまった氷河のデリカシーのなさは筆舌に尽くしがたいが(そして普段はそのデリカシーの欠落の被害者は主に一輝だということを思えばげんなりするが)、それほど彼の心はその人のことで占められているのだと思えば、重く腑のあたりが冷える。
だが、その氷河はともかくとして、姿を現さない子猫の方はいよいよいけない。一輝は重く痺れる頭を振って記憶を探る。
昨日、一輝が深夜に帰宅した時は確かにいた。
既にベッドでまるまって眠っていた氷河の代わりに、カミュが自分の寝床で、少し顔を上げて一輝を見た。氷河の帰宅時には何時であろうと玄関先まで飛んでくるくせに、俺には一瞥くれて終わりかよ、と苦笑したのを覚えている。
その後で誰も玄関の扉を開いていないのだから外に出られたはずはない。
さて、どこを探せばいいのか。
一輝は、まずは睡眠不足で重い頭をスッキリさせようと、ソファへ放り投げておいた自分のブルゾンのポケットを探って煙草を取り出すとキッチンへ向かった。
氷河は煙草をやめろやめろとうるさく、一輝もそこまで嫌がるなら、と一度はやめることを了承したものの、簡単にやめられるようなら世話はない。
何度かの激しい喧嘩を経て、互いに最大限譲歩した結果として、キッチンの換気扇の下が一輝の喫煙場所となった。
換気扇のスイッチを押しておいて、ダイニングテーブルにもたれて煙草に火をつけると、ちょうど目の高さにあるキッチンの小窓が目に入った。
あ。
小窓が薄く開いている。
───俺だ。
昨夜、寝る前に一服、と思いキッチンに入ったものの、氷河の監視の目のないところでまで侘しく換気扇をつけて吸うこともないだろうと不精して、そのまま自分が飲んだ缶ビールの空き缶を灰皿に何本か吸った。
が、翌朝匂いで間違いなく氷河の機嫌が悪くなるのは目に見えていたから、小窓を薄く開けておいたのだ。
一輝の目線の高さなので相当に高い位置にある小窓だが、幸か不幸かすぐ近くに食器棚が置いてある。ということは……
「おい、カミュはもしかしてここに届くのか」
氷河に呼びかけてやれば、氷河は慌ててキッチンに飛び込んできて、小窓に目をやり、そして、一輝の手の中の煙草と、テーブルの上にだらしなく残されていた灰皿代わりの空き缶を何度も見やった。
何が起こったのかを悟ったのだろう。
氷河の顏がみるみる赤くなる。
「届くに決まってるだろう!!猫だぞ、カミュは!!俺があれほど言ったのにお前は約束破ったんだな!」
悪かった、うかつだった、すぐに今から外に探しに行こう、という一輝の言葉は、頬に食らった激しい衝撃で音となることはなかった。
「わざとだろう!お前はカミュが出て行くようにわざと仕向けたんだ!どうせお前はカミュがどうなってもいいって思ってるんだろう!カミュのことを嫌っているからな!」
殴られた頬の痛みより、遠慮のない氷河の言葉の方にカッとなり、一輝は乱暴に言葉を返す。
「ここは俺の家だぞ!煙草を吸おうが窓を開けようが俺の勝手だろうが。猫が出て行ったのはアイツに情がないからだ。命を救ってやった礼もせずに出て行くとはたいした猫だ、さすがお前が可愛がってるだけはあるな」
氷河の拳が再びぐっと握られたが、しかし、それが振りかざされることはなく、唇を震わせたまま、くるりと彼は背を向けた。
しばらく、寝室の方角で何ごとかしている気配がしていたかと思えば、一抱えもあるデイパックを持って、再び氷河はキッチンへと姿を現し、冷たく凍りついた青い瞳で一輝の方へ何かを放って寄越した。
怒りのせいか、ずいぶん見当違いの方角に逸れたその物体は、カツン、と鈍い音を響かせて床へと転がった。
「ここは『お前の』家だからな。好きなだけ煙草も吸えばいいし、窓も自由に開ければいい」
それだけ言うと、青ざめた顔のまま、氷河は飛び出して行ってしまった。
残された一輝が、床に目をやってみれば、そこにはこの部屋の鍵が残されていた。キーホルダーひとつつけられていない素っ気ない金属の塊は、二本あるうち、氷河が常日頃使っている方の鍵だ。
おい、マジか……。
長い時間をかけて、やっと手に入れたと思ったのに、お前はこんな風にあっさり出て行ってしまうんだな。
自分の方も言い過ぎた自覚はあったが、だが、氷河の方もずいぶん酷かった。
だいたい、嫌っているのは俺じゃない。
カミュの方が、俺に全く懐かないだけだ。
自分に懐かない猫をどう可愛がれと?
一輝は深くため息をついた。
氷河はどこへ出て行ったのか。
このまま音信不通、ということも氷河ならあり得そうな気がした。
またシベリア引きこもりだろうかとも思ったが、その前にまず、そこらじゅうでカミュを探して歩いているだろう。見つかるまではこの辺りから離れないに違いない。
仕方ない、謝るのは嫌だったが、追いかけて一緒に探してやるべきか(そもそも自分が原因だ)と、一輝は重い足取りでキッチンを後にした。
寝室へと戻ってみれば、クローゼットの中味は相当乱暴に取り出したらしく、折れ戸が閉まらないほど洋服が乱れていた。
衝動的に出て行った割に、あの短時間できっちり自分の持ち物だけ選別している。常日頃から、「出て行くこと」を意識して生活しているせいだ。二人で共用で使っているブルゾンなどは、氷河の方が気に入っていたはずなのにそれも置いて出ているというのがまた可愛くない。
その上、一輝が買ってやったものは、ご丁寧に取り出しておきながらわざわざ目につくように床へ投げ落としているという念の入りようだ。
本当に可愛くない。
追いかけるのはやめだ。
帰ってこないなら勝手にしろ。
一輝は腹立ちまぎれに、散乱した洋服を蹴った。
質量のないそれは手ごたえなく空を舞い、その手ごたえのなさに、余計に気持ちはささくれ立った。
そこへいない氷河に当てつけるように、一輝は灰が落ちるのも気にせず、煙草を咥えてぷかぷかと盛大にふかしながら、のろのろと身支度を始めた。
不貞腐れて寝ていたい気分だったが、俺は氷河が出て行ったくらい何とも思っていない、と誰に対して主張しているのかわからない虚勢が、一輝を日常の営みに戻させた。
今日も沙織に呼ばれている。いくらもしないうちに出かけねばならない時間になった。
氷河が手加減なしで殴った頬は、時間をおいてじんわりと熱を持って腫れはじめ、そのことが一輝の憂鬱を誘う。
沙織はきっと、片頬が腫れた一輝を見れば、訳知り顔でくすりと笑うだろう。氷河と暮らしていることは話していないはずなのだが(氷河が絶対に言うなと煩いせいだ)、沙織はどうも知っている節がある。
知っていて、一輝の時間を長時間拘束するのだから、一体何を考えているのかわからない。
いっそのこと以前そうしていたように、任務など放って好きなように自分の時間を使ってやろうかとも思っているのだが、多くのものを背負っている彼女はそんな形でしか他人に甘えることもできないのかもしれない、と言われるがままに任務に就いている。……今のところは。
今日は少しくらい暴れる機会がある任務だといいが、と不穏なことを考えていた一輝は、部屋を出るために鍵を取り出して、はたと気づいた。
……俺が施錠して出てしまえば誰も家に入れない。
あれほど怒り狂って出て行った氷河ならいざ知らず、好奇心に誘われて迷い出てしまっただけのカミュの方はもしかしたら帰ってくるのではないか。
初めて外へ出たカミュが、再びこのマンションまで戻ってこれるかどうか、猫の生態に詳しくない一輝はわからない。
だが、動物の帰巣本能は侮れないというから、遠くまで行っていなければあるいは。
みろ……あのバカ。
お前が短慮を起こして出ていくから、結果的にカミュが困ることになるんじゃないか。
選択肢は三つ。
その一。
氷河もカミュも勝手にすればいい。施錠して出る。
その二。
氷河のことはどうでもいいが、カミュのために任務に行かずに家に残る。
その三。
氷河のことは本当にどうでもいいが、カミュのためにドアを開け放して任務に出る。
どの選択も痛しかゆしだ。ささくれ立った今の心情的には「その一」を選択したいところだが……。
一輝は冷たい扉へ頭をつけて唸った。
なんでこの状況で氷河ではなく自分の方が困らされているのか、考えただけで腹立たしい。
咥えていた煙草から次々に灰が落ちていった。