聖戦後、復活のない世界における一輝×氷河
「カミュ」という名の猫を飼う一氷話です。(名前が「カミュ」というだけでただの猫です。カミュ先生ご本人様とは何のかかわりもありません。カミュ先生を貶める意図は全くありませんので何卒ご理解ください。)
性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。
◆Sweet Bitter Home ep2 ③◆
リビングの方角から、なーなーと甘えたカミュの声が響いている。おそらく氷河もそこへいるのだろう。
一輝はそちらへは行かず、寝室へと直行した。
出て行ったんじゃなかったのか、と嫌味の一つくらいくれてやろうにも、片頬がうっすら腫れた上に、先ほどカミュにやられた引っ掻き傷が盛大に残る顏ではどうにも格好がつかない。
どうせ氷河の方も、啖呵を切った手前、一輝と顔を合わせるのは気まずいに違いない。
何より、今朝がた早くに起こされた倦怠感が、氷河の気配に安堵した今、俄かに押し寄せてきていて、何もかもが億劫だった。
一輝は明かりをつける手間も惜しんで、朝出た時のままに乱れたベッドへどさりと身体を投げ出す。
目を閉じて、すぐにもやってきそうな睡魔の訪れを待っていると、不意に瞼の裏に明度の変化を感じた。
目を開けて、明るさを感じる方角へ顔を傾けると、寝室の扉の所へ氷河が立っていた。廊下から洩れる明かりを遮る影は逆光でその表情は見えない。
だが、俯きがちのシルエットで、今朝の激しい怒りがまだ持続しているわけではなさそうだ、ということはどうにかわかった。
「……カミュが帰ってきた」
俯いたままに発せられたその声からは、予想通りに険が削がれている。
怒りが静まった原因はやはりそこか。
お前は本当にカミュさえいれば後のことはどうでもいいんだな、といっそ潔いほどの氷河の態度に、一輝は微かに笑った。
「少しは情があったようだな」
興味なさげに答えた一輝の返事に氷河は何も言わず、代わりにゆっくりとベッドへと近づいてきた。
ギシ、とスプリングを弾ませて、ベッドの縁へと氷河は腰掛け、一輝の頬に手を伸ばした。
彼の手のひらに薄く纏った凍気がひんやりとして、腫れた頬には心地よく馴染む。
「殴って……悪かった」
閉じきっていない扉から薄く漏れる廊下の明かりが、眉間に皺の寄った氷河の貌をぼんやりと照らしている。
謝っているというより、怒っているようにすら見える氷河の悔しそうな表情がおかしく、一輝の口から堪えきれず笑い声が漏れた。その様子に、氷河の眉間の皺はますます深まったが、だからと言って、一輝の頬に触れている指先をひっこめたりはしなかった。
「お前が見つけたんだな。これはカミュがやったんだろう」
氷河の氷の指先が、頬の上に残る赤い爪痕を撫でた。
「爪を持ってるのは何もカミュだけじゃない。俺は『カミュを嫌ってる』。せっかく出て行ったものを連れて帰ってくるわけなかろう」
今朝方、自分でそう言ったくせに、氷河は自分自身の言葉に引っぱたかれたような顏をした。痛みを堪えるように眉をよせて氷河は掠れる声を絞り出すように言う。
「……お前がカミュを嫌っているわけじゃないことはわかってる。カミュがお前に懐かないだけだ」
リビングの方角では氷河を呼ぶカミュの甘えた鳴き声がなーなーと響いている。
普段ならこれだけ呼ばれていれば一も二もなく飛んでいくのだが、聞こえていないはずはないのに、氷河はベッドサイドへ腰掛けたまま顔を上げない。
さっきからの殊勝な態度といい、今日はずいぶん珍しいことばかりが起こる。
「カミュがお前に懐かないのは俺の態度のせいだ」
大好きな「マーマ」を虐める嫌な奴。
カミュがそう一輝を認識しているのは明らかだ。
氷河が常にカミュを優先し、一輝を邪険に扱っているから。
氷河は一輝の頬に残された爪痕を、何度か指の腹で撫ぜて、鈍く光る金糸に隠れるように俯いている。
嫌な沈黙だ。
まさか、「だからやっぱりカミュを連れて出て行く」と続くんじゃないだろうな。殊勝な態度はそのせいか。
「だから……」
ほらきた。
「今度からなるべくお前を優先する」
すぐには言葉の意味がわからずにまじまじと氷河を見返す一輝のしぐさに、氷河は視線を合わさぬようにますます俯いた。
一輝はゆっくりとベッドの上へ身体を起こす。
縁へ腰かけていた氷河の腰へ腕をまわして、その身を引き寄せる。固く強張った身体は僅かに抵抗を返し、だが、拒絶とまでは言えぬ程度の動きに、一輝は構わず細い腰をそのまま引いて確認するように言った。
「俺を優先?」
固く強張った肩に、表情を隠す柔らかなブロンドがこぼれている。その金糸の影から何度も言わせるな、とやけに尖った声が上がった。
だが、剣呑な声の割には抱いた身体は逃げていかない。
「どんなときも?」
「……なるべくだ」
「カミュが朝起こしに来ても無視できるのか?」
「それは……腹が減っているのに飯を食わせないのは可哀そうだからカミュが優先だ」
「好きな場所で煙草を吸うのは?」
「カミュの身体に悪いからそれは無理だな。というかそもそも吸うな。約束が違う」
「俺の本はカミュには触らせないか?」
「爪を砥ぐのにいるんだ、何かが。家に傷をつけるよりいいだろう」
「……池でカミュと俺が溺れていたらどっち先に助ける?」
「そんなものカミュを助けてお前が溺れるのを楽しく見物するに決まってるだろう!くだらないことで猫相手に本気で張り合おうとするな、このバカ!」
さすがに顔を上げて、ほとんど憐れむような視線を氷河は投げたが、いやいや、おかしいだろう。
どこが一体「優先」だったんだ?
結局、何一つ今と変わらないじゃないか。
『現状維持です』と告げるために、あれほど悲壮な顔をしてやってきたとは……そこまで俺を優先するのが嫌なのか。
リビングでは、小さな王様が、なーなーと氷河を呼んでいる。
一輝はため息をついた。
こういうのは分別がある方が負けることになっている。そして俺は分別がある。猫よりは。
「もういい。カミュが呼んでる。行って来い」
そう言って、抱いた腕の拘束を緩めてやったが、氷河は立ち上がらなかった。ひとつ大きく息を吐き出して、視線を逸らしたままやはり怒ったように吐き捨てる。
「……今はお前だ」
思わず、一輝はまじまじと氷河を見返した。金糸の間から何かを挑むようにブルーが一輝を射抜いている。
なーお、と呼ぶ声はまだ響いている。目線で、本当に行かないのか、と確認してみせると、氷河はあからさまに鼻の頭にしわを寄せて仏頂面となった。
「構えとうるさい癖に……」
後は、軽い舌打ちの音と共に口の中で消えた。
この鈍感、と聞こえたような気がした時には氷河はもうするりと一輝の腕を抜け出しかけていた。その身体がやけに熱を帯びている、と思った瞬間───咄嗟に一輝は氷河の二の腕を掴んだ。
立ち上がるのと逆のベクトルに作用した力に、バランスを失って氷河の身体がベッドの上へ沈む。一輝はいつもの癖で逃がすまい、と氷河の両肩を押さえようとしたがその必要はなかった。無理に引き倒されたことに反発するでなく、一輝を振り仰いだ体はそのまま白いシーツの真ん中で留まった。
見上げる視線と、見下ろす視線が同じ種類の熱の上昇を伴って絡まり合う。
一輝、と薄い唇がほとんど無音で形作った。
それが合図だった。
噛みつかんばかりに重ねあわされた唇はどちらからか。
誘われていた、のだと、氷河の方から熱く絡められるベルベットのような舌に、ようやく一輝は確信する。いや、確信、というにはまだ足りない。気難しい芸術家のような繊細な氷河の指が、もっと、と引き寄せるしぐさで一輝の剛い癖毛に挿し入れてられていてさえ、まだ半ば信じられない思いがした。
てっきり喧嘩の名残の気まずさを隠しているのかと思いきや。
いや、無論、それもあったのだろうが。
記憶にある限り初めてだ。
「熱い」「眠い」「気分じゃない」
最後には結局流されてしまうくせに、必ず一度は『不本意だ』という意思表示の言葉を吐かずにいられないのが氷河の常だ。
それが、到底、甘い誘惑には程遠く、正直喧嘩をさらに売られているのだと誤解しそうになったほどだが……お前の方から俺を誘う、だと?
氷河をしてそうしてもいいと思わせたきっかけが、結局「猫」だということは明らかなのだが、それを差し引いたところで熱が急上昇するのを止めろというのは無理な相談だった。
一輝は余裕なく氷河のシャツの釦に手をかける。釦の一つや二つなくなったところで構うものかという勢いで前を開くと、掠れた吐息が、待て、と男を制止した。
無理だ。
一輝の肌の上を掠めた湿った吐息は、一輝同様かそれ以上に常ならぬほど熱く、どう考えても同じ種類の劣情を共有しているようにしか見えない。
であるにもかかわらず、どうせいつもの「自分は不本意だ」という主張を、こんな時でもせずにはいられない氷河の頑固さがもどかしく、一輝は制止を無視してうなじに噛みつくように口づけを落とした。
は、と喘ぎに混じる甘さを隠しもせず、氷河はやや乱暴に一輝の前髪を掴む。
「違う、そうじゃない……」
この馬鹿、と罵りの言葉をずいぶん甘い声色で囁いて、不意に氷河の身体が下方へ沈んだ。
なんだ、と一輝の顏に疑問が浮かぶより早く、氷河の指が一輝のベルトにかけられた。
そのまま、氷河は不器用な手つきで金具を外しにかかる。伏せた睫毛は一輝を見上げもしない。が、廊下から漏れる明かりが金糸に見え隠れする耳の朱色をぼんやりと浮かび上がらせていた。
氷河はあまり手際がよいとは言えず、緊張のためか固く強張った指先が冷たい金具の上を何度か虚しく滑った。足元へ跪いた金色の髪に男の熱は耐えがたく昂ぶり、厚い布地の内側で増した質量はきつく欲望を主張する。
ようやくひやりと冷たい空気に触れた時には、既に漲る熱は解放の時を待つまでに育っていた。一瞬だけ、チラリと一輝の方へ流された視線はやはり怒っているように見えたが、氷河は柔らかな唇を開いてゆっくりとその昂ぶりを口に含んだ。
熱く、ぬめる舌が押し付けられる感触に、一輝は微かに唸りを漏らす。
一定のリズムで揺れる金糸に、苦しげに寄せられた眉根と、その裏腹な上気した頬、飲みこみきれない唾液で濡れた唇。
薄暗い部屋に響く、淫靡な水音。
何より、「あの」氷河が。
全てが男の熱を上げるには十分すぎるほどで、温かな口腔で男の質量がみしりと増す。
正直、氷河の口淫はたいしてうまくはなかったが、だが、その拙さすら男を煽り、欲望が早くも解放を求めて猛々しくうねりを増していく。
喉奥深くまで塞ぐ熱塊に息苦しさを感じているのだろう、氷河の眉間の皺が時折深まり、眦にじわりと涙が滲むのを見て取り、無理はするな、と一輝は氷河の額を押して行為を止めた。ぶるりと震えて吐き出された怒張と氷河の唇を唾液が繋いで、淫らな滴りをつくる。
急激に流れ込む酸素に粘膜を刺激されて、けほ、と小さく咽せた形のままだらしなく開かれたままの氷河の唇の狭間で、赤い舌がまだ物欲しげに突き出されていて、もうどうにも堪らなくなった。
「あんまり煽るな。俺は抑えがきく方じゃない」
特にお前に関しては、と一輝は氷河の腕を引いて身体を引き起こす。
猫の世話に明け暮れているだけの生活のくせに、未だ戦士の体つきを保ったままの美しく均整のとれた肉体を覆う衣服を、一枚ずつはぐのももどかしく、下着ごとまとめて足首まで下げた。
露わになった氷河の中心も既に熱く熟れていて、指を絡めてゆるゆると動かしてやれば、濡れた唇からは甘い呻きが漏れた。
「……っ……っき、……っ」
切羽詰まった声が己を呼ぶのに応えて、一輝は氷河の膝裏を抱えた。急かされずともこちらももう限界だ。
抱えた躰を濡れた怒張の上へと突き立てるように沈めさせる。
「───っ」
中心を熱い楔に貫かれて、さすがに氷河は苦しげに背をのけぞらせた。一輝の肩へ置かれた指先が、この、と怒ったように曲げられる。
「……やめるか?」
きつい締め付けは一輝の背をぞくぞくと痺れさせ、この状況で後戻りなどできるわけがなく、またそのつもりがないのにそう聞いたのは、不意に、言わせてみたくなったからだ。
もっと、直截な言葉を。
言わずにわかれ、という、氷河の傲慢で怠惰な我が儘にちょっとした意趣返しのつもりで。
だが、押し拡げられる圧迫感を眉間に皺寄せて耐えていた涼やかな目元は、ピクリと痙攣のような動きで小さな反応を返したあと、ふっと緩んで挑むような色を添えた。
「やめたいのか?」
問いに対して問いで応えるとはどこまでも強情で強気な奴だ。
パサ、と瞬きの音すらたてて長い睫毛を揺らし、ずいぶん挑発的な視線を流しはしたが、だが、その強気な視線とは裏腹に、金色の髪へ隠れた額には既に薄く汗が滲み、言葉の合間に吐いた息は喘ぎと呼んでもいいほど甘く滲んでいた。
ほんの少し、強引に揺さぶってやればいくらも抵抗しきれず甘く啼くことをもう知っている。気乗りしない様子で強情に己の中の官能から目を背けようとするのを、暴いてゆくせめぎ合いの過程が一輝を高揚させるのだ。
一輝は己の肩に食い込む節ばった細い指をとった。まだ、凍気を纏っているかのようにひんやりと冷たいそれを己の頬へ押し当てる。
「こんなところでやめられる男がいるか、阿呆」
「なら、聞くな……っ」
一輝が口を開くたびに深く穿たれた楔が微かな振動を伝え、知らず、氷河の腰がじわりと揺らめく。
「だが、お前が駄目だと言うのなら止める」
さざ波のように体奥から四肢へと広がる甘い痺れを、眉間に皺寄せて耐えていた瞳がうっすらと開かれる。
「……嘘をつくな。お前がそんな飼い慣らされた猫のような真似なんか、」
「飼い猫も案外バカにはできんぞ」
一輝が押し当てた氷河の指は、まだ赤く腫れた頬の上だ。熱を持っている肌の上には無数のひっかき傷。一輝が持て余している親猫に子猫の仕業をそう指摘してやると、一瞬、きょとんとまるく見開かれた瞳はすぐに笑いに揺れた。
「……く、くくっ……お前……ずいぶんな……間抜け面を……くくっ……ん……あ……はぁ……」
自分で笑っておきながら、拍子に深まった結合に氷河は甘く喘いで一輝を非難するように潤んだ瞳で見下ろした。
───俺のせいなのか?
「こんな面にした本人が笑うか?」
「半分は俺のせいじゃない」
「じゃ残り半分の責任を取れ」
言うや、一輝は抱えていた氷河の身体をシーツに押し付けるように倒し、膝を抱えた。
甘苦しく締め付けられるだけ締め付けられて既にもう限界だ。
「……んっ……『止める』とか……ふっ……言ったくせ……に……っ」
「お前が『駄目』ならな。……駄目なのか?」
キシキシとベッドの軋ませて律動する体の間で固くしこった雄が既に腹の上へと滴りをつくっている。抱え上げていた氷河の膝から下が一輝の腰へと絡みついて、縋るものを探す腕は一輝の首を引き寄せる。
耳元で、濡れた艶やかな吐息の合間にそれは聞こえた。
「『駄目』だ……一輝」
いつもの拒絶が湿った吐息とともに耳を撫でる。これほど甘い拒絶などほかには知らない。
一輝は、そうか、駄目か、と低く笑い、氷河の膝を肩へと抱え上げ、深く身体を折り曲げて突き上げた。
**
んなーお。みゃおみゃお。ふみゃあ。
夜明け前。
いつものとおり響くカミュの呼び声に、一輝は鼻の頭に皺を寄せて唸る。意識して鳴き声を遮断して、代わりに目の前にある柔らかな金の髪に鼻先を埋めて、もう一度眠りの世界へ戻ろうとする。
なん!なんなんなんみゃふっん!
氷河を呼ぶ声が非難がましいものに変わり、勢い余って裏返っている。
いつもは寝室まで呼びに来るのに、昨夜から一向に鳴き声が近づいて来ないところを見ると、リビングの扉を氷河がきっちり閉めているのだろう。なるほど、確かにこれが「優先」した結果か。
たちまち一輝の鼻の先に寄った皺は甘い余韻にじわりと解け、腕の中に収めた身体をますます強く抱いた。
いつもは敏感にカミュの鳴き声で起きる氷河も、今はぐっすりと眠っていて起きる気配はない。
ふにゃん。みゃあ。にい。
今度は媚びるような高い声。
あの手この手で氷河を呼ぶ声に、一輝は仕方ないな、とため息をついて、そっとベッドを抜け出した。起き抜けにもう一度、という誘惑も脳裏を掠めはしたが、今日のところは「勝者」の余裕で諦めてやろう、などと、寝起きの頭で思い、思った瞬間、いや、猫相手に俺は一体何を大人げない、と急速に目が覚めた。
がしがし、と頭を掻き毟りながらリビングへ入れば、そこは戦場もかくや、というほどのすさまじい有様だった。
観葉植物はひっくり返り、ソファカバーは斜めにずり落ち、雑誌の入ったラックの中味は散乱し、極め付けには扉のところへ、抗議の水たまり。
昨夜から呼んでも呼んでも来ない氷河に、大騒ぎして存在を主張したらしい。
今また、現れた一輝の姿に、お前じゃないと言いたげに、なー、と不満そうな声を漏らし、リビングの扉めがけて一目散に駆けてきた。
が、一輝の方が一歩早かった。
寝室へと続く廊下の扉をパタンと閉め、カミュの逃走を妨げる。
なん!
カミュが恨めしそうに振り返ったが、一輝は大きな欠伸でそれを黙殺した。
「もう少し寝させておいてやれ。マーマは疲れてる」
一輝の言葉などわかろうはずもなく、カミュはカリカリと前肢で扉の端を引っ掻いた。
「ほら、飯だ、来い」
軽く室内を片付けておいて、猫缶を開けてそう呼んでやると、カミュは一瞬躊躇いの動きを見せた。氷河と食事と小さな頭の中で天秤が揺れている。
なーおん。
氷河をもう一度呼ぶように鳴いて、だが、今日のところは空腹に負けたようだ。しぶしぶ扉から離れて一輝の元へと近づいてきた。
傍までは来ない。
少し離れたところで鎮座し、一輝の手にある皿に、不満げに、なー、と鳴いて抗議する。
俺の手から施しは受けんというわけか。
ほら、と床に置いてやると、数歩だけ近づいてきてまた、なー、と鳴く。
「わかったわかった、俺は消える」
ホールドアップするように両手を上げ、一輝はそのまま後ずさって、リビングの掃きだし窓を開けてベランダへと出た。
ついでに、と持って出た煙草に火をつけ振り返ると、窓越しにちょうどカミュがはぐはぐとすごい勢いで皿へ口を突っ込んでいるところが目に入った。
そこまで空腹だったくせに、譲れない一線があるというのがどうにもおかしい。
素直じゃない誰かさんそっくりだ。
プライドが高くて、簡単に人を寄せ付けないガードの固さ。
怜悧な表情に隠された内面は驚くほど情が深い。隠しきれず漏れる感情の欠片を、だが、本人は認めようとせずに必死に隠している様はこちらの感情をも堪らなく揺さぶる。
俺は……少しはお前のテリトリーに近づけたのか?
プライドの塊のようなお前が、投げつけた鍵を撤回してもいいと思う程度には?
朝の爽やかな空気の中を、吐いた息と共に紫煙が立ち上る。
「お前が駄目だと言うなら止める」、か。
一輝は、手の中の煙草の箱を見つめた。まだ半分以上中身が残っている。
最初に口にしたきっかけはなんだったのかもう思い出せない。だが、氷河に最初に喫煙を見つかった時のことは覚えている。顔色を変えるほど怒っていた。思えばあれほど感情を顕わにした氷河というのも珍しい。それほど嫌う理由を知りたいものだが。
一輝は小さく笑って手の中の紙の箱を中身ごと握りつぶした。くしゃ、と頼りない音を残してそれはあっさりと質量を失った。
お前にだけ譲歩させたまま、というのは俺のプライドが許さんからな。
カミュはあっという間に皿に乗った食餌をペロリと平らげ、満足気に前肢でくるくると顔を撫でている。
多分人生最後の一本となるはず(言い切れないあたりまだ未練だ)の煙草を消して、カラリと窓を開けて室内へ戻れば、すっかり一輝の存在を忘れていたカミュはビクッと数センチ飛び上がって振り返った。
とことん空気より軽い存在にされているらしい。
「満足したか?」
食事前よりは、少し落ち着いた様子のカミュに声をかけてやって、一輝はそのままソファを背にゆっくりと腰を下ろす。
「おい、来い」
味も素っ気もなくそう呼んだとて、カミュが来るはずもない。
だからと言って、氷河のように猫なで声で呼んでみせることもできず、微妙な距離を保ったまま二人(一人と一匹?)は対峙した。
氷河の態度も問題だったのかもしれないが、同じくらいの責任割合で一輝の方も、懐こうとしないカミュを扱い兼ねていた。
でも、なんとなくわかってきた。
コイツは小さな氷河だと思えばいいわけだ。
強引に構うと頑なに己を閉ざす。
だったら、と退いてみせると、コレ幸いとそれっきり。
だが、適度な距離を保ったまま、同じ空間へずっとい続ければ。
一輝はカミュから視線を背け、ラックから取り出した(研ぎ跡だらけで読むところなどない)雑誌をパラリパラリとめくった。
窺うように一輝を見つめていたカミュは、自分に構うのをやめた一輝にやがて興味を失ったように、一つ大きな欠伸をしながらぐっと前肢を突っ張って伸びをした。
そして、ゆっくりと一輝の傍へ近づいてくると、そこをどけ、というように胡坐をかいて坐った一輝の尻のあたりを前肢で押した。ソファ前の毛足の長い絨毯は、カミュのお気に入りで、自分の寝床よりもそこへ横たわるのが好きなのだ。
だが、一輝はその小さな主張に気づかぬふりで再びパラパラと雑誌をめくる。
しばらく、小さな前肢で、一輝の筋肉質な体躯を押していたカミュだったが、やがて、にゃあ、と一声鳴くと、一輝の足に爪をかけて膝の上へと上ってきた。
それすらも気づかなかったように、視線を合わせないでいてやれば、カミュは何かを促す仕草で一輝の腕を引っ掻いた。
へえへえ、と、氷河がよくしているように喉を親指の腹で擽るように撫でてやれば、カミュはゴロゴロと満足げに喉を鳴らした。
ほら。
やっぱり氷河と一緒だ、お前は。
意地っ張りで頑固者で素直じゃないから、構えば構うほど、逃げていく。
本当はただの寂しがり屋で、一人でいることは苦手だから誰かにくっついていたくて仕方がないくせに。
困った奴らだ、と一輝がカミュの体をゆっくりと抱きかかえてやれば、調子に乗るな、そこまでしていいとは言ってない、とばかりにカミュの爪が一輝の腕をかすめて、思わず一輝は吹き出した。どこまで似ているんだお前たち。
「おい、相棒。また今日も一緒に冒険に行くか」
───なーおん。
(fin)