『星の詩』のおまけ作品
カノミロの裏側にあるカミュ氷
◆罪と罰 ③◆
一体、俺は何をしてるんだろうな。
この世で一番苦手な色恋沙汰のおせっかいを自分の意志とはほぼ無関係に焼くはめになって、シュラはため息をついた。
氷河は布団をかぶってソファでまるまって泣きながら寝たようだった。
深夜、ソファの方角から寝息が聞こえるのを確認して、シュラはそっと自宮を抜けて宝瓶宮に向かっているのだった。
カミュが寝ていなきゃいいが、と思っていたが、カミュは寝ていなかったばかりか、シュラの顏を見て、来ると思っていた、というような表情を見せた。
「うちの氷河が迷惑をかけて申し訳ない。……泣いたか?」
「声を殺してたが、多分盛大に、な。泣き疲れて寝ているようだった」
「そうか……色々すまない。相手はカノンか?」
「そう……って、おい!!」
なんなんだ、その全部お見通し、みたいな反応は!
俺がやってるのはもしかして余計なお世話、というやつなのか?
氷河の健気な努力は全く無駄なのか?
シュラの眉間の皺を読んで、カミュは、ああ、すまない、と微かに苦笑した。
「氷河の……ここのボタンが取れてただろう」
カミュが自分の喉元を指差す。
あの一瞬でよくそれが見えたな……。
もしかしてたったそれだけで何があったか看破したのか。だったら俺はお前が恐ろしい。
カミュは困ったように眉を下げた。
「そんなに難しい推察ではないのだ。わたしが育てたので……ボタンが取れたのをそのままにしてここへ来る時に着てくるような子ではない(普段は無頓着でも)。聖域に来てから、取れるような何かがあったのだろう。袖や裾ではなく首元だったからな。喧嘩で取れるならかすり傷の一つも負っていようがそうではなかった。それ以外の理由など自ずと知れている。一番、アレを構いそうなミロとはわたしは直前まで教皇の間に一緒にいた。それ以外で、この聖域で氷河を構いそうな人間といえば……まあ、そんなところだ」
「だからと言って……もしかしたら俺だったかもしれんぞ?お前だって見ただろう」
「あなたはそんなことをしないだろう」
「わからんぞ?両隣の宮の住人がこぞって熱を上げてるとなれば興味が湧いて味見をしたくなったのかもしれんぞ?」
シュラの言葉にカミュは肩を震わせた。
どうやら笑われたらしい。冗談を言ったつもりはなかったのだが。そこまで信頼されると、男としては逆に微妙な気分になる。
せっかくおせっかいを焼きに来たのに、バカにされている気分なんだが。
シュラの心を読んだかのように、カミュが顔を上げて、いや、そうではない、と待ったをするように片手を上げた。
「あなたのことは信頼している、というのもあるが……多分、あなたには氷河では未熟すぎて物足らないのではないかと思ったので……失礼なことを言ったのなら謝る。昼間もあなたは棒立ちだったし、氷河の手が震えていたから、とてもではないが誤解しようがなかった。何か理由があるのだろうとは思うが、だが、わたしには、なぜ氷河があんなことをしようと思ったのか、てんで見当がつかないことは確かなんだ。あなたがこうして来てくれてとても助かった」
カミュに頭を下げられて、少し居心地が悪くなったシュラは、一度咳払いをしてカミュに向き直った。
「本当はこういうことには立ち入りたくないんだ、俺は」
「ああ、そうだろうな。そこは本当に申し訳ない」
「氷河は、相手がカノンだということを絶対にお前には知られたくない、とさ」
「……氷河が……?」
そうして、シュラは氷河とのやりとりをカミュに再現してみせた。
カミュには絶対に言わないで、と言っていたが、シュラが言うまでもなく、カミュは相手が誰か気づいているようだからむしろ隠さない方がこじれない、と判断したためだ。
氷河に恨まれて嫌われるかもしれないが、嫌われるなら願ったり叶ったりだ。寄りつかないようになってくれれば、この先の平穏な生活が保障されるのだから。
とにかく俺は関わり合いになるのをこれで最後にしたい。
長い長いシュラの説明を聞いている間、カミュの眉間の皺はどんどん深くなっていった。
最後まで語り終えた時、カミュは額に手をやって苦しそうに息をついた。
「……氷河が、そんなことを……」
カミュは顔を覆うように肘を膝の上へついて考え込んでいたが、やがてゆっくりとその顔を上げた。
「アイザックのことは全てわたしの責任なんだ。だから、わたしにはカノンを責める資格などない。カノンに対しては何一つ含むところなど持っていないんだ。だが……弟子たちがそんなふうに考えていたとは……わたしは師失格だな」
「お前ほど弟子想いの奴を俺は知らないから失格とまでは思わないが……お前は、というかお前たちは三人とも少し言葉が足らないのではないかとは思うな」
シュラの言うことを一理ある、とカミュは思った。
昔はこうではなかった。
氷河もアイザックも、とても素直に、先生、先生、と色んなことをしゃべっていた。それが……あの事故を境に、互いの気持ちを言葉に乗せる、ということをしなくなってしまった。
再会して、元の穏やかな関係に戻ったように見えても、やはりもうまるきり元の関係ではないのだ。三人が三人とも傷を抱え、そして、相手も傷を抱えていることを知っているがゆえに、それに触れぬよう、言葉にはせずに、ただ、相手は多分こう思っているだろう、と推察して思いやって済ませるようになってしまった。
そのせいで、アイザックは無用に聖域から遠ざかり、氷河には肝心な時に頼ってもらえないという情けない事態になっている。
どんなに痛くても、それを癒すためには一度傷口に触れる必要があったのに。
「シュラ。わたしは……」
「待った。もうそれ以上は俺に言わなくていい。俺も興味はない。お前が話をすべきは氷河だろう」
「……そうだな。色々と……感謝する。氷河は今日はこのまま世話になってもいいだろうか。明日の朝迎えに行こうと思うが」
「いいのか?俺だって男だぞ。一晩一緒に過ごして無傷で帰すとは限らんぞ」
苦痛に耐えるような顔をして、睫毛を伏せていたカミュだったが、シュラの言葉には視線を上げて、静かに、「手を出したら命はないぞ」と言った。
……これだけ世話してやって、この言いぐさ。
ここまでくるといっそすがすがしいほどだ。
**
「おい。目が覚めたなら、シャワーを使うか?」
シュラの声に、氷河はのろのろと布団から顔を出した。
泣きながら寝たので、髪の毛が頬にはりついている。素直に、ハイ、と答えてバスルームの方へと氷河は向かった。
熱いシャワーを浴びながら、氷河は曇った鏡を掌で拭って自分の姿を映した。
湯や水などでは流しきれない痕がやはりまだそこへは残っている。
少し強く、爪で引っ掻く様にして擦ってみるが、いたずらに白い肌に傷がついただけで、紅い鬱血の痕が消えるわけではなかった。それは自分の罪を突きつけられているようで、また気持ちが塞ぐ。
罪をなかったことにするのを諦めて、バスルームを出て、シュラに礼を言おうと姿を探そうとした時、廊下の端に腕を組んで壁にもたれて立つ人物に気がついた。
「せんせい……」
氷河は息を飲み、それから瞬時にその身を翻すと再びバスルームへ飛び込んで内側から鍵をかけて座り込んだ。
ど、どうしよう。
バスルームからなんて出て行ったりして、いかにも何かありました、みたいじゃないか?先生に誤解をされたら……いや、でも、先生に誤解させるように仕向けたのはそもそも俺だし、ああ、そもそもここへ泊まった時点で、手遅れなんだった。多分もう取り返しはつかない。
あれ、でもそれならなぜ先生はここに……?
氷河が思考をまとめきれないうちに、師の足音は近づいてきて、そしてバスルームの外で止まった。
「氷河。お前を迎えに来た。いつまでもシュラに迷惑はかけられないだろう。一緒に来なさい」
カミュの声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがあった。カミュがそんな声を出す時はいつもなら一も二もなく背を正すところだが、それでも氷河は抵抗を試みる。
「……い、行きません」
「話ならゆっくり宝瓶宮でしよう」
「今話すことは……ないです」
「氷河。頼むからここを開けてくれないか」
「あ、開けません。宝瓶宮へは行きません」
扉の向こうで師が僅かに息をついたのがわかった。
「カノンのことなら……気にしなくていい。お前は悪くない」
どうしてそれを……。
ざあっと氷河の全身から血の気が引く。
知られた?何を?どこからどこまで?なぜ?
「氷河。さあ、ここを開けて。わたしはお前に会いたい」
「……俺……俺は……あなたに会いたくない……か、帰って……ください」
扉の向こうが沈黙する。
胸が苦しい。カミュは怒っただろうか。……傷ついた、だろうか。
「氷河、これが最後だ。わたしと一緒に帰ろう」
「……行きません」
「……そうか。お前の気持ちはよくわかった。もう二度と会わないということでいいのだな。とても残念だ、氷河」
こんな時でも優しい響きのカミュの声に、胸の奥が激しく疼く。
返事をしなくては、と思うのに、口を開くとみっともなく震えた音となりそうで、氷河はただ黙って堪えた。氷河の沈黙を肯定ととったのだろう、カミュの足音が遠ざかっていく。
ああ……カミュ……!
もう本当に終わってしまった。でも、終わらせてしまったのは俺だ。
今すぐ追いかけたい。でも追いかけても、言えることは何もない。
隠し通せもしないなら、嘘をつくべきではなかっただろうか。俺のしたことは無意味だっただろうか。───先生は、なぜ知っていたのだろう。
シュラ、だろうか。
口の軽い人だとは思わなかった、のに。
どうしていいかわからず、バスルームでただ膝をかかえて、俯いていた氷河だったが、背中越しに廊下に気配を感じて顔を上げた。
八つ当たりだとは思ったが、一言文句を言わなくては、と、立ち上がって勢いよく扉を開く。
「シュラ!カミュには言わないで下さいとあれほど……っ」
勢いに任せて声を荒げたものの、視線の先に人影がなく、あれ、と拍子抜けして言葉が止まった。が、次の瞬間、開いた扉の死角から腕が伸びてきて身体を柔らかく抱き締められる。
驚いて、しかし、すぐにそれが誰の腕かに気づいて氷河の身体が震えた。
顏を上げなくともわかる。
この香り、優しく包み込む腕、温かい胸、あやす様に氷河の髪を梳くほんの少し冷たい指───
「カミュ……」
「つかまえたぞ、氷河。困った子だな、こんなに世話をかけさせて」
とても優しい口調で愛おしげにそう言われて、堪えきれず涙が溢れ出す。
「……っ……」
「泣くな、氷河。わたしはお前に泣かれるのに弱い。自分の知らないところで一人で泣いていると思うと……昨日はわたしは眠れなかった」
師にそう言われて氷河の胸も激しく痛む。
「さあ、宝瓶宮に帰ろう」
「だけど……俺……」
「これ以上わたしの心臓を虐めないでくれ。お前に『会いたくない』と言われて正直傷ついた。……でも、お前にそこまで言わせてしまったのはわたしが悪い。すまなかった、氷河」
「ち、違います!先生は悪くない。俺が……」
「お前のせいじゃないと言っただろう。お前がどれだけ嫌だと言っても、わたしはお前を連れて帰るぞ。近くにいるのに触れられないのはもうごめんだ」
カミュは不意に氷河を抱き締める腕に力を籠め、髪を引いて氷河を上向かせると涙に濡れた唇に口づけを落とした。
優しく、宥めるような口づけに、初めは自分を抑えるように体を竦ませていた氷河も、次第にすがるように応え……
廊下に咳払いの音が響く。
ハッとした氷河が音のした方向を見ると、続きは帰ってからにしてくれないか、と苦虫を噛み潰した顔のシュラが立っていた。
瞬時に顔を赤くした氷河を、カミュは笑って抱き上げた。
「カ、カミュッ……おろしてっ……下ろしてくださいっ!」
「いや?また逃げられたら敵わない。このまま連れ去るとしよう」
「逃げませんっ逃げませんから!お願いですから自分で歩かせてくださいっ!」
抗議する氷河を幼子を抱くように抱いたまま、カミュはシュラの横を通り抜ける。
「世話になった。この礼はいつか」
「……礼などいらん。二度と来てくれるな」
宮の位置的にそれは難しいな、と生真面目なセリフを返して、カミュの背中は遠ざかって行った。
シュラは脱力するようにずるずるとそこへ座り込んだ。
ああ……なんなんだ、あいつらは……
見ていたこっちが恥ずかしいぞ……!
北極海の氷が減少してるのアイツらのせいじゃないのか!
本当に……どうして俺の宮はここなんだ。
女神に直訴に行こ……む、いかん、もうこの後は上へは行けるわけない。
じゃあ、デスマスクのところで鬱憤晴らしか。
……まさかとは思うが、天蠍宮にカノンがいたりしないよな?いるだけならいいがよもや下でも……いるだけでも、色々聞いた後じゃいたたまれなくて顔など見れるものか。
だああああああっもう!!
上へも下へも自由に行けやしない!
畜生!俺は心からこの十二宮システムを恨むぞ!