寒いところで待ちぼうけ

短編:その


『星の詩』のおまけ作品
カノミロの裏側にあるカミュ氷


◆罪と罰 ②◆

 ソファへおさまった氷河は、首元のシャツを引き寄せるように握って、じっと項垂れている。
「……それで?喧嘩したわけじゃないんだろう?」
 氷河は頷き、そして、おずおずと、握りしめていたシャツを離し、シュラに向かって襟元を広げて見せた。
 正直、何が始まるのかとギョッとしたが、白い陶磁のような肌に咲いた真新しい紅い花を見つけて、どういうことだ?と疑問へと変わった。
 カミュではありえない。師弟はたった今、シュラの目の前で久しぶりに会ったばかりだ。
 ミロか、と聞きかけて、それも違う、と思い至る。ミロはシュラが氷河を見つける直前に磨羯宮を抜けて行っていた。だから、時間的に考えて彼でもないはずだ。
 でも、ミロ以外に、下のヤツらで氷河をこんなふうに構うような命知らずがいるか?
 というか、相手が誰であれ、それは合意の上でなされたはずはないだろう。
 説明しろ、とは言ったものの、そこまでデリケートな話になるとは思いもしていなかったシュラは僅かに狼狽え、そして気遣うように言った。
「無理に説明しなくてもいいぞ」
 シュラの気遣いの意味に気づき、氷河はああ、と首を振った。
「違います。途中で逃げて来たので、俺は平気です。でも、これをカミュに知られるわけにはいかない」
「いや、それこそ、俺じゃなくてまず第一にカミュに相談するべきだろう!俺がカミュなら知っておきたいぞ!相手を半殺しにくらいはせんと気がすまん!」
 氷河はまた俯いて首を振った。
「……違う。多分……その人は、本気で俺をどうにかしようと思っていたわけではなかった。俺が何か……多分、何か……怒らせるようなことを……」
 氷河は話しながら自分で頭を整理しているようだった。膝を抱えて、額に手をやって一生懸命考えながら、言葉を選んでいる。
 正直、男だろうが、もっとビシッとバシッと簡潔にしゃべれないものか、と無性に苛々したのだが、それも今は酷かと思い、黙って続きを促す。

「俺は……カミュ先生とミロの二人を手玉に取っていますか?ミロに対して、本気で抵抗していない、ですか」
 ん?何か突然話が飛んだぞ?
「……取っているのか?」
「違います!」
 氷河は顔を赤くして怒って吐き捨てるように言った。
「お前が違うというなら違うんだろう。だいたい、カミュにしてもミロにしても……」
 完全に氷河の方が振り回されているように見えるのだが。えらく不器用そうなこの少年がそんなことを意図的にできるタイプではないことは見ていれば容易にわかるし、性格は違えどマイペースだという意味ではよく似通ったあの二人は誰かに手玉に取られるようなタマとは到底言えない。

「シュラは……聖剣を使う時、怖くなることはないですか」
 ……また話が唐突に飛んだ。
 まあいいか。色恋沙汰よりは歓迎できる話題だ。
「敵を前に恐怖を覚えるか、という質問なら答えはノーだが」
「やっぱりあなたは強いな。俺とは覚悟が違う。俺はいつも怖い」
 意外な氷河の言葉にシュラは驚いた。
 とてもそんな臆病者には見えないが。
 聖戦でも、怯むことなくエリシオンまで行ったのではなかったのか。
 シュラの眉間の皺を見てとって、氷河はばつが悪そうに顔を伏せた。淡い色の睫毛に乗ったままだった小さな雫が、重力に従ってぽたりと落ちる。
「……氷の聖闘士の技は血が流れることがないから、あまり気づかれませんが、多分、数ある技の中でも冷酷で非情な部類に入ります。絶対零度の凍気に全身を曝されたら、どんな生物も生き残ることはできない。凍気によって損なわれた身体は……腕一本くらいならともかく、全身にそれを浴びてしまえば、例えカノン島へ行っても、全ては手遅れです。真央点でも救うことはできない。相手にそんな不可逆的なダメージを与えていいのは、自分の中の正義が正しいことを確信できるときだけです。だけど、人間は間違う生き物だから……だから、俺は怖い」
「氷河……」
 そんなことを考えていたのか。
 十二宮の戦いは、氷河の中に大きな傷を残したのだ。それこそ、不可逆的なダメージを。
 己を育てた師を斃してしか進むしかなかった氷河は、こうして今、カミュと一緒にいてすら、まだそのことをどう克服すべきか苦しんでいるのだ。
 そんな恐怖を抱えて、戦地に立つのはさぞかし苦しかったことだろう。だが、この少年は誰にもその逡巡を気づかせることなく、敵を前に怯まず向かい続けたのだ。
 思わず頭を撫でてやろうとして、しかし、シュラは途中でそれをやめた。それは自分の役割じゃない。
「カミュにそんな話をしたことがあるのか」
 氷河はふるふると首を横に振る。
「先生には言えません。俺よりよほど苦しんだと思うから」
「いや、氷河。それならなおさら、カミュに言え。俺ではなく。カミュだってお前と同じ氷の聖闘士だ。そしてお前の師だ。乗り越え方はカミュから学べ。カミュは多分お前にそれを教えたいと思うぞ」
「先生をさらに苦しめることになりませんか?先生は多分、今もまだ自分を責めています」
「弟子が一人で黙って自分のことを悩んでいること以上の苦しみがあると思うか?悪いことは言わない、カミュとちゃんと話せ」
「……ハイ。いつか話してみたいと思います」
 氷河は素直に首肯した。
 そして、抱えた膝を、もう一度抱き締めるように抱えなおして、チラリとシュラの方を見る。
「……俺が本気で抵抗しようとするなら、そんな酷薄な凍気を使うしかない」
 ……そこへつながる話だったのか!!
 せっかく、本業の方向に話題が逸れたと思ったのに、まだ、興味などこれっぽっちもない他人の色恋沙汰の渦中にいたとは。

 唸って天を仰ぐシュラをよそに氷河は再び俯いて話を続ける。
「俺は体格も力も劣るから……凍気でしか抵抗できない。だけど敵であることが明白ならともかく、好きな人をそんな風に傷つけられるわけがない……」
 聞きたくなかったが、聞いた以上はやはりつい気になる。
 もしや、抵抗しないことを咎められた、のか。それは言った相手が全面的に悪い。
 氷河は被害者だ。
 被害者に『抵抗しなかったのだからお前が悪い』という理屈は俺は好かん。その考え方は危険だ。
 ………………というか、今、何気にすごいことを言ってなかったか。
「好きなのか……その、ミロを……?」
「意地悪されるときは嫌いですけど、でも、好きです。ミロも……カノンも。シュラ、あなただって。みんなとても大切です。もう二度と無人の十二宮は見たくない」
 ああ、そういう意味か……。
 ───というか、氷河、今お前、ついうっかり、相手がカノンだったと口を滑らせたも同然なんだが。
 カノン、なのか……。
 カノンと言えば……そうか、ヤツは近頃はどうもやたらとミロ、を。
 だああああっ!三角関係でもややこしいというのに、四角か!?四角、なのか!?そして俺は無関係であるにもかかわらず、単に宮の位置の不遇のせいで、なぜかその四角に包囲されているのか!?
 聖剣で自分を包囲する四角形の辺をスパスパと斬って回りたい気分となって、シュラはこの上なく深いため息をついた。
 複雑な人間模様、気持ちとしては無視を決め込みたいところだが、だが、たった今「あなただって好きだ」と言われたばかりだ。ひどく落ち込む少年をないがしろにもしきれない。
 結局、最も口を出したくなかった部分にシュラは口を出す羽目になる。
「……悪いのはお前ではないから何を言われたとて気にするな。別にお前が積極的に誘ったわけでもないのだろう?」
 だが、慰めるつもりで言ったシュラの一言に、氷河は突然顏を歪めて唇を噛み、喉を震わせた。
 嗚咽を必死で耐えている。
 ど、どうしたらいいんだ。
 俺か?俺が泣かせたのか?
 慰めてやりたいが、例え慰めるためとはいえ、そんな風に傷ついているこの少年に触れるのは躊躇われる。
 仕方なく、シュラはタオルを渡してやるに留めた。
 氷河はそのタオルを顔に押し当て、押し殺されてくぐもった声で言った。
「……俺は例え無理矢理でも、触れられたら相手が誰かに関係なく……勝手に身体が……だから、俺が無意識に誘っているのかもしれない。どこかおかしいんだ、俺はきっと」
 そう言って、氷河は顔を伏せて外界を遮断するように小さくなって膝を抱えてしまった。

 くそっ!!
 どいつもこいつも……バカばっかりだ!!
 人のものとわかっていて手を出す奴も、少年相手に無茶苦茶な理論で責める奴も、氷河のこととなると我を失う奴もまとめて叩き斬ってやりたい!!
 それに、コイツもだ!
 なんで、俺にそんな話をするんだ。いくら黙って聞いてやってるからってそこまで言う奴があるか!無理矢理であっても触れられたら感じる、などと……無防備と言うか隙がありすぎると言うか、警戒心がなさすぎるというか、つけ込まれたらどうするんだ!
 これがちょっと悪いオトナなら、誘ったのはお前だ、と言われてしまうぞ。世間を知らないにもほどがある。こいつを育てたのは一体誰だ!育てたのは───カミュ、か……。
 行き当たった事実にげんなりし、それでも律儀にシュラは氷河に答えてやる。
「おい。そういう話もカミュに相談すればいい。カミュは怒ったりはしない(お前には)。心配するな、別にお前が特別おかしいわけじゃない。男の体はそういうふうにできてる。好きじゃない相手についうっかり反応してしまったことくらい、みんな経験ある。俺だって、カミュだって……」
 まあ正確に言えば、心底嫌ならいくら男でも毎度毎度反応するわけじゃない、とは思ったが、この状況でそんなことを言っても仕方がない。とにかく泣き止ませてさっさとカミュの元へ送り届けなければ。
 シュラの言葉が少し効いたのか、氷河は少し顔を上げた。そして、タオルの隙間からチラリとシュラを横目で見て、カミュはそんな人じゃないです、と言った。

 ……おおいっ!!
 カミュは違って、俺は「そんな人」なのか!!今すぐ叩きだすぞコラ!!
 それとも、どう「そんな人」なのか証明してやろうかコラァァァ!!


 いかん、そろそろ我慢の限界だ。
 ささくれ立った気持ちを押し殺して、シュラはどうにか最後の理性を総動員して氷河を立たせようと手を差し伸べた。
「わかったら、さっさとカミュのところへ行け。なんなら俺も一緒に行って説明してやってもいい。お前は被害者で何も悪いことはしてないんだからな」
 だが、氷河は頑なに俯き、シュラの手を取らなかった。

「……アイザックが、来ない」
 また話が飛んだ。
 でも、そろそろ慣れて来たぞ。
 俺も口下手な方だが、コイツには負ける。

 すっかり氷河のペースに慣れてきたシュラは、抵抗することを諦めて、差し出した手をそのままひっこめ、再びその隣へと腰掛けた。
「カミュの弟子のことだな?確か海将軍なんだったな?」
 氷河は頷く。
 どういういきさつでカミュの弟子が海将軍になることになったのかは知らない。だが、ごくごく時折訪ねてきて、カノンと一緒に……ああ。これも、また話の続きというわけなんだな。
「俺は、鈍い方だけど、でも、アイザックが何を考えているかはよくわかる。ずっと一緒に育ってきたから。アイザックが海将軍となったのは、元を辿れば俺のせいなんです。本当ならアイザックが聖闘士になるはずだった。だけど、俺が愚かだったせいでアイザックは聖衣と左目を失った。……なのに、アイザックは俺を責めないばかりか、俺は海将軍になるべき運命だったって言うんです。海界も意外と楽しいぞ?って。本当はもっと先生に会いたいはずなのに、もう進んだ道は違うのだからって言って会いに来ない。アイザックがそうなったのは全部俺のせいなのに、カノンは……あ」
 氷河がまずい、と言うような顔でシュラを見た。
 なるほど、確かに鈍い。
 カノンの名を隠したかったのなら、海界の話を始めた時点でお前はアウトだ。今頃気づくようじゃ隠し事には向かないからやめた方がいい。
「気にするな。その痕をつけたのがカノンだと言うことはもうとっくに気づいてる。今更隠しても遅い」
 氷河はなんで気づいたのかな、と不思議そうな顔をしていたが、やがて、カミュには絶対黙っててください、と言って続けた。
「カノンは、多分自分のせいだと思っている……と、アイザックが思っている」
「……???意味がわからんが」
「ええと。カノンが本当はどう思っているのかよくわからない。でも、アイザックは……カノンと先生の関係を気にしている。アイザックは自分のことで誰にも責任を感じて欲しくないんだ。そういう、ヤツなんだ。だから、俺だけじゃなく、カノンにも自分を責めるような真似をさせたくなくて、だから海将軍になるのは運命だったと言ってみせて、でも、そうしたら、カミュが少し寂しそうな顔をして、それを見たカノンはとても苦しそうで。俺の愚かさは、巡り巡って多くの人を苦しめ続けているのだと思うと……」
 氷河の説明は下手だった。
 正直、半分くらいしかよくわからなかった。
 だが、本人たちにはわかるのだろう。部外者の俺が理解する必要はない。
 とにかく、ただの恋愛沙汰だけとは言えない複雑な背景がどうやらあるようだ。(というか、四角関係じゃなくて五角関係なのだろうか?今さら辺が増えたところで驚きはしないが、ますます深入りしたくないものだ。)

「だから、相手がカノンだったと、カミュに知られるわけにはいかない。もしも二人の関係が拗れるようなことがあったら、アイザックはますます先生に会いに来にくくなってしまう。だからさっきは咄嗟に……すみませんでした。本当に」

 なるほど。
 ようやくこれで、何故濡れ衣をきせたのか、という説明が終わったらしい。

 シュラは溜息をこぼした。もう何度目だろうか。溜息しか出てこない。
「氷河、それで、そういう話もカミュには……」
「したことはないです」
 師が師なら弟子も弟子だ。
 この師弟は、相手のことを思いやりすぎてどうも言葉が足りなくなっているように思えてならない。
「よし、氷河。お前の理屈はよくわかった。だが、俺はそれでも、全てをカミュに話すべきだと思うがな。カミュをもっと信じることはできないか?」
 氷河は頑なに首を振る。
「信じてはいます。でも、カミュをこんなことで悩ませたくない」

 おいっ!
 俺はいいのか、俺は!!!
 さすがの俺も堪忍袋の緒が切れるぞ!!

 だが、シュラは他の誰よりも大人だった。

「わかった。今はカミュに会いたくないんだな?」
「はい」
「なおかつ、帰るのもいやだ、と。天蠍宮や双児宮を通りたくないから」
「はい」
「仕方ない。今日はここで寝てもいい。だが俺はお前を甘やかすつもりはないぞ。ベッドは俺のだ。お前はソファで寝ろ。わかったな」
 本当は人馬宮に放り出す、という選択肢もあったが、さすがにそこまで冷たくはなれなかった。
 氷河はようやく安堵の表情を見せ、はい、と返事をしてまた膝を抱えて小さくなった。