寒いところで待ちぼうけ

短編:その


『星の詩』のおまけ作品
カノミロの裏側にあるカミュ氷


◆罪と罰 ①◆

 足が震える。
 走っているはずなのに、勝手に膝が笑って、時折足がもつれて転ぶように膝をつく。
 何度か石段の途中で膝をついた氷河は、一旦走ることを諦めて、そこへ蹲るように座り込んだ。
 下を向くと涙がこぼれ落ちそうだったから、天を仰いで息をつく。

 驚きと、混乱、それから羞恥と……いろんな感情がないまぜになって、それら全部が涙となって出口を求めて渦巻いていた。


 俺はどうしたら……カミュ……

 カミュの名を意識すれば、堪えきれずに涙が頬を伝って下りた。乾いた石段に、ポタリと雫が落ちて吸い込まれて行く。

 一つ落ちると、後はもう堰を切ったように次々と涙があふれ出た。

 なぜ。
 カノンは何故あんなことを……?

 掴まれた腕は痛かったし、噛み付くように口腔を犯されてパニックになった。だが、不思議と恐怖は感じなかった。
 カノンはきっと……本気ではなかった。
 からかい気味に氷河を構っては離れていくミロより、ずっと強い力で組み敷かれていたというのに、ミロから感じるような熱をカノンからは一度も感じなかった。
 行為の間中、カノンは冷めた目をして氷河を観察するように見下ろしていた。

 俺は何を試されていた?

 カノンの言葉が次々に蘇る。
「お前は抵抗などしない」
「カミュとミロの両方を手玉にとって」
「とんだ淫乱だ」


 行為そのものよりも、その言葉の方が氷河には痛かった。勝手に溢れる涙が厭わしく、氷河は乱暴に拳でごしごしと頬を擦る。


 ほんの数刻前まで、もうすぐ会える、と弾むように石段を上っていたのが嘘のようだ。
 涙を見せたら、カミュは何があったか聞くだろう。
 何もなかったことにするしかない。
 少なくとも涙を止めなければ、カミュには会いに行けない。なんでもない顔をして、笑って顏を上げないことには。


**

 アイツはあんなところで一体何を……?

 宮の外に、見知った小宇宙を感じたシュラは、しかしその気配が止まったまま一向に動かないことを不審に思って外へ出た。
 下方を見下ろすと、案の定、人馬宮から磨羯宮へ続く石段の途中で、予想通りの人物が座り込んでいるのを発見する。
 柔らかく風に揺れるブロンドの下で肩が震えている。

 ……?
 様子が変だな。

 普段、磨羯宮を抜ける時はいつも、あと一歩で到着する、ひとつ上の宮のことに思いをはせているのだろう、シュラなど目に入らないかのように、ほとんど走るように通り抜けて行く。カミュが下まで迎えに下りている時もやはりシュラのことは景色の一部でしかないのだろう、カミュの顏ばかり見上げて、うれしそうに笑顔を見せては通って行く。
 あんな風に、目的地の手前で止まっているのはありえない。
 具合でも悪いのか。

 実のところ水瓶師弟に関わって碌な目にあった試しがないのだが、それでも具合が悪いのだとしたら放っておくのは寝覚めが悪い。

 シュラは数段階段を下りて、俯くブロンドの少年の肩に手をかけた。
「おい、大丈夫か?どっか具合でも悪いのか」
 氷河は少し伸びた前髪に表情を隠すように黙って俯いている。
「……?おい、返事くらい……」
「あの。洗面所を」
「ん?」
「洗面所を借りてもいいですか。磨羯宮の」
「……構わないが」
 すぐ上が宝瓶宮なのに?そこまで我慢できないほど腹でも痛いのか?と聞く前に氷河が立ち上がったので、それは聞き損ねた。しかし、ありがとう、と立ち上がった氷河が、一瞬掌底で頬をぬぐったことだけはシュラは見逃さなかった。

 泣いていたのか……?

 ……嫌な予感がする。
 宝瓶宮に辿り着く前に泣いているというのは尋常じゃない。

 ああもう!
 毎度毎度!!
 何で俺の宮の位置はここなんだ!
 心の底から引越しを望むぞ!

 今日という今日は、絶対に口出しも手出しもすまい。水瓶師弟におせっかいを焼いて、事態が好転したことなど一度もないのだから。

 洗面所を貸す以外のことを何一つすまいと心に誓って、シュラは氷河を伴って宮の奥へと戻った。

**

 冷たい水で顏を洗って、鏡に自分の姿を映して見る。

 涙の跡はもうない。目の縁が少し赤いがこのくらいならごまかせるだろう。
 だが……
 氷河は確認するように首元へ手をやる。
 一番上のボタンがない。
 どこで失くしたのかなど考えたくもない。
 留め具を失ってだらしなく開いた襟元をさらに開いて鏡に映す。
 鎖骨の上に薄く残る紅い徴。

 心臓が跳ねる。

 ほかに心当たりなどない。
 さっきのものに間違いはない。
 臓腑を掴まれたように冷たい汗が背中を流れ落ちる。
 だが、同時に、肌の上を這いまわっていた、カノンの舌と唇の感触が蘇り、一瞬、身体の奥でチリチリと小さな炎が疼いた。慌てて、その炎を吹き消すように頭を振る。

「誰でもいいのか?」

 誰でもいいわけない。
 カミュ以外にあんな風に触れられたくない。なのに、どうして俺の身体は勝手に炎を熾すんだろう。
 自己嫌悪で吐き気が喉元へせり上がってくる。

 カミュに知られたら。
 きっと、軽蔑される。先生は己を律することにとても厳しいひとだから。

 でも、何よりも。

 相手がカノンだということは絶対にカミュに知られてはならない。二人が、とても微妙な関係であることを知っている。俺のせいで、溝が広がったら。そんなことになってしまったら……。

 どうやって隠せばいい。
 涙は洗えば流れていく。でも、この痕を見られない様にするには。

**

 氷河は長いことバスルームに続く洗面所に籠っていた。

 参ったな……。
 正直、早く出て行って欲しい。
 いつカミュが来るかと気が気でない。なんとなく、バスルームから涙目の氷河が出てきた瞬間を狙って登場しそうな嫌な予感がものすごくする。
 いっそのこと、俺は宮から姿を消しておこうか。
 いや、でも、それだと、言い訳することもできずに最悪の状況に陥りそうだ。

 シュラは苛々と部屋の中を行ったり来たりした。
 だめだ、心臓に悪すぎる、これ以上この緊張感に耐えられない、氷河には悪いが追い出そう、と思った瞬間、カチャ、とドアノブが回り、氷河がバスルームから姿を現した。
 ほっとすると同時に、ハッと条件反射で後ろを振り向く。
 よし。カミュはまだ来てない。
 氷河は思ったより落ち着いた表情をしている。このぶんなら、早々に出て行ってくれそうだ。カミュが来る前に落ち着いてくれて助かった。
「大丈夫か?大丈夫なら、早く上に……」
「シュラ。すみませんが、今日泊まってもいいですか?」

 ……………なんだって?

「……お前には行くところがあるだろう。カミュはお前が来ることを知っているのだろう」
「……ちょっと、カミュとは……喧嘩……していて、会えないんです」
「喧嘩?今日まだ会ってもないのに?」
「それは……前回、会った時に」
「ではなぜ今日会いに来た」
「…………」
 いかん。
 事情なんかどうでもいい。どうでもいいのについ聞いてしまうのが俺の敗因だ。
「会えない、というのなら、帰ればいいだろう」
「……階段を上ってきたばかりで下りるのは疲れるので」
 聖闘士が何を言ってるんだ、と突っ込もうとした瞬間、背中に冷気を感じた。

 来た。

 氷河も気づいたようだ。俯きがちだった顏を跳ね上げてシュラの背後の扉を気にするそぶりを見せた。

 だが、最悪の状況は避けられた。
 俺は今、氷河とは話をしているだけだ。泣かせてるわけでも、触れているわけでもない。何を氷河が拗ねているのかしらないが、カミュの顏を見れば大人しく出て行ってくれるだろう。
 安堵してシュラが振り向きかけたその時、氷河の腕が伸びてきて、シュラの首を引き寄せた。

 驚くシュラの背後で扉が開いたのと、耳元で、ごめんなさい、シュラ、と聞こえたのはほぼ同時だった。


「……何をしている」

 な、何をしているんだろうな、本当に。
 お前からはどう見える……?
 キスしていたように見えなきゃいい……が……その顔は、絶対、誤解……した……な。


「何をしている、と聞いたんだ、わたしは」

 ……き、聞かれているのは俺だろうか。
 氷河は、自分の身体の後ろに隠れている。(隠れているのはまだいいとして、俺の背に回した腕は外してくれ!!俺はまだ死にたくない!)

 比喩的な意味ではなく、背筋が寒い。

「カミュ、これは」
 誤解だ、と続けようとしたシュラの言葉は氷河によって遮られた。
「きょ、今日は、宝瓶宮には行きません。ここに泊まる……ので」
 待て!俺はまだ泊めてやるとは一言も言ってない!
 フルフルと必死で首をふるシュラと、シュラの後ろで俯いている氷河をカミュが交互に見た。

 ……怖い。

 戸惑うなり、怒るなりしてくれればいいのに、この氷の聖闘士ときたら、いつもどおりの無表情だ。

「今日はわたしに会いに来てくれたのだと思っていたのだが」
「……ち、ちがい……ます……」
「そうか……。わたしはとても楽しみにしていたのだが、誤解だったとは残念だ。邪魔して悪かった。わたしは帰るとしよう。ゆっくり続きをしてくれ」
「……っ」

 シュラを通り抜けて交わされた会話は、至極あっさりとカミュが背を向けて突然に断たれた。
 パタン、と静かに閉じた扉にすがるように一瞬氷河が手を伸ばしたが、すぐにそれも力なく下ろされる。
 カミュの姿が消えると同時に、シュラの背に回されていた氷河の腕も離れた。

 カミュが氷河を前にしているにしてはずいぶん物わかりがよかったのも却って不気味だったが、それより今はこっちだ。
 シュラは大きくため息をついた。
「……そんな風に声を殺して泣くくらいなら、追いかければいいだろう。何があったか知らんが、カミュはお前のことならなんだって許すだろう?」
 氷河はただ首を左右に振った。その動きで、頬を濡らしていた涙が床へと散る。

 ああ、もう!
 ほんとうにこいつらときたら!

 シュラは氷河の髪を掻き混ぜるように乱暴に撫で、少し屈んで視線を合わせた。
「おい。濡れ衣をきせるなら、俺は説明を聞く権利があると思うがどうだ?」
 氷河はシュラを見上げて、拳で涙をぬぐった。
「すみません。迷惑をかけて。……カミュに言わないでいてもらえるなら説明します」
 カミュに言えない、とは穏やかじゃない。
 正直、何も聞かずに黙って濡れ衣をきてやった方がマシだったか、ともう後悔していたが仕方ない。自分のおせっかいを呪いつつ、シュラは氷河の背を押してソファの方へと移動した。