寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑲◆

 その日は朝から雲一つない晴天となった。
 女神はまだ駄目だと強く慰留し、認めはしなかったが、もう纏うことはない、と自分で決めた水瓶座の聖衣の前で氷河は長い間逡巡し、そして、それを身に纏った。
 新しい黄金聖闘士を迎えるための最低限の礼節(今日まではまだ宝瓶宮の守護者だ)を尽くした、というより、水瓶聖衣に───再び、蠍聖衣と邂逅させてやりたかったのかもしれない。

 宝瓶宮の入り口に立って、晴れて澄み渡った空を見上げて、氷河は清涼な空気を胸いっぱいに吸い込む。
 木枯らしの吹く冷たい季節だというのに、こんなふうに青空が広がるなんて。
 太陽にとても愛されている、あの魂にふさわしい就任の日だ。

 カミュは、ケーキでも焼いてやります、と言ってキッチンに籠っている。
 淡々とした様子は、やはり却って心配なほどなのだが、あえてそこには踏み込まずに、氷河はカミュを一人にさせてやっているのだった。

 今頃、ミロは女神の御前で神妙な顔をして頭を垂れているはずだ。
 数刻前に指導者に連れられて宝瓶宮を通った時は、珍しく緊張した面持ちでそこへ氷河がいることにも気づかぬ様子で真っ直ぐに前を見つめていた。
 その横顔を見れば、ミロにはまだ当面後見が必要です、あなたにそれをお願いしたいと思っていたのですけれど、と引き止めた女神の願いを断ったことに一瞬、揺らぎが生じた。
 だが、氷河はもはや聖域を離れると決めた身、少々危なっかしいところのある少年の行く末が気にならないと言えば嘘になったが、彼なら、人懐こく周囲の手を借りながら逞しく成長してゆけるだろうとその思いも振り切った。

 やがて、宝瓶宮前で佇む氷河の纏っているアクエリアスの聖衣が僅かに震えはじめた。
 共鳴、しているのだ。
 数年ぶりに主を得て、再び聖域に立つことになったかつての同朋の聖衣と。
 湧き上がる歓喜と興奮は、氷河自身のものか、それとも、流れ込む聖衣の思念か。

 キィンという鳴き声のような金属音のような、だが、不思議に不快ではないその共鳴が次第に大きくなる。

 双魚宮から続く古びた石段にその姿が現れた。
 北風にマントが翻る音がしているが、太陽を反射して聖衣がきらりと光り、一瞬、氷河の視界が白くハレーションを起こす。
 だが、視覚などに頼らなくともわかる。
 新しい世界を開いた興奮にざわざわと逸ってはいるが、その力強く漲る小宇宙は紛れもなく……

 ああ───
 十二宮におかえりなさい、ミロ。

 胸の裡で思わずそう呼びかけてしまう。

 12歳になったばかりのミロは、つい先日、氷河とその身長が並んだところだ。
 まだあどけなさが残る目元は、だが、彼の気質を次第にあらわにするように日に日に鋭さを増していく。

 ああ、君は───君も───本当に、あのひとそのもの。


「氷河!」

 氷河の姿を見とめて、嬉しそうに上げる声はいつの間に声変わりしたのか、やはり、艶のある低音。
 カミュの場合とは違って、20歳のミロの姿しか知らないが、その声だけは追憶の中の彼のひとのものとピタリと重なり、懐かしさで胸が痛くなる。

 だが、弾むような足取りで石段を下りる姿は、戦うことをまだ経験していない子どものそれだ。
 彼のひとは、軽い調子の会話を交わしている時も、急をなして駆けつける時も、聖域の石段をそれはそれは重々しく、踏みしめるように歩いていた。自分が背負っているものの重さを踏み出す一歩へ常に乗せて、歴史を刻んだ石段を歩む姿、そこにあったのは、己が命を懸けるものへの愛着と誇り。
 師からたくさんのものを授かったように、彼のひともまた、氷河に、黄金聖闘士としての覚悟と矜持を残していった。

「氷河!女神が俺に黄金聖衣を!」

 当然だとも。
 蠍の星は君のことをずっと待っていたのだから。


 ミロは氷河の元まで嬉しそうに石段を駆け下りてくる。
 その姿をしっかりと見届けたい、と思いながらも、石畳の上へ落ちた氷河の視線は縫い留められたように動かすことができない。

「……氷河……?」

 ミロが傍に寄れば寄るほど、煩いほどに聖衣が共鳴して、キンキンと反響する。

 二つの聖衣が主を───魂ではなく実体の───伴って、共にこの聖域の地へ立ったのは……あの日以来だ。
 氷河にとっては永遠に忘れられない十字架のあの日。
 天秤宮で愚かな弟子に幻滅したに違いない師カミュは、宝瓶宮へと戻る途中、ミロと何か会話を交わしただろうか。

 弟子の不甲斐なさを憂えて宝瓶宮へ戻る背に、きっとカミュをそんな風に悲しませた弟子に憤りを感じたに違いないのに、それなのに、ミロは氷河をカミュの元へと進ませてくれた。

 カミュを喪ったばかりのあの頃は自分の身に起きていることを受け入れ、乗り越えようとすることに必死で、ミロがどんな思いを抱いていたのかまで、理解する余裕がなかった。
『君ひとりの選択だけがカミュを死に至らしめたと思うな』と言った、その言葉の持つ覚悟の重さに気づけるほど氷河は大人ではなかった。
 数年間、憚りながらも一つの宮を任され、護ってきた今ならわかる。

 あの言葉はただ、精神のバランスを欠きかけていた氷河を慰めるためだけに軽く持ち出したようなものではなかった。

 ミロはきっと、真にカミュの死の責が自分にあると思っていたのだ。
 黄金聖闘士であること、それが彼の全てだと言ってもいいほどの誇りを持っていた彼が、『自宮の守護を放棄する』ということ。
 それはきっと、彼のアイデンティティの根幹を揺るがすほどの出来事であったに違いない。
 それなのに、間違っていない、何度でも同じ選択をする、と言い切ってしまえる意志の強靭さ。
 わけがわからないままに運命に飲み込まれた氷河とは違い、どんな結末になろうと自分の選択の末に起こった出来事を全て受け止めるつもりで、氷河をカミュの元へ進ませる、と決断したミロの覚悟はなんと重いものだったのだろう。

 俺の弱さがきっとミロに、選んだ道を後悔させた日があったに違いないのに。
 それでも彼のひとは、後悔はない、と言い切り、氷河を導いてくれた。

「ミロ……」
 氷河はミロへ手を伸ばし、その背を抱き締めるように腕を回した。背へまわした指先へ豊かな巻き毛がふぁさ、と触れる。指先がその感触を覚えていて、氷河の意志と関わりなく勝手に震えを生み出す。

「……ありがとう……ミロ」
「?何に対して?」

 何に対してか、など、言葉ではとてもではないが言い尽くせない。

 強いて一つだけ挙げるなら……

「居てくれて、ありがとう」
 今、この時に。
 この聖域に、ミロ、君が立っていることに対して。
 俺に、再び蠍座の聖衣を纏うあなたを見せてくれたということに───


「……氷河、泣いている?」

 聖衣の肩へ額を乗せて俯いている氷河の背へ、おずおずとミロが手を伸ばす。
「俺が黄金聖闘士になったことが……泣くほど嬉しい?」
「ああ……そうだな」
「それは、もしかして俺の前にこの聖衣を纏っていた人のせい?」
 俯いていた氷河の顔が初めて上を向いた。長い睫毛に乗った微細な雫が瞬きをした瞬間に空中へ散る。
「君も……知っているんだな」
「『知っている』と言えるほどには何も。でも、俺は黄金聖闘士になったから、知る権利を得た」
 訓練生の時代には許されていなかった情報へ触れることも、この先は自由だ。
 聖戦を前に起こった内乱の詳細についても。
 なぜ、蠍座は宮の守護を放棄し、なぜ、水瓶座が亡くなったのかということも。

「氷河、カミュは今、とても苦しんでいる」
「……ああ」
「俺はカミュが苦しんでいるなら放っておけない」
「うん。……そうだろうな」
「氷河、俺は」
 不意にハッと息を飲んでミロは言葉を切った。
 深い海の底を思わせる蒼は氷河の肩越し、その向こう側へ向けられていた。

「カミュ……!」

 まだ、二人は互いの背を抱くように立ったままだった。だが、緋色の凝視を受けて、ミロの方から俊敏に氷河の身体を離した。

 振り向かないでいる氷河を置いて、ミロは大股で、いつもの快活な笑みを浮かべて宮の入り口へ立つカミュへ近寄る。

「よっ!お出迎えとはご苦労!」
「別にお前を出迎えたわけじゃない。先生が朝からずっとそこへ立ちっぱなしだったから、いくらなんでも風邪をひくと思って様子を見に来ただけだ」
「冷たいなあ、カミュ。……あっ、なんかいい匂い」
 バターの焦げる香ばしい匂いはさっきからずっと漂っていたのだが、たった今気づいたかのように、ミロは鼻を動かして見せる。
「……また図々しく食って行く気じゃないだろうな」
「だめなのか。俺のために作ってくれたんじゃないのか」
「別にそういうんじゃない」
「ケチケチするなって。就任祝いに食っていこうっと」
「自分で言う奴があるか。黄金聖闘士になったことは祝うような性質のものじゃない。黄金聖闘士というものは十二宮を命に代えても守護し事が起これば女神の」
「わかってる!わかってるって!さっき、上でさんざん長い訓示を聞かされてきたんだから!祝いじゃなくてもなんでもいいよ、とにかく何か食わせてくれ」
「お前ときたら……黄金聖闘士になれば少しは風格が出るかと思えば……」
 そう言いながらも、二人の身体は既に宮の内部へと入りかけている。喧嘩しているような、一方的にカミュが邪険にしているようなこの関係は二人の常態である。
 片方だけが黄金聖闘士になったとて、それは変わらない。

 宮の主よりも堂々と足を運ぶミロの背を追いながら、カミュは振り返った。
 まだこちらに背を向けたままの氷河の髪とマントが、時折渦巻くように吹き付ける北風にはたはたと靡いている。

「先生」

 呼んだカミュの声は風に消えた。
 もう一度、カミュは声を張り上げる。

「先生!中へ入りましょう!風が冷たいです」
 微かに首が振られて、ゆっくりと氷河の爪先がこちらを向く。
 だが、強い風に巻き上げられた長い髪が、その表情を隠し、二人の視線は一度も交差することがないままに宮の中へと吸い込まれていった。

**

「はー、食った食った」
 祝うようなものではない、とも、図々しく食っていくのか、とも言っていたくせに、カミュが用意していたのはケーキだけではなかった。
 ちょっとした祝宴と言っていいほどの手料理が並ぶ(それもきちんと三人分)食卓に、ミロはニヤリとカミュを振り返った。
 ミロが何か言おうとするのを、カミュがそれを言うなら食わせん、と目線で封じ、結局、祝宴なのか、いつものご相伴なのか曖昧なままに三人での食事はなされた。

 それでも、自分の好物ばかりが並んでいることにミロは喜び、あっという間に目の前の料理をぺろりと平らげて、いたく満足げだ。
 はーやれやれ、とミロはごろりとソファへ転がろうとし、だが、慣れぬ聖衣にそれを阻まれて、難しい顔をした。
「痛たたた……もう解いちゃおうっと」
 聖衣を早速、聖衣箱へ収めようとするミロに、自分は聖衣姿を解いた氷河が苦笑して止めた。
「ミロ……いつまでここでくつろいでいくつもりだ。まだ一度も自宮まで下りてないじゃないか。聖衣はせめて自宮まではそのままで」
 氷河に止められて、聖衣箱を引き寄せかけていたミロがその動きを止め、一瞬、逡巡するような目を見せる。

 どこかで見たことがあるような、覚えのある瞳の揺れに、ああ、と氷河は合点する。

 今になって、自覚、したのだろう。
 氷河がかつて何度も自問自答したことが、ミロは、聖衣を纏い、『自』宮へ向かう段になってじわじわとその思いに囚われ始めたのだ。

 黄金聖闘士という、聖闘士の頂点。
 たった十二人にしか纏うことの許されていない聖衣の重み。

 自分には宮を一つ任されるだけの価値があるだろうか。
 戦地に立った時に、黄金聖闘士として無様な姿を曝すことになりはしないか。
 名に恥じぬ生き方ができるだろうか。

 この地へ立って以来、氷河も、何度も自問し、何度も自答してきた。

 大丈夫。できる。
 いや、やらねばならない。
 先生の名を穢さぬように。
 さすがカミュの教え子だと、誰からも認められるように───
 カミュの死は無駄ではなかったのだと、ほかならぬ自分自身に証明してみせるために。


 ミロはまだ12歳。
 実戦もこれからだ。
 聖衣を与えられた高揚感が過ぎ去ってしまえば、幾分、不安な気持ちが顔をのぞかせたとしても不思議はない。

 だが、いい傾向だ、と思った。
 その不安感は、黄金聖闘士が何たるかを真に自覚している証拠なのだから。自覚なきままに力を操り、戦地へ立つことほど怖いことはない。

「一緒に天蠍宮まで下りようか、ミロ。わたしも下の宮へ用を思い出した」
 案の定、ミロは氷河の申し出にあからさまにほっとした顔をして頷いた。
 一緒に来て欲しい、などと、カミュの手前、言い出せなかったのだろう。
「しょうがない、ここで昼寝してもよかったんだけど」
 一応の強がりだけは言って、ミロは立ち上がった。
「カミュ、またな。これからは宝瓶宮にも来やすくなるな」
 軽い調子でカミュに別れを告げるミロに、一瞬、氷河が、あ、と薄く唇を開いた。
 目聡くそれを見咎めたカミュが、何か?と首を傾げると、すぐに、なんでもない、と言って、氷河はミロの背を押して宮を後にした。


**

「聖衣、肩が凝るなあ」
「最初だけさ。そのうちない方が不安になる。慣れるまではなるべく纏っているといい」
「俺……宮で何すればいいの?養成所で楽しく暮らしてたから寂しいかも」
「心配しなくても、寂しいとか考える暇があるほど宮にいる時間は多くない。最初のうちは、君を実戦に馴らすために、集中的に任務を与えられるはずだ」
 十二宮の石段を二人で下りながら、そう氷河が言うと、任務、とミロはごくりと喉を鳴らした。
 やってやる、とぐっと肩に力が入ると同時に、僅かに拳の先が震えていた。氷河は横目でそれを確認した後、年若い黄金聖闘士のプライドを刺激しない様にさらりと言った。
「当分は多分星矢か一輝と出ることになるんじゃないかな。いきなり一人で、なんてことはない」
「……一人でも大丈夫なのに」
 言いながらも、ミロはやはり安堵したような表情だ。
「うん。大丈夫だということを確認するため、だ」
「ふーん……氷河がいいな、俺。一緒に任務に出るなら」
 氷河は一瞬返事に詰まった。
 聖域を離れる氷河にはミロとはこの先きっと一緒に任務に就くような機会はやってこないだろう。
 それでも、二人で背中合わせで闘うのを想像すれば僅かに気持ちが高揚した。
 だが、頭に浮かんだ背中合わせの蠍座と水瓶座のイメージはすぐに、ミロと自分ではなく、ミロとカミュへと変わった。
 ───俺の為すべきことはもう決まっている。

 天蠍宮前へつく。
 宮を背に風に翻るマントを鬱陶しおしそうに払っているミロを見るのは、なんだかとても不思議な気がした。

「さあ。君の───宮だ」
「……うん」
 まだ独り立ちするには少し早いミロの身の回りの世話に、と付けられた侍従たちが入り口のところに立って、ようやく姿を現した主に安堵した表情を見せている。
『下の宮へ用事』と言っていたくせに、そのまま踵を返しそうな雰囲気の氷河に、ミロが慌てて手首を引いて止めた。
「あ、あの、氷河……」
「うん?」
「あの……俺の……俺の先代って強かった?俺は、そのひとに似ている?」
 自分の強さの拠り所を先代にまで求めてしまう初々しさは、氷河の知る『ミロ』には見られなかったもので、ああ、あのひとにもこんな時があったのかな、と少し胸が軋んだ。

 氷河は力強く頷いてミロの蒼い瞳をまっすぐに見つめた。

「ミロ……黄金聖闘士になった君にわたしからの餞だ。特別に見せてやろう」
 氷河は、少し目を細めていたずらっぽく笑い、自分のシャツの裾をめくり上げた。
 北風吹きすさぶ中に、いきなりこんなところで洋服を脱ぎ捨てる気なのかとギョッとしたミロの驚きは中途半端なところで止められた氷河の手に疑問へと変わる。
 白い脇腹を曝け出したところで、氷河の手は止まっていた。
 よく見れば、陶磁のような白い肌に、まるでたった今何かに刺されでもしたかのような鮮紅の徴がひとつ見えた。

「アンタレスだ、ミロ」
「……?」
「わたしはスカーレットニードルを15発受けた」
「!!嘘だ、ありえない!!」
 即座にそう否定するミロに、氷河は楽しげに笑った。
「ありえないだろう。致命点を受けてもなおわたしはここにいる。そしてそれはミロの───ああ、君の先代の、だが……ミロの意志なんだ」
「?とどめを刺す時、手を抜いたってこと?それとも、アンタレスって実はたいしたことない……?」
 不安げにミロの語尾が小さくなる。
 氷河は、まさか、と強く首を振った。
「いや、アンタレスは完璧だった。あのままだったらわたしは死んでいた。だが、ミロはわたしを助けた」
「わからない……とどめを刺しておいて助けたのか……?なんのためのとどめだったんだ?」
「アンタレスを撃つ瞬間まではわたしを殺すつもりだったんだ。だが、わたしには命に代えても進まなければならない理由があった。女神の命がかかっていたし、それに……」
 ───その先にカミュがいたから。
 言葉を切って、記憶を探るような遠い瞳をする氷河に、ミロはどうかしたのかと不審げな瞳を向ける。
 氷河はすぐに我に返って、ミロに穏やかな笑みを向けた。
「このアンタレスはわたしの負った傷の中でも一番の誇りなんだ。黄金聖闘士だったミロに青銅聖闘士相手にアンタレスを撃たせたことも、その後で、翻意させたことも。矛盾しているようだが、このアンタレスこそが『ミロ』の強さの証だったとわたしは今でも思う。内乱の記録をいくら読んでも無駄だ、ミロ。あそこに書いてあるのは何の感情もない、温度の感じられないただの言葉の羅列ばかりだ」
 記録からは、天蠍宮の守護をミロが全うしなかったことしか読み取れない。
 対峙している青銅聖闘士が守る女性が真の女神だと気づいたから翻意した?
 否、あの戦いで二人の間に流れていたものはそんな単純なものではなかった。
 文字からは何も伝わらない。
 あの場にいた者にしかわからない、熱と匂いと、拳を通じて交わる感情……。


「ミロ、いつか君が道に迷うことがあったら、『ありえないアンタレス』を思い出すといい。きっと君の力になってくれるはずだ」
「……俺、カミュと違って難しいこと考えるの苦手だ」
「わたしだって苦手だよ、ミロ。でも、今はわからなくても、覚えておいて損はないと思う」
 多分、と言いながら、氷河はめくり上げていたシャツの裾を直してミロへ向き直って、励ますようにその肩を叩いた。

 正直、ミロには氷河の言っている意味はよくわからなかった。
 翻意したというのなら、もっと早く翻意したのではだめだったのか。
 真の女神に気づいたのが14発目ではなく、15発目だったのは何故なのか。
 何故、それが『アンタレス』だったのか。

 聞いてみたい、と思った。
 同じ蠍の星を持つものが、どんな風に生きたのか、もっと。

 氷河は、早くももう踵を返しかけている。ミロは、もう少し、とその手をひいて、拗ねたように唇をとがらせた。
「いいな……カミュは。氷河が先生で。俺も氷河に教わりたかった」
「?特別な師匠につかずとも聖衣を真っ先に授かった身が何を言ってる。わたしは……師としてはあまり有能とは言えない」
「そういうことじゃなくて……」
『凍気』を語る二人の間に入れない疎外感。
『我が師が』と言うときにカミュが見せる仄かな甘い思慕の色。
 同じいたずらをしても必ずカミュを先に叱る氷河。
 ……もう何度も感じてきた小さな胸の痛み。

 このひとにとっての『特別』でありたかった。
『アンタレス』を見せられた今、とりわけその思いは強くなった。
 例え自分自身がつけたものではなくとも、自分の星を刻んでなお消えることのないこの不思議な命が自分のものであったなら。

 ……なんて、な。

「氷河、俺、カミュと友達なんだ」
「……?ああ、知っている」
「カミュのこと本当に頼んだからな。……アイツ、最近なんかおかしい。情熱が冷めたみたいな顏してるけどそうじゃなくてもっと危なっかしいというか……」
 わかっている、というように氷河が強く頷く。

「大丈夫だ、ミロ。カミュはきっと君とともにこの十二宮を護る。……ほんの少し待っていてくれ」
 そう言って、顏を上げた氷河の瞳にはミロが初めて見る冷たい焔が宿っていた。
 決然と宝瓶宮の方角を見上げる氷河の横顔からは、僅かに血の気が失われ、何か悲愴なまでに張り詰めた空気が漂っている。
 似ている、とミロは思った。
 感情を殺すことが得意な友と、その師は、どこか似ている。
 すれ違って、理解し合っていない様に見えるのに、何故か不可解な相似形をなす師弟の絆の強さの前にはやはり疎外感を感じて、ミロはただ、黙って氷河の横顔を見つめた。

 冷たい風が氷河の髪をさらって流れる。
 宝瓶宮を見上げる唇が微かに震えているのは寒さのせいか。


 凛とした横顔は美しく、完成された大人の落ち着きがあるにも関わらず、どうしようもなく庇護欲を掻き立てられて胸にぐっと迫るものがある。
 大人なのに。
 大人、だから。
 自分よりずっと長く生きているひとが、そんな風に唇を震わせている様は堪らない気持ちになった。

 もう触れない、と心で誓ったはずの手をまた伸ばす。

 震えを、止めるだけ。
 ただそうしたいだけだ。

 だが、ミロの手が届く前に氷河はふ、とミロへ視線を戻した。
 瞳の内側で燃えていた蒼い焔はそのなりを潜めて、口元へは柔らかな笑みが浮かんでいる。

 君に女神の加護を。

 そう言い残して氷河は去って行った。
 空へ伸ばされたミロの手は、目的を失って、静かに拳を握って下ろされた。