転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ⑳◆
石段を下りてゆくミロと氷河を見送って、カミュは宮の奥へと戻った。
キッチンを片付けながら、カミュはくすりと忍び笑いをもらす。
ミロの奴……あんなに慌てて飛び退いたりして。
あれでは却って「やましい」と言っているようなものだ。
『お前とは友達だから氷河のことは好きにはならない』
そう約束してみせたお前は───それを聞いて安堵した俺も───本当に人を好きになることの意味など何も知らない子どもだった。
そんな理由では人の心の動きなど止められやしないのに。
それとも───止められるのだろうか。それが大人になるということ?
意志の力で感情をコントロールできるとしたら、抑圧されたその感情はどこへ行くのだろう。これほど胸を焦がす想いが消えてなくなるとは思えない。
洗い上げた食器を片付け、カミュはダイニングセットの椅子を引いてそこへ腰を下ろした。
まだ水分の残っている指先へ小宇宙を集めてみる。
身体の中をエネルギーの塊がさあっと流れ、放出先を求めて掌の上でぼうと青白く冷たい炎が燃える。
何度も感じてきた感覚だ。
だが、カミュが掌を上へ払ってその冷たい炎を空中へと舞わせてやっても、指先に乗った微細な雫は、凍結することなく水滴の姿のまま床へと散っていった。
自虐的な気持ちになって、黄金聖衣を纏って抱き合っていた氷河とミロの姿を無理に思い起こしてみたりもしたが、炎はもどかしく燻るのみで、何の変化も起きなかった。
足を付けている地面がぐらぐらと揺れるような不安定な感覚。
自分が自分でなくなったような。
もしもこのまま、小宇宙まで失ってしまったら。
聖闘士を目指す者が全てそうなれるわけではない。養成場で共に育った仲間の中でも、早々に聖域を去った者、ある程度の年齢を迎えて、聖闘士になることを諦めて雑兵としての生き方を模索する者など様々だ。
氷河は自分に対して黄金聖闘士になれると絶対の信頼を寄せてくれているが、考えてみれば、何の根拠もないのだ。
「先代がそうだったから……?」
そんなこと。
紫龍さんだって言っていた。生まれ変わりかどうかなど誰にもわからないと。
もし、生まれ変わりだったとして。───カミュ自身の感覚として、それは真理だという気がしているのだが。
だからって、俺までも同じ能力を持って生まれたとは言い切れない。同じ能力を持ち、同じ生き方をし、同じ死に方をするのなら、自分という人間は一体何なのか。何もかも同じ道をなぞるのなら、それでは、自分は何のために生まれてきた。
同じ道をなぞるなら……?
無意識に頭の中へ浮かんだその言葉にハッとカミュの胸が衝かれる。
同じ道……。
『カミュ』と氷河とは敵対し、戦い、そして───『カミュ』は死んだのだ。
カミュの背がしんと冷え、指先が小さな震えを生む。
『カミュ』は何故、氷河と敵対したのだろう。
氷河は、何故、敵対して戦った師を今でもあれほどまでに慕っているのだろう。
慕っているくせに、似ている、という俺をあんなに強く拒絶するのはなぜなんだろう……。
女神を護って戦った氷河と敵対したということは、内乱に加担した、ということだ。
自分と同じ魂を持っていたかもしれない人間が為したという、その愚かな行為はカミュには受け入れがたかった。
もし、自分の中にも同じ愚かさがあったら……?
いつか、道を誤り、氷河と敵対して立つようなことが自分にも起こるのだろうか。
氷河が自分を拒絶するのはそのせいか。先代の愚かさを俺の上に見て、それで……?
ありえない、とカミュは首を振る。
どんな理由があっても、自分なら氷河と戦ったりはしない。
扱えない凍気は、俺はあなたとは違うんだ、という『カミュ』への抵抗だろうか。
結局、考えても考えても答えは見えない。
自分が不安定な理由を、氷河への思いに求めてみたり、先代への恨み節に繋げてみたり、言い訳ばかりが増えていく。
カミュはため息をついて立ち上がった。せめて知識だけでも、と書庫へ向かうことにしたそのとき、カタン、と小さな物音がした。
振り向いてみれば、いつの間に戻ったのか、師が背後の扉を開いて入ってきたところだった。
カミュは師を迎え入れながらぎこちない笑みを浮かべる。
「お帰りなさい、先生。ミロの奴がすみませんでした。アイツ、大人しく宮へ収まりました?」
「大丈夫だ。もうミロだって、訓練をサボってばかりだった子どもじゃないさ」
「そうだといいですが……養成場より近くなった分、しょっちゅうここへ通ってこないとも限りませんよ」
自分のぎこちなさをごまかすつもりで軽い冗談を言ってみせたつもりのカミュの言葉に、氷河は、いや、ミロはここへは来ない、と首を振った。
違いない、と師は笑うと思ったのに、きっぱりと否定されたことに、『黄金聖闘士』になったミロへ向けて言った冗談にしてはいくら友でも失礼だったのだろうか、とカミュはまじまじと師を見返した。
そして、そこへ思いのほか真剣な青い瞳を発見して、思わず、ぞくりと腑が冷える。
「……先生?」
カミュの問いかけにも氷河は表情を緩めることもなく、その双眸はピタリと緋色の瞳へ注がれている。
まるでカミュの心の中まで見透かそうとするかのような凝視に、カミュの視線はうろうろと落ち着きなく彷徨った。
人と接することを厭うてでもいるように日頃は伏せられがちな淡い瞳が、こんなふうに、じっとカミュへ視線を定めていることなど、そういえばずいぶん久しぶりだろうか。
己の心に巣くう蔭までもくっきりと映してしまいそうな美しく澄んだ瞳を、カミュは初めて怖い、と思った。
「カミュ……今まですまなかった」
「……な、んです、か」
何の前置きもなく、唐突に投げられた氷河の声が微かに強張っていて、そのただならぬ気配に、応えるカミュの声が緊張に震える。
───まさか、ふがいない俺に愛想を尽かして、聖域を去るように勧められるのだろうか。
「君は本当によくやっている。なのに、師であるわたしの方に心構えが足らずに……君につらい思いをさせた」
いいえ、と言うカミュの声は掠れて消えた。
言うことを聞かない声の代わりにカミュは慌てて首を振って、そんなことはありません、と訴える。
「カミュ……わたしの師はアクエリアスの黄金聖闘士だった」
カミュの心臓が跳ねる。
激しい胸騒ぎと不安感に襲われて、カミュは、何度も首を左右に振った。
聞いてはだめだ。
そこは先生の傷口だ。
それも、まだ生々しく血を流しているほどの。
カミュの理性の部分はそれを聞くことを拒否しているのに、氷河が、今、自分が知りたくて知りたくて仕方なかった答えをくれようとしているのだという予感もして、思わず息をのむ。
氷河のアイスブルーの瞳がじっとカミュを見つめる。いつもほんの少し寂しげな色を湛えているブルーがやけに今日は凪いでいる。
何を考えているのかすぐに顏に出て、そんなところが可愛い、などと常日頃思わせている氷河なのに───今は何の感情も読み取れない。
氷河がそれを完璧に隠してみせているのか、それとも真に何の感情もないのか。
澄んだブルーの瞳がゆっくりと瞬く。
「カミュ、わたしは───わたしを慈しみ育ててくれた師を手にかけた。ここ、宝瓶宮で」
カミュが意味を飲み込むより早く、氷河はブルーを縁取る長い睫毛を伏せて微かに笑った。
「今更、だな。……君はもう知っている」
あっと音もなくカミュは息をのんだ。
知らない、と言い張るべきか。
だが、疑問ではなく断定で氷河はそれを言った。
これでは取り繕いようがない。
なぜだ、いつ、どこで氷河にそれを気づかれた。
ミロがしゃべったのか?それとも紫龍さん?あるいは、
─────違う、自分だ。
あの日、獅子宮で。
頭に血が上っていた自分が、ただ、あの男に一矢報いたい一心で不用意に投げつけた一言を、師は、きっと、聞いていた。
瞬時に様々な思考がカミュの脳裡に去来し、辿り着いた答えに、カミュの臓腑は鉛を呑んだように重苦しく冷えた。
胸のあたりに閊える自己嫌悪と罪悪感に、冷たく不快な汗が背を流れ落ちる。
最低だ……俺は、考えうる一番最低な方法で先生を傷つけた……
先生のことを好きだなどと聞いて呆れる。
エゴ丸出しで、
勝手な気持ちを押し付けて、
保護者気取りで、
……今更ながらにあの男の言葉が痛く突き刺さる。
「……すみ……ません……」
やっとのことで声を絞り出すカミュに、氷河は柔らかく笑った。
「おかしなことを。なぜ君が謝る。……謝らなければならないのは、わたしの方だ。もっと早く説明すべきだったのに……わたしは臆病で見栄っ張りでその上狡かった。君に『よい師』だと思われたくて、弱かった自分の過去を隠したんだ。聖域にいる以上、君の耳に入らないはずはなかったのに、な。君は……我が師にとてもよく似ている。我が師を知る者が君を見たら懐かしさに駆られてつい口が軽くなったとしても無理はない。そうなる前にわたしは自分の言葉で説明しておくべきだった」
すまなかった、と重ねる氷河にカミュは違います、と首を振ることしかできない。聖域の大人たちは皆、節度正しく口を閉ざしていた。卑怯な手段で暴いたのは自分だ。懺悔をしようにも、それがさらに氷河を傷つけることになりはしないかと怖くて口が開けない。
カミュの沈黙に氷河の方も沈黙を返し、宮の中に張り詰めた空気が満ちる。
やがて、意を決したように氷河が口を開いた。
「……カミュ、君は何と聞いただろうか。わたしと我が師との間で起こった出来事を」
師の問いにはいつだってはきはきと明瞭な答えを返してきたカミュだが、あの、と開いた口からは意味をなさない中途半端な声しか出ない。
聞いたわけではないからだ。
全ては論理的帰結。一輝が言ったように。
勝手に探って勝手に知ったつもりになった、事実かどうかもわからぬ推測で、あなたを傷つけたのだと、どうして告白できよう。
それでも、師の問いに答えぬわけにはいかない。生来の生真面目な気質がカミュの重い口を開かせる。
「内乱だった、と……聞き、及んでいます。先生は真の女神を護って戦い……アクエリアスの聖闘士だったカミュは……内乱に加担、し……あなたの正義の拳の前に斃れた、と」
胸の裡で、もやもやと形作っていた推測を、そんな風に言葉にすると、それは途端に陳腐なものに思えた。
そんな単純なものではなかったはずだ。
単に、女神を裏切った師を斃した、というだけの問題であったなら、氷河が抱えている葛藤はもっと早くに昇華されていたはずだ。
氷河の視線はカミュの上にピタリと定められている。
その気配は感じていてもカミュは顏を上げることができない。
自分が口にした陳腐な推測に、師がまた傷ついていないといいが、と胸が塞がる想いがして、あまりに重苦しく胸を塞ぐその気持ちを抱えきれずに、カミュはますます項垂れる。
氷河が一歩、カミュに近寄る。
その手がそっとカミュの手を取る。ビクッとカミュの身体が竦むのを、氷河の手が宥めるように撫で、取ったカミュの手を引いて椅子へと座らせた。
俯いたまま椅子へ座ったカミュの前へ氷河が膝をつく。
下から掬うように見上げられて、カミュはますます睫毛を伏せた。
緋色の髪がカミュの表情を隠そうとするのを、氷河の手が伸びてきて、そっとかき上げる。そのまま、氷河の手はカミュの頬に触れた。
「カミュ……誰がそんな風に言ったか知らないがそれは事実ではない。あの時、聖域は誤った情報に混乱していた。アテナ神殿に真の女神がいるのだと錯覚させた男の奸計に陥って十二宮は揺れていた。女神の不在を知りつつ、男に加担した黄金聖闘士もいたが、多くはそうとは知らずに女神のためだと信じて戦っていた」
「……『カミュ』は、では、騙されて、あなたと戦わされたというのですか……?」
氷河の口から語られる真実に、カミュの心臓は激しく脈打ち、だが、ゆっくりと意味を噛み砕いていくに従って、胸の内に落胆が広がっていく。どんな巧妙な罠だったとしても、ほかの黄金聖闘士はともかく、『カミュ』だけはその奸計に陥るべきではなかった。対峙したのは自分が育てた弟子だ。我が弟子が反乱など起こすはずがないという絶対の信頼があれば、真実を見抜く機会はあった。己の弟子を信じようともせずに聖域の掟に唯々諾々と従ったことはやはり愚かだと言えた。
そんな愚かな人間に、似ている、と言われたことがまたカミュの胸を塞ぐ。
だが、氷河はカミュのその問いに静かに首を振った。
「違う。カミュは……きっと、聖域には女神がいないことを知っていた」
「!ならば、やはりそれは内乱に加担したということなのでは……?」
その問いにも氷河は首を振る。
今日初めて、氷河の白皙の顔が苦しげに歪んだ。
「我が師は、一度たりとも女神を裏切ったことなどない」
「わかりません、先生……。真の女神がどこに在るか知っていてあなたと戦ったというのなら、女神に拳を向けたことにはなりませんか?」
「……いや……我が師カミュは女神に拳を向けたのではない……あれは、師のわたしへの最後の講義だった……わたしが護る女性が真の女神だと知った上で、わたしに、女神を護るに足る力を授けようとした、師の……」
カミュの頬に触れている氷河の手が微かに震えている。
震えを止めようと堪らず重ねたカミュの手も同じように震えていた。
「……そのような状況で教えを授けようとしたというのですか?だって……」
その結果、『カミュ』は命を失ったのでしょう?という言葉は、重ねた手の下の震えによってかろうじて飲み込んだ。
「極限状態でしか伝えられないこともある。わたしは……その戦いで師の奥義と絶対零度を自分のものにした。そんな状況でしか学べなかった愚かなわたしのために……戦いの場においても甘さを捨てきれぬわたしを導くために……師は……命を懸けてくれた……」
「そんな……だけど、黄金聖闘士とは、そのような、」
「わたしのせいなんだ。わたしがもっと強かったなら、我が師はそうせずに済んだ。師として……黄金聖闘士だった我が師は、自らの手で女神を護るのではなく、青銅聖闘士だったわたしの力を信じて、わたしに女神を護らせるために、全てを託してくれた。わたしに……自分を乗り越えて、『生きよ』と……」
氷河の告白は、全てがあまりにカミュの理解の範疇を越えていて、衝撃的だった。
弟子を導くために命を、などと。
そこにあったのは愚かな黄金聖闘士の姿ではなく、想像を絶するほどの師の愛だ。
「我が師がそれほどまでに憂えたわたしの甘さというのは、わたしが母への、」
氷河の言葉が不意に途切れた。
なぜ、言葉が途切れたのだろうと顔を上げかけて、同時に、カミュは自分の頬が濡れていることに気づいた。それに気づいてしまえば堪えきれずに嗚咽が漏れた。
ごめんなさい、先生。
墓を暴くような真似をして。
もしも、自分が氷河だったなら、と考えて、その想像だけでカミュは戦慄し、ますます嗚咽は激しくなった。
俺を導くために先生が命を落としたとしたら───
耐えられない。
想像しただけで身を引き裂かれそうだ。とても生きてなどいられない。
でも、氷河は、生きて、聖戦を戦い、師の聖衣を継いで、師が命を落とした宮を守護している───
なんて、なんて、強いひとなんだろう。
そして、なんて、哀しいひとなんだろう……。
嗚咽の合間に、カミュの胸が激しく軋む。
そんな重い荷をずっと背負っていたなんて。
氷河の苦悩は、慈しんで育ててくれた師が最後の最後の瞬間に悪へと変節したところにあるのだと思っていた。変節した師を手にかけざるをえなかった葛藤を背負いきれずに苦しんでいるのだと思っていたのに。
だから、それほどそのひとに自分が似ているというのなら、自分が真っ直ぐ立っていることで氷河は救われるのだと、そう信じていたのに。
どの瞬間にも師弟の深い愛で結ばれた絆が失われたことはなく、なのに、同じ目的に立っていながら、殺し合うまで戦った師弟の覚悟は、なんて……
あなたの負った荷を代わりに背負いたい、と思っていた。
俺に……今の俺に背負えるはずもない。
自分の感情すら制御できずに、あなたに一方的に押し付けて、傷つけた今の俺には。
今の俺とそう変わらない年で、師を超えてみせたあなたは───
嗚咽を繰り返すカミュの背をおずおずと氷河の手が撫でる。
まだ、これからが自分の『弱さ』の本質に迫る部分だったのに、とても受け止めきれる様子ではないカミュに困って、その唇が躊躇いに揺れる。
「カミュ……」
氷河はただ、カミュの背を撫で続けた。
「カミュ」
昂ぶった感情を抑えるのに暫しの時をやりすごし、はい、とずいぶん遅れてカミュは答えた。
「カミュ、女神の聖闘士になりたい、という君の意志に変わりはないか」
「はい!」
まだ微かに湿った声で、だが、いつもに増してきっぱりとカミュは顏を上げた。
似ている、というのなら。
もし、自分の中に、それほど崇高な魂が宿っているというのなら。
なりたい。
少しでも、近づきたい。
『カミュ』に。『カミュ』が氷河へと繋いだ、何ものにも代えがたい、尊いアクエリアスの魂に。
このところ、力なかった緋色の瞳に、光が差す。
安堵したように、氷河がひとつ息を吐く。
「ならば行こうか、カミュ。───シベリアへ」
ドキリとカミュの心臓が跳ねる。
シベリア───その地は、
「わたしが我が師に教えを受けた地だ」
はい、とカミュが見返した氷河の瞳は、一瞬だけ遠い記憶を探るような優しい色に揺れ、またすぐに凪いだブルーへと変わった
(第二部・終)
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