転生したカミュの師となる氷河のお話。
性表現(一氷)あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。
◆第二部 ⑰◆
太陽が沈み、夜のとばりが下り始めると、冬ともなれば、温かな聖域であっても急激にその気温は下がる。
カミュが聖域に来たのは、確か今と同じ季節だった。何度目の冬をここで過ごしたのだろうか。
氷河は、訓練日誌から視線を上げて、就寝に向かうカミュをチラリと見た。
ここへ来た当初のあどけなさはすっかり鳴りを潜め、目元に凛々しさを滲ませた横顔にはもう少年の逞しさが見え隠れする。
「カミュ」
氷河は、廊下の奥へ消えようとするカミュを呼びとめた。
「はい。なんですか、先生?」
小首をかしげるようにして答える声は、もう安定した深い低音だが、何故か以前より幼い印象すら感じさせ、あれから氷河がその声に動揺させられるようなことはない。
「君も聞いたかもしれないが……ミロは明日、女神から聖衣を下賜されることになった」
「はい。とても嬉しそうでした。ミロはやはり……?」
「ああ、スコーピオンとなる」
「良かった。わたしも嬉しいです」
「……それだけか……?」
「?はい。ほかに何が?」
友に先を越されてショックを受けるかもしれない、と、前夜になるまで言い出せなかった氷河は戸惑い、カミュが平然としていることに、氷河の気持ちの方が重くなった。
「いや、なんでもない。カミュ、今日わたしは、この後、不在にするが……」
「はい。獅子宮ですね、いつもの」
「……まあ、そう、だ」
氷河は一輝と会うことを婉曲的に伝えたつもりだったのだが、カミュによってそれは直接的な表現に変えられてしまい、その上、気のせいか、責められているようにも感じられて居心地が悪くなる。
しかし、カミュは、では、お戻りは明日の朝ですね、と淡々とした様子で笑顔すら見せ、氷河の顏を見やることもなく、ではおやすみなさい、とあっさりと廊下の向こうへ消えた。
カミュをどう扱っていいかわからない。
今の状態が何か歪なのだということだけはわかる。
証拠に、カミュはこのところ凍気の扱いが不安定になっている。
変わったとすればあの一夜から全てが変わってしまったことは確かだ。
カミュの表情からは何を考えているのか氷河には全く読み取れない。
「みんなにつられて、つい」と笑ったカミュの言葉は真実だったのか、こんなふうに一輝との関係を表情一つ変えることなく受け入れているところを見れば、思春期特有の不安定に揺れる感情を、氷河への恋情と錯覚していたことに気づいたのだろうか。
それとも、あの時点では想いは本物だったが、弟子を置いてずるずると享楽に耽る師の姿に幻滅をしたのか。
いずれにしても、あの日にあれほど激しくぶつけられた熱は、今のカミュからはみじんも感じない。
ただ一夜、猛々しく牙をむいた炎は、氷河がその熱さに驚き、戸惑い、何もできないでいるうちにその姿を消した。その炎が実体を伴って確かにカミュの中に存在したのか、それとも浅ましく死者を追い求めた自分が引き寄せた幻影か、見極める間もなかった。氷河がしたことと言えば、ただ、声を震わせて、駄目だ、と懇願にも似た拒絶をしたに過ぎない。
何とも無力な抵抗が功を奏したとは思えなかったのに、それは姿を見せた時と同様に、突然に消えたのだ、氷河の前から、完全に。
熱を失って、元の静かな湖水のように凪いだカミュの瞳へ問う手段はもはやない。
仮に手段があったとて、氷河にはもう一度熱の存在を確かめる勇気もなかった。
消えた。又は、初めからそんなものは存在しなかった。
それでいい。それがあるべき姿だ。
不意打ちを食らって動揺したことで、却って氷河の心は頑丈に鎧われた。
緩慢な熱の上昇であれば何も気づかないまま心の最奥まで入り込むことを許したかもしれない。だが、突然の深い衝撃は、きゅっと氷河の守りを固めさせたに過ぎなかった。
あれは己が罪悪感を減じようと……あたかもカミュの生がまだ続いているかのように錯覚したがった、己の弱い心が引き寄せてしまった幻影だ。
過去の幻影になどもう二度と動揺させられたりはしない。
背負った十字架の重さを鎧として、氷河は心の最奥、もっとも柔らかな部分を頑丈に囲い、それが乱れぬことを確認して、手元の訓練日誌をパラリ、パラリ、とめくった。
出会った日からのカミュの成長の記録がそこには克明に記されている。継続して文字を書きつけるのは苦手な方ではあったが、まだ幼く、不安定な小宇宙しか持たぬカミュの成長をどんな小さなひとつも漏らさぬように、と日々記すのは不思議と楽しかった。
びっしりと記入された日誌の文字が、だが、ある日を境に不意に途切れる。
心を鎧って冷静になればなるほど、対峙せねばならぬ問題は明らかだった。
不安定に揺れる小宇宙。
扱えない凍気。
俺は、どこかで道を誤ったのだ。
何故だか、何の根拠もなくミロとカミュは同時に黄金聖闘士になれる気がしていた。
だから、凍気を操れずに足踏みしているカミュを後目にミロだけ、ということは、カミュよりも氷河の方に大きな衝撃をもたらした。
───俺のせいだ。
カミュにアクエリアスを、とずっと気を張ってきた。
どうすれば正しくあれるのか、どうすれば道を誤らずにいられるのか、もう二度と取り返しのつかない事態を招くまいと、必死に足掻き続けてきた。
必死すぎて距離感を見誤っている、と言った一輝の言葉が甦る。
氷河は深く息をつき、パタン、と音を立てて日誌を閉じた。
違う、一輝。
誤っていたのは距離感などではない。
そもそも、この日誌の一ページ目、多分、小さなカミュと出会った日に最初の一歩を乗せた道をきっと俺は誤った。
正しい道だと信じて進んでいた道は、本来進むべきだった軌道から徐々に逸れ、もはやそれが正しい道だと誤認もできないほど本筋からかけ離れてしまっている。
いくら一輝が、ふらふらと危うい足取りの氷河を傍で叱咤していようと、進んでいる道がそもそも間違っているなら、いつまで経っても目的地へは辿り着けない。こんなことがあるより前にもっと早く気づくべきだった。
目的地はわかっている。
そして俺はそこへ至る道も知っている。
もともと道は一つしかなかったのだ。
痛みを伴うその道を通らずに目的地を目指した己の弱さがカミュの足枷となり、一輝を無用に傷つけたのだ。
まだ手遅れではないはずだ。
もう一度、最初の一歩を踏み出す勇気が俺にありさえすれば。
氷河は閉じた訓練日誌に手を乗せて、ぐるりと石造りの宝瓶宮を見回した。
鎧った心に綻びはないか、ひとつひとつ、丁寧に視線を巡らせる。
柱についた小さな傷や、くすんだ天井、時代を感じさせる重い木の扉。
全て師が遺したものである上に、長くここで過ごした愛着もあって何もかもが愛おしい。
だが、感傷はもうない。
氷河は目を閉じ、ゆっくりと何度か息を吐いて、それから静かに立ち上がった。
**
「ちょ……っと……待て!…っき!」
顏を見るなり会話もそこそこに乱暴に組み敷こうとする一輝の胸を押し戻して、氷河は強い抵抗を返した。
このところ、以前よりずっと頻繁に会いに来ているというのに、一輝は常に飢えた獣のように氷河を求めた。青臭い性衝動を制御しかねていた十代の頃ですらこんなことはなかった。
「いつもの」「戻りは朝になる」カミュの言葉は嫌味を言ったわけでも責めているわけでもなんでもなく、事実にほかならなかった。
一輝の行為の激しさに、氷河の体は軋み、喘ぐ声は喉奥で悲鳴へと変わる。毎度毎度、しばらく腰の感覚がなくなるほどに熱を叩きつけられて、途中から意識を失うのが常だった。
元々、少々強引で、鬱陶しいほどに猛々しさを漲らせている男ではあったが、たいていの場合は傍若無人に見えていつだって節度は弁えていた。この男とも、あの日を境に変わってしまったのだ。
『生きている人間の代わりにされて』と一輝は怒鳴った。
見当違いの怒りに、一瞬戸惑った。
違う、そうじゃない。
カミュではなく、結局のところ俺はまだ『カミュ』のことが───。
長き不在の時に慣れ、全てはもう過去のこと、と克服し終えていたと思っていたはずなのに、あまりに『カミュ』の面影そのままのカミュを前にして、封じたはずの想いは一度に甦って氷河を簡単に動揺させた。
死者にばかり捉われていては駄目だ、と師に教えられたにも関わらず、既に彼岸へと旅立って久しい、その師自身にまだこんなにも焦がれている。
それでも。
今となってはもう言い訳にもならないが、だが、氷河なりに、千々に乱れる感情を必死に飲み込んで、過去に訣別しようとした、つもりだった。どれほど求めたとてもう『カミュ』とは遠く隔たれてしまっている。揺さぶられ、あっさりと封印を破って顏をのぞかせたこの想いは再び封じるべきだ。
そのために何をしようとしているのか、明確に意識していたわけではない。
ただ、気づけば自然に獅子宮に足が向かっていた。それ以外の選択肢など頭にはなかった。
だが───バカだった。
乱れる感情の制御に必死になるあまりに我を失い、つい言葉が過ぎた。
日頃、本音を隠す憎まれ口を互いに叩き合っているからと言って、あの場面で放つにはあまりに無神経な言葉を。
何度拒絶しても平気でずかずかと踏み込んでくる一輝に対して、甘えていたのだと、今ならわかる。
『俺がカミュを忘れることはない』
『忘れないようにできている人間などいるものか』
氷河の頑なな宣言を、いつもそうやって、尊大に退けてきたような奴だったから、氷河は逆に遠慮なくカミュへの想いを抱えたままで来れたのだ。
今度もきっといつものように、上等だ、そこまで言うなら、と氷河の煽りを好戦的に受けて立つものだとばかり。
まさかあんなひどく余裕のない、剥き出しの本音を晒されるとは思ってもいなかった。
俺のせいだ。
師として道を誤っただけではない。
一輝に対しても俺は態度を誤った。
「……っ一輝……っやめ、ろ……!」
一輝は氷河の抗議の声を封じるように、髪を引いて上向かせ、息をも奪うように深く口づける。
「…っ……今日は……俺の…っ……話を……っ!」
一輝から逃れた氷河の唇から切れ切れに言葉が紡ぎだされ、一輝は乱暴にその襟元を締めるように掴みあげた。
「話?お前と俺との間にそんな退屈なものが必要か?お前が求めているのはこういうことだろう?」
殊更、甘さを排除した言葉に、言った一輝自身も痛い顔をし、そのことに氷河もどうしようもなく胸が痛かった。
粗野に見えて、存外と情に濃やかな男だということはもう知っている。
氷河が思い通りにならないからと言って、力任せに屈服を強いるような奴ではない。ましてや自分勝手な性欲処理に氷河を使うようなことなど。
これはただの性欲処理だ、と、そんな言い訳もなければ、他者と深く交れないでいた氷河のために、彼はそう装っているだけだ。
一輝のそうしたわかりにくいやさしさを俺は知っていたのに、自分の苦しさにばかり気を取られて、長い間、そう装わざるをえなかった一輝の気持ちを考えてみることもしなかった。
「一輝……!」
氷河の膝裏を掬い上げ、浮いた身体を乱暴にベッドへ押しつける男に、氷河は、頼むから待ってくれ、と懇願するように抵抗する。
行為自体が嫌なわけではない。
一輝にもうそんな真似をさせたくないだけなのだ。
もういい。
もういいんだ、一輝。
これ以上は傷を深めるだけだ。
話をさせてくれ、いや、聞かん、という押し問答の合間に、氷河のシャツからプツ、と釦が弾け飛ぶ。
いつもは駆け引きの末に氷河が抵抗を諦めるか、さもなくば力で押し負けて強引に熱い楔を捻じ込まれて有耶無耶に終わるのが常だ。だがもう後がない。今日ばかりはなし崩しに身を任せるわけにはいかなかった。
互いに額に汗が滲み、息は乱れ、まるで戦闘さながらだ。皮肉にも、カミュが多分想像しているような甘い行為には今はほど遠い。
ベッドの上へ縫い留めるように強く掴まれていた腕を氷河はようやく一本だけ振りほどいた。またすぐに掴まれそうになるのを逃れさせ、氷河は一輝の背へそれを回した。牙を剥いて暴れる手負いの獣を抱きしめるように。
押し返される、強い抵抗からの不意の変化に一輝は虚を衝かれたのか、一瞬、動きが止まる。
隙に、氷河はもう片方の腕もするりと抜いて、やはりそれを一輝の背へ回した。男の頭を胸へ引き寄せるように抱いて、氷河は、一輝、と呼んだ。
暫し動きを止めて逡巡するように眉間の皺を深めていた男は、最後には、は、と倦んだため息を漏らして、氷河に覆いかぶさったまま、身体を弛緩させた。
男の重みを受け止めて、氷河は彼の背を撫でる。
「一輝、」
「やめろ。話をするつもりはない」
取りつく島なし、とはこのことだ。
きっぱりとした拒絶に、気持ちは竦む。
だが、長年こんな態度を取り続けていた氷河に対して、一輝が退いたことは一度だってないのだ。
氷河は一輝の髪に指を差し入れた。
癖の強い黒髪は、だが、見た目よりは柔らかく指へ絡みつく。
「一輝……俺は、」
「やめろと言うのがわからんのか。それ以上何か言うなら口をきけなくするまでだ」
言葉どおりに、氷河の腕に弛緩させた己の体躯を委ねていた一輝は不機嫌に身を起こし、片腕を下へやって氷河の下肢を曝け出すように下着ごとズボンを下げ、ぐっと氷河の中心をもみしだくように手のひらに包んだ。
指の輪で擦られる刺激に氷河は喘ぎをもらして、だが、なあ、と構わず会話を続けようとした。すかさず抗議に一輝が、氷河の胸で赤く色づき始めていた頂を口に含んで、手加減なしにに強く歯を当てた。
あう、とのけぞって、だが、その強い刺激すらも次第に下肢にもたらされる疼きを高めさせ、氷河の息はあがる。それを知っているかのように一輝は氷河の固い蕾を舌で弄ぶ。
そうなるとすぐに頭の芯を淫らな熱が灼いて、極みの欲求に身体が支配されてしまう。
一輝の指が双丘の狭間に、ちゅるりと埋められるのを腰を浮かせて助け、ああ、と氷河は身体を震わせた。
男の肩に手を伸ばして支えとし、氷河は身体を起こした。
何をするつもりなのかと一輝の瞳が不審に眇められる。ただ、姿勢を変えただけのことで───それほど、俺はいつだって、受け身で、ただ、流されていただけだったのだ。
一輝の肩を軽く突いてベッドへ転がし、氷河は男の上へと跨った。
漲りかけている一輝の雄へ頭を沈め、口へと含む。
一見、あの日と同じことをしているようだが、まるで違う。あの時は、早く自分の頭の中を空っぽにしたくて切迫していただけだが、同じ切迫感でも今はただ、甘い疼きを早く共有したい、それだけだ。氷河の内面で起こっている変化に気づいているのか、一輝は止めたてせず、氷河の前髪を緩く掴んだだけだ。
ちらりと見上げた一輝の眉根は軽く寄せられている。
口に含んだ男の質量がぐっと増したことで強い快楽を堪えているのだということがわかる。それがわかれば喉奥を塞がれる苦しさなど気にならない。さらに深く咥えると、く、と一輝の眉間の皺がさらに深められた。
「……氷河」
言葉にしなくとも声の調子で彼が何を求めているのかはわかる。
だが、それを黙殺して氷河がさらに首を上下に振る動きを速めると、氷河、と焦れたように一輝は氷河の二の腕を強く引いた。
身体を引き寄せられて、ぶる、と口腔を犯していた熱い屹立が唾液とともに口から零れる。
氷河の双丘に反った雄をあてがう一輝に、俺が、と氷河は主導権を奪って、自らその上へと腰を落とした。
「……ん……んぅ……」
氷河の中心を貫く熱さにいつも最初は苦しさで呼吸が止まる。だが、それも僅かの間。すぐに苦しさは甘く痺れる疼きへと変わる。
甘い疼きに身を任せて腰を動かしながら、氷河は薄く瞳を開いて目の前の男を見た。
相変わらず皺のよった眉間が、時折、ぴくりと動いて、同時に、は、と微かな息を男の唇が零す。
いつだってお前は余裕で、俺の庇護者のような顏をしていることが気に入らなくて、同時にそのことに強い引け目を感じていて、だから、庇護されるだけのか弱い存在でないことを主張したくて殊更煽るような強気な言葉ばかり吐いて来たが───俺が思っているほど、お前に余裕があったわけではなかったんだな、ずっと。
「……何を見ている」
氷河の視線に気づいて、ふいと一輝は顏を背けた。
照れたのだ、多分。
お前に、見つめられて照れる、などというようなかわいい一面があったとは。
『カミュ』を想う時にも少し似た胸の疼きが氷河の胸をチラと掠める。
今さら、だ。
本当に、何もかもが今さらなことばかりだ。
宝瓶宮に溢れる物たちには感じなかった感傷が、初めて、逸らされた男の視線に湧き上がって、氷河の瞳の奥を熱くする。
氷河は一輝の頭を再び胸に抱いた。
馴染んだ男の汗の香りに、一瞬だけ言葉が詰まる。
だが、それはほんの一瞬だった。
躊躇いがせり上がってくる前に、氷河は口早に言った。
「一輝……俺は聖域を離れる」
近づいた裸の胸へ唇を押し当てていた男の動きが止まる。
一輝が顏を上げる。
氷河の顏を見上げたその瞳に、ああ、コイツは俺が何を言いたかったのか、もう知っていたのだ、と氷河は気づいた。