寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑯◆

「カ~ミュ~!!いいかげんに真面目にやれっての!!」
「……大真面目だ、こっちは」
「嘘だ。ここんとこお前はずっと変だ。俺が勝ちっぱなしじゃないか。ちゃんと集中してんのか?ホラ、もっと本気で小宇宙燃やしてかかってこいよ。氷河が来てないからって手抜きすんな!」
 ミロがカミュの首に腕を巻きつけて、振り回すようにしながら抗議の声をあげる。
 ここしばらく、養成場で日課のように見られる光景だ。

 集中していないわけではない。
 それでもカミュはミロに敵わなくなっていた。
 カミュ自身の問題もさることながら、ミロは、目を瞠るほどの成長ぶりを見せていた。
 対峙していても、ひと時たりとも気が抜けるような生ぬるさは全くない。
 何より……訓練を抜け出さなくなった。
 そのことを指摘すると、ミロはニヤッと笑って、「ばーか。俺はさぼったっていいんだ。お前のために来てやってんだ、この腑抜け!」とまたカミュの身体を振り回した。
 だがカミュにはわかる。
 言葉では今までどおりにふざけているように見えても、ミロは二度と自己鍛錬を疎かにはしないだろう。目指す道を見つけたことで、きっと肚が据わったに違いない。

 自分達がやっていることは、遊びでもスポーツでもなんでもない。
 文字通り、命のやり取りをしなければいけない戦士なのだ。今は泡沫の平和の時代だが、いつ、何時、脅威にさらされるかわからないこの地上を護るための。
 氷河達が命をかけて護った地上を、次代へと繋ぐための礎とならなければならない。
 カミュとて、ミロに負けないほど自分のすべきことの自覚はあるのだ。
 それなのに───思うように力が扱えない。
 ミロにぐいぐいと体を振り回されながら、カミュはじっと自分の手を見つめた。
 組手はまだいい。
 敵わないまでも、ミロの動きになんとかついて行っている。
 指導者たちはもう誰も二人の動きの速さについては来られない。音速を超えて、その先へ。

 だが、凍気は。
 あんなに幼い頃から慣れ親しんだ凍気が、まるで言うことをきかない。
 どれだけ小宇宙を燃やしても、せいぜい、周囲の気温を下げることができるだけ。
 俺は、どうしたらいいんだろう……。

 カミュの耳元で、わかったような顔で小宇宙の燃やし方は、とくどくどと講釈を垂れていたミロが、ふいに顔を上げて振り向いた。
「星矢!紫龍!」
 振り向いた先に黄金聖闘士二人がこちらへ歩み寄ってくる姿をみとめると、ミロはパッとカミュの身体を離し、あっという間に久しぶりに闘技場へ姿を見せた二人の方へ駆け寄って行ってしまう。
「コラ!『さん』くらいつけたらどうなんだ」
「さん!さんさんさん!星矢!さん!ちょうどよかった。俺の相手をしてくれるだろ?もうここには俺が本気出せるような相手、誰もいないんだ。こんなんじゃ訓練になんかならない!」
 すっかり星矢と変わらないほどに背の伸びたミロが、だが、そのしぐさはまだ子どもの頃のあどけなさを残したまま、星矢の手をひいて強引に闘技場の真ん中へと連れて行ってしまう。
 星矢も元々そのつもりではあったのだろう。おーおー、言ったな?後で泣くなよ、と笑いながら手を引かれるに任せている。
 置いていかれた形になったカミュの隣では紫龍がそれを見守るように柔らかに頬を緩めながら立った。

「どうやら差がついてしまったみたいだな」
 ここには俺が本気を出せるような相手がいない、と言われたことを言ったのだろう。カミュは気まずそうに紫龍の視線を避けて、はい、と答えた。
「君はそれでいいのか?わたしの目には、君が悔しがっていない様に見えるのだが……気のせいだろうか」
「いえ。……気のせいでは……ありません」
 悔しさはなかった。
 負け惜しみでもなんでもなく、ただ、カミュの中の闘争心が、その熱を失ってしまった。
 あれほど、コイツにだけは負けない、と互いに切磋琢磨してきたミロに、このところずっと膝をつかされていても、どこか冷めた目でそれを受け止めてしまっている自分がいた。
 熱く燃える小宇宙を前にすると、それに呼応するように本能的に小宇宙を燃やすことはできるが、だが……それだけだった。
 凍気を失ってしまったカミュには、燃やした小宇宙を相手へとぶつける手段は何も持っていなかった。
「悔しくない、というのは問題だな」
「わかって……います」
 このままではだめだとわかっていても、ではどうしたらいいのかわからない。
 カミュだけではなく、指導している氷河の方も、カミュの変化に戸惑い、焦りを感じているようだった。
 それが怠惰によるものであれば叱責もしただろうが、なにしろ、カミュ自身は人一倍ストイックに努力し続けてきたのだ。今もそれは変わらない。
 それを知るだけに、氷河は、スランプってこともある、大丈夫だ、よくあることだから焦るな、と(自分は焦っているくせに)言うのだが、命を賭ける戦士にスランプなど許されないことは、言った氷河の方も言われたカミュの方も痛いほどよくわかっていた。

「君には迷いがあるんだろう、きっと」
「迷い、ですか?」
「気になっていることがあるなら、わたしが聞こうか。氷河には言えないこともあるだろう」
 紫龍の言葉に含まれた意味に気づき、カミュは視線を彷徨わせた。
 自分が熱を失ってしまった原因として思い当たるのはひとつしかない。
 しばらく逡巡した後に、カミュは俯いたまま言った。
「ミロが……目指しているのはスコーピオンです。天蠍宮は……今は不在の宮です」
「そうだな。そして君が目指しているのはアクエリアスだ。氷河が護る宝瓶宮の」
 カミュの迷いをとっくにわかっていたかのような紫龍の答えに、カミュは安堵し、同時に、少し不満になる。
 めったに会わない紫龍さんですら気づいていることを、なぜ、我が師は気づいてくれないのだろう……。
「……わたしは、決して訓練のどれに対しても手を抜いているわけではありません。女神の聖闘士として地上のために戦いたいという気持ちもあります。それでも……我が師がアクエリアスではなくなるということはどうしても考えられないんです。わたしにとってのアクエリアスは、我が師ただ一人です。そう思うと……」
 小宇宙を燃やしたその先にあるのは黄金聖衣を返上する氷河だと思うと、自分の中に熾きていた炎がふいと揺らいでしまう。
 それは意志の力でどうにかできるようなものではなかった。
 氷河に自分の想いを気取らせないよう隠し、それが育つのを封じたことで、閉ざされたカミュの世界に横たわる氷河への想いは、却ってありありとその存在を主張し、他の何ものをも飲みこんでしまうほどになってしまっていた。


 紫龍は眉根を寄せて難しい顏をしたまま、遠くの星矢とミロの方向を見ていたが、しばらくしてカミュの肩を少し強めに叩くように掴んだ。
「氷河が解決せねばならん問題にまではわたしから口出しはできない。だがこれだけは言っておこう。氷河にとっても、アクエリアスというのは、彼の師、ただ一人だった、ということだ」
 カミュはハッと紫龍を見た。
 紫龍は、深い黒曜石の瞳でカミュをじっと見返す。
「賢い君はあの時にきっと薄々気づいただろう。氷河が宝瓶宮を護っていることは、わたし達とはまた違った種類の特別な覚悟がある」
「覚悟……」
「そうだ。君はどうだ。氷河の覚悟に応えられるだけのふさわしい確固たる信念を持っているか?師を超えたくない、などと傲慢で甘えた感傷に浸るくらいなら、聖闘士になることなどやめて今すぐここを立ち去ればいい。覚悟の足らない人間はいずれ戦場では仲間の足を引っ張る」
 傲慢、と以前一輝に言われたことを思い出す。
 あの時は反発する気持ちしかなかったが、今は、素直に心に痛かった。
 確かに俺は傲慢だ。
 師に遠く及ばない実力しかない、今だって凍気すら満足に制御できないくせに、超えることを恐れているとは。

 カミュは気合いを入れ直すように、ピシャリと自分の頬を叩いた。
 そんな様子を横目で見て、紫龍は再び星矢とミロへ視線を移した。
 二人は激しく拳を交え、他にいた訓練生達はいつの間にかそれを遠巻きに見つめている。
 だが、その動きを正確に追えている者はほとんどいないだろう。カミュの目でも、時折、目まぐるしく入れ替わる攻守に、何が起こっているのかわからないこともあった。
 自分相手の時に本気を出していないというのは嘘ではなかったようだ。ミロはもう黄金聖闘士である星矢にも引けを取ってはいない。


「今日は……」
 不意にまた紫龍が声を上げた。
「今日は、星矢とは、実のところミロを見に来た」
「それは……もしかして……」
 黄金聖闘士二人がわざわざ連れ立って見に来た、というのは。
 カミュの疑問に紫龍は大きく首肯することで答えた。
「ミロは近いうちに聖闘士の資格を与えられるだろう」

 そうか。
 俺が少し立ち止まっている間に、ミロはそんなに遠くまで行ってしまっていたのか。

「ミロはもう『子どもの領分にある』ことを甘えられない位置へ到達している。聖衣を賜ったなら、揺らぐことは許されないからな。一たび聖衣を纏えばもう年齢も経歴も性別も関係ない。そこではどんな言い訳もできなくなる。……少しは君の心に火がついたか?」

 わからない。
 まだ、悔しい、俺も、という気持ちはわきあがってはこない。
 立ち止まっている場合ではないことだけはわかる。
 わかっていて、それでも制御できない自分の感情がもどかしい。どうやってこの泥沼から抜け出したらいいのかわからない。氷河の傍にいられるのなら、抜け出さなくてもいい、とすら思ってしまう自分もいる。

 答えに詰まって黙り込むカミュの肩を紫龍は励ますように叩いた。
 ちょうどその時、遠く、十二宮から闘技場へと続く石段に氷河が姿を現した。
 少し細身の体に纏うアクエリアスの聖衣が日の光に反射してキラリと光る。乾いた風に、マントと、長く伸びた淡いブロンドがふわりと舞い、薄く立ち上る青白い燐気のような小宇宙は遠目に見ていても一幅の絵のように美しい。
 聖衣を纏った我が師は、どこから見ても完璧だ。
 年老いて戦えなくなったというのならわかる。
 でも、氷河は少しも衰える気配すら見せていない。まだ、あんなに強くて美しいのに。
 あのひとこそ、アクエリアスに愛され、選ばれた人間ではないのか。
 聖衣の意志が氷河の身に纏われていることを望んでいるかのように、完璧に調和したその立ち姿を見るにつけ、カミュの不安定な気持ちはますます激しく揺れ動いた。


 二人の元へ辿り着いた氷河が、来ていたのか、というように紫龍へ視線を向け、それからカミュへ笑みを向けた。
「遅くなってすまなかった。さ……女神と少し相談があったんだ」
 紫龍が女神、と聞いて、氷河に何か問いたげな視線を向けたが、氷河は気づいていないはずはないのに、紫龍の方へ視線をやることなく睫毛を伏せた。
 同時に、カミュに向けられていた笑顔が一瞬強張ったように思ったが、カミュがそれに対して怪訝な反応を見せると、それも気づかなかったように、すっと、闘技場の中でまだ激しく拳を繰り出しあっている星矢とミロの方へ視線を移した。

「星矢はずるい!こっちは聖衣なしなのに!」
 ミロの抗議の声が聞こえる。
 だが、言葉と裏腹に、黄金聖衣を纏った星矢の動きにミロは負けていなかった。口をきく余裕があるのがその証拠だ。
「くそっ!星矢がその気なら俺の本気を見せてやる!食らえ!真紅の衝撃!スカーレット…」
 見守る黄金聖闘士二人が、一瞬、おい、と止めに入る動きを見せたが、次の瞬間には星矢がミロの背後にまわりこんで手刀を首の後ろに叩き込み、ミロの体は力を失ってその場に崩れ落ちた。
 やれやれ、と星矢がその体を肩へ担ぎ上げてこちらへと戻ってくる。
「よ!氷河も来たのか。やー…参った。こいつ無茶苦茶だ。組手でアレ撃つやつがあるか」
 笑っている星矢の額にうっすらと汗が滲んでいる。
「確かに、アレは二度と受けたくはないな」
「でも、手ごたえがあったようじゃないか」
「ああ。正直、久しぶりに疲れた。任務の方が楽かもな」
「ずいぶん成長したもんだ」
「中身はまだ子どもみたいだけどな」
 気を失ったミロを囲んでいながら、どこか楽しそうな黄金聖闘士三人の姿に、カミュは疎外感を感じて、ただ俯いていた。
 だが、すぐに氷河が気づいて、カミュの方へ向き直る。
「カミュ、宮へ帰ろうか」
「えっ。でも……」
 養成場での訓練はまだ終わっていない。
「もう君の相手になるようなヤツはいないだろう。ミロはこんなだし。残りは宮でやればいい。わたしが相手になろう」
「はい……」
 氷河はカミュの背を押して、星矢達に笑顔で別れを告げて養成場を後にする。

 だが、そうやって笑顔でいるのも闘技場を去る間のみ。
 二人きりになると、やはりどこかぎこちなく、氷河の笑顔は、憂いを帯びた表情へと変わってゆく。


 数歩先行く氷河の背を追って歩きながら、カミュの気持ちは、やはり行ったり来たり揺れ動く。

 早く聖闘士になって氷河と対等になりたい。
 だが───アクエリアスを纏う氷河を一日でも一秒でも長く眺めていたい、とも思うのだ。

 先が見えないこの地獄のような二律背反に、どうすれば答えが出るのか見当もつかず、カミュはただ、氷河の背を見つめ続けた。