寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑮◆

 氷河の肩がゆっくりと上下している。
 眠ってしまったようだ。
 いつもよりずいぶん淡白な行為でしかなかったのに、あっさりと意識を手放したのは昨夜ほとんど寝ていなかったせいだろう。
 そういう一輝自身の頭の芯も重く痺れている。
 白いシーツの海に広がった柔らかな金糸をひと房掴んで弱く引く。
 そうされても、氷河はピクリとも反応しなかった。

 髪を引く手がやや乱暴になる。

 氷河、お前はなぜそれほどまでにカミュに拘るんだ。
 ……俺はなぜ氷河に拘っているんだ。

 執着を捨てられないという意味では同じか、俺もお前も、と一輝は自嘲的に嗤った。

 答えがないことを考えてしまうのは、この閉塞感のせいだろう。
 もういい、好きにしろ、と氷河の背を押してやれば楽になれるのか。
 だが、当の氷河自身が自分の気持ちに整理をつけきれていないときている。逃避行為であるにしろ、氷河がまだこうして一輝を求めて来ているというのに、早々と手を放してしまって、あの時手を放すのではなかったと後悔するのは御免だ。
 小器用に生きて行けるような奴なら、話はもっと簡単だった。
 壁にぶつかるたびに、防御の姿勢すら取らずにいたずらに自分を傷つけて平気な顔をして立ってるような奴をどうして放っておけただろう。
 限界を越えても自分で気づかないようなバカをどうして。


 一輝は片腕をついて身を起こした。
 日は高く昇っている。
 足止めされても構わない、と言っていたが、そろそろカミュの午前中の訓練が終わるのではないか。コイツは一体どうする気なのか。叩き起こすべきか、いや、もう少し眠らせてやりたい、と考えているうちに、一輝は自宮の入り口にわずかな小宇宙を感じて顔を上げた。

 来たか。

 一輝は無造作に投げ捨てていたシャツを拾い上げて身に纏い、部屋を後にした。

**

「やっぱりお前か」
 宮の入り口に立っていたのは予想どおり赤毛の少年だった。時間的にみて、養成場から直接寄ったのだろう。激しい訓練を物語るように真新しい擦り傷や打ち身の痕が手足についていて、まだ血を滲ませていた。
 一輝の顏を見ると、表情の少ないその怜悧な顏が一瞬だけ歪められる。
「先生が来ているはずです」
 一瞬、一輝は目の前の少年とその声が結びつかずに眉根を寄せた。
 この声。
 昨夜は意図的に抑えてでもいたのか。
 今もまだ、『先生が』から後は、ほとんど聞き取れないほどの掠れた声だったが、それでももう子ども特有の高い声では全くない。
 なるほどな。
 氷河の動揺の一端はそれか。
 一輝はことさら見下ろすように威圧的にカミュに視線を向けた。
「知らんな」
「いえ、いるはずです」
「知らんと言ってる。自宮に戻ってみろ」
「戻らなくてもわかります。先生はあなたを頼ったはずです」
 ……こいつは本当に12歳?……11歳?なのか?
 初めて会った頃からずいぶん大人びたガキだと思っていたが、恐ろしいくらいに頭が切れる。
 親から早々に引き離されて大きくなった一輝たち自身も、精神年齢の高い子どもではあったが、このカミュの頭の良さはそういうものと違う種類の怖さがある。
 カミュをもう、子どもだと思っては駄目なのだろう。
 幼く可愛らしかった子どもは、すっかりと少年の容貌に変わり、そして来たるべき青年期の片鱗を見せて一輝の前へ立っている。
 いつかはやってくる通過点だったとはいえ、それが、氷河にとっても一輝にとってもあまりに早く訪れたことに、どこへ向けてよいかわからない苛立ちを感じることを禁じ得ない。

 一輝は威嚇するような低い声を出した。
「……いたらどうだっていうんだ」
「一緒に帰ります。わたしの師ですから」
「無理だ。氷河は今起きられない」
 理由を取り繕うことなく、二人の関係を仄めかすような言葉に、カミュの眉間にまた一瞬皺が寄る。
「……平気です。わたしが連れて帰ります」
 お前には無理だ、と言おうとして一輝は言葉を止めた。
 無理、ではないのだろう。もう。
 折れそうに細かった子どもの手足は、薄いながら筋肉のついた伸びやかなものに変わっている。
 今のカミュなら少々の体格差があったところで、氷河を背負って階段を上るくらいはできるだろう。その体格差も、今ではもう大人と子ども、とはっきり言えるほどの違いはない。
「昨日といい、今日といい、本当に傲慢な奴だな。氷河は自分の意志でここにいるんだ。氷河が宮に戻らないなら、それは理由があるんだ。お前だってもう、氷河が少しいないくらいで困ったりしないだろう」
「先生がここに来たのは……わたしから逃げているだけです。あなたはただの逃げ場所にすぎない」
 自分でもそうだと自覚していて、なおかつ、それでいいと思っていたにもかかわらず、ほかならぬカミュ自身にそれを指摘されて一輝の声から余裕が削がれて行く。
「それがどうした。逃げなきゃやってられないこともあるんだ、大人には」
「問題解決にはなりません」
 なるほど。
 お前はそうやって正論で、理詰めで氷河を追い詰めたんだな。
 ずいぶん大人になった、と思えば、退路を断たれた人間がどんなふうになるか知らないところはまだ子どもで……御するには難しい年頃だ。
 一輝は腕を組み、聞こえよがしに再びため息をついた。
「お前が氷河に何を言ったかは知らないし、興味もない。だがな……氷河をあまり追い詰めてやるな。お前が思っているよりずっと氷河は怖いぞ。アイツの儚げな見た目に騙されてるなら痛い目に合うのはお前だ」
 自分の方がずっと氷河のことを知っている、と言わんばかりの一輝の言葉にカミュはギリッと奥歯を噛みしめる。
「わかったら一旦は帰れ。氷河はお前が心配せずともそのうち帰る。まだお前の師をやめるつもりはないようだからな。さっさとお前が卒業してくれなきゃアレはいつまでも苦労する。もっと励めよ、少年」
 そう言って、カミュに取り合わず背を向けて去って行く一輝に、カミュはどうしても一矢報いてやりたくなり、ほとんど叫ぶように言った。

「わたしがカミュ、だからでしょう。先生が逃げるのは」

 背を向けていた一輝の足が止まる。

「『子ども』のわたしから逃げなければいけない理由などないはずなのに、こんなふうにここへ逃避するのは、わたしが先生の師に似ているせいでしょう。先生が手にかけたという水瓶座の」
 突然にカミュの言葉が喉奥で押しつぶされて消えた。
 一輝の大きな手がカミュののど輪を締めるように押し付けられていた。
 カミュには一輝の手の動きどころか、振り向いたことすら見えなかった。
 間近で、一輝の瞳がカミュを射た。
「知ったふうな口をきくな!」
 苦しげに顔を歪めたカミュの小宇宙が一瞬うねるように大きくなり、その掌の中に白く微細な結晶が生まれ始めた。酷薄な凍気の塊となった白い煌きを自分の喉へと押し付けられている腕へ近づけようとする動きを見てとり、一輝はその手を乱暴に離した。
 氷河にならともかく、コイツにまで腕をやるつもりはない。
 カミュが酸素を求めて、ケホケホとむせながらも一輝に向かって睨み付ける様に顏を上げた。
「知ったふう、じゃありません。知っている、んです」
 氷河のことをよくわかっているのは、あなただけじゃない、と挑む瞳に、一輝は話にならない、というように首を振ってチッと舌打ちをした。
 苛立ちをおさめきれぬまま、カミュと向き合う。
 カミュの方も爆発しそうな感情を抱えて耐えているように見えた。
「知っている、だって?違うな。どうせお得意の論理的帰結、という奴なんだろう。勝手に想像して勝手に知ったつもりになっているだけだ、お前のは」
「なぜそう言いきれるんです。あなたが知らないだけで先生がわたしに打ち明けたかもしれないでしょう」
「氷河から直接聞いたなら、俺をやり込めるためだけに軽々しく口にできるはずなどないからだ!今のことは忘れてやる。だが、氷河に対してあんな口をきくなら俺は許さんぞ。例え氷河が許してもだ!わかったらとっとと帰れ!」
 それだけ言うと、一輝は問答無用でカミュの腕を掴んで、宮の外まで引きずり、石畳の上で乱暴に体を放ってくるりと背を向けた。
 カミュが何ごとか言う声が聞こえていたが、それらの言葉は苛立ちによって遮断され、一輝の耳には届かなかった。


 腹立たしさを隠そうともせず、ほとんど蹴破らんばかりに自室の扉を開いた一輝は、ベッドの上へ半身を起こして、片膝を抱えて座っている氷河の姿を目にしてギクリとした。
「……起きてたのか」
 ぼんやりと開かれていた空色の瞳が、一輝の方向へ向けられて、徐々に焦点を結び始める。
「ああ。……今来たのはカミュだろう」
「……ああ」
 小宇宙が燃焼したのを感じたか。
 ……聞かれただろうか。
 今のやりとりを。
 扉は隔てていた。
 宮の入り口から距離もあった。
 だが、感情に任せて声を抑えるような努力はしなかった。
 子どものペースに乗せられて、バカな真似をした、と一輝は奥歯を噛みしめる。
 氷河の表情からは何も読めない。
 聞こえていたなら多分もっと動揺しているはずだが、氷河は何も言わず、そうか、と言ったきり空色の瞳を閉じた。
 やや安堵して、一輝は彼に近寄る。
「帰るのか?午後はいつも宮で訓練なんだろう」
 生者の代わりにするな、などと、あれほどの感情をぶつけあった後に尋ねるにしては、滑稽なほどに物わかりのよいセリフだ。
 だが、決して物わかりがよいわけでも、大人の分別がそれを言わせたわけでもない。
 氷河の口から、帰らない、お前といたい、と言わせたいがためだ。引き留めれば氷河は頑なになる。だが、こうして譲歩すれば自分が見せた以上の譲歩を見せる、氷河とはそういう男だ。
 それを知っているからそう問うたのだ。
 俺もずいぶんと……姑息な。

 一輝の問いに、氷河はゆるゆると瞳を開いた。収束していた氷河の瞳が急速にまた拡散して空を彷徨う。
 長い逡巡の末、氷河はその問いには答えず、腕を持ち上げ一輝の首を引き寄せた。
「来いよ。お前あんなもんじゃ足らないだろう。……俺も……足らない。全然足らない、一輝……」
 独り言のように足らない、と繰り返す氷河の唇を一輝は塞いだ。

 強い力で氷河の髪を掴み、激しく、息を奪うように深く口づける。
 乱暴に口内を弄られているというのに、氷河は甚く満足気な吐息をもらして一輝の背をますます強く引き寄せた。

 優しく触れれば、苦しそうに顔を歪める。
 モノでも扱うような粗雑さを見せれば安堵した顔をする。

 は、と一輝は倦んだため息をついた。

 どうしてくれるんだ、と少年期の自分自身を詰りたい気分だった。

 お前のせいだぞ。
 最初にお前が間違ったから、みろ、氷河はいつまでたってもこんなだ。
 氷河の心が融けるのも待たずに強引に身体を開いて、それでどうにかなると思っていた俺はまだ青かった。あと少し、氷河の心の傷が癒えるのを待ち、自ら前に進んでもよいと思わせるだけの余裕が俺にあれば、あるいは───どだい、無理な相談か。
 氷河が小器用に生きられないように、少年期の一輝もずいぶんと無器用だった。
 抱えていても何の役にも立たないプライドが邪魔をして、本音など曝け出すことはできなかった。愛を伝えるための行為であるはずが、ただの性欲処理だと、逃避行動だと、それでいいと氷河に思わせたまま誤解を解くこともせずに、この期に及んでそれに文句を言えた筋合いはない。わかっていても、やりきれない。やりきれないのに、氷河がそれを望んでいるかと思えば与えずにもいられない。


 一輝は、快楽を味わう余裕もあたえずに、猛々しく、氷河の内側へと己の熱を注ぎ込んでゆく。
 つのる虚しさを熱に変えて、深く、心の裡へも入り込むかのように。
 激しい交わりに声を奪われながら、氷河は何度も「一輝」と己を抱く男の名を呼んだ。
 確認するように、何度も、何度も。


**

 悔しい。
 石段を駆け上がるようにして宝瓶宮へ戻り、カミュは自室へ飛び込むとベッドへ顔を伏せて、感情を爆発させた。
 訓練後の埃っぽい体でシーツが汚れたが、それが気にならないほど悔しかった。
 一輝の前で精いっぱい張っていた虚勢が崩れ、押しつぶされる叫びと共に涙があふれてシーツを濡らす。

 追い詰めるな、などと。

 すべて俺のせいですか、せんせい。
 俺が先生を好きなことはそれほど苦痛だと言うんですか。

 一輝の言うとおり。
 氷河はカミュに何も心を開かない。
 全ては論理的帰結でしかない。

 それでも。
 アイツは俺が言ったことを何一つ否定しなかったじゃないか。

 俺があなたを好きでいてはいけない理由は、やっぱり俺が『カミュ』だからなんですね、せんせい。

 あの人がいるから。
 俺はまだ修行中の身だから。
 そんなものは全て言い訳でしかなくて、理由は、ただ、俺があなたの師に似ているから。
 そうなんでしょう、せんせい。
 それほどあなたの心は今もまだ『カミュ』にあるというのに、それなのになぜ、あの人はよくて俺ではだめなのですか。
 気持ちに応えろ、と無理を強いているわけではないのに。
 俺はただ、あなたが幸せでいて欲しいと願っているに過ぎないのに。その気持ちすら許されないのはなぜなのですか。

 氷河にそんな口をきくな、なんて。
 アイツに言われなくてもわかっている。

 言えないから……言えないからこんなに苦しいんじゃないか。

 氷河へぶつけたくてぶつけられない叫びが涙となって次々に溢れ出てくる。
 胸が苦しくて苦しくて、訓練でついた傷などよりずっと痛くて体全体が軋んだ。


**


 氷河は、深夜になって、疲れた顔をして宝瓶宮へと帰ってきた。

 宮の入り口の柱にもたれて小さく蹲っているカミュに気づき、氷河はハッと顏を上げて立ち竦む。
「カミュ……まさかずっと待って……」
 カミュはパッと顔をあげ、へへ、と努めてあどけなく笑って見せた。
「よかった、先生、帰ってきた」
 まるで聖域に初めて来た頃のような、カミュの幼い笑顔に、氷河は戸惑い、言葉を探して口ごもった。
 カミュは、膝を抱えて蹲ったまま、また少し高い声を出してみせる。
「すみません、先生。もうあんなこと言ったりしません」
 いたずらを叱られた子どものように、軽い調子で肩を竦めてみせるカミュに、氷河の表情が一瞬強張る。
 カミュはさらに幼子のように甘えた声を出して笑う。
「昨日は本当にどうかしてました。ミロ達がそういう話ばっかりしてるから……つい真似事をしたくなってしまって。もう先生を困らせるようなことは決して言いませんから……何も言わずにいなくなったりしないでください。先生にもう教えてもらえないのかと思って心配になってしまいました」
 帰って来てくれて本当によかった、と眉を下げたカミュに、氷河は戸惑い、真意を探るように瞬きを繰り返した。
 カミュが立ち上がって、もう一度、すみませんでした、本当に、と深々と頭を下げる。
「先生、子どもの一時の気の迷いです。全部、忘れてくれませんか。わたしももう聖闘士になる以外のことは考えたりしません」
 もう子どもじゃない、と主張されるより、子どもの一時の気の迷いです、と寂しげに睫毛を伏せられた今の方が、なぜかずっと氷河を動揺させるのだが、カミュのあまりにきっぱりとした姿勢に、氷河はぎこちなく頷くしかない。
「わたしの方も……すまなかった、本当に。明日からまたやり直そう。今まで以上に厳しくなるがいいか」
「もちろんです」
 がんばります、と顔を上げたカミュに、そうか、と氷河は強張っていた頬を緩めた。それを見たカミュも、へへ、とまた少し子どものような表情で笑う。


 皮肉だ。
 あなたに早く追いつきたかった。
 子どもでいたくなかった。
 それなのに、こんなふうに子どもでいてみせないとあなたのそばにはいられないなんて。