寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

性表現(一氷)あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆第二部 ⑭◆

 氷河が嫌がることを知ってはいても、昨夜は一晩中煙草が切れなかった。
 吸っている、というほど、意識して紫煙を吸い込むわけではない。
 ただ、一輝を挑むように見た紅い双眸と、困ったように揺れては瞬く青い双眸に感じた焦燥感に、とても落ち着いてはいられなかった。だが、どれだけ紫煙に頼ったところで、気持ちが静まることはなく、睡魔すら訪れずにただいたずらに本数を重ねただけだった。

 今また、火を消したその指で次の一本を取り出した一輝は、部屋の空気の流れが変わったのを感じて、顏を上げた。
 寝室の扉をいつ開けたのか、そこにいる、という気配すら感じさせずに、幽鬼のように氷河が壁にもたれて立っていた。
 ここのところ見ることが少なくなっていた、すっかり感情の抜けた冷たい瞳が、一輝を通り越して虚空に向けられている。

 何をそんなに動揺している。

 その答えは聞くまでもなくわかっている。
 それほど氷河に影響を与えられる人間が限られていることが忌々しく、一輝の中で滞留して、鈍く内側を痛めつけていた感情が、ギラリと鋭さを増し、容赦なくその刃をふるう。

 おい、と呼びかける声にはずいぶん険が滲んだ。
 自分でそのことに気づき、一つ息を吸って、上がった熱を下げる努力をしてから氷河へ歩み寄れば、一瞬だけ、氷河の瞳は一輝の前で焦点を結んだ。
 自分がいる場所を確認するように、左右に視線をやった後、再び氷河の瞳はその焦点を失う。
 それなのに、氷河は一輝の首を強く引いて、有無を言わさずに唇を重ねてきた。
 これだけ視界が煙る部屋で。
 煙草の苦みしか残っていない男の唇に、自ら。

 氷河は情欲を引き出すように、淫らに唇を開いて誘い、手は性急に男の下肢へと這わせた。
 日頃、押さえこまれているのが嘘のような馬鹿力で、一輝の体躯をベッドへ倒し、あっという間に氷河は一輝に馬乗りになった。
 一輝の唇に頬に首筋に胸にと、狂ったように口づけを落としながら自分のシャツを引きちぎるように脱ぎ捨てようとする氷河の頬を一輝は両手で挟み、乱暴に自分の方へ顔を向けさせた。
 ここまでしても、薄青の瞳は一輝ではないどこかで焦点を結んだままだ。
 氷河は煩わしそうに一輝の手を振り払い、頭の位置を下げて、一輝の下肢に唇を寄せた。
「やめろ、氷河」
「いいじゃないか。したい。今すぐ」
 一輝は氷河の前髪を緩く掴んだが、氷河は動きを止めない。
「氷河」
 今度はやや厳しい声を出したが、氷河は布越しに一輝自身の輪郭を舌で辿るように往復させる。
「氷河!」
 前髪を掴む手の力を強めて、氷河の顏を上げさせると、氷河は突然に感情を取り戻したかのように苛立ちを爆発させた。
「うるさい、一輝!!なんだよ!昨日、途中だっただろう。続きをして何が悪いんだ。利用できるものは利用しろと言ったのはお前だろう!勝手に俺の身体を使い始めたのはお前だ、俺がお前の身体を使って何が悪いんだ!!」
 無遠慮に投げつけられた抜き身のナイフのようなその言葉に、感情を抑えようとしていた一輝の努力は瞬時に水泡へと帰した。氷河以上に熱くなって、一輝は乱暴に氷河の身体を跳ね除け、身を起こした。
「勝手にお前の身体を使う、だと?お前にとって、俺はずっとそんな存在のままか!お前はその裏側にあったものを理解したと思っていたがそれは俺の勝手な思い込みか!」
 久しぶりに見せる男の本気の怒気に、氷河は肩を震わせると、一輝の上に乗ったまま目を逸らした。
 一輝は強い力で氷河の手首を掴んで乱暴に引いた。氷河は抵抗してますます顔を背ける。

「氷河、俺が好きか」

 一輝が掴んだ手首がビクリと竦んで逃げた。ギシギシと骨が軋むほどの力で一輝はさらにその手を引く。

「それは……聞かない約束だ」
 氷河の声が揺れて掠れる。

「聞きたい」
「やめてくれ、一輝」
「俺が今まで一度だってこんなことを言わせたことがあるか」
「一輝……お前まで困らせるな」
「何故困る。お前の心が知りたいだけだ」
「お前はおかしい。何で今日に限ってそんなこと言うんだ」
 残酷なほどの氷河の鈍さに、一輝はますます声を荒げて怒鳴った。
「何でか、だと。何故今日に限ってか、だと。そんなこともわからないのか!お前が!お前がそうさせているんだ!今までどれだけお前が違うヤツを見ていても許していたのは、相手が死者だったからだ。今のお前はどうだ。お前をそんな風にさせているのはカミュだろう。『カミュ』じゃない。死者の代わりにされるのはいい。だが、生きている人間の代わりにされて俺が何も感じないとお前は本気で思うのか!」
 ビリビリと空気を震わせる咆哮に、目を逸らしていた氷河の唇が震えた。
 何か言いたそうに、口を開いたり閉じたりしていたが、やがて、掴まれた手を力任せに振り払い、氷河は一輝の上からするりと下りた。
「……会いに来て、悪かった」
 掠れてほとんど聞こえないような小さな声でそれだけ言うと、氷河は背を向けて、ドアの向こうへ消えていく。


 残った一輝はベッドの縁に腰掛け、片手で顏を覆い、身の裡に燻る激しい焔と戦った。
 カミュに対する理不尽な憤り。
 ───なぜ、また氷河なんだ。
 白紙で戻ってきたのなら、なぜ、白紙のままでいてやらない。せっかく立ち直りかけていた氷河をなぜまた動揺させるような真似をする。氷河がどれほどお前を求めていて、どれほど苦しんだかはもう十分思い知っただろう。これ以上追い詰めるのはやめてくれ。

 氷河に対する苦しいほどの恋情とそれに相反する苛立ち。
 ───お前はどうしてそこまで頑ななんだ。
 なぜ変わらない。なぜ変わろうとしない。
 聖域は変わった。星矢も瞬も一輝も、神である沙織ですら、もう頑なで繊細で傷つきやすかった少年少女ではない。
 退くことを知らずに傷だらけで立っていたあの頃の少年たちは緩やかに大人になって、己が傷つかないための知恵と少しばかりの狡さを手に入れたというのに、なぜ、お前だけがいつまでも傷つくとわかっている場所から動こうとしないんだ。


「くそっ!!」
 サイドテーブルの上に載せてあった、氷河から借りたことになっている本を掴んで壁に向かって投げつける。
 破壊衝動はそれだけではおさまらず、一輝はサイドテーブルそのものを力任せに蹴った。ガタンと大きな音を立てて、それは部屋の隅へと転がって行く。

 一番腹が立っているのは、しかし、自分自身に対してだ。

 わかっている。
 ───俺が氷河を責めるのは筋違いだ。
 氷河は変わらない。
 徹頭徹尾、彼の主張は同じだった。
「お前に応えることはない」「カミュへの気持ちは変わることはない」と。
 死者に何を囚われている、と、氷河の頑なさを侮って、強引にこの関係を始めたのは俺だ。アイツがそうしてくれと望んだわけじゃない。
 相手はどうせ死者だ、生きている人間に適うはずがないと……そう高をくくっていたから、カミュへの気持ちを忘れろとは言わん、生きるために俺を利用すればいい、と余裕まで見せて。
 例えカミュ本人が戻ってこようとも───不在の時間はあまりに長かった。師と過ごしたよりもっとずっと長い時間を共に過ごした一輝に、さすがに情は移るだろうと勝手に期待をして、今更過去の約束を全て反故にして氷河に恩着せがましく心を開けとは───俺は卑怯だ。

 一輝は弾かれたように立ち上がり、今しがた氷河の背が消えたドアを叩きつけるように開けて、その背を追った。
 自分では苛立ちを沈めるのに長くかかったように思ったが、氷河はまだ宮の出口までは達していなかった。
 ホッと安堵して、俯いて歩く背を勢いよく捕まえ、背後から強く抱きしめる。

「行くな。氷河」
「……」
「今のは俺が反則だった。悪い」
「……違う、お前は悪くない。俺が無神経だった」
 抱き締めた一輝の腕に身体を預けてすがるように氷河が身を折る。うなじに流れた金糸が小刻みに揺れ、一輝、と呼ぶ声が微かに震えた。
「……一輝……俺は……俺は……お前のことを……」
 一輝は氷河を振り向かせるとその唇を塞いだ。
「もういい。言うな」
「だが」
「俺が悪かった。嘘はつかなくていい」
「……嘘じゃ、」
「いいから。もう忘れろ」
 触れ合わせた唇の間で、まだ何か言おうとするのを封じるように、一輝は氷河に深く口づけてゆく。
 殺しきれなかった苛立ちが口腔を弄る一輝の舌を乱暴にさせ、強く舌を吸われて氷河は苦しそうに喉の奥でんん、と声をあげた。

 あまりの苦しさに、一輝の腕を掴んで弱く抵抗を返す氷河のしぐさに気づき、唇を解放した一輝は、氷河の肩口に顔を伏せる。
「……今日はお前を傷つけない自信がない」
 氷河は一輝の背に手を回し、同じように肩に顔を押し付けた。
「いい。俺は優しくされたいわけじゃない。酷くしてくれて構わない」
 一輝を楽にさせてやるつもりで放たれたはずの氷河の言葉は、だがしかし、逆に一輝を深々と突き刺した。
 それで、自分の放った言葉とは裏腹に、優しくしたい気分だったのだ、ということに一輝は気づく。
「途中で止める自信もないな。こんな時間にここに足止めされても構わないのか」
 氷河はほんの少しだけ顏を上げた。
 まだ、朝と言ってもいい爽やかな光が宮を柔らかく満たしている。
「いいんだ、お前といることを隠す必要はもうない。俺は自分の意志でここへ来た。お前が思っているほど俺は流されてこうしているわけじゃない。……だから……いいんだ」
 氷河は自分で自分の言葉を確認するように何度もそう言った。声がかつてないほど苦しそうに震えている。一輝にもその苦しさは伝染してどうしようもない狂おしさが身を焦がした。

**

「……ふっ…ああっ……」
 声をあげてのけ反る白い喉を食むように唇を這わせる。一輝が触れるたびに、氷河はまるで痛みを耐えるように拳を握り、身体を震わせる。実際に痛いのだろう、きつく閉じられた眦に雫が滲んで、彼の感じている苦痛を伝えている。
「……んっ……一輝……もう……」
「まだ駄目だ」
『優しくされたいわけじゃない』と言う氷河に、一輝は、常になく、ことさら優しくそっと触れていく。
 触れただけで儚く壊れる砂糖細工を扱うように。
 そうされた方が氷河が苦しむだろうということはわかっていた。
 一輝を傷つけたと苦しむ氷河には、手ひどく扱ってやった方が気が楽だっただろう。それでも、氷河の都合よく自分の身体を使わせる気には今日はなれなかった。
 自罰感情を抱えているくせに、ほかならぬ一輝自身にそれを満たすための乱暴さを求めるという、氷河の無自覚な残酷さにとても乗れるものではない。そう思っているにも関わらず、苦しそうに歪む氷河の表情には、一輝も氷河同様に苦痛を感じるのだ。
 いっそ、彼が求めるように乱暴にしてやった方がどれだけ楽かわからない。
 それでも一輝は、髪に、耳に、指先に、何度も何度も触れるだけのキスを繰り返す。


「……一輝……頼むから……やめてくれ……」
 そんなふうに、愛おしいものに触れるように俺に触れるな。
 俺にはそんな価値はない。
 何故、今日に限ってそんな風に触れる。
 何故、いつものように、猛々しく、強引に自分を刻みつけるような方法で俺を扱わないんだ。
 身体だけだと言ったはずだ。
 それでいいという気楽さがあったから、お前には、お前にだけは身体と一緒に心の一部を預けて来られたのに。
 結果、傷つけてしまうなら、俺はお前を拒み通すべきだったのか。


 氷河の懇願を聞かず、一輝は氷河の輪郭を辿るように唇と舌で肌に触れていく。
 あまりの苦しさに息もできずに、氷河は、ただ、耐える。
 氷河に触れる一輝も苦しさを堪えきれずに時折眉根を歪めた。

 繋いだ躰から互いの叫びが熱と共に流れ込む。

「見るな、一輝」
 頼むから。
 そんな目で俺を見るな。

「氷河。見ろ」
 頼むから。
 一度でいいから俺を見ろ。

 それは今までで一番苦しい情交。
 触れられることを拒絶する身体を無理矢理に開かせた初めての時ですらこんなに苦しくはなかった。


 ゆらゆらと体を揺する優しい行為に、傷つき、傷つけて、そしてまた傷つく。
 それなのに、どちらも互いを求めることが止められずに、ただ、名を呼んでその熱を伝え続けた。