転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ⑬◆
「おはよう。よく晴れたな。訓練日和だ」
翌朝、氷河は自分で言ったとおり、何事もなかったかのように起きてきた。
ただし、その視線は決してカミュに向けられることはない。
柔らかく笑みさえ浮かべているのに、どこか酷薄なほど自分を拒絶する氷河の横顔に、カミュの胸が激しく痛みに疼く。
だが一度起こったことは簡単になかったことにはできるはずもない。
「おはようございます」
案の定、挨拶を返したカミュが朝食準備のために隣へ並び立てば、氷河はそれとわからぬほど僅かに身を固くして、長い金糸に隠れるように俯いた。
氷河は手元の作業をこなしながら、カミュが口を開く隙を与えないほど、当たり障りのない話題を次々に持ち出した。普段は話題に出すこともないような訓練生たちの些細な出来事や、過去の女神の意外なやんちゃぶりを、だ。
カミュはそれらを頑なに沈黙で返したが、氷河は、一度も、どうした、と問うこともなく、まるで独り言でも続けているかのように意味のない言葉を重ね続けた。
俺の態度を問わないことこそが、昨夜の出来事が無になったわけではない、確かな証であるのに。
氷河の、常にない饒舌さは、カミュの、まだ形の定まっていない柔らかな心に血を流させる。
「先生は、わたしをそれほど厭うているのですね」
長らく続いた無言の抗議の後に、突然にカミュに切り出されて、氷河はようやく言葉を止めてカミュを見た。
「そんな……ことは……ない。君は大切な弟子だ」
「弟子として、の話をしているのではありません。わたしは、師であるあなたのことを敬い、慕う気持ちと別の部分であなたのことを好きだと言ったのです。大切な弟子だ、というのはその答えになっていません」
「カミュ……」
感情を殺したかのように凍り付いていた氷河の表情が、カミュの言葉によって戻ってくる。
苦しくて、哀しくて、切なくて……また、泣き出しそうな。
力なく首を左右に振る氷河の視線が床へと落ちる。
「カミュ……君はわたしを好きになってはいけない」
好きになってはいけない、などと。
拒絶の言葉にしてはあまりに残酷すぎる。
もう、遅い。
好きになってはいけないというのなら、何故、最初にそう言っておいてくれなかったのか。
言われていたところで、この想いを抑えきれたかどうかわからないくせに、カミュは苛立つ。
「なぜですか。わたしが子どもだからですか」
「……そう言えば納得してくれるか?」
「納得できません。では大人になれば好きでいてもいいということですか」
「それは……それも駄目だ」
いつの間にか二人とも手を止めて向かい合うようにして立っている。カミュは真っ直ぐに氷河を見て、氷河はその視線を避けるように俯く。
知らぬものが見れば、愛を告げているところだとはとても思えぬほど硬い空気が二人の間には漂っている。
少年期の融通の利かぬ真っ直ぐさは、まるで刃となって、氷河のみならず、カミュ自身をも傷つけながら、朝の光の満ちた空間を鋭く切り裂く。
「先生、ただ駄目だと言われても納得できるわけがありません。嫌いだから、と言われた方がまだわかります。理由を教えてはもらえないのですか。本当の理由を、です」
「……わたしが君の気持ちに応えることはないからだ。わたしの心は一輝に預けてある。君では……ない」
氷河は床から視線を一度も上げないまま、まるで用意してきたセリフを読むかのようなぎこちなさでそう告げた。
言った氷河本人の方が痛みに耐えられない、というように何度も肩で息をしたが、カミュはそれでもきっぱりと顔を上げたまま氷河に言った。
「それは好きでいてはいけないことの理由にはなっていません。先生の気持ちがどうあれ、わたしが先生を好きでいる自由は残されています。いくら先生でも、好きになってはいけない、などと止める権利はないはずです」
「カミュ……」
氷河には、カミュの真っ直ぐな気持ちが眩しすぎて顔が上げられない。
何ものにも縛られることなく、複雑な過去を背負うことなく、ただ、好きだから好きだと言って何が駄目なのかと問うカミュの純粋さに愛おしさすら覚え───そして、僅かばかり嫉妬もする。
俺も『カミュ』にそう言いたかった。
愚かな過ちでアイザックを失わせてさえいなければ、言えていたかもしれないが……いや、自分の気持ちを本当に理解したのは師を喪ってからだ。どう足掻いていたって理解してもいなかったものを到底伝えられたはずはない。だが、それでも言いたかった。言えなかったから今こんなにも苦しい。
『カミュ』はどうだっただろう。
熱っぽく自分の気持ちを顕にするカミュは、少しも『カミュ』に似てなどいないが、あのひとの中にもこんな激しい感情があっただろうか。聖戦目前の、あの激動の混乱の最中でなければ、いつか気持ちをこんな風に語ってもらえることがあったのだろうか。
知りたかった。
もっと『カミュ』を知りたかったと、カミュを前にしてみれば、自分が師のことを何一つ知らなかったのだと否が応にも気づかされる。
知るための時間がなかった。
自分の方に余裕もなかった。
それでも、彼の心を孤独のままに死なせてしまったのではないかと、それがずっと心に重い楔になっている。
いけない、と過去へ跳んでいた心を氷河はぐっと現実に引き戻すために首を振った。
今はもう氷河は余裕のなかった少年ではない。カミュの師なのだ。
氷河は、二度三度と強く瞬きを繰り返した後、ぐっと唇を噛み、しっかりと顔を上げて決然と言った。
「カミュ。君が拒否するにせよ、わたしはまだ君の師だ。だから、君が間違った道を進もうとするなら、わたしにはそれを止める権利がある。君は、何のためにここにいる。聖闘士を目指す君には、余計なことにかかずらっている余裕などないはずだ。感情に流されてはいけない」
氷河の透明な瞳に静かに諭されて、今度は逆にカミュが俯く。
感情に任せて、聖闘士になどなるのはやめる、それなら好きでもいいのでしょう、と言うことは流石にできなかった。それを言ってしまえば、もう氷河とはこれきり縁が切れてしまうのだと判断できるだけの冷静さはあった。
黄金聖闘士である氷河。
同じく黄金聖闘士である一輝。
聖闘士ではない自分。
それを意識させられると昨夜からずっと高揚していた気持ちが急速に冷えて行く。
背は伸びた。もう少しで氷河に届くほどに。
でも、そこにはまだ歴然とした力の差が横たわっている。
確かに、まだ、何者にもなれていない自分には氷河を好きだと言う権利はないのかもしれないが……。
だが、カミュは不意に気づいて、顔を上げた。
「先生……わたしが目指すべきものは何ですか。今まではっきり聞いたことがありません」
話題が逸れて、あからさまにホッとした顔の氷河が、緩んだ表情のままどこか嬉しそうに応える。
「そうだったな。その話をしたことはなかったが……わたしは、君に水瓶座の黄金聖闘士を継いで欲しいと考えている」
それはカミュの中で、予想されていた答えではあったが、氷河の口からはっきりと示されると、少なくない衝撃を伴って心に届いた。
やはり、と思う気持ちと、そんな、と動揺する気持ちとの間で、カミュが言葉を継ぐのには暫しの時間を必要とした。
「ですが……水瓶座はあなたです。ほかの星座では駄目なのですか?」
「前に言っただろう?わたしはただ、預かっているだけだ。だから、わたしの意志に関わらず、星が君を選ぶはずだ。君の星はアクエリアス以外には考えられない」
「そんな……では、仮にそうなったとして……先生はその後どうするつもりなんですか」
「その後?さあ、女神と相談しないとならないが……青銅聖闘士に戻してもらってもいいが、わたしより、次の世代に譲るのが筋だろう。もちろん、聖衣の有無に関わらず、女神のお役には立つつもりでいるから、カミュが心配する必要はない。十二宮を離れた後の行先までは決めていないが……」
「……先生……」
黄金聖闘士、という、聖闘士の頂点とも言える高みにいながら、この執着のなさは氷河らしいと言えば氷河らしい。
しかし、そう言われて、はいそうですかと、自分が黄金聖闘士を目指せるとでも思っているのだろうか。
自分が聖闘士になるということが、敬愛してやまない氷河が十二宮を去るという意味だとわかっていて、それでも、なりたいと、本気でそんな風に思えると……?
わかっていない、先生は何も。
あなたは、自分が、俺にとってだけでなく、この聖域にとってどれだけかけがえのない存在か、ということをご存知ないのですね。
何故、そんなに自分を軽んじるのですか。
あなたが愛さないといけないのは……あの人ではなく、俺でもなく……自分自身ではないのですか。
あなたの幸せはどこにあるのですか。
過去にしかないのですか。
「必要だから」───?
そんな理由などではなくて、ただ、「好きだから」「一緒にいると幸せだから」そう言ってくれれば、氷河の幸せのためならば、と諦めるきっかけになったかもしれないのに。嘘が吐けないあなたは、俺を納得させるためでも、それを言わなかった。
「必要だから」、「心を預けているから」というのでは……想像していたような甘い関係とはほど遠い。
あなたは過去とまだ戦っているのですね。
そして、あの人───一輝は、戦うための同志、少なくともあなたの中ではそうなのではないのですか。
それなら俺は……俺は……。
「カミュ……?」
すっかり俯いてしまったカミュに、氷河は、言いたいことがわかってくれただろうか、とその顔をのぞき込む。だが、それと同時にカミュは顔を上げ、思わず至近距離で二人の視線がぶつかった。
虚をつかれて、僅かに驚いた顔をした氷河の腕を引いて、カミュはその身体を抱き締めた。
昨夜のように、ただ自分の感情をぶつけるようなやり方ではなく、そっと慈しむように。
背中を、髪を、母が怪我をして泣く幼子にするように何度も何度も優しく撫でる。
「カ、カミュ……?わたしは、」
「あなたはかわいそうなひとです、先生」
「……え?」
「もっとご自分を大切にしてください。あなたが、あなた自身を幸せにするまでは、わたしは好きでいることをやめません」
「?……な、何を言って……」
「もう、養成所に行きますね、先生。朝食はいいです。先生はゆっくり食べていてください」
駄々をこねる幼子のように好きだ好きだと連呼していたかと思えば、今度は、歳不相応に至極穏やかで慈愛に満ちた声を出されて、氷河は戸惑って声を失った。
その隙に、カミュはすっと氷河から離れてあっという間に姿を消していった。
残された氷河は、到底食欲などわくはずもなく、ずるずると冷たい床に座り込んで天を仰ぐ。
立場の違いを持ち出すのは狡いとは思ったが、あんなふうに言えば、真面目なカミュは弁えて引き下がると思ったのだが。
あれで引かないならどうすればいいかわからない。
涸れたはずの涙が、カミュの姿が見えなくなったことでまた静かに氷河の頬を伝う。
はっきりと拒絶した。
理詰めでも。
感情でも。
普通の子どもなら、きっともう、気持ちが萎えているくらいには。
なのに、どうしてカミュは折れようとしない。
俺の過ちに君を巻き込みたくないだけなのに。
真っ直ぐなあの気持ちは、俺ではなくて、彼が本当に護るべき者のために向けられなくてはいけないのに。
俺のせいだ。
あの声で、あの瞳で、求められると、浅ましくも抑えきれずに心が震えてしまう、俺の。
いなくなって何年にもなる『カミュ』への想いを断ち切れない俺の弱さが、カミュに、それを言わせてしまった。
どうしたら……いい。
どうしたら、君をあるべき姿に戻せるんだ。
しばらくの間、涙を流れるに任せて放心していた氷河だったが、やがてふらふらと立ち上がり、途中となっていた朝食準備もそのままにして、宝瓶宮を後にした。