転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ⑫◆
カミュは明かりも灯さずに一直線に自室へ進んだようだ。
氷河も、窓から漏れる月明かりだけを頼りに廊下を進む。
カミュの部屋の前で、僅かに逡巡する。
言いたいことがうまくまとまらない。だが、長く考えたところで心に整理がつく気もしなかったから、逡巡の後に氷河は扉を小さく叩いた。
「カミュ」
カミュから返事はない。だが眠っているはずはない。
氷河はもう一度「カミュ」と呼んだ。
向こう側から、聞いています、というように扉が小さくひとつ叩かれた。開けてくれるつもりはないようだが、会話をする意志はあるらしい。
氷河は、扉に手をついて深く息を吸い、そして覚悟を決めると語り始めた。
「カミュ、そのままでいいから、わたしの話を聞いてくれ。……すまなかった。確かにわたしは嘘をついていた」
「君が言ったように、本当はわたしは一輝に会いに行っていた。会いに行ったのはわたしにとっては必要だからだ」
「君が一輝をあまり好きではないことは知っているがアイツは悪いヤツじゃない」
「君に会うずっと前、わたしは……色々あって……一輝がいなければ、わたしはとうにここにはいなかったかもしれない」
カミュ、君のことがあまりに大切すぎて、自分を見失いそうなんだ、だから。
だから。
「隠したつもりではなく、君はまだ子どもだから、わざわざ知らなくていいと思った」
「君がわたしを嫌いだというのも、こんなわたしを師と仰ぐのが嫌だと言うのも最もなことだと思う。わたしの顔を見たくないなら宝瓶宮で過ごす必要はない。養成所の宿舎へ移れるようにしよう。だが……君を聖闘士にするまではわたしに教えさせてもらえないだろうか。嫌だと言うなら仕方がないが……ほかに凍気使いはいないのだから、せめてそれだけは、」
反応がないことが不安で、氷河は次々に言葉を重ねていたが、まだ全てを言い終えぬうちに突然に扉がカチリと音を立てて開いた。
氷河は驚いて扉から離れる。
カミュは俯いたまま氷河の前に立っている。
髪の色と同じ色をした睫毛に乗った雫が窓から差し込む白い光に反射して微かに光っている。凛々しい柳眉の下の切れ長の瞳も同じ雫に濡れていて、だが、なぜかそれが胸を衝くほど美しい光景に思えて、思わず氷河は見蕩れ、かける声を失う。
(せんせいは何もわかっていない)
カミュが泣いているような怒っているような顔で、しかし薄く笑って氷河を見る。拍子に睫毛に乗っていた雫が零れ、あ、と惜しむような気持ちで氷河の視線はその軌跡を追った。
床の上で無数の微細な飛沫に砕けてしまった雫をぼんやりと見つめる氷河に、カミュが再び、わかっていない、と繰り返す。
(先生はわたしがなぜあの人のことが好きではないかわかりますか)
「それは……アイツは無愛想で元々子どもに好かれるようなタイプではないから……」
カミュは答えずに、小さく首を振ってまた泣き笑いの顏をした。
(先生、わたしはいつまで子どもですか)
「……それは……」
子どもだ、と断言できるほど子どもではないのは先ほど嫌と言うほど思い知った。だが、だからと言って、まだ十代半ばを越していない少年が大人と同じではないことを氷河自身、痛いほどよく知っているのだ。
答えあぐねた氷河を前に、カミュは自嘲的にふふっと笑った。
その複雑さを内包した表情は、到底、邪気のない『子ども』のものではなく、氷河は胃の腑を掴まれたように落ち着かなくなる。
知っている。
俺は、こんなふうに笑う───『カミュ』を知っている。
(子どもだと言うのならそれでもいいです。でも、先生、子どもだって人を好きになります)
「……え……?」
僅かな月明かりしか届かない薄暗い廊下でも、カミュの頬が濡れているのがわかる。涙で濡れた睫毛に縁どられた緋色の瞳は、しかし、とても強い光を放って氷河を捉えている。
カミュが一歩氷河に近づいた。
氷河は気圧されて思わず後ずさる。
また一歩。
後ずさりながら、ぶる、と氷河の背が震える。
魂と魂をぶつかりあわせた、最初で最後の師との対峙の日。なぜか急にそれが思い起こされて、心臓が激しく脈打つ。
狭い廊下だ。
すぐに背が壁について逃げ場がなくなった。
視線を絡め取られたまま、目を逸らすことも、瞬きすることもできずに、息を殺して見つめ合う。
(せんせい)
微かに呼んでおいて、だがしかし、カミュは思い直し、もう一度呼び直した。
「せんせい」
喉を傷めないように、と長らく発声を避けていたが、久しぶりにしっかりと発する声は思っていたほど不安定ではなかった。
せんせい、ともう一度カミュは己の声を確かめるように氷河を呼ぶ。
氷河の知っていた高いトーンとは違うカミュの声に、氷河の背を稲妻に撃たれたかのような衝撃が走る。
この声。
間違いようのない、忘れられるはずもない響きに氷河の全身が総毛立ち、指先が激しく震えはじめる。
カミュは、相変わらず泣き笑いの顏のまま、手を伸ばして、茫然と立ち尽くしている氷河の髪をひと房手に取った。
「せんせい」
氷河の髪にゆっくりと指を通しながらカミュは囁くように何度も呼んだ。
「先生、わたしはあなたのことが……」
カミュは指を絡めていた毛先を不意に強い力で引いた。
混乱した目で、髪を引かれるのに任せて下を向いた氷河の唇に、僅かに伸びをして、自分のそれをそっと重ね合わせる。
「……?」
何が起こったかわからず薄く開かれたままの氷河の唇は小さく戦慄いている。
否、震えていたのはカミュの方だったのかもしれない。
カミュは互いの震えを止めるように、そっと氷河の下唇を挟んで吸った。
初めて感じる甘く柔らかな感触。
そのあまりの甘美さに離れがたく、啄むように優しく、触れては離れ、離れては触れを何度も繰り返す。
せんせい。
あなたがとても愛おしい。
自分よりずっとずっと年上のひとに抱く感情としては奇妙な気もしたが、そうとしか言い表せない。
重ねた震える唇も。
柔らかな髪の毛も。
見当違いの言い訳すら。
永遠とも刹那ともつかぬ時の後に、カミュはゆっくりと離れ、再び氷河の瞳を捉えた。
「好きです」
その言葉に初めて、混乱した氷河の頭の中に、さきほどの行為の意味が浸透した。
「……っ……!」
息をすることを忘れてしまいそうなほどの衝撃に、氷河の最深部に大切に鍵をかけてしまいこまれていた『カミュ』との記憶の扉が次々に開く。
初めて出会った日の緊張。
取りつく島がないほど叱られた後で見せる、困った子だな、と言いたげな微笑の優しさ。
アイザックを喪って初めて見せた涙。
母を思い涙する氷河を断罪する酷薄な瞳。
己の本気の凍気を放っておきながら「避けろ、氷河」と動揺した、あの一瞬の揺らぎに込められた彼の師の深い愛情……。
立っていられないほど震えて、その背を壁に押し付けている氷河に、カミュが支えるように腕をまわす。
「好きです。先生」
耳元で紡がれる言葉。
明かりのない室内で聞くそれはまるで『カミュ』の声。
「先生、わたしではだめですか。先生が支えを必要とするならわたしがずっとそばにいます」
がくがくと笑う膝に、氷河はカミュの腕にすがりつきたくなるのを必死で耐えた。
自分よりほんの僅かに低いところにある瞳。
その視線の低さだけが、氷河にそうすることを踏みとどまらせていた。
氷河の顏が泣き出しそうに歪み、戦慄くように小さく首が左右に振られる。
「何を言うんだ、カミュ……君はまだ……」
子どもだ、という声が震えて消える。
カミュはその言葉を否定するように、再び、氷河の震える唇に自分のそれをそっと押し当てた。重ね合された唇の下で、あ、と氷河の声が漏れ、抱いた身体が竦んで後ろに逃げた。
カミュの身体を押し戻すように氷河の手が弱々しく持ち上げられる。
抵抗とも言えないその抵抗を氷河の手を握ることで封じ、カミュは逃げる氷河の身体を引き寄せた。
温かな氷河の唇から感じる熱はとても心地よく、離れた瞬間にもうその熱が恋しくなってまた唇を押し当てる。
二人の体温の違いが感じられなくなるまで、何度も何度もカミュは口づけた。
「好きなんです、先生」
泣き出しそうに歪められていた氷河の瞳が潤み、涙が一筋頬を伝って落ちた。
「駄目だ、カミュ……いけない、こんなこと……」
なぜ……泣くのですか。
泣きたいのは、泣いているのは拒絶され、届かぬ思いに身を焦がしている自分の方なのに。
氷河の涙に戸惑うカミュの肩を、氷河はゆっくりと押し戻し、カミュから顔を背けて小さく言った。
「カミュ……今のことは忘れるから……忘れるようわたしも努力するから……君ももうそんなばかな考えは捨ててくれ」
氷河はカミュの返事を聞かず、そのまま背を向けて自室へと戻って行く。
『ばかな考え』
こんなに狂おしいほどあなたが好きなのは間違っていると……?
カミュは叫ぶようにその背に言葉をぶつけた。
「忘れるなんて無理です、せんせい!だって俺は、わたしはあなたが……!」
扉に手をかけていた氷河は、その言葉に動きを止めた。振り向かないまま、揺れる声で答える。
「無理だと言うなら……カミュ、わたしは君の師であることをやめなければいけない」
非情な言葉を残して、氷河の背は扉の向こうに消えていった。
なぜですか、先生。
本当に子どもだと思っているなら、どうして泣くほど動揺するんですか。
『カミュ』でなくともよいのなら、一輝でもよいのなら、『カミュ』に似ているという自分ではなぜだめなのか。
───似ている、からか。
過去に何があったのですか。
わかりません。
わかりません、先生。
逃げるなんてずるいです。
**
後ろ手に引いた扉が閉まりきらないうちに、氷河はへなへなと崩れるように床に座り込んだ。
「……っ……うっ……っ!」
まだ廊下にいるに違いないカミュに聞こえない様に、腕に顔を押し付けるようにして必死で嗚咽を噛み殺す。
カミュ……カミュ……カミュ……!!
氷河の心が、あの、雪と氷に閉ざされた小さな小屋で二人過ごした日々に引き戻される。心が引き裂かれそうに痛く、声にならない悲鳴をあげる。
『カミュ』と二人で過ごしたあの氷と雪の世界。
主のないベッドを昏い枷として共有しながら、行為の意味も理解しないままに重ねた身体。
交わされた感情の名を互いに言葉に乗せることも、確かめることもないまま……待っていたのは耐えがたい永遠の別れ。
カミュを『カミュ』の代わりにしたいわけではない。『カミュ』と交わした個人的な感情に代わりなどあろうはずがない。
俺はただ、もう一度、カミュにアクエリアスを、とそれを望んでいるだけだ。
俺のせいで、聖戦を黄金聖衣ではなく、冥衣を纏うという不本意な形で迎えてしまったカミュに、再び、誇り高き水瓶座の戦士としてこの地に立ってもらいたい。
そのためならどんなことでもする。
『カミュ』が俺に命をくれたように、必要なのであればカミュを導くためなら命を懸けることすら厭わない。
なのに───好きです、などと。
あのひとが一度も言葉にすることがなかったものを君はいとも簡単に口にしてみせた。
あの声で。
違う、カミュ。それではだめなんだ。
低温に見える君の中に熱く流れる激しい感情があることを俺はもう知っている。『カミュ』のように君も俺のために命を落としそうで怖い。まだ未熟な君は『カミュ』よりずっとあっさりその境界を超えてしまいそうな危うさをもっている。
俺はもう二度と、自分のためにカミュの命が失われることに耐えられそうにない。
どうしたら……どうしたらいいんだ。
自分の心の殺し方は知っている。
でも、真っ直ぐに向けられたあの想いはどうやって封じたらいいのか。
絶え間なく漏れる嗚咽を噛み殺しながら、掌を押し付けた唇に氷河は震える指先を這わせた。
涙で濡れた唇が発熱しているかのように熱い。