寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑪◆

「…………」
(…………)
 かける言葉が見つからず、氷河はむっつりと黙り込んだカミュを追って歩く。

 宮をこんな深夜に勝手に抜け出したことを叱るべきだ。カミュはまだ子どもで、安全な聖域内とはいえ、規律は守る必要がある。
 しかし、抜け出した原因は、カミュに何も言わずに宮を抜けていた自分なのだ。

 謝るべきだろうか。
 だとしたら何を。
 宮を出ていたことを?
 ───十二宮を離れないなら裁量の範囲内だ。
 カミュに言わずに出たことを?
 ───寝ているはずの弟子に言う必要が?
 一輝と会っていたことを?
 ───なぜそれを謝らなければいけないのか。

 そもそも、カミュは今、何をそんなに怒って歩いているのだろう。まだ聖闘士になる前のミロやカミュが深夜に勝手に出歩くのと、氷河が出歩くのとでは意味合いが違うというのに。

 散々迷って、結局氷河は中途半端な言い訳を始めた。
「急にすまなかったな、カミュ。一輝が、どうしても今日中に読みたい本があるっていうもんだから……」
(…………)
「カミュに言って出るべきだった。もう寝ていると思ったし、すぐ帰るからいいかと思ったから……心配させて悪かった」
(…………)
「だが、こんな夜更けだ。次からは宮を抜け出さずに待っていてくれるとわたしも安心なんだが」
(…………)
「……と、というか、次はもう、ない、と思う、多分。今日は本当にたまたまというか……アイツ、我が儘だよな、明日でもいいものを今日中に、だなんて、な」
(…………)
「……カミュ……」
 ちょうど、氷河の言い訳もごまかしも尽きた頃、宝瓶宮の前へ辿り着いた。
 カミュが振り向いて氷河を見た。
 月の光を反射して光る緋色の瞳が常になく赤く燃えているようで、氷河は思わず立ち竦んだ。

 静かに視線が交錯する。

 氷河が何か言おうと口を開いた瞬間、カミュは自分の首筋を指差して冷たく言った。

(先生、ここに痕がついています)

 氷河は、一瞬、言葉の意味を考えるように瞬きをし、次の瞬間には暗闇でもはっきりわかるほどにさっと顏を赤くさせて、勢いよく自分の手でそこを隠すように押さえた。


 それで十分だった。

 そういうことなんですね、先生。

 煙草の残り香。
 深夜の外出。
 浴室から出てきた氷河。
 そして、それを待っていた一輝。
 一度解かれたタイの結び目。
 過去の情景が次々に蘇る。

 あれも。あれも。あれも。

 静かに怒りが湧いてくる。
 ふつふつとそれは心の中で炎のように燃え盛り、カミュ自身を内側から痛めつけた。

 痕なんか。
 見えるわけがないじゃないですか、こんな暗がりで。隠すなら、何故、平然と隠し通してくれないんですか。
 嘘なんてつけないくせに。すぐに赤くなって動揺するくせに。
 なぜ、隠せもしない秘密をつくるんですか。
 やましくないなら、堂々と叱ればいいじゃないですか。あんなふうに見え見えの言い訳なんかしたりせずに。
 それとも、そんなごまかしが通用するとでも思っているんですか。
 あなたの中の俺はそれほど子どもなんですか。
 何も知らない子どもだと思っているなら、なおさら、何故あの人との関係を隠すんですか。
 俺だけ蚊帳の外で。
 二人でまるで共犯者のような顔をして。
 あんな……言葉なんてなくてもなんでも通じ合っているみたいな。

 口には出さない罵倒の言葉が次々に湧き出てくる。
 自分は氷河にとって、何者でもない。こんなふうに責める権利など、ただの弟子のカミュにはない。わかっている。自分がどれだけ理不尽に怒っているかなんて。

 だけど、どれだけ理不尽だとわかっていても、こうやって怒っていないと胸が痛くて苦しくて声をあげて泣き出しそうだった。



 赤くなって首筋に手をやった氷河はしかし、今日は痕がつくような行為はまだしていないということに思い至って今度は青くなった。

 カミュが、そんな風に勘ぐるなんて。
 意味がわかって言った……のか。
 まさか。
 子ども、なのに。

 射すくめるようにこちらを見る視線がいつの間にか氷河の高さに追いつき始めている。ついこの間まで屈みこんで視線を合わせていたはずなのに。

 なぜだ。
 早すぎる。
 まだ子どもだ。子どものはずだった。
 なるべくゆっくり大きくなってくれと言ったのに。なぜそんなに急いで大人になろうとするんだ。

 氷河の指先が強張って空をつかむ。
 混乱して、頭が真っ白だった。
 何も悪いことはしていない。なのに、なぜだかカミュの前では今夜の自分がひどく後ろめたい。



 長い長い沈黙の後、カミュが静かに言った。
(先生は………あの人のことが好きなのですね)
 答える氷河の声が震える。
「そ、そういうのとは違うんだ」
 カミュがさらに畳み掛ける。
(では、どういう関係なのですか)
「……本を貸しに行っただけだ。誤解だ、カミュ……」
(何故そんな嘘をつくのですか。『凍結作用による破壊プロセス』なんて、あの人、本当に今日中に読まなきゃいけないほど必要なんですか)
「それは……」
(この期に及んで何故隠すのですか。何故わたしを叱らないのですか。お前には関係ない、口出しするなとどうして言ってくれないのですか。そんな風に言い訳をされたら、わたしは……わたしは……)
 次々に溢れる言葉に気圧されていた氷河だったが、カミュの語尾が揺れたことに気づいて顔を上げた。そして、俯いているカミュの瞳に光るものを見つけて、ハッと息を飲んだ。
「カミュ……」
(先生なんて……嫌いです)
 カミュは瞳から雫が零れる前に、氷河にふいと背中を向け、逃げるように自室を目指して駆けた。
「カミュ!」
 捕まえようと伸ばされた氷河の手は空を切り、氷河は呆然と宮の暗がりへ消えていく背を見送った。

**

 カミュは部屋に飛び込むように駆け込み、後ろ手で乱暴に扉を閉めた。そのまま明かりもつけずに、扉に背を預け、力なく天を仰ぐ。

(……っ……うっ……)
 後から後から涙があふれてくる。
 殺しきれない嗚咽が唇の間から洩れ、カミュは必死で手の甲を押し当てて声をあげるのを耐えた。

 確かめるのではなかった。
 知らないままでいたかった。
 でも、知らずに過ごすのもいやだった。

 せんせい。
 いつからなんですか。
『カミュ』が生きている時からですか。

 なぜだかわからないが、手酷く裏切られたような気がして、息をするのが苦しかった。裏切られたも何も、カミュに氷河を束縛する権利はないというのに。
 氷河の心は自由だ。
 だが───『カミュ』とあんなに何度も呼んでいたのに。
 もちろんあれは自分のことではないが、同じ名を持つかつての水瓶座の主に、嫉妬とともにシンパシーも感じていたのだ、と、今初めてカミュはそれを自覚した。
『カミュ』を好きだったのだと聞かされたなら、多分、これほど苦しくはなかった。師弟で命を奪い合ったという壮絶な過去を知ってしまった今となっては、『カミュ』以外の何者をも受け入れられないのだ、と言われてしまえば、その絆の特別さを理解もできるゆえに、苦い嫉妬を飲み込んで自分を納得させる努力をしてみせたかもしれない。
 だが、相手が一輝では。

 なぜ、という思いが抑えられない。
 もう少し自分が早く出会っていたなら。
 こんな、14歳も年下でさえなかったなら。

 ままならぬ想いに、カミュの胸は血を流さんばかりに締め付けられるばかり。

**

 氷河は呆然と立ちすくんでいた。

 嫌いです、と言われた。

 違う、一輝とは何もない、と言い切ることが正しいと、カミュのためだと思っていた。
 己を厳しく律することを導くはずの師が、万が一にも弟子に見られてよい姿では決してなかったからだ。
 なにしろほかに凍気使いはいない。カミュを聖闘士にするなら、例えどれほど力不足な師であったとて、氷河が導くしかない。その師が、例え経緯がどうであれ、自堕落に享楽に耽っています、と認めるわけにはいかなかった。
 だが……カミュはその浅はかな嘘を即座に嘘だと見抜いていた。

 拙いごまかしがきくような子どもではないのなら。

 真摯に向き合って、説明してみればよいのだろうか。
 だが、何と言って。
 何を、どこから、どう説明すればいいのか。
 どういう関係かと問われた。
 そんなこと───俺自身がわからない。
 カミュが多分思っているような、単純な甘い関係とは似て非なるものだということは確かなのだが。もっとずっと即物的で、それでいて切実にその存在は必要に迫られていて、何より、簡単に語れるほどつきあいは短くも浅くもない。
 うまく説明する自信はない。
 だが、あんなふうに涙を見せたカミュをこのまま放ってはおけない。

 氷河は、重い足取りで、カミュの軌跡を追って宮の内部へと歩きはじめる。