寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑩◆

(先生、おやすみなさい)
「ああ、おやすみ。……カミュ、明日こそ診てもらおうか」
 寝室へ向かうカミュを氷河が引き留めた。
 自分の喉を指差しながら心配そうに眉を寄せる氷河にカミュはくすりと笑った。
(大丈夫ですよ、先生)
「でも……もう何か月になる。風邪など流行る季節でなくなったのに一向に良くならない。一度きちんと診てもらうべきだ」
(本当に大丈夫です。声が出ない以外は元気でしょう?そのうち治りますから。もう寝ます)
「あ、ああ」
 問答無用で氷河に背中を向けて寝室へ向かいながら、カミュは忍び笑いをもらした。

 先生、まだ風邪だと思っているんだ。

 声が出しにくくなって割とすぐに、カミュ自身は気づいた。同年代の訓練生と交わっていたことで知識があったからだ。そうでなければ、氷河と二人、今でも気づかずに治りにくい風邪だと勘違いしていたかもしれないと思うとおかしかった。

 カミュは変声期を迎えていた。
 声を出しにくい状態が数か月から一年くらい続くことも、その時期には無理をして声を出してはいけないことも皆、氷河以外から教わった。
 氷河にだって変声期はあっただろうから、気づかぬはずはないのだが、多分、氷河の中では自分はまだそれほどに子どもなのだ。ありえない、と頭から信じているから気づかない。
 変声期を迎えてから、また一段と身長が伸びている。それに、以前はどんなに基礎トレーニングを積んでも付きにくかった筋肉がおもしろいようにつく。
 ほんの数日会わないだけで、目まぐるしい成長の変化が顕著にわかるほどなのに、皮肉にも毎日顔を合わせている氷河だけが、カミュをまだ幼い子どもだと思っている。


 カミュはベッドに入ったものの、なかなか訪れない睡魔に、何度も寝返りを打った。

 先生はどんなふうに修行時代をすごしたのだろう。
 先生と『カミュ』とはどんな師弟関係だったのだろう。

 氷河の様子を見ていると、『水瓶座』に対するとても深い愛情を感じるから、悪い関係でなかったことは確かだ。
 自分が氷河のことを好きなように、どちらかが、あるいはどちらもが、ほのかな恋情を抱いたりしたことがあっただろうか。
 カミュに対して、氷河が何度か見せた甘えた顔は、単に弟子として師に甘えたというより、そこにどことなく淫靡なものを感じるのは気のせいか。

 それに、レオのあの人。
 黄金聖闘士同士。大きな戦いを何度も一緒にくぐり抜けてきたと聞いた。
 でも、やはりそれ以上に、互いに触れる手にただの戦友以上のものも感じて心が騒ぐ。

 カミュはまたごろりと寝返りをうつ。
 様々なことが頭の中を去来して眠れそうにない。
 氷河のそばに、ただ、一番そばにいたいだけなのに、横たわる障壁が多すぎる。『カミュ』のこと、一輝のこと、いつまでも子ども扱いされていること……。

 ……本でも読もう。
 決められた就寝時間を守り、翌日に備えてしっかり体を休めなければいけないことはわかっているが、時々、こっそり起きて師には内緒で本を読んでいる。
 カミュはそっとベッドを抜け出して、扉を開けた。
 慎重に廊下の先を窺ったが、ダイニングからはまだ明かりが漏れていて、時折ページをめくる音がしている。氷河が本を読むか、訓練日誌をつけるかしているのだろう。
 足音を消して、書庫へ向かう。

 都合のいいことに今夜は満月だ。
 明かりをつけずに、書庫の窓を開けると、煌々と白い光が闇の中に入り込み、ぼんやりと背表紙を照らした。
 カミュは窓の外を見上げて、僅かな間、その天空に開いた穴のような丸い光を眺めた。
 美しいものは心を落ち着かせる。
 太陽と違う冷たい光を浴びていると、ほんの少し邪念が消えるような気がして心地よかった。
 カミュは窓から離れて本棚の前へと戻った。
 月明かりを頼りに背表紙の文字を追う。
 宝瓶宮の書物庫の蔵書は専門書が多かったが、娯楽色の強いものもあって、誰がどうやって集めたのかと想像するのも楽しかった。何百年も前のものから、ほんの数年前のものまで。
 本によっては書き込みがしてあるものもある。
 とても几帳面なギリシャ文字で施された書き込みに、上書きするように別人の手で仏語でさらに書き込みがなされていたりすると、本を通して、代々の水瓶座の聖闘士同士が何百年の時を隔てて会話しているように思えて面白かった。
 書庫にいると時間がたつのを忘れる。
 次々に本を取り出してはページをぱらぱらとめくっているうちに、気づけば月が相当天高く昇っていた。
 いけない、夢中になってここで読んでしまっていた。部屋にもどらないと、と思って扉に手をかけた瞬間、微かな足音が聞こえた。
 ギクッとして扉の取っ手を握ったまま廊下の物音を窺う。
 氷河の足音は、しかし、寝室のあるこちら側ではなく、遠ざかるように小さくなっていく。

 ……宮を、出るつもりだ。

 途端にカミュの胸を小さな痛みが襲った。

 氷河が夜中に時々宮を抜けていることに、少し前から気づいていた。
 そして、自分はその理由を知っている、ような気がする。
 胸に感じた小さな痛みはやがて少しずつ大きくなり、赤々と燃える炎のように発熱し始め、カミュの身を内側から焦がした。

 確かめよう。
 今夜。

 知りたい。
 知らなければ何も始まらない。
 先生がどこで何をしているのか。
 知ることによってさらに苦しむことになるかもしれないけれど。

 カミュはそっと廊下に足を踏みだした。
 宮内は明かりが全て消えている。氷河の気配はどこへも残っていない。
 慎重に自分も気配を消して、宮の外へ出る。
 上か。下か。
 自分の想像どおりなら。
 カミュは迷わず石段を下りる方を選択した。
 何歩か足を運ぶと、磨羯宮へ抜ける階段の下に、月明かりに鈍く光るブロンドが見えた。

 やはり。

 いつかの残り香を思い出す。
 煙草。
 深夜に会っていたという相手。

 カミュの心臓が大きく脈打っている。
 先生、違うと言って。
 他の誰と会っているのでもいい。あの人だけはいやだ。


 しかし、階段を下りてもっと下の宮へ行くと思っていた氷河の背は、そのまま、磨羯宮の中へ消えて行った。
 肩透かしをくらったカミュの、身体じゅうを巡っていたアドレナリンが潮が引くようにさあっと音を立てて消えていく。

 なんだ。
 てっきり獅子宮まで下りるのだと思っていた。
 あそこは無人の宮だ。
 ならば、自分の考えすぎだったのだろうか。
 師は単にいつも夜の散歩を楽しんでいただけだろうか。
 だったら、追いかけて声をかけても許される?
 眠れなくて?
 一緒に満月を見たくて?

 宮を抜け出した言い訳を考えながら、カミュは月明かりが照らす石段をおそるおそる下りて行った。

**

 氷河は廊下に漏れる薄明かりを確認して、ほっと息をついた。今日は正確に言えば約束の日ではない。
 ここのところ一輝が不在にすることが多く、すれ違いが続いていた。だから、夕方に一輝の小宇宙が聖域に戻ってきたことを感じて、氷河はさんざん迷った末にここへ来た。
 ここで会えなかったとしてもわざわざ獅子宮まで行くつもりはなく、そのまま帰るつもりだったが、今、思いのほか自分が安堵したことに僅かに戸惑う。
 気づかぬうちに、一輝の存在は己の一部になっていることに今更ながら気づかされる。

 氷河は数冊携えていた本を抱えなおし、扉を開けた。
「来ていたのか、一輝」
 一輝は窓枠に腰掛けて煙草をふかしていたが、氷河の姿を認めてゆっくりとそれを揉み消した。
「お前こそ。約束もないのに下りてくるとは、そんなに俺に会いたかったのか」
 聖域に帰るなり貴鬼に聞かされた話を思い出しながら一輝がニヤニヤと笑うと、氷河は「そんなんじゃない」と不貞腐れたように言いながらも近づいてきた。
 そして、まだ窓枠に腰掛けたままの一輝の前でピタリと止まる。
 煽ったつもりが、やけに大人しいな、と思った瞬間、氷河の手から携えてきた本がバサッと落ちたかと思うと、氷河はトン、と一輝の胸に頭を預けてきた。

 ……なるほど。
 貴鬼が大げさに言ったのかと思ったが、どうもそうではなかったらしい。

 一輝はニヤニヤ笑いを引っ込め、大きな手で氷河の頭を自分の胸に押し付けるようにして抱いた。
 髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜるように乱暴に、しかし愛おしむように撫でる。
「どうした?何かあったのか?」
「……なにも」
 何もなかったという態度じゃないが。
 どうせコイツがこんな風になるときは決まっている。
「カミュとどうかしたのか」
「違う!……カミュは……関係ない……」
 氷河は怒ったように答え、伏せていた顏を僅かに上げた。淡い色の瞳が苦しそうに揺れている。

 違わない。
 お前がそんな風になるのは、いつもただひとり、『カミュ』に対してだけだ。

 過去に何度も感じてきた苛立ちを今また再び引き出され、一輝は窓枠に腰掛けたまま、氷河の髪を強く引いて上を向かせると乱暴に口づけを落とした。
 煙草!と声を荒げて拒絶するかと思った氷河はしかし、そのことに一言も言及せず大人しく一輝の腕の中におさまっている。
 そのことが余計に一輝の苛立ちを募らせ、咬みつくように荒々しく何度も唇を重ね、最後にはもつれるように二人で床に倒れ込んだ。
 一輝は、氷河の両手に自分の両手を重ねて、さらに口腔を深く犯す。
 重ね合された唇の間から、んん、と鼻に抜ける甘い声が紡ぎだされ始めた頃、一輝は不意にその動きを止めて顔をあげた。
 氷河が上気した顔で「なんだよ」と声をあげようとするのを慌てて再び唇で封じる。

 微かに感じる小さな気配。

 氷河、お前、つけられたな。

 氷河は気がついていない。
 目を閉じて、夢中で一輝に唇を開いて応えている。

 このバカが!

 慎重に足音を消しているが、その気配は扉の向こうまで来ている。

 まずい。
 既に声を出して氷河に知らせられる距離じゃない。
 迷っている時間はない。
 今更どうにもできない以上は先手を取るしかない。
 一輝は瞬時に身を起こし、自分の下に組み敷いていた氷河の襟をつかんで、その体を引っ張り上げると、ソファの上に放り投げた。
 何が起こったのかわからずに、吃驚した顔のまま固まっている氷河の胸に、床に落としていた本を乱暴に押し付け、一輝は大股で扉の方へ歩いた。
 そして、バン!と勢いよくその扉を開けた。

「こんなところで何してる」


 冷静沈着で通っているカミュだが、これにはさすがにほとんど飛び上がらんばかりに驚き、大きく息を飲んだ。
 声を使わない生活をしていなければ悲鳴をあげてしまうところだった。

 しかし、最初の衝撃が収まり、部屋の入り口に立ち塞がるように仁王立ちになっている一輝の向こうに、本を抱えてソファに座り、カミュと同じくらい驚いた顔でこちらを見る氷河を見つけると、あっという間にカミュの心に黒い雲が広がり始めた。

 驚いた。
 だが、それは突然に扉が開いたことに対して、だ。
 自分はこの光景を予想していた。
 違っているかも、と一瞬でも浮かれた自分のおめでたさが嫌になる。

 いつも深夜に宮を抜けていたのはこの人に会っていたからなんですね、先生。
 なぜ、宮で会わないんですか。
 なぜ、会っていることを隠すんですか。
 なぜ、この人なんですか。


「おい、返事は。こんなとこで何してるんだ、お前は」

 思考を中断されてカミュは一輝に視線を戻した。しかし、一瞥しただけで、再び氷河に目をやる。

 髪が……乱れている。
 シャツの襟も。

 カミュの視線に気づいた一輝は、それを遮るようにドア枠に手をついて声を張った。
「黙ってないで答えろ」
 カミュは視線を上げて、炎のように燃える瞳で一輝を見た。
(先生を連れて帰ります)
 カミュの押し殺したような掠れた声に、一瞬だけ一輝の瞳が揺れた。
 だが、すぐにフッと息をつく音だけで嗤ってカミュを見下ろす。
「連れて帰る?お前がどれだけしっかりしてるか知らんが、はき違えるな。保護者は氷河で、お前はただの子どもだ。子どもがこんな夜更けにうろうろ出歩いていいと思っているのか」
(うろうろ出歩いてはいけないのは、あなたも同じではありませんか。宮の守護はどうされたんです)
「はき違えるなと言っただろう。子どものお前が心配するようなことじゃない」
(都合が悪いとすぐに子どもは黙っておけ、ですか。答えられないだけでしょう)
「生憎、俺はお前の先生じゃないからな。説明してやる義務などない。宮を離れているのは氷河も同じだ。子どもにどうこう言われる筋合いはない」
(先生とあなたを一緒にはしないでください。先生はあなたに無理につきあわされているだけです。ですからわたしが連れて帰ります)
「氷河には自分の意志がある。お前は認めたくないかもしれないが氷河は」
「一輝!よせ!」
 いつの間にか一輝の背後に立っていた氷河が、一輝の肩を強い力で掴んで言葉を止めた。

 遅い、氷河。
 早く止めてくれないとその先を言わなければならないところだった。

 一輝は振り向かずに肩を掴む氷河の手に自分の掌を重ねた。
 だが、カミュの視線がそれを追うのを感じて、すぐにそれを離した。
 氷河は一輝の肩を掴んだまま、小さな声で言った。
「子ども相手にむきになるなよ……」
『子ども相手に』
 言われた一輝より、カミュの方が傷ついた顔をして俯いた。
 氷河はカミュの微妙な表情の変化には気づいていない。自分自身も、この状況の後ろめたさから目を伏せているせいだ。

 氷河は混乱した頭で、師としての体面を保つ言葉を必死で探した。視線を上げないまま、できるだけ平静を装ってカミュに言う。
「カミュ……有事でない場合には、十二宮を離れないなら、わたしたちには外出の自由は残されている。だから一輝にそんな口のきき方をしてはいけない」
 カミュはまだ俯いている。

 一輝は氷河のあまりの鈍さに内心で唸った。

 このバカ、なんでこの状況でお前は俺に味方するんだ。
 俺の前でカミュを叱ってやるな。
 ここは正論を置いておいて、俺を悪者にしてカミュと帰る場面だろうが。

 このままでは、氷河は俯くカミュにさらに追い打ちをかける一言を言ってしまいそうだ。
 仕方なく一輝はため息をついて、氷河の手の中から本を取り上げ、その本を振って見せた。
「おい、悪かったな。氷河の言うとおり俺が大人げなかった。本当は、お前の先生に本を借りに来ただけだ。お前がいることを忘れて途中まで呼び出した。全部の階段を往復するのは面倒だからな。今度からちゃんと宮まで俺が往復するから許せ」
 カミュは答えずに俯いたまま唇を一文字に結んでいる。
 色が抜けるほど結ばれた唇の奥で、ギリッと歯を食いしばる音が聞こえてきそうなほどだった。

 とても納得しているような様子ではないが、これ以上一輝が口を開いても傷を広げるだけだ。
 一輝は僅かに振り向いて背後の氷河を窺ったが、氷河は言葉を探して茫然と立ったままだ。
 この状態の二人を宝瓶宮に帰すのは相当に不安があるが………聡いカミュのことだ、一輝がフォローすればするほど余計に二人の関係への疑惑を深めるだけだろう。

 一輝は氷河の背をやや強めに叩いてカミュの方へ押しやった。
 氷河はハッとして顏をあげ、一輝を見た。何か言いたそうなそぶりを見せたが、一輝は顎をあげてそれを遮った。
 しっかりしろ。
 いい大人がこんなことくらいで動揺を見せるな。
 叱るような一輝の視線を受けて氷河は頷き、一度深呼吸をすると、やや落ち着きを取り戻した声で言った。
「そういうことだ、カミュ。……もう用事もすんだことだし、宮へ帰ろう」
(………)
 氷河がカミュの方へ近寄ると、カミュは返事をしないまま、怒ったようにくるりと背を向けた。
 氷河は困ったように眉を寄せ、カミュの後をついてその部屋を後にした。

**

 二人の足音が小さくなると、一輝は、ふーっと長く深い息をついて崩れる様にソファへ座り込んで天を仰いだ。
 ポケットを探って煙草を取り出す。

 参った。
 様子の違う氷河の方に気を取られて油断していた。もっと早い段階で気配に気づくべきだった。
 うまく切り抜けたとは言い難い。
 この後、二人が宝瓶宮でどんな会話をかわすのかと思うと……あのカミュにあの氷河だ。相当に頭が痛い。

 カミュのあの変声途中特有の声。
 そして一輝を見る視線の高さ。
 まったく……子どもというのは本当に成長が早い。
 いつの間にかすっかり少年の面差しに変わってしまっている。もう、子どもと呼ぶには無理がある。
 もしかして、今日、氷河の様子が変だったのはそのせいか。
 記憶の中の『カミュ』とまるで違う幼子の姿をしていても動揺していた氷河のことだ。それが、自分の知る姿に日、一日と近づいているとあれば動揺するなという方が無理だ。

 一輝は紫煙を深く肺の隅々まで行き渡らせて、ふーっとそれを吐き出した。
 吸い終わっても、まだ心がざわざわと落ち着かず、立て続けに二本目を取り出す。

 今夜は長い夜になりそうだ。