寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑨◆

 カミュはどことなく雰囲気が変わった。
 落ち着いた物腰や穏やかで丁寧な話し方は以前と変わりない気がするのに、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳の強さに、氷河は時折気圧されそうになる。
 カミュが真っ直ぐに氷河を見るようになったのに反比例して、氷河の方はだんだんカミュの瞳が見られなくなった。
 まだ、子どもなのに。
 それでもその紅い瞳の前では、どんな隠しごともできない気がして氷河は落ち着かない。
(先生?)
 カミュに掠れてくぐもった声で呼ばれて氷河はハッと我に返った。

 発熱以来、カミュは喉の調子が悪いらしく、声がうまく出ない。
 やっぱり喉の風邪だったのか、と様子を見ていたが、あれから何か月も経つというのに治る気配はない。
 無理に声を出すと喉を傷めそうなので、囁くような微かな声と、口の動きだけで今のところ何とか会話をしている。
 悪い病気だったらどうしようと氷河は心配しているのだが、カミュは平気です、と病院へも行かずにそのままにしていた。

(次はこれを右の上から三段目です。)
 その掠れた声でカミュは氷河に本を渡しながら言った。
 今日は宝瓶宮の書庫の整理をしている。
 新しい蔵書が数箱届いたので、いくらか処分したり、並べ替えたりしてスペースを空けているところだ。
 処分の判断は氷河がしているが、分類はカミュの指示でやっている。
 空いた時間のほとんど全てを書庫で過ごしているカミュの方が今ではどこに何の本があるか詳しくなってしまっていた。
 能力の差というより、性格の差だ。氷河は「だいたいこのあたり」とか「多分そのへん」といつものおおらかさ(雑さ?)で覚えているのに対し、カミュは何列目の何段目、ときっちり正確に把握していた。
 それで、脚立の上に乗った氷河に、カミュが一冊ずつ本を手渡して、先ほどから収納場所の指示を出しているわけだった。

 カミュはハラハラして仕方がない。
 氷河が横着ばかりして、少しも脚立を動かそうとしないからだ。
 脚立の上に乗ったまま、大きく背伸びし、めいっぱい手を伸ばしてカミュから受け取った本を収納させている。
 一度下りて、ほんの数十センチばかり脚立を動かしてから再度上れば、あんなに不安定な姿勢をとらなくてもすむはずなのに、さっきから右に左に揺れながらうんと伸ばした指先だけで本を隙間に押し込む。
 ああ……せっかくの新しい本をそんなふうに……ページが折れてしまいます、先生!
 声を出したいが、今の声では師にははっきりと聞き取れないだろう。不安定な姿勢のまま、氷河は無造作に、え?なに?と振り向いてしまいそうで怖くて声もかけられない。
 しかし、今度はさすがに届かないようだ。
 背伸びして、片足を書棚の一部にかけて(カミュ的にはそれもいただけない)、これ以上身体を伸ばせないというところまで伸ばしていたが、ついに目的のところには手が届かなかった。
 やれやれ、これで一度下りてくれるかな、とカミュがほっと息をついた瞬間、氷河はなんと飛び上がった。
 脚立の上で。
(危ない!!)
 カミュが悲鳴をあげて腕を伸ばした瞬間、ガタと大きな音をたてて氷河の身体が降ってきた。
 カミュは間一髪氷河の背を受け止めた……つもりだったが、不意の出来事に足が踏みとどまりきれず、自分も一緒に床に転がる羽目になった。
 二人で折り重なるように倒れ、同じように呻く。
「……っつぅ……す、すまない、カミュ。大丈夫だったか?」
 氷河は自分の胸の上で顏を顰めているカミュに慌てて言った。
 カミュは片手を氷河の顏の横について身を起こしかけ、しかし、その途中で動きを止めた。
 カミュは黙って氷河を見る。
 絹糸のようにさらさらとしたカミュの髪が氷河の頬にかかり、そのくすぐったさに氷河は思わずカミュを見上げた。

 カミュの情熱を宿したルビーの瞳に氷河の姿が映っている。

 そして、氷河の澄んだ湖水のような瞳にはカミュの姿が。

 ほんの数センチの間近で視線が交錯したまま時が止まったかのように沈黙がおりる。
 静寂。
 微かに聞こえる自分の鼓動。


 やがて、カミュの形の良い唇が動く。

(せんせい)

 掠れた声が氷河の鼓膜を震わせ、氷河はハッと我に返った。
 狼狽えたようにきょときょとと視線を彷徨わせているとカミュがさらに屈みこんで耳元で言った。

(せんせい、わたしの手を踏んでいます)

 ……?
 手?

(先生が先に体を起こしてくれないと)

 ようやく氷河は自分の肩の下にある感触に気づいた。
 氷河を受け止めようと手を伸ばしたカミュの片腕を巻き込んだまま倒れているのだ。カミュが身を起こせないはずだ。

 瞬時に氷河は耳まで赤くして慌てて飛び起きた。飛び起きた勢いそのままに後ろへ飛ぶように後ずさり、本棚にドン、と背がつく。
 その衝撃で本棚が揺れ、氷河が中途半端に押し込んでいた本がバサッと音を立てて落ちてきた。
 氷河は咄嗟に両手で頭を抱える。
 しかし、いつまで待っても衝撃がこないので、おそるおそる顏をあげると、さっき飛びのいて逃げたばかりのカミュの顏が間近にあり、氷河は反射的にまたさらに後ろへ逃げようとして、しかし本棚にそれを阻まれた。
 カミュの手が氷河の頭上でしっかりと本を受け止めている。

(大丈夫ですか?)
 カミュが問う声に笑いが含まれていることに気づき、氷河は慌てて抱えた頭から両手を下ろした。
 ちらりと視線をあげると、やはりカミュは微かに笑っている。
(先生ったら……かわいいです。子どもみたい)
「かっかわいいなどと……!大人をからかうんじゃない」
(大人だというのなら、先生、さっきみたいなのはやめてくださいね。本が傷みますし、何より見ているこちらが冷や冷やしました。わたしの心臓がもちません)
「あ、ああ。……それは……すまなかった」
 そう言いながら、氷河は狼狽えたように視線をあちこちに彷徨わせた。

 カミュがゆっくりと身を起こし、倒れた脚立や散らばった本を片付けていると、俯いた氷河がまるで独り言のように呟くのが聞こえた。
「……いつの間にか『俺』って言わなくなったんだな」
 よく聞こえなかったが、多分、自分のことを言ったのだとカミュは思った。
 しかし、氷河が立ち上がって背を向け、静かに作業に戻ったので、それを問い返すことはなかった。


**

 蔵書の整理を終え、カミュにいくつか課題を与えた氷河はその間に宝瓶宮を抜けた。

 石造りの階段をぼんやりと下りる。

 カミュは……いつの間にあんなに大きくなったんだろう。
 元々大人びた子どもではあった。
 ……そう、『子ども』だったんだ。どんなに大人びていても。
 いや、まだ子どもだ。
 今のは俺が、多分『カミュ』と混同した。
 体勢が崩れて、カミュを見上げたから。
 いつも自分より低いところにある紅い瞳を、あんな体勢で見上げるような格好になって……それで……それできっと間違った。
 覚えのある、胸の上に感じる柔らかな重みに、心が勝手にカミュの中に『カミュ』を感じてしまった。
 最低だ、俺は。
 子どもの向こうに、そんな記憶を呼び起こすなんて浅ましいにもほどがある。
 前にもあった。
 あの時は、14歳も年下のカミュに甘えてバカじゃないのかと自己嫌悪に陥ったが、問題はそこではなかった。
 カミュと『カミュ』を間違ったことこそが問題だ。
 揺らぐな。
 俺とカミュの間にあるのは、ただの師弟関係だけだ。
 そこにあのひととの密やかな記憶を持ち出して勝手に動揺するなどと……本当に最低だ。


 ぼんやりと階段を下りていたら、今自分がどのあたりを下りているのかわからなくなった。
 氷河は立ち止まって、辺りを見回す。
 どうやら相当長い間、自分の世界に閉じこもって、ただ歩いていたようだ。途中で友人たちの宮を通ったはずなのだが、少しも記憶にない。
 下に見えるのは双児宮のようだ。

 獅子宮……通り過ぎたな。
 別にそこを目指して歩いていたわけではないのだが、引き留められていないということは、多分、一輝は不在だったのだろう。
 以前は氷河と一輝が任務に出ることが多かったが、カミュが来てからというもの、氷河はあまり外に出る任務を受けていないので、必然的にその分一輝の外での任務が増えていた。

 いないのか。一輝。

 氷河はなんとなく再び足を進めてその先の石段を下りる。
 お前は冷たい冷たいとよく言われるが、多分、一輝が思っているほど氷河は淡白な方ではない。殺し合った過去と、殺伐と始まった関係のせいで、今さら甘いやりとりをするのは気恥ずかしく、ことさら冷たい態度を取ってしまうが、動揺した逃げ場所として、無意識に石段を下りる選択をしたほどには、多分、情はある。
 カミュが熱を出して以来、そういえばなかなかタイミングが合わずゆっくり会っていない。

 なんで肝心な時にいないんだ。
 今、お前に、子ども相手にお前はバカか、と一喝して欲しかったのに。

 理不尽だと自分で思いながらも散々心の中で当たり散らしているうちに、とうとう白羊宮まで辿り着いてしまった。
 俺は一体何をしているんだ。
 自分で自分に呆れながらも、ここまで下りてくることはめったにないのでついでに顔を見て帰ろうか、と思っていると、当の本人が宮の奥から姿を現した。

「氷河!!珍しいじゃん。ここまで下りてくるなんて。何?何か用?聖衣の修復なら今ちょっと立て込んでるんだけど……」
「いや、そうじゃないんだ、貴鬼。まあ……お前の顏をたまには見にきたってとこだ」
 正直に考え事をしながら歩いていたらここまで辿り着いてしまったとは恥ずかしくて言えなかったが、氷河がそう言うと、貴鬼はお見通し、というようにニヤニヤ笑った。
「俺に会いに、ね。どうせ氷河のことだから、ぼーっと歩いてるうちにここまで来ちゃったとかそんなんだろ」
「言ったな、コイツ!相変わらず生意気なヤツだな、お前は」
 氷河は自分よりほんの少し高いところにある貴鬼の頭をぐりぐりと撫でまわし、それからふと思い出して言った。
「そう言えば……お前もいつの間にか『おいら』って言わなくなってるな」
 貴鬼は目を細めて呆れ顔となり、年上の黄金聖闘士に、あのさあ、とため息をついてみせた。
「俺がいくつだと思ってんの、氷河。19歳だよ、19歳!!もうすぐ20歳!いつまでも子どもみたいなしゃべり方するわけないだろ!」
「お前こそ何を言ってるんだ。19歳はまだ子どもだろう。『おいら』って言わないだけでお前はまだまだ子どもだ」
 ばっかじゃないの、氷河!!
 貴鬼はますます呆れてこめかみを揉む。
 本気で言ってるのかな、この人はもう。自分が何歳で聖戦を迎えたかなどすっかり忘れてしまっているに違いない。
 ずいぶん昔から知っているけど、この人の方こそいつまでたっても変わらない、と思う。
 子どもじゃないって思い知らせてやろうかと考えて、ついさっき通っていった黄金聖闘士の顏がちらついて、行動に移すのはやめた。
 一輝も気の毒に。
 こんなに浮世離れしたひと、繋ぎとめているの大変だろうな。

「それより『お前も』って何さ、氷河。俺以外に……ああ……もしかしてカミュ?」
 何度か見かけたことのある赤毛の少年を頭に思い浮かべてそう言うと、氷河はふーっと大きな息をついて頷いた。
「よくわかるな、貴鬼。気のせいかな、最近ちょっと急に大人びたような気がしてな」
「ふうん。恋してるんだったりして」
 貴鬼のセリフに氷河は面食らって、それから一瞬の後に吹き出して盛大に笑い始めた。身を二つに折っておかしそうに笑う氷河に、貴鬼は憮然として唇を突き出す。
「何がおかしいのさ」
「だ、だって……ははっ……お前が笑わせるから!カミュはまだ11歳だぞ。いくら大人びているからってそれはないと思って」
 今度こそ本当に貴鬼は呆れかえった。
 この人、ちょっと本気で大丈夫かな。鈍すぎて、周囲の人間が気の毒になってくる。
「じゃあ訊くけど、氷河は初恋って何歳だったのさ」
「え?俺?」
 氷河は笑いを止めて、しばし考え込む。そしてほんのり頬を赤らめながら言った。
「俺のことはいいんだ。でも11歳ってことはない、もっとずっと後だった、多分」
 世間から隔絶されたところにいたこのひとに聞くだけ無駄だった、と貴鬼はため息をつく。
 貴鬼が黙り込んでしまったので、氷河は居心地が悪そうに何度も瞬きを繰り返す。
「あー……まあ、その件はいいんだ、別に。カミュじゃなくて俺自身の問題なんだ。……そういえば、アイツ、ここ通ったか?」
「一輝?それならついさっき通ったよ」
「出たばっかりか……ならば、当分は戻らないな」
「なんだ。結局俺じゃなくて一輝に会いたかったんだな、氷河」
「べ、別にそういうんじゃない」
 上ずった声で言われても全然説得力がない。相変わらずわかりやすい人だ。
 そういうところをかわいい、と感じるほどにこちらは成長しているわけだが……貴鬼の身長が氷河をとうに超しても、いつまでも出会った時の関係が不変のつもりでいるみたいだ。
 氷の聖闘士は皆そうなのか、それとも、固有の問題なのか、氷河は不思議と『不変』の代名詞みたいなひとだ。
 どんどんと姿を変え、大人になっていく周囲の人間の中で、氷河だけがまるで少年の時から時が止まったかのように変わらない。見た目が変わらないのもずいぶん反則だが、年齢相応の落ちつきや分別を身に着けてきた他の仲間の中にあって、氷河はいつだって少年のように繊細で、少年のように頑なで、少年のように自由なままだ。
 俺はそれでもいいけど、氷河との関係を変えたいと思っている人はだからきっと大変だろう。それに、氷河本人も、どんどんと変化していく周囲に取り残されて、なんだかいつも苦しそうだ。
 だから、貴鬼は、余計なおせっかいかなと思いつつ言わずにはいられない。
「一輝が帰ってきたらテレパシーで教えてあげようか?」
「だからそういうんじゃないんだ。本当に」
「ふうん。じゃあ、一輝に『氷河が会いたがってた』って伝えておいてあげるよ」
「やめろって。いいんだ、そういうのは。……とにかく、お前が元気でやってることがわかってよかった。じゃ、また、そのうち」
 そそくさと背を向けて去って行く氷河を貴鬼はため息をついて見送った。
 あれじゃあ、一輝も大変だ。
 もしかしたら、カミュも、かな。
 それならますます一輝は大変だ。
 せめて旧知の仲のよしみで、『氷河は一輝がいなくて寂しがってた』くらい伝えてやっても罰は当たらないだろう。『泣いてた』まで脚色しとくかな。ここまで下りてきたくらいだ、多分たいして間違ってないはずだ。
 長い付き合いだもの。そのくらいはわかる。