寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑧◆

 ここはどこだろう。
 見渡す限り、何もない。
 あるのはただ、どこまでも白い雪と氷。無限の白で覆われた大地にカミュは今立っている。否、立っているのが大地かどうかも定かではない。空と大地の境界すらも白く煙る雪嵐に消えているような白銀の世界だ。
 氷の粒を含んだ風がカミュの頬を打ち、渦巻く風がカミュの髪を吹き上げる。
 身を切るような冷気に歯の根が合わないほどカミュは震えているというのに、それでも、何故かその冷気が懐かしい。
 遠くに誰かが立っているのが見える。
 色彩のない真っ白な大地にひときわ輝く金色の衣。
 ……あれは、黄金聖衣をまとった氷河だ。
 ほっと安堵して、せんせい、と声をあげようとして、カミュはもうひとつの影に気づく。
 氷河と全く同じ黄金聖衣。
 雪で煙る白霞の中でその顔は見えない。
 だが、カミュにはわかる。
 あれは……俺だ。
 俺が先生を殺そうとしている。
 いけない、せんせい。
 声をあげようとしても上あごと下あごが糊でくっつけられたかのようにしっかり貼りついていて声が出せない。
 氷河の右腕と左腕が持ち上がり頭上で組み合わされる。
 あの構えは……一度見たことがある。
 氷河に向かい合いように立つ、『カミュ』も同じ構えをとる。
 せんせい!
 声が出せない。
 身体が動かない。
 せんせい、せんせい、せんせい!

 ───オーロラエクスキューション!!

 二人の手の先から凍気が同時に放出されるのを目の当たりにし、カミュは喉の奥で絶叫した。
 だが、凍気同士がぶつかる、と思ったその瞬間、氷の大地に全てを融かすような灼熱の炎を含んだ風が吹く。
 雪を融かし、氷を融かし、さらに炎はカミュの身を、髪を焦がす。
 熱風で陽炎のようにゆらゆらと揺れる大地に獅子の衣を纏った一輝が立っている。
 倒れている氷河を一輝が抱き起して腕に抱える。そして、そのままカミュの方へ一輝は歩いてくる。
 先生は俺が、と思うのに、なぜかずいぶん高いところに二人の身体があってカミュには手が届かない。
 一輝は氷河を抱えたままカミュのそばを通り抜けて行く。
「お前には無理だ」
 一輝の口が動いたわけではないのに、直接頭に声が響く。
 そんなことは、と声をあげようとした瞬間、逆の方から柔らかい塊に飛びつかれて慌てて振り向く。
「へへ、氷河の唇やわらかかった!」
 ミロが屈託なく笑って手をひく。
 やめろ、俺は先生を追わないと、と振りほどいて振り向くともう二人の姿は消えている。
 せんせい!
 カミュは声を限りに叫ぶが、また周りは何もない雪原に変わっている。
 走っても走っても何もない。
 いや、遠くに人影。金色の聖衣。そして向かい合うのは……

**

 眠っているカミュの眉根が苦しそうに歪められている。
 荒い息をついてがたがたと酷く震え、だというのに身体は燃えるように熱く発熱していて首筋を玉のような汗が流れ落ちている。
 氷河は額に置いた濡れタオルを交換してやった。ついさっき交換したばかりだというのに湯気が立ちそうなほど熱い。
 手のひらに薄く凍気を集めて額の上にかざす。もう何度そうしたかわからない。しばらくの間じっとそうしていると、僅かに呼吸がやわらいだ。
 汗でシーツと夜着が濡れている。
 交換してやらないと、と立ち上がった時、氷河の身体もぐらりと傾いだ。

 カミュの熱はもう五日目にもなっていた。
 自分のせいで、この寒い時期にきちんと布団に入れずに一晩中過ごしたせいだ、と自分を責めた氷河はその間ほとんど眠らずに看病していた。

 ふらふらしながら、リネン類を探しに自分の部屋に戻る。
 しかし、クローゼットを開けてそこが空になっていることに気づく。
 そうか、もうストックを使い果たしたんだった。パジャマは俺のを着せるとしても、シーツは洗ったのが乾くまで次がないんだ。
 シーツを干しておいた中庭へ出ようとすると、ちょうどそこへ瞬が姿を現した。
「カミュはどう?」
「ん……昼前はまだ40度近かった」
「そっか。これ、シーツの替え、必要かと思って持ってきたよ」
「ああ…助かった。ちょうど今、切れたところだ」
「あと、食べるものも。カミュ、おかゆとか食べられそう?」
「どうかな……ぐったりしていて目を覚まさないんだ……起こしてまで食べさせた方がいいんだろうか……。何も食べないままもう五日も…」
 心配のあまり、どちらが病人だかわからないような顔色をしている氷河の背を瞬はゆっくりと撫でた。
「大丈夫、大丈夫だよ、氷河。うちもみんなよく熱出してるよ。子どもだからね、仕方ないよ」
「でも、こんなに長いこと……」
「大丈夫だって。ね?普通の子どもより体力あるんだから。それより氷河の方が参っちゃうよ。ちゃんと休まなきゃ。僕が少しカミュを見ていてあげるから、ちょっと眠ったら?」
 氷河は静かに頭を振った。
「横になっても眠れないんだ。カミュが……カミュに何かあったらと思うと……俺のせいだ……」
 瞬は氷河を抱き締めるように腕をまわしてトントンと背を叩いてやる。
「こら、縁起でもないこと言わないの。氷河のせいじゃないよ。さっき下で聞いてきたけど、ミロも昨日まで熱が出てたって言ってた。二人は仲良しだから、多分どこかで同じ風邪をもらってきたんだよ。大丈夫だから、眠れなくても少し休んで。ね?食べられそうなら、今のうちに氷河も食事をとって」
「……ああ……じゃ、先にシーツだけ替えてくる」
 そう言って、氷河はふらりふらりとカミュの部屋へ戻って行った。


 氷河はカミュの額のタオルを取る。
 やはりまだ相当に熱い。交換した意味がないほど、あっという間に熱くなってしまっている。
 開かれた唇は絶えず戦慄き、夜着や髪が汗で肌にはりついている。
 氷河は湯に浸しておいたタオルを固く絞り、カミュの夜着のボタンを外して汗をぬぐってやった。
 背中に腕を差し入れてカミュの身体を起こす。
 いつもひんやりと冷たいカミュの指先までが熱く発熱していて、そのことが氷河の不安を誘う。
 汗でびっしょりと濡れた背中を丁寧に拭いてやり、新しく乾いた夜着に替えてやる。
 多分、相当に大きすぎるはずだがこの際仕方ないと思って着せてやった氷河の夜着は、意外にもたいして大きくはなかった。
 袖や裾がいくらか余る程度でそう違和感はない。
 カミュの身体を抱きかかえてベッドの手前に寄せる。奥側半分のシーツを剥がして新しいシーツをかけ、今度はカミュの身体を奥へ移すと手前も同じようにする。
 不器用な氷河が、慣れた手つきで手際よくそれをこなせるようになるくらい何度も交換しないといけないほど汗をかいていた。

 ようやく、氷河はシーツと夜着を交換し終えて、再び、カミュをゆっくりと横たえ、額に冷たいタオルを乗せた。
 先ほどと同じように薄い凍気で少し冷やしてやる。
 これほど汗をかいているなら水分を取らせないといけない。
 何度かぼんやりと覚醒したタイミングで水を飲ませてはいたが、発熱後ほとんどの間カミュは目を覚まさなかった。
 氷河はサイドテーブルの上に乗った水差しからグラスに水を移し、それを自分の口に含んだ。
 そして、カミュの顎に手をかけると迷いなく唇を重ねる。荒い呼吸のために開かれていた唇から少しずつカミュの口腔に水を移していく。
 カミュの喉がこくりこくりと上下に動いた。
 氷河はホッと息をつく。
 抱き起してみたり、グラスを傾けてみたり色々試してみたが最初はいたずらにシーツを濡らしただけに終わった。
 このままでは脱水症状を起こしてしまう、と氷河は気が狂わんばかりに心配し、神に祈るような気持ちでこの方法を試した。
 最初はうまく口を開いてくれずに、絶望的な気持ちになったが、舌で強引に唇を開き、しっかりと飲み込むまで唇を重ねたままでいると、ようやくカミュはこくりと喉を動かし、氷河を安堵させた。
 二度、三度と同じように唇を重ねて水を飲ませると、次第に、カミュの呼吸が落ち着いてきた。
 はあはあと荒い息だったのが、すうすうという音に変わっている。
 少しは峠を越しただろうか。

 氷河はカミュの寝顔をじっと見つめる。
 汗で濡れて、首筋にかかっていた髪を後ろへ流すように梳いてやると、カミュが、ん、と小さく身じろぎした。

 カミュがこんな風に熱を出すのは初めてのことだ。
 聖域に来て3年だ。
 ずいぶん大きくなった。
 そういえば、熱が出ている間に誕生日を迎えてしまった。
 11歳。
 氷河の夜着がそう違和感なく着られた。
 抱きかかえた身体は思ったよりもずっしりと重かった。
 それでも、まだまだ子どもだ。
 自分がしっかり守ってやらなければいけなかったのに。


 トントン、とノックの音が響いて瞬が顔を出した。
「かわるよ、氷河。あっちにご飯用意しといたから食べて。洗濯は今した……っと、そうか、ここにもまだシーツあったね。後でもう一回洗濯しといたげるよ。……カミュ、寝てるの?」
「ああ。少し呼吸が落ち着いてきたかもしれない」
「そう?……ああ、本当だ。ちょっと顔色もいいね。今のうち、氷河も仮眠とっといて。夜は僕はここにはいられないから。ね?」
「……ああ」
 瞬を残して部屋を出る。
 ダイニングに食事の用意はしてあったが、食欲はなかった。氷河は代わりにリビングのソファへ行き、どさりと身を沈めた。
 深く腰掛け、背もたれに体を預けながら胸元に手を這わせ、ロザリオを探し当てると、ぎゅっとすがるように握りしめる。
 寝不足で頭の芯が痺れたように重いが、目を閉じてもカミュが苦しそうに息をつく姿が脳裏をちらつき、やはり睡魔は少しも訪れなかった。

**

 結局カミュの発熱は一週間続いた。
 七日目の朝、ようやくしっかりと目を覚ましたカミュから体温計を受け取った氷河は、「37.1°」の表示を小さな液晶に見て、体全体で安堵のため息をついた。
「下がった……な。…カミュ、大丈夫か?」
「はい。気分はいいです」
「そうか。それは……よかっ……た……」
 言い終えないうちに氷河の身体がぐらりと揺れて、カミュの方へ倒れてきた。
 カミュは慌ててその身体を抱きとめた。
 自分の熱がうつってしまったのだろうか、と心配して顏をのぞき込んだが、氷河は寝息を立てて眠っていた。
 そうか……多分、ずっと眠らずに看病してくれたんだ。
 カミュは、身を起こして、腕に抱いた氷河を寝室まで運ぶべく抱え上げようとしたが、足元がふらついて立ち上がることができなかった。

 ───お前には無理だ。

 不快な声がちらりとよぎったが、病み上がりじゃなければ無理じゃない、と声に出さずに反論する。
 しかし、足元の危うい今は師の身体を床に落とさずに運ぶことは素直に諦め、代わりに自分のベッドの上にどうにかずるずるとひっぱりあげた。

 何日自分は寝込んでいたのか知らないが、たったそれだけでずいぶん息が切れた。
 体力を取り戻すまで訓練が大変かもしれないな、と思いつつ、師の横へ自分の身体も再度横たえる。
 猫のように体を丸めて眠る氷河にカミュは自分の布団を半分かけてやった。

 このひとの夢を見ていたような気がする。
 朧げながら、切れ切れに夢の断片が残っている。
 哀しくて、切なくて、悔しくて。


 泥のように眠る氷河の柔らかな白い頬に触れてみる。
 覚醒と共にどんどん零れ落ちて行く夢の中で、このひとの唇に何度も触れたような気がした。
 願望、かな。
 夢の中で感じた甘く柔らかな感触を確かめてみたい誘惑と戦いながら、狭いベッドの上で身を寄せて氷河の寝息を耳にしているうちに、気怠さの残るカミュもまた、心地よい微睡みの中に引き戻されていった。