転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ⑦◆
カミュは迷いのない足取りで石造りの階段を上って行く。
ミロは楽しそうに右に左に跳ね回って、カミュの何倍もの距離を歩きながらその後をついて行った。
跳ねるのに飽きたミロは、大きく宙返りをしてカミュの隣に並ぶと、頭の後ろで腕を組んでカミュの横顔を見た。
「訓練抜けてさぼろうって言う割には楽しそうな顔じゃないなあ」
カミュは難しい顔で前を見つめている。
「ま、俺はさぼれるならどこだっていいけどさ。お前がこういうことするなんて珍しいじゃん」
カミュも自分で驚いている。
自分の中に、こういう、規則を逸脱できる大胆さがあったことに。
でも、朝から晩まで訓練漬けの日々だ。
大人達に見つからずに、自由に十二宮内をうろうろできるなんて、今日くらいしかチャンスはない。
気持ちはまだ迷って揺れている。
それなのに、足の運びは何かに衝き動かされたように確かなものだった。
二人は長い間歩いて、石段の分岐の前で立ち止まった。
そこでようやく初めてカミュの足が竦んだ。
カミュの指先が小さく震えていることに気づいて、ミロは怪訝そうな顔をした。
「カミュ、ここに来たかったのか?でも……ここは……」
カミュは少し後悔していた。
ミロを連れてくるべきではなかったかもしれない。
もしかしたら……ミロも、かもしれないという可能性に今気づいた。
自分の勝手で、ミロに知らなくてもいいことを知らせようとしているのかも。
「……やっぱり、この先は俺一人で行く。悪いけどここで待っててくれ」
「何言ってんだ、カミュ。俺がこんなおもしろそうなこと見逃すわけないじゃん」
それに、お前、そんなに震えているのに。
ミロはカミュの手を取った。
少しカミュの震えがおさまる。
「いこ。二人だったら、オバケもユーレイも怖くないだろ」
ミロに促され、カミュは大きく深呼吸をして、慰霊地へと続く石段に足をかけた。
**
墓標の名をひとつひとつ見て歩く。
カミュの強張った表情に、ミロは何か深刻なものを感じて、カミュの手を握ったままいつもの軽口を叩けないでいた。
墓標はあまりにも多かった。
新しいものもあれば、長い年月にほとんど朽ちかけて土と同化寸前のものも。
カミュが探しているものはどうやら比較的新しい墓標のようだった。名が読めないほど劣化している墓標は確認もせずに素通りしていく。
しばらく歩いた頃、ミロが握ったカミュの手がギクリと強張った。
しかし、同時にカミュが見ている方向と違う方向で、ミロもそれを発見して同じように体を竦ませた。
『CAMUS GOLD AQUARIUS SAINT』
『MILO GOLD SCORPIO SAINT』
長い時間、二人は黙って冷たい石碑を見つめて立っていた。
自分と同じ名が刻まれた墓標。
不思議な感覚が二人を襲う。
胸の奥で白い光が弾け、急速に自分の身体が上昇していくような、ふわふわと心もとない未知の感覚。
全てがうすぼんやりと白い膜に包まれた世界の向こう側にある、正体不明の、だが、懐かしい何かが二人の魂をそっと撫でて通って行く。
「アクエリアス」と呼ばれたことがあるような。
「スコーピオン」と名乗ったことがあるような。
カミュにとっては二度目の、ミロにとっては初めての既視感。
なんだろう……これ……
どうしてこんな気持ちになるんだろう……
気づけば二人とも重ねた手を強く握りあって涙を流していた。
衝撃から立ち直るのはミロの方が早かった。
「わー、すごい……偶然……同じ名前が二人も……」
違和感を感じながらも、軽い調子に聞こえる様に、そっとカミュの横顔を見ながら言ってみる。
カミュはまだ茫然と墓標を見ている。
「……カミュ、もしかして、知ってた?」
知っていた。
多分、そうだとずっと思っていた。
だからこそ確かめに来た。師には直接訊けないから。
知っていたと思っていたのに、それでもやっぱりこうして事実を目の当たりにすると動揺した。
俺と同じ名。
宝瓶宮を護っていたひと。
俺にそっくりだったという。
そして……おそらくは先生の師だった。
俺じゃない。
昨日、先生が眠っている時に泣きながら呼んでいたのは、俺のことじゃなかった。
あの時も。
カミュ、と呼んで、俺に甘えるように体を預けてきたあれも、先生が本当に甘えたかったのは、きっと、このひと。
今はもういない、土の下で眠る水瓶座の聖闘士。
激しく心が騒いだ。
哀しみとも嫉妬とも説明のつかない激情がカミュの中を渦巻き、身体の中で激しく炎が燃え盛る。
頭が割れそうに痛い。
自分の激しい感情を受け止めきれない。
「カミュ」
もう一度ミロが呼んで、手を強くひいた。
カミュはハッと我に返ってミロを見た。
ミロの睫毛に乗った涙の雫を見て、自分の頬も冷たく濡れていることに気づき、慌てて手の甲でそれをぬぐう。
「カミュは知っていたんだな」
「知っていたわけじゃない。そうかな、とは思ってた……このひと、多分、先生の師なんだ」
「氷河の……?じゃあ、氷河に詳しいこと訊いてみる?俺も知りたい」
「先生には訊けない」
カミュは強い調子でそれを拒絶した。
ミロは何か言いたそうだったが、カミュの様子に、お前がそう言うなら、と押し黙った。
氷河にはもう自分からは二度と訊かない。
だが……氷河でなければ。
「ミロ、行こう」
カミュはミロの手を引いた。
「氷河のとこ?訊くことにしたのか?」
「違う」
ミロの手を引いて慰霊地を抜けながら、カミュは結束の固い大人達の顏を次々に思い浮かべる。
女神が一番正しい答えをくれることはもちろんわかっているけど、あまりに畏れ多い。
黄金聖闘士の誰かだ。
普通に聞いたら絶対に教えてくれないけど、師と同じで、体調の悪い今日なら。
誰なら切り崩せそうだろうか。
カミュの身に熾った激しい感情が、反射的にそんな行動をとらせた。
全く自分を失っていたと言ってもいい。
後から何度考えても、何故、自分がそうしたのかカミュ自身にもわからなかったが、その時はそうしなければならない気がして、地に足がついていないふわふわした感覚のまま、夢中でカミュは動いた。
**
元来た道を戻り、今度は十二宮内をほとんど走るように階段を駆け上がる。
「なんだよ、この道、やっぱり宝瓶宮に行くんじゃん」
声をあげるミロに返事をせずにカミュはひたすらミロの腕を引いて走った。
走って走って走って、人馬宮の入り口についてようやく、はあはあと二人は荒い息を整えた。
「……はあ……せ、星矢さん……?」
「俺が質問するから……ミロは黙ってて」
「うん、いいけど……」
ドクドクと音を立てている胸を押さえて、二人はゆっくりと人馬宮の奥へ進んでゆく。
宝瓶宮と違って、ごちゃごちゃと物が多い。星矢の姿を探そう、と思っていたが、その必要はなかった。
居住スペースの扉を開けたすぐそこ、リビングのソファで星矢はぐったりと横になっていた。
昨日の夜中に宝瓶宮を抜けて行った時と、少しも服装が変わっていない。
氷河同様に二日酔いなのだろう。
「星矢さん……」
そっと声をかけてみる。
「…んあ……?」
眠っているわけではなかったようだ。部屋にまだアルコールの匂いが充満している。
星矢はぼんやりと二人を見て、うー…イテテテと唸って身を起こした。
「なんだ、俺まだ酔ってんのか?珍しい二人がいるのが見える。何?どうかした?」
星矢の意識が明瞭になりきらないうちに、とカミュはいきなり本題を切り出した。
「星矢さん、俺たち、知ってしまいました」
「ん?なにを?」
「先代の水瓶座と蠍座のことです。俺たちと同じ名の。俺たちはやはり……?」
「あー……お前らが生まれ変わりかもしれないとかいう?お嬢さん、何も言わないんだもんなー。でも、偶然にしちゃあそっくりなのが揃いすぎだろう。……ん?でも誰に訊いたんだ、この話はあんまりしないことに」
思わず二人は顔を見合わせた。
生まれ変わり。
予想外の単語が飛び出した。
ミロが思わず体を乗り出して、それってどういう意味!?と聞きかけるのを腕一本で制止してカミュは重ねた。
「俺たちも驚きました。でも、それなら、うちの先生は俺に対しては相当に複雑ですね。だって、先代の水瓶座っていうのは先生の師だったのでしょう?」
「へえ!?……イテテテ……うう……氷河が言ったのか?あいつも酔ってたからなあ……」
「先生は……師があんな風に亡くなってつらいですよね……?」
「ああ……ミロの時は聖戦だったし、覚悟がなかったわけじゃないけど……そりゃ、カミュの時はさあ…まさか師弟で……なに、氷河そんなことまで言った?」
頭痛を堪える様に顏を顰めていた星矢の瞳が不意にはっきりと焦点を結び、不審にカミュを見返した。
と、同時に二人は、背後から大きな掌で頭を掴まれた。
「こういうのは感心しない」
降ってきた低い声に驚いて振り向くと紫龍が立っていた。
星矢が「紫龍!」と声をあげ、しかし、自分の声にまたイテテテと呻いた。
紫龍は星矢に傍らにあった水の入ったグラスを渡す。
「昨日つらそうだったから様子を見に寄ったわけだが……」
そう言ってカミュとミロを見る。
「見に来てよかった。君たちがこんなことをするとは見損なった」
星矢がなんのこと?とキョトンとしているのを振り返って、後でまた来ると言い置き、紫龍は二人の背を押して部屋から出た。
「おいで。ちょっと話そう」
大声で叱られたなら反発もしたし、理由をいくらでも述べて言い抜けたに違いないが、紫龍の穏やかな声にうなだれて、素直に、はい、と後をついて歩く。
紫龍は人馬宮前の石段に腰をおろして、二人にも同じように座らせた。
「さあ。訊きたいことがあるなら、このわたしに訊くといい。あんなふうに星矢を騙すような訊き方ではなくて」
訊けない。
正面から訊けないから、あんな手段を取った。
それをこの人はわかっていて、さあ訊け、と言っている。
急速に自分のしたことが、胸に突き刺さりはじめ、居たたまれなくて、カミュはただ自分の爪先をじっと見た。
紫龍はため息をついて言った。
「訊けない、か?星矢に訊けるのにこの紫龍には訊けない?」
二人はじっと黙って俯いていたが、やがて、後ろめたさの少ないミロの方が顔を上げて紫龍を見て言った。
「じゃあ訊いてもいい?生まれ変わりってどういうこと?……どうして俺と先代の蠍座は同じ名で、カミュと先代の水瓶座は同じ名なんだ?偶然っていうのはナシ。一人ならともかく二人同時に偶然って言われても俺は納得できない」
紫龍は二人の顏を交互に見た。
幼い聖闘士候補生二人の顏。
紫龍はカミュの姿を見たことがない。でも、ミロの方は、確かに紫龍の知っているミロの面差しに瓜二つだ。
確かにこれを偶然と片付けるのは難しい。
「よし。その質問に答える前に……どうして星矢にその疑問をぶつけに行こうとしたのか、経緯を訊こうか」
ミロがカミュの顏を見るので、仕方なくカミュは言った。
「たまたま、慰霊地に行ったんです。そこで俺たちの名を見つけました。同じ名が二人も同時代に揃うのは珍しいと思って……だから……誰か何か知っていないか訊こうと思っただけです」
「誰かに、か。それで星矢のところへ来た、と?氷河ではなく?」
「……はい。先生は……具合が悪くて寝ているので。星矢さんまで具合が悪いとは思いもしなくて。人馬宮が宝瓶宮から一番近いので、それでなんとなく来ました」
紫龍の黒曜石の瞳が静かにカミュを見る。
多分、嘘だと見抜いている。
しかし、星矢なら騙せそうだと思ったとは口が裂けても言うわけにはいかない。
カミュも真っ直ぐに紫龍を見返した。
紫龍から視線をそらさずにいるのは相当の精神力を必要としたが、カミュは一度も瞬きをせずに耐えた。
しばらく視線を合わせていたが、やがて、紫龍が息をついて言った。
「そうか……慰霊地に行ったか。聖域で暮らす以上、そんな風に知ったのは仕方がないことだったな。では、ただ、事実だけを言おう。確かに、先代の蠍座はミロという名で、水瓶座はカミュという名だった。君たちにとてもよく似ていたひとたちだった。瓜二つと言ってもいい。だから、生まれ変わりだと言う者もいよう。しかし、それを確かめる術などない。生まれ変わりというなら、亡くなった順に転生してもよさそうなものだが、カミュはミロより誕生日が後だろう。だから、わたしは、ただ、君たちと先代はとてもよく似た星の元に生まれてきただけなのだと思っている。それに、もし仮に生まれ変わりだったとしても……今ここにいる君たちがそれで何か変わるわけでもあるまい。確かではないことに囚われていては道を誤る。今の自分だけをしっかり見つめることだ」
紫龍に穏やかに言われると、ふわふわと頼りない雲の上を歩いていたようだった不思議な感覚から解放されて、ようやく足元が地面についたようにすっと気持ちが冷えた。
カミュの隣でミロが、なーんだ、根拠のある話じゃないんだと大きく息をついた。
ミロはペロッと舌を出して紫龍に言った。
「残念!黄金聖闘士の生まれ変わりってきっぱり言ってくれたらよかったのに!そしたら、俺もいずれ黄金聖闘士になれることが確約されてるわけだから、面倒な訓練なんてやらなくていいのに~」
「こら!そんなことを言っているうちはいくら鍛えても黄金聖闘士どころか青銅聖闘士にすらなれないぞ。星の導きというものは、黙っていても与えられるものではないんだ。自分の持てる力を最大限に使って初めて天佑が得られる。今日みたいに訓練をさぼってうろうろしているヤツには星は進む道を示してはくれないぞ」
ミロは、よしっとよく通る大きな声を上げて、すっくと立ち上がった。
その顔は、妙に晴れ晴れと輝いている。
「俺、訓練もどろーっと!」
面倒な訓練なんて、と言っていたのに、ミロは目を輝かせて階段を駆け下りる。
そして、中ほどで振り向いて大声で言った。
「生まれ変わりじゃなくても、俺、スコーピオンめざしてもいいよね!!なんか、ビビッときたんだ!超かっこよさそう!」
紫龍は手を上げて応える。ミロは嬉しそうに階段を駆け下りて行った。
どうやら、ミロにはいい方向の刺激になったようだ。
特定の師につかずに漠然と訓練を続けていたが、目指すものが定まってすっきりしたのだろう。
自分の都合で振り回して、傷つける結果にならなくて良かったとカミュは少し安堵した。
カミュの方はまだ立ち上がれずに紫龍の隣に座り込んだままだ。
紫龍はそんなカミュに言った。
「さあ……君は納得したか?」
「……先代の水瓶座が、先生の師だというのは合っていますか」
「ああ。氷河はそれすら君に言っていなかったんだな。陰でこそこそ嗅ぎまわるのは感心しないが、そんな単純な事実さえ君に説明していなかった氷河も悪い。隠すようなことじゃないのに隠すから、却って気になるんだ。それは氷河に代わって謝ろう」
やはり。
『カミュ』と甘えた声で呼ぶ時、氷河はいつもカミュではなく亡き師を呼んでいるのだ。
「先代の水瓶座の方が……どんなふうに亡くなったのかは……」
紫龍は黙った。
しばらく沈黙した後に静かに言う。
「それを氷河に訊かないのは何故だ」
カミュはぐっと言い淀む。
「わたしが理由を当ててみせようか。氷河がその話をしたくないということを君は知っているんだ。違うか?だから氷河に訊かなかった。……どうだ」
その通りだ。
だまってうなだれる。
「氷河の気持ちがわからない君ではないと思っていたが……。君がこんな手段をつかって、それを探っていたと知ったら、氷河がどれだけ傷つくか考えたことはあるのか。後で、それが自分のせいだと気づいた星矢がどんなふうに感じるか考えたことがあるのか。君が今日したことは墓を暴いたも同じだ」
紫龍の言葉はとても穏やかだったが、友のために心から怒っていることがわかった。
断罪の言葉がカミュの心に突き刺さる。
確かに、俺はどうかしていた。
昨日から色々あって、いつもの判断力を失っていたとしか思えない。
カミュは静かに首を振った。
「すみませんでした。もう二度と訊きません」
「うん。わかればいい。星矢の方はフォローしておくから、君はもう戻るといい。養成場の方へ行ってもいいが」
「いえ、宮に戻ります。あの……先生に、このこと……」
「言えると思うか?」
「……すみませんでした」
カミュは力なく、宝瓶宮への階段を上る。
紫龍の言葉が身に染みていた。確かに、先生に顔向けができないことをした。
だが、それ以上に心が重い。
二度と訊かない、のは自分の手段が間違っていたことを反省したからではない。
カミュは、自分がおそらく当初の目的を達したことを悟った。
亡くなり方を訊いたら、まさか師弟で、と返ってきた。
聖戦で死んだのではない。
「まさか師弟で」
聖戦で死んだ先代蠍座よりも先代水瓶座の方が先に死んだ。
「まさか師弟で」
聖戦より先に内乱があったことは聖域の歴史で学んだ。
しかし、その詳細の記録は管理が厳重で、師の許可がないと読めないことになっている。
「まさか師弟で」
「師弟で」
その言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
それが意味するのはひとつしかないようにカミュには思えた。
だとしたら、苦しそうに揺れる氷河の瞳も、大人達の口が重いのもすべて頷ける気がする。
宝瓶宮に帰ると氷河はまだ眠っていた。
カミュはその脇に腰掛けた。
涙が次々に溢れてくる。
先生、俺の顏見るの、つらいですか。
そんなに似ていますか。
俺は、あなたの元に来ない方がよかったですか。
でも、もう遅い。
何も知らないまま出会って、そして、好きになってしまった。
そばにいてもいいですか。
せめて、あなたの負った荷を俺も背負えるように強くなりますから……だから、どうかもう苦しまないでください。
その夜、カミュは熱を出した。