寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ⑥◆

 焼けるような喉の渇きを感じて、氷河の意識はぼんやりと覚醒を始めた。
 瞼が重くて目が開けられない。頭の中が鉛を流し込まれたかのように重く痺れている。しかし、身体は重いがなぜか心はじんわりと温かい。
 ああ、そういえば、夢を見た。
 ここのところ見ることが少なくなっていた『カミュ』の夢だった。
 アイザックと二人、甘えてカミュの膝にのっていた、ずいぶん幼かった頃の夢だ。二人で先を争って膝に乗って……俺が先、違う俺だと喧嘩して……先生が、二人ともやめなさいと怒りながらも笑っていた。
 こんなふうにほんの少し冷たい指先で優しく頬を、頭を撫でてくれて……
 ああ……先生に会いたい。
 もう一度だけ、俺をあの時に戻して欲しい。
 重い十字架を背負う前のあの頃に。
 戻りたい。
 たった一度、ほんの少しでいいから。
 全てをなかったことに、などとは思わない。カミュの行動に、重い選択に、否やを言う権利はない。
 戻りたいのは、何も伝えられなかったまま終わってしまったから、だ。
 しあわせだった。カミュといた、どの全ての瞬間も。カミュはかけがえのない、唯一無二の存在だった。なのに、俺は何ひとつカミュに伝えられないまま───先生は、だからきっと、氷河の思いを何も知らずに逝ってしまった。
 なぜ、たったひと言言えなかったのだろう。
 ある日突然に、「また明日」が来ない怖さを俺は嫌というほど知っていたのに、臆病だった俺は、カミュに拒絶されるのが怖くて、自分の気持ちから逃げていた。喪って初めて自分の気持ちに気づいた愚かな俺のために、カミュは……カミュは……
 氷河の頬を涙が伝う。
 また泣いているな、氷河。
 カミュの指がその涙をぬぐう。
 先生……?
 先生の指だ、これは。
 夢……?なの、か?どっちが?
 ───この頬に触れている指の感触はリアルだ。
 だったら、俺は長い、悪い夢を見ていたのだろうか。
 夢だとしたらなんと恐ろしい夢だろう。
 ───先生、俺、怖かった。
 俺の拳が、先生の、アイザックの命を奪う結果になって、ずっとずっと長い時を葛藤し続ける夢を見ました。
 夢でよかった。この世で一番大切なひとの命を奪うことでしか前へ進めなかった自分の弱さを思えば、いつも気が狂いそうなほどつらかった。
 もう二度とあの悪夢の中に戻りたくない。
 ああ……でも、先生。
 ひとつだけ、楽しいことがありました。
 幼いあなたに会えたんです。今度は俺があなたを教えていたんです。変でしょう?俺が先生なんて。あなたがしっかりしているものだから、俺はみんなにどっちが先生だかわからないって笑われるんです。
 あなたは幼くても、やっぱり聡明で……でも、ほんの少し、あなたより自分の感情に素直なんです。あなたよりも少しだけよく笑って、ちょっとかわいい我が儘で俺を困らせたり、あなたからは想像もつかないような生意気なことを言ったりするんです。
 ああ、目が覚めたら幼いあなたにもう会えないのかと思うと、そこは少し残念です。
 カミュは、もう少しで凍気の保持がうまくいきそうだったのに。
 そうだ、今日は昨日途中だったそれを見てやる約束だっ……た……のに……?

「ああ!?」

 氷河は大声を上げて飛び起き、しかし起きた勢いと自分が出した声が脳蓋を激しく揺さぶり、そのあまりの痛みと気持ち悪さに、ううっと呻いて再びベッドへ沈んだ。

 うっすらと記憶がよみがえる。
 そうだった。
 昨日は久しぶりに呑んで……途中からわけがわからなくなったんだった。
 ええと、教皇の間あたりまでは記憶にある。一輝の背に乗ったような記憶もあるような……?
 ああ……まずい、これは二日酔いだ。
 呻きながらうっすら目を開けると、紅い瞳がじっとこちらを窺うように見つめ返していることに気づいて、氷河は驚いた。
 一瞬、夢の続きと現実との境界が曖昧になり、激しく混乱したが、瞬きとともに徐々に意識が明瞭になりはじめ、そのうちに、はっと自分を取り戻した。
「カミュだったのか……すまない。水をくれないか」
「はい……あの……」
 カミュが困ったように氷河を見る。
 どうした、と聞き返そうとして、氷河は自分がカミュの手をしっかりと握っていることに気づいた。
 さっと赤くなって、慌ててそれを離すと、カミュはベッドわきの水差しを持って部屋を出て行った。

 氷河は頭に響かない様に慎重に身を起こす。
 そうか……カミュの手だったのか。カミュの、手、だったか……。

 ふうと、大きく息をついて氷河は両手で顏を擦る。
 睫毛が濡れていた。
 カミュに……見られただろうか。
 涙に、その上二日酔い、か。
 とてもじゃないが、立派な師匠にはほど遠い。
 もう今更、かな。
 さきほどまで見ていた夢の名残で思わず『カミュ』のことを考えてしまう。

『カミュ』はいつまでも20歳だ。
 俺は25歳にもなったというのに、まだ、その『カミュ』に甘える夢を見てしまうなんて。
 もうとっくに終わったことを、いまだにどうにかできないか、ぐずぐずとあがいてしまう、つまらない夢だ。以前はこんな夢を見て目が覚めた時は、絶望で当分起き上がる気になどなれなかった。
 でも今は、カミュがいる。

 カミュが、いる。

 氷河は気分の悪さと戦いながら、それを何度も反芻して確認した。
 夢ではないことを確信できるまで、何度も、何度も。

**

 カミュが水差しを持って部屋に入ってきた。
「ああ……ありがとう」
 喉を潤し、身体の隅々にまで水分がいきわたると、ようやく氷河は少し人心地をつけた。
「すまなかった。醜態を見せたな」
「いえ、仕方がないです。ここを通って行った星矢さんたちもみんなそれは見事な酔っ払いでした」
「そ、そうか。……昨日は一晩中ここに?」
「あ……先生が……手を離してくれなかったので……」
「……すまない」
 氷河は顔を赤くして俯いた。そして、僅かに逡巡した後、付け加えた。
「いてくれて……ありがとう。……わたしは何か……言っていたか?」
 カミュは返事に詰まる。
 正直に言ってもいいものだろうか。
 カミュと呼んで泣いていたと。
 それだから、そんなに強く握られていたわけではいなかった手を振りほどいて去ることができなかったのだと。
 しかし、師は多分、それをカミュには知られたくなかっただろう、と思った。
 だからカミュはただ首を左右に振った。
 案の定、氷河はほっとした表情を見せる。
 そして、再び水を口に含んで立ち上がろうとしたが、うっと呻いて頭を押さえて顔を顰めた。
「カミュ……すまないが、今日は……」
「はい。一日、下の養成場に行っておきますね」
「す、すまない……」
「大丈夫です。たまには先生もゆっくり休んでください」
 氷河のために水差しの水を少し補充して、カミュは宝瓶宮を後にした。

**

 養成場に着くと、こちらもいつもと様子が違っていた。
 指導者がいない。
 訓練生だけで、てんでばらばらに組んでいる。
「カミュ!」
 ミロが飛び跳ねるような軽快な足取りで近寄ってきた。
「今日は……どうしたんだ?」
「なんか、指導者が足りないから自主練だって言ってた。昨日宿泊したお客様のお見送りでみんな護衛についているみたいだ」
「ああ……それで」
「カミュ、俺とやろう!この間、俺が負けたとこで時間切れになっちゃったじゃん。あれ、時間があったら絶対俺が……」
 カミュはミロの言葉を手を上げてしぐさで止めた。ミロが不思議そうにカミュを見返す。
 カミュは口を開くべきかどうか、一瞬迷った。
 でも、言いにくいことほどさっさと言っておくべきだ。
 カミュは覚悟を決めて顔をあげて、ミロの蒼い瞳を真っ直ぐに見た。
「ミロ、俺は先生のことが好きだ」
 何の前置きもなく告げられた言葉に、ここでそのセリフが飛び出すと思っていなかったミロは面食らった顔をして、きょときょとと瞳を彷徨わせた。しかし、すぐにニッと笑うと、カミュの首に片腕をぎゅっと巻きつけ、反対の拳をぐりぐりと頭にめり込ませた。
「やっと認めたな、コイツ!!」
「痛い、痛いって、ミロ!」
「このくらいさせろ。この俺が最初から勝負を下りてやるんだから!」

 人を好きになるのは自由だ。
 だから、勝負を下りる必要はない。

 そう言うべきだ。
 だが、カミュはそうは言わなかった。もう、ほかの誰にも、例えミロでも氷河をそんな目で見て欲しくない。
「……悪い」
「謝るな。どうせお前はそう言うってわかってた」

 ミロはしばらくカミュを振り回していたが、やがて、最後にペシッともう一度だけカミュの額を叩いてようやくその体を解放した。
 カミュは乱れた髪を直しながら息をつく。
 これで、ひとつは済んだ。
 あとひとつ。
 そっちの方は、まだものすごく迷っている。
 行くか、戻るか。
 行って後悔しないか。
 後悔は……するかもしれない。
 でも、確かめるなら今日しかない。

 カミュは、隣で、鬱憤をどうやって晴らそうかなとブツブツ言っているミロに言った。
「ミロ、俺と訓練抜ける気、あるか?」
 ミロは目をまるくしてカミュの顏を見た。
 しかし、すぐに、その瞳がきらりと光り、口元はニヤニヤ笑いへと変わる。
 そして、詳細を全く聞かずに、親指をぐっと立てて答えた。
「そうこなくちゃ!」