転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ⑤◆
「……疲れた……」
宴が終わって、客人が全てひけた後の教皇の間である。
氷河はぐったりと壁際の椅子に座り込んで、だらしなく背をもたれさせた。
その様子を見て、星矢たちと共に引き揚げようとしていた一輝が近づいてくる。
「疲労困憊って顔だな」
「知ってるだろ、苦手なんだよ」
今日はいつもに増して、色んな人間につかまった。
カミュが仕立て上げた氷河の外見が人目を惹き、それで次々に話しかけられたわけだが氷河にそんなことはわからない。
お得意の、というか、唯一の作戦の、曖昧な笑みを浮かべてひたすら聞き役に徹していたわけだが、新しい人間につかまる度に、お付き合いのアルコールを一杯、二杯と重ねるうちに、だんだんとわけがわからなくなった。
最後の方は、誰が誰だか、何の話をしたんだか、さっぱりだ。
「俺だって好きなものか。……おい、さっさと帰るぞ」
気づけば宴の後片付けをする下働きの者以外は誰もいない。一輝は氷河の腕を取って立たせようとした。
しかし、氷河は逆にその腕を引いて一輝の膝を床につかせる。
「だめだ、もう一歩も歩けそうにない。お前が背負って帰ってくれ。どうせ戻るついでに通る道だろう」
そう言って返事も聞かずに氷河は一輝の背に体重を預けてくる。
お前なあ……。
俺だってたいがい酔ってんだ。落としたって知らんからな。
内心で悪態をつきながらも、そんな風に甘えられては拒めない。仕方なく、氷河の体を背に負って、一輝は教皇の間を後にした。
**
「お前、それ自分で選んだのか」
一輝の背の上で、冷たい夜風に火照った体を晒して気持ちよさそうにだらんと四肢を投げ出している氷河に問う。
「それって?」
「今日の格好だ」
「ああ……いや、カミュが……」
「おい、子どもに世話されてどうすんだ」
どうりで。
氷河にしてはセンス良くまとまってると思ったらあのガキの見立てか。カミュが喜々として氷河を飾り立てるところを想像して一輝は苦笑した。
一輝は階段の最後の段を踏み終えるとその背から氷河の体を下ろす。
「……一輝?お前も相当酔ってるな。ここはまだ双魚宮だ。宝瓶宮はもうひとつ下だ」
「いや、ここで合ってる」
「なに?」
一輝は足元の危うい氷河を、双魚宮の柱に押し付けるようにして、唇を塞いだ。
「……おい……?」
「連れて帰ってやるんだから、手間賃くらいはもらっておく」
「お前な……ついでなんだからタダで連れて帰ってくれてもいいだろう。ケチなヤツだな」
「ほざけ」
一輝に文句を言いながらも、氷河はアルコールの影響で上機嫌にくすくすと笑った。
一輝はそんな氷河の前髪をかき上げるように額の上にあげた。
「子どもにしては上出来だが……惜しかったな。こうしていたら完璧だったのに。そこはまだまだだな」
「ああ……いや、最初は、カミュ、そうした方がいいって言って、前髪をあげたんだ。だが、よくわからないが、上げて見せた後で急にやっぱり下ろせってことになって…おれ、額出した顔、そんなに変かな」
思わず、一輝はその耳を疑う。
ガキだガキだと思ってたが……。
宝物を自慢げに見せて歩くようなヤツは心配ない。自慢げに見せて歩くことで、第三者の興味を余計に引くことを知らない子どもは、ほうっておいてもたいしたことはない。
だが、隠すことを知っているヤツは少しはやっかいだ。賢しらなガキだということは知っていたが、そこまで気が回るようになったか。
まあ、氷河を今夜のように飾り立てたところはまだまだだけどな。
俺なら髪だけじゃなく、いっそのこと格好も適当な格好で行かせる。(ちなみに前回、聖衣姿で氷河が怒られた時も事前に一輝は止めるチャンスがあったが敢えて止めなかった。女神に怒られて早々に宴席から氷河が退席することになった時は、むしろやれやれと安堵したくらいだ)
大事な師が女神に怒られてはいけない、と考えたんだろうな、あの真面目そうなガキは。わざと怒らせる、など考えもつかなかったんだろう。イイコは損だ。
一輝は少し笑って、氷河の手をひき、少しだけ奥へと移動させると、再びその体を壁に押し付けて口づけを落とした。今度は深く。アルコールの残る唇を味わいながら氷河の首元に手をやり、タイを緩める。
「ちょっ……こんなとこでか……?」
髪を掴んでかきあげ、露わにされたうなじへ唇を寄せて軽く吸い上げる。
「……っ……ん……どうしたんだ、急に」
「所有権を確認しとかないとな」
「……?……っ……おい……ほんとにするのか?」
一輝は何度も口づけを落としながら、次々に氷河の洋服を脱がせていく。冷たい床に押し倒しても、氷河は強くは抵抗しなかった。
「一輝……俺……これ以上したら酒がまわる」
「心配するな。連れて帰ってやる。ついでだからな」
「ここ、寒い」
「大丈夫だ、すぐ熱くなる」
「……どうなっても知らないからな」
「さあ。俺も酔ってるから、加減できるかどうか自信はないな」
「ひどいヤツ」
言葉とは裏腹に氷河は笑って愛撫を受け、一輝の髪を指で掬って掻き回すように弄ぶ。
「氷河、お前、あの爺さんに触られてただろ」
「ああ、あのセクハラの。なんだ、気づいてたんだったら助けてくれてもよかったのに」
「馬鹿か。こっちだって色々大変だったんだ。お前、少しは自衛しろ」
「いいじゃないか。減るもんじゃなし。俺が邪険にして、女神や瞬に矛先が向くよりマシだと思ったんだ。俺で気が済むなら安いもんだろう」
「俺はお前のことだって触らせたくない」
「じゃ、次回はお前がアイツの担当すればいい」
「爺さんが俺で納得するか?」
二人で抱き合いながらくすくす笑う。酔いのまわった身体が、二人を高揚させ、いつもより饒舌にさせた。
一輝の指を氷河はくすぐったがって声をあげて笑い、逃れようと身を捩る。それを追いかけて腕を掴む。氷河は笑いながら身を反転させて一輝の上に乗り、首筋に唇を寄せて舌を這わせる。今度は一輝がやめろと声をあげて笑う。
二人で上になったり、下になったりしながらじゃれ合うように抱き合った。
**
「おい、立てるか?」
「無理に決まってる」
「……悪い」
結局、たっぷりアルコールの入った体を思うさま揺さぶって、揺すられた方も揺すった方も、急激に血を巡らしたことですっかり悪酔いして、最悪の気分でまだ双魚宮にいる。
氷河よりややマシな状態の一輝が、どうにか氷河を背に抱えた。
「どうせ、宝瓶宮まですぐだ。……吐くなよ」
「自信はない」
「絶対に吐くな」
「あんまり言うな。考えただけでやばい。……揺らすな」
「階段を下りてんだぞ、それは無理だ」
二人で、青ざめた顔で吐く、堪えろ、吐く、堪えろ、と言いあいながらどうにか階段を下りる。
その状態で、宝瓶宮の入り口が見えるところまで下り───しかし、最後の一段を踏んで顏を上げた瞬間、小さな人影が柱にもたれているのを発見し、一輝は冷やりとしていっぺんに酔いが醒めた。
危ない。
きちんと氷河に上着まで元通りに着せて帰ってきてよかった。
深夜だし、酔っているから、と危うく適当ななりで帰すところだった。
自分の方はかなり乱れたままだが致し方ない。
「……コドモは寝ている時間だろう」
一輝が声をかけたのに気づき、氷河は顔を上げかけたが、まだしっかりしていない身体はぐらりと大きく傾いだ。一輝はそれを再び抱えなおして再度カミュに言う。
「まさかずっと待っていたのか」
「いいえ。星矢さん達が通って行ったので、そこからです。でも、1時間以上は待ったと思いますが」
カミュの静かだが厳しい調子の声に、背中で氷河が冷や汗を流す音が聞こえるようだ。
「コイツが酔ってたから遅くなったんだ。吐きそうだって言ってるから水でも飲ませてやってくれ」
「うちの先生がお世話になりました」
『うちの』にずいぶん強いアクセントを置いて、カミュは氷河の身体を受け取ろうと腕を伸ばしてきた。
「無理だろう。お前の体格じゃ。俺が奥まで運んでやろう」
「大丈夫です。先生は軽いから平気です。どうもありがとうございました」
カミュはまるきり氷河の庇護者のような顔でぴしゃりと言い放つ。
なかなか手厳しい。
「ほんのちょっとの距離だ。抱えなおしてる間にベッドまで辿り着くさ」
一輝は足を一歩踏み出した。すかさずカミュはその前に立ち、再び言った。
「どうも、ありがとう、ございました」
一音一音を区切って言う。背中の氷河にはカミュが一輝の前に立ち塞がっていることなど見えないだろう。
どうあっても、俺をこの先に立ち入らせないつもりか。
ガキめ。
そんなくだらんことで張り合おうとしているうちは俺には勝てん。
一輝は片眉を上げて薄く笑い、強引にカミュの横を通って宝瓶宮の奥まで足を踏み入れた。
今、振り向いたらすごい顔してるんだろうな。
笑っちゃあかわいそうだが、相手の年齢を考えると笑うしかない。
俺のライバルは10歳のガキか。
これが笑わずにいられようか。
この状況はどう考えても俺のせいじゃなくて、氷河に原因があるのに、当の本人は背中で吐き気と戦うのに必死だ。
一輝は迷わず寝室まで向かって、ドアの前で振り返る。
想像通りきつい目をして睨むように後をついてきたカミュが進み出て、不承不承、寝室の扉を開いた。
氷河をベッドの上に下ろす。
氷河はまだ口を開くと吐くという素振りを見せ、目を閉じたまま唸った。
「……悪い……一輝……助かった」
ここまで酔いが回ったのは一輝のせいなので、本当なら恨み言の一つでも言いたいところだが、カミュの前なので、氷河はどうにかそれを飲み込んで形ばかりの礼を口にする。
一輝は黙って氷河の肩を叩き、寝室を後にした。
自分が出てすぐに背後でドアが閉まる音がして、一輝は笑った。
見送りもしない。
小さい騎士様は、まだまだ、だな。
だが、少し雰囲気が変わったようだ。
まだとても勝負にはならないが、もうそろそろ侮ってばかりもいられないようだ。
**
「カミュ……すまないが水を……」
氷河にそう言われて、カミュは水差しとグラスを寝室まで運ぶ。
しかし、戻ってきたら、氷河は目を閉じて眠っていた。
任務の一部だから仕方ないこととはいえ……気分は最悪だった。
こんなことなら、あんなふうに手助けしてやるんじゃなかった。
大人なんだし、勝手に聖衣でもなんでも適当な格好で出て行って怒られてさっさと帰って来ればよかったのに。
一輝に抱えられて帰ってくる姿なんか見たくなかった。
なんでいつもあの人なんだ。
先に通った星矢は紫龍と瞬が抱えていた。師もそんな風に帰ってきたんだったら、何とも思わなかったのに。
……それも嘘かな。
そういう風に帰ってきても、やっぱり師に触れる手は誰のものでも見たくなかったかもしれない。
胸が激しくズキズキと痛む。
氷河が、うーん、と唸って苦しそうに息をついた。
カミュはタイを緩めてやろうと手を伸ばして気づく。
結び目が……違う。
確かだ。自分が結んでやったのだから。
このひとが自分で結びなおせたはずがない。あれだけ四苦八苦していたのだ。
誰か、が、結びなおした。
カミュの胸がさらに締め付けられる。
アイツかな。
先ほどの光景の記憶を辿る。
氷河の方はきちんとしていたが、一輝の方はだらしなくシャツのボタンを二、三留めているのみで、タイは胸のポケットに突っ込んでいた。だから、アイツがタイをこんなふうに結べるかどうかはわからない。
考えすぎかな。
女神か誰かが、これではやっぱり変だから、と結びなおしたのかも。
そうだといいけど、そうじゃない方ばかり考えて、息ができないほど苦しくて叫びだしそうになる。
同じように苦しそうに喘いでいる氷河の唇が目に入る。薄く開かれて荒い呼吸をしているそれは、いつもより赤く、艶めかしい。
先生に誰も触れて欲しくない。
今夜、あんなふうに先生を抱えて帰るのは俺でありたかった。
俺の体格じゃ無理だと言われた。
悔しい。あんなに悔しい思いをしたのは初めてだ。
どうして俺は14歳も年下なんだろう。
同じ年に、とは言わない。せめて、つりあうくらいの歳の差であったなら。
胸が苦しい。苦しくて痛くて息ができない。
先生のことが……
俺は、先生のことが好きだ。
このところずっと感じていた想いを、初めて言葉にしてみる。言葉にすると少しは苦しさがやわらぐかと思ったが、一層胸が痛くなっただけだった。
認めたくなかっただけで、もうずいぶん前からきっと好きだった。
認めたくなかったのは自分のつまらないプライドだ。
手に入らないものに身を焦がすのは合理的ではないからだ。
ミロの宿舎で、どこから見ても相手にされていない人に必死でアプローチしている年上の訓練生を見ると、憐れみを覚えた。絶対に手に入らないと何故わからないのか。自分の行為が無駄だと何故理解しようとしないのか。届きもしないものを求めてあがく姿はなんてみっともなく、浅ましい。
でも……自分も同じだ。
いや、もっと悪い。
俺はまだ手に入れるための努力すらしていない。
先生が、好きだ。
もう一度、心の中で言葉にしてみる。
好きだと思うだけで、涙が零れそうになる。
人を好きになることはなんて苦しく切ないものなんだろう。
こんなに苦しい感情を、人間は何故、進化の過程の中で切り捨てずに大事に抱えてきたのだろう。
そっと氷河の髪に触れる。
昼間感じた、あの懐かしくも切ない不思議な感覚は、だが、それを求めて触れた今はいくら待ってもやってはこなかった。
それでも、どうにかしてあの感覚を味わえないかと、何度も幼子にするように髪に指を滑らせていると、氷河の腕がゆるゆると持ち上がってそれを掴んだ。
咎められたのかと、冷やりとして師の顏を見たが、どうやらまだ眠っているようだ。
ほっと息をついて、しかし、この掴まれた手をどうしようかとカミュが迷っていると、氷河は掴んだ手を握ったまま頬に当て、愛おしそうに、カミュ、と小さく声を漏らした。
氷河はカミュの指先を掴んだまますうすうと眠っている。
苦しくズキズキと痛んでいた胸が、ほんの少し温かくなる。
カミュはベッドの縁に腰掛け、その寝顔をいつまでも見つめていた。