転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ④◆
しばらくの間、カミュと氷河の間には少しギクシャクした空気が残っていた。
しかし、互いに動揺を顔に出さない努力を続け、季節がいくつか移ろううちに、次第に以前のような穏やかな関係が戻ってきた。少なくとも表面上は。
鏡面のような湖水がわずかな風に波立つように、それは、水面下で息をひそめてたゆたいながら顔を出す機会をいつも狙っているかのようだった。
それが顔を出した時には、ほんのわずかに触れ合う肩、振り向いた時に交差する視線、そういったものに容易く気持ちを乱されたが、気づかぬふりでやり過ごしてしまえば、水面は再び鏡面のように平らかに戻る。
しかし、本当の意味で平らかになったのではない。
証拠に、意識していないように振る舞いながら、習慣になっていた「おやすみのキス」はしなくなった。
どちらが言い出したのでもなく、カミュが時折、訓練生の宿舎へ泊まりに行くようになったのをきっかけに、気づけば眠るときには挨拶をかわすだけになっていた。
宿舎へ行くのは、ごく時折だが続いている。
カミュが行くと、珍しいのか、ミロの部屋へ色んな訓練生が集まり、世話人が消灯時間は過ぎてるぞ、と何度も怒りにくるほど盛り上がった。
楽しいかどうか、と言われると、カミュにとっては、正直、低俗すぎてくだらない、と思う話も多かったが、それでも、まあ……色んな知識は増えた。氷河とじゃ、絶対できないだろうな、という話も。
**
黄金聖闘士の任務は意外にも多彩だ。
単に戦士としての役割だけでなく、教育者としての役割もあれば、偵察任務や広報官としての役割まで。
今夜は、外交任務である。
女神を訪ねて、各界の要人が教皇の間に集まることになっている。有事の際の協力関係を作っておくため、日頃からパイプラインを太くしておくことを怠ってはいけない、と定期的に女神が招いては交歓が持たれている。
そういった、人がたくさん集まる場は氷河は苦手なので、出なくていいものは全てパスしているのだが、今日は、黄金聖闘士全員出席で、と厳命を受けているので出ないわけにはいかない。全員、と指定されているということは、相手はかなり地位が高いということでもあり、つまり粗相が許されないと言うことだ。
氷河は憂鬱にクローゼットの前でため息をついて、ほとんど午後の間中そこに立っていた。
「先生……?」
さすがにカミュは心配になって声をかける。
「どうしましたか?さっきからずっと難しい顔でため息ばかりついていますけど……」
「……困った……着ていくものが決まらない」
思わずカミュは吹き出しそうになった。
先生、その答えはデートの前の女の子のようです。黄金聖闘士の言うセリフじゃありません。
「今日の女神主催のレセプション、ですね?」
「ああ……『ちゃんとしてこい』って言われているんだが……どう、ちゃんとすればいいのか……正装だからいいかと前に聖衣で行ったら死ぬほど沙…女神に怒られた」
途方にくれて、氷河は『子ども』のカミュにまですがるような視線を向けてくる。
よっぽど困ってるな。
カミュは横から氷河のクローゼットをのぞき込む。
確かにこのひとは己が身を飾りたてるのは苦手そうだ。
聖衣姿でない時はたいてい白シャツにジーンズという、清潔感はあるもののとてもシンプルなスタイルで過ごしている。何の飾り気もないそのスタイルは確かにこのひとに似合っているのだけど、シンプルすぎて類まれな容姿にはもったいないような気もしていた。
カミュはのぞき込んだクローゼットをしげしげと眺める。
うーん。
ひととおり揃ってはいるみたいだが、『ちゃんとしてこい』とは、また中途半端な指示だ。
特に我が師のような人間にとっては。
いっそのこと、細かく指定してくれた方がよかったのに。
「ええと……先生、どの程度の礼装が必要かとか聞かれていますか?」
「……どの程度……?どの程度って……程度があるのか」
「聞かれていないんですね……」
それじゃあ、どう『ちゃんと』すればいいのか言っていないに等しい。カミュは黄金聖闘士の面々を頭に思い浮かべた。この中で一番まともそうな装い感覚を持っているのは誰だ。
「先生、あのひとは前回どんな格好でしたか?ええと、乙女座の……」
「瞬か?瞬はそうだな……こんな感じだったかな」
氷河はクローゼットの中からいくつかスーツを指し示す。
「タイはどうでした?こういうの?それともこっち?」
「うーん……なんかひらひらしていたような……」
カミュは氷河の怪しい記憶を頼りに、次々とクローゼットの中身を取り出していく。
数刻後には、氷河の記憶を元にカミュが組み立てたコーディネイトがどうにか完成していた。
シングルの黒いジャケットに、グレーのベスト、コールパンツを合わせ、ウイングカラーのシャツにはシルバーグレーのアスコットタイだ。正礼装よりはくだけた感じだが、ほどほどにきちんとしているから、多分、黄金聖衣で行くよりは怒られなくてすむはずだ。
カミュの指定どおりのシャツに袖を通しながら、氷河はやれやれ、と息をついて笑顔を見せた。
「カミュがいてくれて助かった。これで女神に怒られなくてすむ」
「……言っておきますが、俺の知識もあやしいです、先生。書庫で得た知識ですから、やっぱり怒られるかもしれないし、笑われることになるかも」
「それでもいい。多分、わたしが自分で選ぶよりずっとマシなはずだ」
「だといいですけど……あ、先生、ベルトは駄目です。サスペンダーにしてください」
「なぜだ?」
「ベルトだと、締めた時にパンツに皺が寄ります。サスペンダーだと上から吊るすわけだから……ほら、ラインが綺麗に見えます」
氷河は心の底から感心した。
パンツのライン。そんなことは人生において気にしたこともなかった。
カミュの美的感覚の鋭さは後天的なものではなく、生まれついてのものなのだろう。
氷河が手放しで感嘆の声をあげるので、カミュはいたたまれなさそうに目を伏せた。
「……と、書いてあったんですよ、本に」
「いや、それを気に留めて覚えていることがすごい。やっぱり君は氷の聖闘士向きだな。氷の聖闘士には芸術性も求められるんだ。残念ながらわたしは向いてないようだ」
ちょっと肩を落とす師を見つめてカミュはくすりと笑った。
「先生、サスペンダーひとつで大げさすぎます」
師に芸術性がないわけではない、とカミュは思う。
このひとはただ単に、自分を飾りたてることが苦手なだけだ。鏡を見たことがないわけではないだろうに、自分がどんなに人を惹きつける容貌をしているのか、知らないらしい。いや、さすがに美醜の価値はわかるだろうから、見目良い部類に入ることくらいの自覚はあるのかもしれないが、その上で、自分のその外見的な部分には全く価値を見いだしていないのかもしれない。どちらにしてももったいない話だ。
氷河は、タイを締めるところで四苦八苦している。
一緒に保管しておいた「アスコットタイの結び方」という説明書を見ながら先ほどから結んではほどき結んではほどきを繰り返している。
「先生、貸してください」
見ていられなくなって、カミュは氷河から説明書とタイを受け取った。
タイを氷河の襟元にまわす。
しゅるり。
衣擦れの音が柔らかく耳を打つ。
カミュの冷たい指先がうなじに触れると、氷河は自分の髪に隠れるように少し俯いた。もちろんカミュもそのことに気づいたが、顔には出さずに自分の指先に集中する。
氷河はその場をごまかすように少し大きな声をあげた。最初の一音が裏返ったのはご愛嬌だ。
「カ、カミュ、また背が伸びたな」
「はい。だから、こうして簡単に先生の背に手をまわせます」
「そ、そ、そうだな。まだ10歳なのに、ずいぶん早いな」
「……あと一週間もしないうちに11歳、ですよ」
10歳、10歳と連呼されるのはあまり気に入らない。
氷河にとっては10歳だろうが11歳だろうが同じことかもしれないが、カミュにとっては大きい。
身長と同じように年齢もあっという間に重ねられたらいいのに。俺が1歳大きくなっても、このひとも同じだけ歳を重ねる。
その差は永遠に縮まらない。
身長だけでも、とカミュがどれだけその日を心待ちにしているか、など、このひとはきっと知らないだろう。
「はい、これでいいはずです」
説明書を読みながらとはいえ、カミュがやると一度で綺麗に完成してしまい、氷河はやや拗ねた顔でカミュを見た。
「カミュはわたしよりずっと器用だ」
「そうですね。そこは否定しません」
しれっとカミュが答えると、氷河は吹き出しておかしそうに笑った。
氷河が笑いを残したまま、ジャケットを羽織り、じゃ行ってくる、と無造作に出て行こうとしたので、慌ててカミュは袖をひいて止めた。
「ちょ、ちょっと、先生!あたま、あたまは?」
「あたま……?」
せっかくここまできっちり着飾っておきながら、氷河は伸ばし放題に伸ばした髪をそのままで行こうとしたのだ。
元がいいから、それでも悪くはないけど、これじゃあ画竜点睛を欠く。
「すぐすみますから。俺にやらせてください」
カミュは手をひいて、師を椅子に座らせた。
カミュは氷河の腰まで伸びた髪を梳る。
こんなふうに師の髪にまともに触れるのは初めてだった。
自分が引き留めたくせに、とてもドキドキして心臓が早鐘を打つ。
少し量の少ないその髪は、蜂蜜のようにきらきら光り、絹糸のように柔らかい。
なんて綺麗なハニーブロンド。
その髪をひと房すくって指を通す。
僅かに癖のある毛先があちらこちらに跳ねているのを何度も指を通して落ち着かせる。
蜂蜜色の川に浮き沈みする自分の指を見つめていると、不意に、カミュの胸の中に甘い疼きが湧き上がってきた。
……?
なんだろう、この感じ。
緊張してドキドキするのとは、またちょっと違う。
切なくて泣きたくなるような。
俺の指は、この柔らかな髪の感触を知っている……?
それは、あまりにも強い既視感。
いつ。
どこで。
師の髪にこんなふうに指を通したことなどなかったはずだ。
似た感触の何かか?
いや、感触だけじゃない。
今、髪に通る自分の指。あの光景をどこかで見た。
そんなはずはない。
何故か泣きたくなるほど胸が痛い。
懐かしい。
違う。何考えてるんだろう、俺。懐かしくなどない。
おかしい。
このひとの髪を梳ったことなどこれが初めてだ。
絶対に知っているはずはない。
なのに、これを知っている、という感覚が拭えない。
思い出せない。
思い出せなくて気持ちが悪い。
心の一部が勝手に懐かしがって、ものすごく胸が締め付けられた。
ひと房すくった金色の髪に、水の雫がぽたりと落ちた。
氷河が背を向けていて助かった。
カミュは慌てて涙をふいて、二度三度と頭を振った。
いけない。
考えまい。
何かわからないけど、考えると、自分の感情が制御できなくなりそうだ。
カミュはまとわりつく既視感を振り払うように、手際よく、氷河の髪に櫛を入れていく。
さらさらと梳っていると、今度はうなじが目に入る。
日に焼けていないうなじがとても白くて、また胸がドキドキしはじめた。ちらりちらりと髪の隙間からのぞく白い肌がなまめかしく、今しがた感じていた既視感もあっという間に吹き飛ぶ。
そっと、師の表情を盗み見る。
氷河は、照れを隠すように俯いているにもかかわらず、カミュにそんなふうに世話をされるのをどこか楽しんでいるようにも見える表情で、気持ちよさげに目を閉じている。
その横顔に、またキュッと心臓を掴まれる。
慌ててひとつ深呼吸して、自分を取り戻す。今日はやけに感情が揺れ動く。
カミュは、氷河の長く伸びた前髪と、頬にかかる横髪を掬って、後ろで一つに結わえた。
このひとの一番の魅力と言ってもいい、澄んだ空色の瞳、どんな宝石にも勝るほど美しいそれができるだけよく見えるように、と。
正面にまわって、完成した氷河の姿を眺めて、自分が作ったスタイルなのに、思わずカミュは声を失った。
先生って……ほんとうに……
毎日見ていて、見慣れているはずなのに、こうして改めて見ると、本当に驚くほどの美形だ。
口を閉じてさえいれば、恐れ多くて口には出せないが、女神すら凌駕するのではないかと思うほど佳麗に整っている。
カミュは声を失ったまま、氷河の顏を穴が開くほど見つめた。
突然下りた静寂に、不審な顔をして氷河が目を開いた。
遮るもののなくなった空色の瞳に正面から見据えられ、カミュの鼓動はまた高くなった。
「……?どうした、カミュ。わたしはどこか変なのか」
「いえ……先生、ごめんなさい。やっぱり、前髪、おろしてもいいですか?」
「カミュにまかせるよ。わたしではよくわからない」
カミュは氷河の髪をほどいて、再び前髪でその瞳を隠す。
このひとの容貌はあまりに完璧すぎる。
なんて綺麗な瞳なんだろう。
きっと、これを見たら、誰もがこのひとに心奪われるに違いない。
そんなのは嫌だ。
「では行ってくる。きっと遅くなるから先に休んでてくれ」
「はい。行ってらっしゃい、せんせい」
カミュに見送られて、今度こそ氷河は宝瓶宮を後にした。
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教皇の間に足を踏み入れた氷河は、沙織から、合格だ、というように薄く微笑まれて、ホッと胸をなでおろした。聖衣姿を見咎められて怒られた時は本当に怖かった。
今日最も緊張する瞬間を無事に通過できて、やや気持ちが軽くなったものの、次に控えているのは大切な客人たちとやらのもてなしだ。
はっきり言って気が重い。
年配の男性やら美しく着飾った妙齢の女性やら様々な客をエスコートし、適度に場を盛り上げなければならない。相当な苦痛だ。
ただ、いくらかこういう場の経験を積んだだけあって、身の処し方は心得ている。何も巧みな会話は必要ない。ただ、なんとなく曖昧な笑みを浮かべてさえいれば、相手の方が勝手にべらべらとしゃべり続けてくれるものだということは過去から学んだ。
今日もその手でいこう、と氷河はひとり頷いた。