寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。

◆第二部 ③◆

 宝瓶宮の中庭で、カミュは静かに集中を高める。
 意識を表層から少しずつ深層へ潜らせ、体内の小宇宙を呼び起こせば、カミュの掌の中には青白い光が熾り、次第にゆらゆらと大きくなっていく。
 カミュがその掌を空へ向かって薙ぎ払うようにすると、風と共にきらきらと氷の結晶が舞いあがった。それは中庭に植えられている木々の間を撫でて渦巻く。カミュが掌を下に向けると凍気の気流はそれに沿って吹き下り、地面にぶつかるとまた空へと昇った。
 カミュの凍気が撫でた木々の若芽に白い花のように霜が咲く。初夏の陽気にそれはすぐに透明な雫に変わり、雨が降った後のように萌ゆる緑をしっとりと濡らした。
「駄目だ、カミュ。もう一度。これではただの冷たい風だ。凍気とはこういうものではない」
 背後から氷河の厳しい声が飛ぶ。
 カミュはさらに己の中心に力を集め、そしてそれを一気に解放させる。
 だが、やはり木々の間を通り過ぎて行った白い気流は、陽光の元では次々に融けていく。
 イメージはできているのに、形にできないもどかしさにカミュは奥歯を噛みしめる。すると、無駄な力が入りますます思い描く形から遠のく。
 何度も何度も繰り返し、日が傾き始めた頃、ようやく氷河は「今日はもう終わろう」とカミュに声をかけた。
 カミュは、はい、と返事もできないほど息があがり、宮内へと入って行く氷河の背を膝をついて見守った。
 なぜできないんだろう。
 悔しい。

**

 既に夕飯準備に取りかかっていた氷河の隣へ並ぶように立って、師の作業を手伝いながらカミュが言った。
「……俺、駄目ですね」
「うん?」
「なかなか先生のようには凍気を操れません。小さなものならできるのに、今日のようにそれを気流として操るとなると……」
 氷河は手元の作業から目を離さずに(包丁をつかっている。このひとの腕前で目を離されても困る)少し笑った。
「焦らなくていい。問題は技術じゃないんだ。小宇宙をもっと高めるきっかけさえつかめればできるようになる。わたしがカミュくらいの歳の頃なんて、ひどいもんだった。何しろ凍気の『と』の字も操れなかったんだからな。それに比べればカミュは優秀だよ。こんなに暖かい聖域であれだけの凍気が使えるんだから。わたしなんてシベリアにいたのに駄目だった」

 ドキリとした。

『シベリア』

 この間のミロの言葉が蘇る。
『そんな基本的な話』
 今なら自然に訊けるだろうか。
 氷河が笑いながらさらりと言った今なら。

「先生はシベリアで修行をされたんですか?能力に目覚める前に聖闘士になろうと思ったのは何故ですか?」
 自然に訊くつもりが、思わず、勢い込んで質問を重ねてしまった。ゆっくり聞き出そうと思っていたのに、口を開いた瞬間、山ほどある訊きたかったことの一部が押さえきれずにこぼれ出してしまったのだ。
 何もなければ、さらに、聖闘士になったのは何歳の時ですか、先生の師はどんな人でしたか、その人は今どうしていますか、と続いてしまったかもしれない。しかし、カミュは言葉を止めた。止めざるをえなかった。
 カミュの言葉の途中で、トマトを切っていた氷河の手がつるりとすべって包丁の切っ先が左の親指の根元に食い込んだからだ。
 氷河の左手がみるみるうちに真っ赤に染まる。どこか静脈を傷つけたようだ。
「先生!」
 氷河は次々にあふれる血をぼんやり見ている。
「切れたな……」
「待って、待っていてください」
 カミュは慌てて救急箱を取りに行く。
 バカだ。
 訊くんじゃなかった。
 今のタイミング、きっと俺のせいだ。


 カミュが戻ってくると、氷河は傷口を洗っていた。
「すまない、カミュ。どうしてわたしはこう不器用なんだろうな。戦いでついた傷よりキッチンでついた傷の方が多いかもしれない」
 氷河は笑ってタオルを取り、傷口に押し当てるように手を拭いた。
 カミュは笑えない。
 黙って氷河の前に跪いて、その手を取る。
 手際よく傷口を消毒してガーゼで覆い、包帯をくるくると巻いていく。
 ガーゼに血が次々に滲むので、やや強く結び目をつくっていると上から穏やかな声が降ってきた。

「個人的なことなんだ。わたしが聖闘士になった理由」

 カミュは動きを止めた。
 氷河の声は穏やかだが、カミュが取っている左手の指先がそれとわからないほど揺れている。
「正義のために、とか、女神のために、とかそんな立派な理由ではなく……とても個人的な理由で聖闘士になりたかった。どんな理由かは、今のカミュには恥ずかしくて情けなくてとても言えない。今なら間違っていたとわかるが……その時は、わたしにとってはそれが一番大事なことだった。わたしは幼くて弱くて……そして、そのまま成長してしまった。どこかできちんと訣別すべきだったものと訣別できないまま聖闘士になってしまったんだ。だから……我が師はそのことを……ずいぶん……ずいぶん……心配……していて……だから」
 静かに訥々と語ろうとしていた氷河の声が言葉を選ぶように途切れがちになる。
 咄嗟に、カミュは立ち上がり、背伸びして氷河の頭を抱えるように抱き締めた。

「先生、もういいんです、言わなくて」

 知りたい気持ちより、泣かせたくない気持ちが勝った。
 氷河の声は穏やかだった。涙で揺れたわけでもない。
 が、氷河の傷口に触れたのだとわかった。たった今ついた傷と同じように、そこはまだ血を流し続けているのだ。
 氷河は一回り小さなカミュに抱き締められ、一瞬驚いたように身を固くしたが、すぐにカミュの背にそっと腕をまわして同じように抱き締め返してきた。
 カミュの肩口に氷河は顔をうずめて呟く。

「カミュは優しいな」
 カミュの頬に氷河の髪がさらりと流れる。

「その上、あったかい」
 カミュの背にまわされた氷河の指先に力が込められる。

「カミュ……」
 さらに氷河はカミュの髪に甘えるように何度も頬ずりを繰り返し、ぎゅうぎゅうと体をくっつけてきた。

 ……。
 ……。
 ……ど、どうしよう。
 思わず体が動いてしまったけど、こんなふうに甘えられるとは。

 カミュの頭からは氷河に対してぶつけた質問のことなどすっかり消えてしまった。
 頬にかかった氷河の柔らかい髪の感触。
 触れているところから伝わる体温。
 ほのかに香る汗とシャンプーの入り混じった甘い匂い。
 身体全部が心臓になってしまったのではないかと思うほどドキドキした。
 出会った日にも同じように抱き締められた。
 あの時は何とも思わなかった。
 初対面だったせいか、師が聖衣姿だったせいか。
 でも……薄い布越しに触れる身体。無駄な肉などついてない、鍛えられた筋肉質の身体なのに、多分、子どもの自分の方がずっとそうであるに違いないのに、なぜかずいぶん柔らかい気がして狼狽える。
 氷の聖闘士だというのに、少し高めの体温がカミュを包んでいる。
 氷河の背にまわした手をどうしていいかわからない。
 心臓の音がやけに煩く響く。
 こんなに煩かったら先生に聞こえてしまう。

 長い間、指先ひとつ動かせず、ただ黙ってカミュは立ち尽くしていた。

 やがて、氷河がゆっくりと離れた。
 ようやく、カミュはふうと肩で息をした。どうやら氷河が触れている間中、ずっと息を止めていたようだ。(ということはものすごく長い時間そうしていたかに思えたが、実際はそう長い時間ではなかったのかもしれない)

 身体を起こして、カミュから離れた氷河は、しかし、カミュの頬が少し赤くなっていることに気づき、ハッと我に返るとみるみるうちに顔を真っ赤にさせた。
「す、す、すまない。つい……」
 慌ててカミュの肩を押し戻し、狼狽えた様子で背を向ける。
「食事!食事の支度をしないと!」
 氷河は上ずった声で、背を向けたまま片手で包丁を握りなおそうとする。カミュはそばへ行き、氷河の右手をそっと止めた。
「先生……後は俺が」
「そ、そうだな。すまないが頼む」
 氷河は顔を赤くして俯いてその場を離れ、キッチンにはカミュ一人が残された。
 カミュはふーっと深く息を吐く。

 カミュの身体がまだ発熱しているかのように熱い。
 鼓動も高く、包丁を持つ手がともすれば止まりそうになる。

 今のは一体───?
 頭が混乱している。
 俺は……先生があんまり苦しそうに見えたから、堪らなくなった、のだ。もういい、と言葉で止めただけでは、足らないような気がして。
 先生の方は一体なぜあんな……?

 発熱している心臓がチリチリとカミュの胸を内側から焦がす。ぐるぐると巡る思考に、カミュの手元も危うくなりそうだった。

**

 食事の間中、氷河もカミュも互いに目を合わせなかった。
 ポツリ、ポツリと会話をしてもすぐに途切れる。
 一度、カミュの右手が氷河の左手に触れた時、カミュが、あ、と思うよりも早く氷河の方が微かに身を固くさせた。ちらりと師を見やれば、何もなかったかのようにあらぬ方向へ視線をやっていながら、ブロンドに見え隠れしている耳だけが赤く染まっているのが目に入る。
 氷河が動揺していることが、カミュの動揺も誘う。平静を装いきれていないことに、何か特別な意味を探さずにはいられない。
 このまま二人きりでどう過ごせばいいのかわからない。
 堪りかねてカミュは口を開いた。
「先生」
「あ、ああ」
 氷河の声が心なし上ずる。
 カミュは心の裡でくすっと笑った。
 笑うと少し気持ちが静まった。
「俺、今日、ミロ達がいる宿舎に泊まりに行ってもいいですか?」
「え?……そ、それは、わたしが何か、」
「いえ、そうではなくて、この間、ミロに誘われたので。話を聞いていたら楽しそうだったので少し羨ましくなりました。俺が行けばミロの奴が抜け出してくる頻度も減るはずですし……いつ言い出そうかと迷っていたんです」
 氷河はようやく平常心となってカミュを見た。
 そうか、毎日朝から晩まで休みなく訓練をしているせいで、カミュは同年代の友人たちとろくに口をきく暇もないのだ。
 考えてみたら、自分にはアイザックという存在があった。
 紫龍や瞬のところにいる訓練生も複数だ。
 しかし、カミュは自分と二人きりでこの宝瓶宮にいる。午前中は養成場に行っているからいいかと思っていたが、養成場にいる間は結局訓練漬けだ。ミロがしょっちゅう訓練をさぼって遊びに来なかったら、子どもらしい会話もないままに育つところだった。
「すまなかった、カミュ。わたしが思い至らなかった。もちろん行ってもいい。後で送ろう。今日だけではなく、訓練が終わっていれば好きな時に行ってもいい。毎日でも君が望むなら……」
 本当に毎日行きたいと言われたら凹むな、と思いながら氷河がそう言うと、カミュは笑って首を振った。
「そこまでは。たまに、でいいです。……ここで先生と過ごす時間が俺は好きなので」
 最後にカミュがそう付け足すと、氷河は、そ、そうか、と視線を狼狽えさせた。

**

 すっかり日が落ちてしまったので、宿舎までの道程は氷河が送って行った。
「明日は宿舎から養成場に直行しておきますね、先生。朝食はさっき作っておきましたから温めてください」
「すまない」
 どちらが保護者かわからないような会話をしながらゆっくりと石段を下りる。
 空には星が輝き始めている。
 氷河が北の空を見上げて言った。
「今日はよく見えているな。……カミュ、あれがわたしの星なんだ」
 カミュは氷河が指差した先を見る。
「……?見えません。方角が少し違うような気がしますが……」
「違う。水瓶座じゃない。わたしの星は……白鳥座なんだ」
 カミュは不審な表情で氷河を見た。
 もう、疑問をそのまま口に乗せることはしない。
「わたしは元は白鳥座の青銅聖闘士だった。水瓶座は、少しの間、預かっているだけなんだ。だから、今でも自分の守護星は白鳥座だという気がしてならない」

 白鳥座。
 水瓶座の黄金聖闘士ではないこのひとなど想像がつかない。
 それでも、白鳥座、というのは、このひとにとても似合っている気がした。
 純白の翼をもつ優雅な水鳥。

 氷河が、先ほどのカミュの質問に真摯に答えようと、できる限り最大限自分に心を開いてくれたのだということがわかった。
 だから、青銅聖闘士から黄金聖闘士になったとはどういうことかとか、水瓶座は預かっているだけとは、どういうことかとか、訊きたいことがさらに増えて謎が深まっただけだったが、カミュはただ黙って氷河の後を歩いた。

**

「やった!カミュ、来たんだ!!でも、お前、よくこんな早い時間に抜け出…し…て……?」
 宿舎の入り口で目ざとくカミュを見つけるなりミロは大喜びで飛びついてきて、しかし、カミュの背後で世話人と何ごとか話している氷河の姿を見て動きを止めた。
「……どういうこと?」
「どうもこうも。正攻法で堂々と来ただけだ」
「な、何それ!?そんなのってアリなわけ!?え?え?どういうこと?じゃあ、俺も行きたいって堂々と言えば、もしかして宝瓶宮に泊まりに行けたり……?」
 ミロがそう言うと、会話が聞こえたのだろう、氷河と話をしていた世話人が顔を上げてこちらを見た。
「お前は駄目に決まってるだろう!!もう一生分の外泊権利を使い果たしてすんでる!だいいち、カミュとお前じゃ信頼度が違う!」
「ずるい!!」
 抗議の高い声をあげた後で、くるりとカミュの方を向いて、でも俺には秘密の抜け道があるからな、とペロリと舌を出したミロの背に「風呂場の格子窓なら昨日修理したからな!」と厳しい声が飛んだ。
 しかし、ミロは片目をつぶって見せ、「そっちはダミー。後で本物教えてやるからな」と小声で言い、カミュを大いに笑わせた。

**

 氷河は暗い十二宮の階段をゆっくりと上る。

 やってしまった。
 カミュの戸惑ったように揺れる紅い瞳を思い出すと恥ずかしさで体が火照る。
 自分でも何であんな行動に出たのかよくわからない。
 カミュに、労わるようにそっと抱き締められて……我を失ってつい甘えた。

 思い出して事実関係を確認すればするほど落ち込む。
 俺、本当に、何を考えてるんだろう。
 師としてどうとか言う前に、人としてどうなんだ。14歳も年下のカミュによくもあんな……。
 カミュの友人関係のことまで、本人に指摘されるまで気づかなかったばかりか、それとわからないように気を使われてしまった。カミュは違う、と言ったが、おそらく、氷河の動揺を見てとって、今日は氷河を一人にしてくれようと気をまわしたに違いない。
 情けない。
 カミュはあんなに大人なのに。
 それとも俺が駄目すぎるのか。
 どっちにしても落ち込む。

 少し迷って途中で獅子宮に立ち寄る。
 言葉は交わさなかったものの、行きにもカミュと通ったのですぐに一輝がでてきた。
「カミュはどうした」
 氷河は海より深いため息をついて、がっくりと膝を抱えて座り込む。
「……俺に愛想尽かして出て行った……」
 一輝は吹き出す。
「何やらかしたんだ、お前」
「……言わない」
 コイツには絶対言えるもんか。
 14歳も年下の弟子相手につい甘えて抱きつきました、などと。きっとバカにしたように笑われるに決まっている。
 一輝は笑いながら氷河の手を取って立たせた。
「保護者同伴で家出するくらいならまだ大丈夫だろ」
「……気休めはいい……帰る」
「なんだ。寄ったんじゃないのか。せっかくガキがいないのに」
「今日は自己嫌悪で死にそうだから一人で大人しく反省する」
 背中を丸めて獅子宮から出ていこうとする氷河を一輝は入り口まで見送る。
 別れ際、俯く氷河の顎に手をかけて唇を塞ぐ。
 しかし、唇を離した瞬間、氷河は、はあーっと長いため息をついて、「お前の顔を見ると、俺よりバカが確実に一人はいると思えるな」と憎まれ口を叩き、一輝は思わず「このやろう」と額を小突いたのだった。