転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第二部 ②◆
うららかな春の日差しが窓から降り注いでいる。
中庭から小鳥のさえずりまで聞こえて、至極平和な春の午後だ。
ただし、素粒子物理学の問題に取り組んでいるカミュにとっては、地獄のような長閑さだ。油断すれば欠伸が出てしまいそうになるのをどうにか堪えて、氷河が作った問題を丁寧に解いていく。
どうにか眠気に打ち克ったカミュが、最後まで問題を解き終えて振り返ると、しかし、師は本を持ったまま、ソファの肘掛けを枕にすやすやと眠っていた。
先生……それはずるいです。
氷河は黄金聖闘士にしては、ちょっと体力がなさすぎじゃないかとカミュは思う。
毎日とは言わないが、時折、電池が切れたかのように、こうしてそのへんでよく眠りこけている。
確かに昨夜は遅かった。
カミュが色々聞きたいことがあり、二人で書庫に籠って、ああでもない、こうでもないと議論しているうちに眠るのが遅くなった。
しかし、それはカミュも一緒だ。氷河がその後も、ずっと起きていたとかでない限りは、いくらなんでもこんなにしょっちゅう眠ってしまう理由がわからない。
「せんせい」
カミュは氷河を呼んでみる。
過去の経験から起きないことは知っている。
黄金聖闘士なのに、他人の前でそんなに無防備に眠って大丈夫なのかと些か心配にもなるが、それだけ、自分が気を許されているような気もして、ほんの少し嬉しい。
そっとそばに寄って、寝顔を見つめる。
最近では、起きている時に正視することは少ない。
以前は氷河の方がよく目を逸らしたものだが、近ごろでは氷河はまっすぐにカミュを見るようになった。だが、あの、穏やかに晴れた空のような瞳にじっとのぞきこまれると、何故か胸がざわめいて、思わずカミュの方が目を逸らしてしまうのだ。
瞳が閉じられている今は好きなだけ眺めていられる。
全く気負っていない氷河の寝顔はとても幼く見え、カミュはそれを長いこと見つめるのが好きだった。
氷河の目が覚めそうになると、そっと離れ、寝ていたことなど知りませんでした、という態度で取り繕っているので、氷河の方は寝顔をカミュにしょっちゅう見られていることなど気づきもしていないだろう。
ふふ、先生、また口開いてる。
カミュがくすりと笑った瞬間、背後から呼ぶ声が響いた。
「カミュカミュ~」
この、思わず脱力しそうな間延びした声は……。
カミュは立ち上がって、入り口まで歩いて行ったが、こちらが開くよりも早く勝手にドアを開けてミロが姿を現した。
「お前、また訓練抜けてきたのか」
「いいじゃん、ここでやれば一緒だろ。……氷河は?」
カミュは一瞬黙り、それからしぶしぶ自分の背後を指差した。
ドアが開いた派手な物音にも気づかず眠りこけている氷河を見て、ミロはやや声を顰めながら猫のようにするりとカミュの脇を通り抜けて氷河の前に屈みこんだ。
「……何コレ。また具合が悪いのか?」
「お前に関係ないだろ」
カミュのぶっきらぼうな返事をものともせず、ミロは氷河の顏をまじまじと見つめる。今しがたカミュがしていたように。
「氷河、寝てても綺麗だなー。あ、睫毛長い。口も開けちゃって……」
いっそのこと、本当に具合が悪くて寝ているんだったら、ミロを追い返す口実になったのに、とカミュは苛々する。
先生、早く起きればいいのに。
さっきまで、この寝顔をずっと見ていたい、と思いながら過ごしていたくせに、ミロがそんなふうに氷河を見つめることが悔しく、今度は真逆のことを願う。
この寝顔が見られるのは俺だけの特権なのに。
「先生はしばらく起きないから、いても無駄だ。さっさと訓練に戻れよ」
「うん……」
ミロはまだうっとりと氷河の顔を見つめている。人差し指の背で、氷河の頬をするりと撫でたのを見咎めてカミュの苛々は頂点に達した。
おい、いい加減にしろ、と再び声をかけようとした瞬間、カミュが見ているその前で、ミロは眠る氷河の上に覆いかぶさるように屈みこんだ。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ミロのふわふわと揺れる巻き毛がその光景を遮断していた。
しかし、顔を上げたミロの頬が紅潮していて、やった、と小さく拳を握ったことでカミュは遅ればせながらミロが何をしたかを悟った。
───ッ!!
「お、まえ……!!」
「へへ。氷河かわいいから、つい」
何の悪びれもなく、満面の笑みでミロがカミュの元へ戻ってくる。
「姫は王子様のキスで目が覚めて、そして二人は結ばれました。めでたしめでたし!なんちゃって~」
歌うようにそう言って、あー氷河の唇柔らかかったなーと、余韻を楽しむように自分の唇に手をやる。
「お前はしたことある?俺、初めて~。氷河はどうかなー。初めてってことはないよな、大人だし。恋人とかいたりするのかな。お前知ってる?いたらちょっとショックかな~」
少し上ずった声で、一人興奮気味に話を続けるミロを前に、カミュは顔を赤くして体を震わせた。山ほど言いたいことがあるのに、あまりの怒りに言葉がなかなか出てこない。
ミロはまだ呑気に、いいなー俺が氷河の恋人になりたい、大事にするけどなーなどと呟いている。
その上、氷河まだ起きないならもう一回、と言い出すに至って、ようやくカミュの怒りが爆発した。
「何を考えているんだ!!ふざけてやっていいことと悪いことがあるだろう!!先生のことをそんな目で見るな!!」
「なんだよ。そんなに怒るようなことか?お前、頭固いな、相変わらず」
「お前がふざけすぎてるだけだ!あんなもの、キ、キスしたうちになんか入るものか!起きていたら絶対先生はお前なんか相手にしない!だいたい、前から思っていた。お前はいい加減だし、訓練だってすぐさぼるし、へらへらしているし、言葉遣いはなっていないし、それから」
「ちょ、ちょっと待って。カミュ、何に対してそんなに怒ってるわけ?俺の言葉遣いが今のことと何か関係が……?」
何に対してか、だって?
何もかもに、だ!
ミロがいるのにちっとも起きやしない師のことも、へらへらと氷河の懐に入って甘えるミロのことも、勝手にキスしたことも、何もかも!
返事もできずに拳を震わせているカミュをミロは指差してなおも続ける。
「だいたいなんでカミュが怒るんだよ?氷河が目を覚まして、勝手にキスしたこと怒るならともかく、さ。お前は氷河のなんなんだ。ただの弟子だろ。恋人でもないのに怒る権利なんてないくせに。変なカミュ。もしかして、お前もしたかったんだったりして。キス」
刹那、カミュは思いきりミロに震える拳をぶつけた。拳に衝撃があって初めて、自分の行為に気づいたほどに無意識に体が動いていた。
不意を衝かれて、ミロの体が勢いよくふっとぶ。ダァンと派手な大きな音をたてて、その体が壁に叩きつけられた。途中でぶつかった机が派手な音を立てて横倒しになり、本や文具がバラバラと床に落ちる。
混乱した目でカミュを見返したミロだったが、次の瞬間には反撃のために思いきり壁を蹴っていた。
カミュに反撃の一打を叩きつけようとミロが振りかぶった瞬間、二人の間に影が落ちた。
ちょっと寝ぼけた顔の氷河が、ミロの拳をやわらかく止めている。
「……??ええと……?」
目を覚まして咄嗟に割って入ったものの状況が見えなかったのだろう。
「喧嘩か?するなとは言わないが、できれば室内ではなくて外で、」
「違う!コイツが勝手に怒って、一方的に殴ってきたんだ!おれはただ氷河に」
ミロがその先を言う前に、カミュがまたミロに掴みかかったので氷河は驚いてそれを止めた。
「カミュが……?(逆じゃなくて、か?)……どうしたんだ、カミュ」
氷河はカミュに向き直って屈みこみ、その瞳をのぞき込もうとしたが、カミュは視線を合わせずに、唇を結んで、じっと俯いている。
氷河は周囲の状況を見た。
ええと……まず、カミュがミロを殴ったのは間違いない。
ミロはまだ殴ってはいない。(これから殴るところだったみたいだが)
そして、カミュは自分の弟子で、ミロはそうではない。
「説明する気はないのか?……わかった。カミュ、まず、殴ったことをミロに謝りなさい」
カミュはますます唇を噛む。
「カミュ……謝るんだ。わたしの言うことが聞けないか?」
「…………………ごめんなさい」
到底納得しているとは言い難い声色でカミュが低く言った。
ほんの少し掠れた声が泣いているように聞こえて、ミロは、急に気まずそうにそわそわして、うん……と頷いた。
氷河はミロにも向き直る。
「それから君もだ。ミロ。また訓練を抜け出したな?君が訓練をさぼるのは勝手だが、わたしの大事な弟子の邪魔をするのは許さないぞ。だから君もカミュに謝りなさい」
「はい……ごめん、カミュ。あの……さっきのことも、ぜんぶ」
ミロはおずおずとカミュに握手を求めるように右腕を差し出したが、カミュはその手をとらなかった。
氷河はコホンと咳払いをして、それからやや顔を赤らめて早口でつけたした。
「それからわたしも謝っておこう。すまない……カミュ、ミロ。つい……うとうとしたのだな、わたしは」
ミロはそれを聞いて、うん、氷河かわいい顔で寝てた!とケロッと破顔して氷河の腕を甘えるように取り、取った後で、あ、やべ、カミュごめんと慌てて氷河から離れた。
カミュの苛立ちはますます募る。
先生、なんでそこで謝るんですか。
先生なんだから簡単に謝らないでください。
そんな顔、どうしてミロに見せるんですか。
そんなんだからかわいいなんて言われて勝手にあんなことされてしまうんです。
ミロ、お前も一体、なんなんだよ!
なんでお前はそうなんだ。不必要なスキンシップが多すぎる。『子ども』の顏してればなんでも許されると思ったら大間違いなんだからな!
氷河は、さあ、君はさっさと訓練に戻れ、とミロを追い出し、自分はあたりに散らかった本や、倒れたテーブルなどを片付けだした。
カミュも隣に膝をついて同じように片づける。
ささくれ立った気持ちが、消化不良気味に体内を滞留し、ちくちくとカミュを突き刺している。そのせいか、本を拾い上げて机の上に乗せた時、それは、バン!と思ったより乱暴な音を立てた。
「悪かった、カミュ」
氷河がカミュを見ずに声をかけた。
カミュは、ハッと我に返って、顔を上げて氷河を見た。
氷河は片付けをする手を休めずに、何気なく言う。
「君の方が先に手を出していたから、君を叱らざるをえなかった。……だが、君が手を上げるということはよほどのことだったのだろう。ミロに何か我慢がならないほど嫌なことでも言われたか?」
カミュはぐっと言葉につまった。
何しろ、自分でもまだ消化不良だ。
氷河が言う『よほどのこと』という内容が、自分でもなぜそんなに嫌だったのか、すぐにはわからなかった。
『お前もしたかった』んだろ、と言われた。
なぜ、それにそんなに反応してしまったのか。
師にキス……したかったのかな、俺。
違う……と思う。多分。
だいたい、おやすみのキスだとかありがとうのキスだとか、今までだって普通にしてる。頬に、だけど。
師に恋人がいるのか、と言われたのが、なんとなく、穢された気がして、嫌だっただけだ。……違うかな。どうだろう。
師にはそういうことと無縁の世界でいて欲しい気がする……の……かな。
だいたい、恋人なんているわけがない。朝から晩まで訓練漬けなんだし。一日のほとんどを俺以外と会わずに過ごしているんだから。
それとも……いるのだろうか。
一瞬、ちらりと思い浮かべかけた人物の姿を慌てて頭の中から締め出す。
想像もしたくない。
……いなかったとして、だとしても、起きていたらミロの行為を受け入れるわけがない。だって、ミロは子どもだ。俺もだけど。
カミュは黙り込んで、思考の海を漂っていたが、氷河は問いかけたくせに答えを求めてはいなかったようで、そのまま二人は会話のないままに黙々と片づけを続けたのだった。
**
その夜、カミュの寝室の窓が小さく叩かれた。
ベッドに横たわったまま、ぐるぐると昼間の出来事を反芻していたカミュはそれにすぐ気づいて、明かりをつけずに手探りで窓に近寄る。
鍵を開けるや否や、ミロが音もなく飛び込んできた。
「お前……抜け出すなって昼間怒られたばかりだろう」
「『訓練』は抜けてない。……カミュ、昼間はほんとごめん。それを言いたくて……」
「もうお互い謝ったんだから蒸し返すな。あんまり謝られたら殴ったこっちがやりにくい」
ミロは、とすん、とカミュのベッドに腰掛けて、勝手に布団に潜り込む。
お前、また(もう何度もある)ここで寝るつもりじゃないだろうな。
カミュが怒る間もなく、ミロは腕を取って、カミュの身体も同じように布団の中へ引っ張り込んだ。
「あのさ……カミュ、大丈夫か?」
「何が」
「……お前……もしかして、氷河のことを好きなんじゃないのか?」
「何だ、急に。もしかしなくても好きだ。尊敬している。お前だってそうだからしょっちゅうここへ来るんだろう」
「いや、そうじゃなくて……」
珍しく、ミロはその先を言いよどむ。
うーん。
困った。
コイツ、俺よかよっぽど大人で聡いのに、こっち方面鈍いのかな。
「好きは好きでも、尊敬している好きと違う好きというか」
「違う好き?何が言いたい。好きに何種類もあるのか」
うわ。
どうしよう。まずそこから!?
ミロは頭を抱える。
なんだか煮詰まっているように見えたから、ちょっと相談に乗ってやろうかな、と思って来たけど、それ以前の問題だった。
まさか基本から説明することになるとは考えてもみなかった。
お固いカミュに何て言って説明すればいいんだ。
「……だから……もしかして、氷河の恋人になりたいような『好き』というか、こう……キスしたりしてみたくなるような『好き』というか」
「な、何を言い出すんだ!お前みたいなのと一緒にしないでくれ!不謹慎だろう!!」
興奮して声が大きくなるカミュの口をミロは慌てて片手で塞ぐ。
しばらくそのままの姿勢で部屋の外の物音を窺うが、氷河が気づいてこちらに向かってくるような様子はない。
ミロはカミュから手を離し、再び声を顰めて言った。
「不謹慎、かなあ。聖闘士だって人間なんだし、好きな人のひとりやふたりくらい、いてもおかしくないと思うけど。中には恋人のいるひとだっているじゃん」
「でも……先生はそんな人とは違う」
「なんでだよ。氷河の方にそのつもりがなくても、あんっな綺麗な人、周りがほっとくわけないじゃん。黄金聖闘士の中にはつきあいの長い人もいるんだし、ホラあのひととか」
「やめろ!変なこと言うな!!」
「大声出すなって!……なんか今、お前、反応が過剰だったな」
「うるさい。お前が変なこと言うからだ」
「変じゃないだろ。普通じゃん。24歳にもなった人がまさか初恋もまだです、なんてあり得ないことくらいはお前だってわかるだろ。氷河、聖域に来る前はどうしてたんだ?そんな話をしたことない?」
そんな話どころか、氷河の過去のことなどカミュは何も知らない。
氷河がどんなふうに黄金聖闘士になったのかとか、どんなふうに聖闘士の修行をしたのかとか、それすらも。
カミュが素直にそう言うと、ミロは布団を跳ね上げて、信じられない!と口の動きだけで悲鳴をあげた。
「2年以上毎日顔を合わせてて、なんでそんな基本的な話をせずに来れたんだ!?」
「基本的……かな」
「基本的だろ!俺ならまっさきに訊くけどな。『氷河、なんで聖闘士になったの?』って」
それは、ミロは知らないからだ。
氷河がカミュを抱き締めて体を震わせて涙を堪えていたことを。
長いこと書庫に籠った後、目の縁を赤くして出てきたことを。
眠っていても時折苦しそうに眉が顰められていることを。
カミュだって、訊けるものなら訊いている。
でも、カミュの知りたいことに話題が近づくと、いつも氷河は話をはぐらかす。あんまりはぐらかし方が下手だから、ああ、この話題はダメなんだな、とはっきりとわかるほどだ。
ものすごく知りたい。
知りたいけど、あんなふうに何かを堪えている氷河が、言いたくないと思っていることを、無邪気を装って根掘り葉掘り訊くことなどできない。
黙り込んでしまったカミュに、暗闇の中でミロはため息をついた。
「……わかった、それはもういいや。じゃあ、過去のことはこの際置いとくとして……今は?今、好きな人がいるかどうかくらいはわかるだろ。朝から晩まで一緒にいるんだし」
「わからない。そんな目で先生のことを観察したことなんてない」
わからないって……んなばかな。
でも………そうか、コイツ、良くも悪くも純粋培養なんだ。
ミロは養成場の宿舎で同年代の候補生と起居を共にしているので、そういった俗っぽい好奇心を満たす話題にも慣れている。
しかし、カミュは、よく考えたら、あの氷河と二人きりで一日を過ごしている。ほっといたら、そんな艶っぽい話題がでるわけもない。どうせ、訓練がどうしたこうしたって話ばっかりしているに違いない。
「OK。じゃあ、氷河のことはもういい。(本当はあんまりよくないけど)カミュ、お前の気持ちはどう?氷河のこと、好き?……ああ、尊敬とかじゃなくって……」
ミロはカミュの胸を指でとん、と突いた。
「氷河のこと考えたら、ココが痛くなる?」
「ここ?……心臓?」
「まあ、そんなようなもん」
カミュはしばらく記憶を探った。
痛い、というのとは違う気がする。
もやもやする?
ドキドキする?
ミロが言っているのはそういうこととは違うのか?
「わからない」
カミュは、薄闇の中、表情を隠すようにギュッと枕に顔を押し当てた。
ミロの言うことがいちいち自分の理解の範疇を超えていて、プライドが折れる。
俺が、こと、知識という面においてコイツに負けるなんて。
ミロが、伏せられたカミュの額に、少し強く、頭突きをするように自分の額をぶつけて言った。
「わからないなら、うちの宿舎に時々来ればいい。お前、真面目だから抜け出したりできないかもしれないけど、機会があれば。年上の人の話聞くのおもしろいし、聞いてるうちに色々わかってくるようになるよ。だから……な、マジで考えてみて。……俺さ、昼間のことだけど……ふざけてたわけでもなんでもなくて、氷河のことは本当に気に入ってる。今はまだ憧れってだけだけど。でも、カミュが氷河のこと好きだって言うなら、俺は氷河のこと好きになるのは諦める。お前、大事な友達だし。でも、別に何とも思ってない、ただの先生としか思えないっていうんだったら、氷河のことは俺にちょうだい。俺は氷河の一番になりたい」
ミロのマリンブルーの瞳が真っ直ぐにカミュを見る。
明かりのない室内では、その色ははっきりと見えないのに、なぜかあまりに眩しく、カミュは見返すことができない。
「何を言うんだ、ミロ。だって、先生は大人で……俺たちは子どもだ。俺たちが勝手にそんな取り決めをしたところで、先生は相手になんてしてくれるわけない」
言いながら、自分の言葉に、カミュはひどく傷ついた。
そうだ。
先生はいつも俺をまるきり子ども扱いして、同等には見ていない。
先生との間にある大きな壁の存在を感じると、いつも息をするのが苦しくなる。
だが、何故、氷河との間に距離を感じると苦しくなるのか、その想いにあまり向き合ってみたことはない。
「バッカだな、カミュ!今は子どもかもしれないけど、永遠に子どもでいるわけじゃないだろ。そんな理由で、はなから勝負を下りるのは逃げているだけだ。傷つくことを恐れてたら人を好きにはなれないって、先輩たち言ってたよ。俺もそう思う。だいたい、子どもと大人って、何歳が境界なわけ。何歳になったら氷河を好きになっても許されるんだ。答えなんてないじゃないか。答えのないものに、自分で勝手に線を引いちゃうのはもったいないだろ」
悔しい。
抜きつ抜かれつ、同じように成長してきたはずなのに。
「大人っぽい」というのは、常にカミュのためにあった言葉だったのに。
ミロはいつの間にかカミュより先を歩いていた。
やることなすこと、まだまだ年齢よりずっと幼いやんちゃ坊主の顏をしたまま、カミュを置いてさっさと先に進んでいた。
カミュから返事がなくなって、ミロは少し慌てて手探りでカミュの手を探し当ててぎゅっと握った。
「ごめん。俺、また余計なこと言った?別にお前を責めたわけじゃないんだ」
カミュの返事はまだない。
しかし、ミロが握った掌を、ちゃんと聞いてるよ、というように握り返してきた。
「でも、まあ、色々言ったけど、ごめん、ホントは俺もまだよくわかってない。ほとんど全部、先輩たちの受け売りだから。あの、ほんと、時々、年上の人の話、聞くのも悪くないよ。たまにはカミュも来いよ」
「……お前みたいに夜に抜け出して?」
「そうそう。俺、見つからないルート知ってるから今度教えてやるよ」
「そういうのは別にいい。……でも、考えとく」
「うん」
二人で、暗闇の中、手をつないだままごろりと天井を向く。
「ミロ……先生のどこが『好き』なんだ」
「どこって……全部。外見ももちろんだけど……氷河、大人のくせにちょっと抜けたとこあるじゃん。でも、みんなの前ではそれを見せないように精いっぱい偉そうにふるまってるとことか?クールを装っているくせにわりとすぐ熱くなっちゃうとことか?大人って感じがしない。なんか護ってあげたくなるような?でも……最高に痺れたのはあの時だ。黄金聖衣纏って紫龍さんと対峙した……対等になりたい、あのひとが俺のものだったらいいのにって思ったよ」
同感だ。
それが『好き』だということなら、多分、自分はミロの言う意味で好きなんだろう。
でも、まだ自分にちゃんと向き合っていない。
結論を出すには早い。
**
「……昨日、叱ったばかりなのにお前は!」
カミュの部屋からおはよーと起きてきたミロを見て氷河は目を剥いて怒った。
「夜は本当にみんなが心配するから絶対に抜けてきちゃだめだ!!」
「大丈夫だよ、俺がいなくてもみんな慣れてるよ」
「慣れ……!?駄目だったら駄目だ!!!みんなが慣れても俺は駄目だ!なにかあったらどうするんだ!」
「氷河、怒っててもかわいいなあ」
「ミロ!!!!」
氷河に首根っこを掴まれて宿舎まで強制送還されながら、ミロは振り向いてカミュに手を振った。
カミュは片手をあげて応える。
ミロと並ぶ氷河の背。
顔を赤くして怒る氷河の表情。
興奮しすぎて「わたし」じゃなくて「俺」になるほど怒っているのは、ミロを『心配するからだ』と言い切るその声。
ああ、今、確かに胸がチクチクと痛い。