寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。


◆第一部 ⑧◆

「おい、起きろ」
 一輝は氷河の頬を軽く叩いた。
 瞳は閉じられていない。だが身体を弛緩させて、ぼんやりと考え事をしている様は、とても覚醒しているとは言い難い。
「カミュが戻ってくる頃だ。しっかりしとけ。それとも具合が悪くて寝てることにしとくのか」
 カミュの名を聞くと、さすがに氷河の瞳に光が戻った。気怠げに身を起こすのに手を貸してやれば、シャラ、と彼の首元でロザリオの鎖が揺れた。
「俺は……」
 人間、簡単に変われたら苦労はない。
 カミュとどう向き合うか、迷いに揺れている氷河の何も纏わぬ肩を抱き寄せて、焦るな、と一輝は言った。
「小難しく考えるな。お前のすべきことは、俺に忘れずに会いに来る、ただそれだけだ」
「……俺、お前にうまく騙されてないか?」
 ふはっと一輝は吹き出した。
 憎まれ口をきく余裕が戻ったなら大丈夫だ。血の気の抜けた強張った表情で縋られるより、邪険にされるくらいの方が安心できる。
「騙されたくないなら、俺につけ入る隙を見せないことだな」
 そう嘯けば、氷河は、少しだけ気まずげな表情となって、「………でもまあ、居てくれて助かった」と早口で告げてふらふらと立ち上がると、洋服をつかみ、浴室へ消えて行った。
 言い逃げとは酷い。
 もう少し、甘い余韻を堪能させてくれてもいいものを、と一輝は苦笑する。

 さて、と己も立ち上がって衣服を整え、姿を消すか、もう少しとどまっておくか、と考えながら部屋を出て、一輝はポケットを探って煙草の箱を取り出した。
 が、ここで吸ったら殺されるな、と思いとどまってそれを戻そうとすると、ちょうど邪武がカミュを連れて姿を現した。
「あれ、一輝、まだいたのか。……氷河は?」
 一輝は答えず、顔を奥の方へ傾けて示す。
「お前がいるなら、俺は下に戻っていいか。カミュはたいしたことないから、大丈夫だと伝えてやってくれ」
 そう言って、邪武は去って行った。

 一輝は、カミュと二人取り残される。

 間一髪……間に合わなかった。
 これでは、氷河は浴室から出てきても真っ赤になってしどろもどろだろう。
 平然としておけば、どうということもないのに、赤くなったりするから不審がられる。

 一輝はしばし考え、まだ手の中にあった煙草の箱から一本取り出し、火をつけた。吸わずに指先に挟む。
 目の前にいるカミュが、無言のまま一輝を咎めるような視線で刺した。
 初めて正面からカミュを見た。
 幼いながらも、整った綺麗な顔をしている。氷河の中性的な美しさとは違い、涼やかな目元には端然とした強さがある。
 理性的で大人びていることで通っているようだが、まだコドモだ。一輝を挑むように見る瞳は、敵対心を隠しきれていない。
 どうやら、相当に嫌われているようだ。
 特に嫌われるような何かをした覚えはない。そこまでの交流など持ったこともない。
 コドモのくせに、敏感に『先生』に近寄る悪い虫(一輝にしてみればカミュの方が後から来たわけだが)を威嚇しているのか。それは師弟愛にしては、やや境界を逸脱しているような気もするが、本人は気づいているのか。
 氷河に師事しているというより庇護しているかのような───やっかいだ。
 氷河の方が混同してしまうのは仕方がないにしても、『白紙』の状態であるはずのコドモの方までも、以前の関係性を知らないうちに引きずっているのだとしたら……一体、どうするのが正しい在り方なのか。
 氷河をそちらへ行くなと留めておくべきなのか、背を押してやるべきなのか。
 一輝にも正解はわからない。
 正解がわからない以上、一輝が従えるのは己の感情のみだ。
 俺はまだお前には氷河を渡せない。

 少し牽制でもしておくか、と一瞬思ったが、相手は8歳だ。いくらなんでも大人げない。
 人を好きになることの意味もまだ知らないコドモを、下手に刺激して藪蛇にならんとも限らない。本人が気づかないならそれに越したことはない。


 浴室の扉が開く音がして、氷河が姿を現した。
 カミュの姿を認め、ほっと安堵した表情を見せた後、案の定、自分の濡れた髪にハッと手をやり、みるみるうちに顔を赤くさせる。
 が、次の瞬間、氷河は一輝の指に挟まれた煙草に気づいて、たちまち顔を違う意味で赤くさせて怒り始めた。
「お前、子どもの前でなにやってんだ!」
 つかつかと寄ってきて、一輝の煙草を取り上げる。
 先ほどの甘い余韻はこれで完全に霧散した。
 一輝はふ、と笑って、氷河の手の中にある煙草に腕をのばすと親指と人差し指で、煙草の先を押しつぶして火を消した。
 そして、それを再び氷河の手から自分の手元に戻すと、氷河の肩を叩いて背を向けた。
「約束だ、ちゃんと俺に会いに来いよ」
 そう言って振り向かずに去って行く。氷河はその背に尖った声をかけた。
「お前は約束破りっぱなしのくせに!」


 氷河は肩で息をして一輝の背を見送りながら、そうだ、カミュの前だった、と声を荒げたことを反省して振り向いた。
 カミュは俯いたまま立っている。
 氷河はその前に膝をついて、自分の拳が当たった部分に手をあてた。目に見える傷痕などはないが、何度か親指の腹を往復させて確かめる。
「すまなかった……怪我はないか?大丈夫だったか?」
 カミュはそれに答えず、氷河の瞳をのぞき込む。
 カミュの紅い瞳に射すくめられるように見つめられて、氷河の心臓が思わず跳ねた。狼狽えてはならない、と思うのに、やはり平静を保つのはどうしても難しい。
「先生、俺は『子ども』ですか?」
「なに?」
 しばらく考え、今しがた『子どもの前で』と言ったことだと気づく。
 気づいて困惑する。

 子ども……子ども、だよな……?
 8歳……もうじき9歳だが……9歳だって普通は子どもと言っていい年齢だ。
 子ども扱いされることを嫌うカミュだから、プライドが傷ついたのだろうか。でも……子どもか大人かのカテゴリに分けるなら、子ども……でいいはずだ。

 氷河が答えあぐねているとカミュは言った。
「先生、アイツ……今、吸ってなんかなかったですよ。火をつけて長いこと持ってただけで」
「え?」
「先生にわざと見せるためにそうしたんです。先生がそうやってすぐむきになるから、からかわれたんです。気づかないんですか?アイツ……俺、嫌いです。先生のことそんなふうに……」
 氷河は驚いてカミュの顔を見る。
 どうしたんだ、急に。
 一輝が何か言ったのか?
 大人たちの誰に対しても、きちんと礼節を守るカミュが、言葉を飾りもせずに『嫌いだ』と断言したことに氷河は困惑する。
「先生、なんであんな奴と仲良くするんですか。先生みたいな素晴らしいひとに、あんないい加減で野蛮でそれから」
「カミュ」
 氷河が静かにカミュの言葉を遮った。
「それ以上言ってはいけない。君は一輝のことを何も知らないだろう?アイツはいい加減なやつなんかじゃない。野蛮でもない。俺……わたしよりずっと人間ができた、器の大きな人間だ」
「そんなことない!」
 今、『約束を破りっぱなし』と自分で怒っていた一輝のことをそんな風にかばわれて、カミュはますます苛立つ。

 この宮は俺と師の場所なのに、当たり前みたいにあいつがいたことだけでも気に入らないのに、このひとときたら、無防備にも浴室から出てきた。そんなの『客』がいるときにすることじゃない。
 カミュには、そのことの本当の意味はわからなくても、氷河がずいぶん一輝に対して気を許していることくらいはわかった。
 どうして?
 黄金聖闘士どうしだから?
 でも、星矢さんとか紫龍さんと話をするときと、アイツと話をする時の先生の顏、明らかに違う。
 俺にはわかる。
 先生、アイツの前でだけ、ほんの少し表情が変わる。
 まるで一番わかりあっているみたいな。誰にも許していない境界を、あいつには許している。


 珍しくカミュが感情を顕にして拳を握っている。
 氷河はますます困惑して、カミュの体をそっと抱きしめた。
「どうしたんだ、カミュ。やっぱり、どこか怪我をしたのでは……午後は休むことに」
「先生、俺がこんなふうに言っては駄目ですか。ゆっくり大きくなれって言ったじゃないですか。俺は子どもです。子どもだから我が儘を言ったっていいはずです」
 ……今、子ども扱いされて怒ってたような気がするのに、今度は子どもだから、ときた。
 支離滅裂だ。
 カミュの背を撫でながら、氷河は考える。
 カミュは、どうして、何に、こんなに苛立っている……?
 俺が……悪いのか?
 一輝が言っていた言葉を思い出す。
 カミュのためによくない、というのは、こういうことか?
 俺が、やっぱり混同しているから……?
 俺の知るカミュと無意識に比べて、本来のカミュとは違うことを強いてしまっていたのだろうか。
 確かに、記憶の中のカミュと比較して、幾分感情的だな、と思っていたことはある。しかし、氷河の中の『カミュ』は20歳だ。一番記憶を遡っても、それでもまだ14歳だ。
 目の前の8歳の少年と比べる方がおかしい。それを同列に扱ったことはないつもりなのだが、もしかしたら、無意識に態度に出ていたのかもしれない。

「ええと……うん、わかった、カミュ。……すまない。わたしが至らなかったせいで、君は色々我慢していたのだな。我が儘を言いたいならなんでも正直に言ってくれていいんだ。訓練に関する我が儘以外なら、聞けることなら何でも聞こう」
 氷河の答えに、迷うことなくカミュは怒ったように即答する。
「先生、アイツとは会わないでください。あと、俺も氷河って呼びたい」
 ……困った。
 いきなりどっちも難問だ。
 どうしたらいいんだ。さっき、一輝にはちゃんと会いに来るように言われたばかりだというのに。
 氷河、と呼ぶことくらいは許そうか。でも、今ですらこんなに混乱しているのに、そう呼ばれて自分は大丈夫だろうか。
 良き師でありたいと足掻いているからそれはきけない、と正直に言ってみればいいのだろうか。

 返事ができないでいる氷河に、カミュは、小さくため息をもらした。
 先生……何でも聞こうって、全然『何でも』なんかではないじゃないですか。
 俺がもし引き下がらなかったらどうするつもりなんですか。

 カミュは、師の体を押し戻して、おどけた調子で、意識して高く子どもっぽい声を出す。
「……嘘です。先生。俺もちょっと先生の困った顔が見てみたかっただけです。先生、からかうとかわいいんだもん。アイツの気持ちわかるな」
「……カミュ……」
「お腹がすきました。お昼ご飯をつくりましょう、先生」
 氷河を置いて、さっさとキッチンに向かうカミュを氷河は手をひいて引き留めた。
「カミュ、覚えておいてくれ。色々……不満もあるだろうが……わたしがこの世で一番大切なのは君なんだ。それは何があっても不変だ。それだけはわかっててほしい」
「……はい、わかりました、先生」
 でも、やっぱり、会いに行かないとも、名を呼んでもいいとも言ってはくれないんですね。
 俺がなりたいのはあなたの『一番大切』なんかじゃない、ただ、あなたを一番わかっていたいだけなんだ、そう言ってみれば、この人はどんな反応を返すのだろうか。
「カミュ……?」
「いえ、先生、何が食べたいですか?俺がつくります!」
 カミュは胸に去来した思いを全て封じて、笑ってみせたのだった。

(第一部・終)