寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。


◆第一部 ⑦◆

 カミュはすっかり見違えた。
 貪欲にすべてを吸収しようと鬼気迫る迫力で訓練に取り組み、空いている時間はすべて書庫に籠っている。
 先生、これはどういうことですか?こういう時はどうしたらいいのですか?とひっきりなしに疑問をぶつけてくるので、氷河の方もそれに応えるのに必死になった。
 寝る時間も満足に取れないほど大変だったが、成果が目に見えて表れるので、何も苦にならなかった。
 カミュが全力でぶつかり、氷河も全力でそれに応える。
 懐かしい既視感に氷河は寝食を忘れるほど没頭していた。

**

「あっ氷河だ!」
 養成場に顔を出すと、ミロが元気よく飛びついてきた。よしよし、君はいつも元気だなあと、氷河はその背を柔らかく叩く。
 ここのところ、カミュが養成場に来ている間は、氷河は書物庫に籠っていることが多かったので、久しぶりに姿を現した氷河に、ミロは大喜びだ。
「俺、色々複雑な動きできるようになったんだよ。氷河、見てて!」
 そう言って、先ほどまで組手の相手をしていた那智の元に戻り、再度、組み合い始める。
 氷河は、確かにいい動きだ、と興味深そうにその様子を眺める。
「ミロはかなり速くなってるな。相手のこともよく見えている。動体視力がいいんだな、きっと。この分だと、音速までももう少しだ」
 傍らに立つカミュに氷河は何気なく感想を漏らす。
 が、氷河がミロを手放しで誉めたのがおもしろくなく、答えるカミュの声には不満の色が混じった。
「そうですね。……でも、拳にウエイトが乗り切ってないように思います。あいつ、技巧でうまくごまかしているけど、体力もないし、長い手足を生かし切るだけの筋力もないんです。多分、基礎訓練、退屈だからさぼっているんだと思います」
 氷河は思わずカミュを見た。
 ミロの拳の軽さは一見してわかるというほどのものではない。実際、相手をしている那智は彼の拳で何度か後ろへ下がらされている。にもかかわらずカミュは、ミロに足りないものに気づいている。ここにいる指導者の何人がそれに気づいているだろう。
「……誰かがそう言っていた?」
「いいえ。俺、前から気になっていました」
「そうか……君も、やっぱりいい眼を持っているんだな」
 氷河はほんの少し嬉しそうな顔でカミュを見た。しかし、その瞳はカミュを通り越してどこか遠くを見ているように漂っている。
 まただ。
 先生、また、「俺に似たひと」のこと考えてる。

 しばらく、氷河の横でミロの動きを観察していたカミュだったが、やがて意を決したように氷河を見上げて言った。
「先生……一度訊きたかったんですが……何故、ミロには『氷河』と呼ばせたままなのですか。俺には名を呼ぶなと言ったはずですが」
 氷河の返事はない。
 聞こえなかったのだろうか、と横顔を見ると、師の顔は能面のように表情のない冷たい相貌に変わっていた。
 氷河は二度、三度と瞬きを繰り返すと、ミロに視線を定めたまま言った。
「……特に意味はない。強いて言うなら、君は直接の弟子だから、けじめが必要だと思ったからだ」
「けじめのためだというなら、『氷河先生』と呼ぶならいいですか。先生の名前の響きが俺」
「ダメだ」
 カミュの言葉が終わらないうちに氷河が強い口調で遮った。まさか拒否されると思わず、カミュも次の言葉を失う。
 カミュの顔がこわばったことに気づき、氷河は慌てて、安心させるように笑いかけた。
「長いし、発音もしにくいだろうから……君が呼ぶ時は、ただ、『先生』にしておいてくれ」
「……はい」
 返事をしたものの、納得がいかない。先生、と呼ぶことに不満があるわけではない。しかし、ミロにはよくて何故自分が駄目なのか。何故、『氷河先生』と呼ぶのすら駄目なのか。こじつけのような理由で拒まれては素直に飲み込むことができない。
 確かに、初めて会った時、『先生』とだけ呼ぶように言われてはいたが、『氷河』という単語を発音してもいけないほど、とは思いもしなかった。
 胸に棘が刺さったようにチクチクと痛む。
 カミュが僅かに俯いたのを見て、氷河は話題を変えるように、努めて明るくふるまった。
「さあ、カミュ、今日はミロではなくて、わたしとやってみよう。君はだいぶ動きがよくなってるからわたしも本気を出すぞ。心してかかれ。君の方は凍気を使ってみてもいい」
 そう言って、カミュの背を闘技場へと押しやる。
 カミュは、声を飲み込むようにして頷き、歩みを進めた。

 この数か月で飛躍的に身体能力が向上しているカミュは、氷河の繰り出す拳のスピードにだいぶついてこれるようになった。
 もちろん、氷河は全力ではなかったが、目をつぶっていても相手ができる、というほどでもなく、手ごたえがあるカミュの拳を楽しそうに右に左にさばく。
 カミュは、荒い息で必死に師の動きを追う。
 一度くらいは師に拳を当てたかった。
 ふざけて訓練をさぼってばかりのミロを、誰よりも真剣に訓練に取り組んでいる自分の前で誉めたこと。
 そのミロに許している境界を自分には許してもらえないこと。
 納得がいかないことを、感情の赴くまま、師にぶつけることができない『物わかりのよい自分』への苛立ち。
 それら全てを拳にのせていた。
 しかし、心が乱れている分、集中力が途中で切れた。
 視界の隅に、闘技場の端に立つ黄金聖衣がチラリと見えた。
 ……『一輝』だ。
 そうだ、あいつのことも気に入らないことのひとつだ。
 と、思った次の瞬間、氷河の叫ぶ声が聞こえた。
「カミュ!」
 しまった、と思った時には遅かった。
 カミュなら避けると踏んで撃った氷河の本気の拳が、一瞬、ほかのことに気を取られていたカミュのこめかみにかすめるように当たったのだった。
 氷河はすんでのところで拳を止めて勢いを殺したものの、当たったところが悪かったのか、衝撃の弱さの割にあっさりとカミュの意識は遠のいた。
「カミュ!カミュ!」
 薄れゆく意識の中、蒼白になった氷河の顏がチラリとカミュの視界に入った。
 どうしたんだろう。先生がこんなに動揺しているなんて初めて見た。
 そう思うと同時に、カミュの体は地面に崩れ落ちていた。


 あまりに長らく会えない状態が続いているため、さすがにどうしているのかと、様子をうかがうために久しぶりに闘技場まで下りてきていた一輝は、その瞬間をしっかりと見ていた。

 まずいな。

 蒼白になった氷河がカミュを抱き起す様子を見て、一輝は闘技場を横切って足早に近づいた。
 氷河の肩を叩いて宥める。
「氷河、あんまり揺さぶるな。落ち着け。そのくらいじゃ死なん」
 実際、養成場では、よく見られる光景だ。
 互いの拳が当たって、怪我をすることもあれば、今のように意識を失うこともある。だから、その場にいるほかの訓練生達は、なぜ、氷河がそれほど取り乱しているのかがわからず、怪訝な顔をしている。
 邪武たち指導者は一輝と目が合うと、軽くうなずいて、遠巻きに成り行きを見守っていた訓練生達を遠ざけるように、お前らよそ見するな!と声をあげた。
 氷河はカミュの体を抱きかかえ、周りが何も見えていないかのように、細かく震えていた。一輝の声も届いていない。浅く短い呼吸を繰り返しながら、血の気を失っている姿に、一輝の眉間に深い皺が寄る。

 コイツの方がよっぽどヤバそうだ。『黄金聖闘士』が衆人環視で我を失うのはまずい。

 一輝は周囲の視線を自分のマントで遮るように二人の前に屈みこんだ。
 そして、氷河の頬に指をかけ、無理矢理に視線を合わせると言った。
「おい、しっかりしろ。こんなとこで師匠が倒れてカミュに恥をかかせるつもりか」
「……カミュ……」
「そうだ。カミュのために、お前は立て。後は俺に任せろ。大丈夫だから、お前はとりあえず一人で宝瓶宮まで戻れ。できるな?氷河、立て。立ったら後は足を動かせ。何にも考えなくていい。立つ。足を動かす。それだけだ」
 何度か同じことを繰り返し一輝に言われて、氷河は茫然と頷いて、抱きかかえていたカミュをそろそろと地面に下ろした。
 そして、言われたとおりに立ち上がり、どうにか取り繕って姿勢を正して闘技場を抜けて行く。挨拶を投げかける訓練生に、無言ではあるが手をあげて応えて通る。
 訓練生達は、なんだ、いつもの氷河様だ。ということは、カミュは大したことなかったみたいだな、と一様に興味を失ってそれぞれの訓練に戻って行く。
 一輝はカミュの様子を見て、邪武を呼んだ。
「カミュを頼む。軽い脳震盪だろう。あまり動かさない方がいい。多分すぐ目が覚めると思うが……。俺は氷河の方を見てくる」
「ああ。わかった。目が覚めたらすぐに帰したらいいのか?」
 そうしてくれ、と言いかけて、氷河の様子を思い出し、一輝は少し迷った後に答えた。
「少し時間をくれ。昼まででいい」
 邪武は頷き、一輝はそれから少し時間を置いてから、闘技場を後にした。

 氷河の後を追って宝瓶宮に行くつもりだったが、闘技場を抜けてすぐ、岩陰に座り込む背を見つけた。
 なんとか人の目がないところまでは歩いて来れたようだ。不十分だがまあ合格だ。
 膝をついて青白い顔で呆然としている氷河の肩に手をのせる。
「よく堪えたな。上出来だ」
「……カミュはどうなった……?」
「邪武にまかせてあるから大丈夫だ。……もう少しだけ堪えろ。話は上に戻ってからだ」
 氷河は茫然と頷き、一輝は、力を失って座り込んだ氷河の身体を背へ抱え上げて、宝瓶宮までの階段を上って行った。

**

 宝瓶宮に着いても氷河は蒼白のままだった。
 一輝は互いの聖衣姿を解いて氷河をベッドにおろす。そして、ベッドのふちに腰掛け、氷河の背を柔らかく叩いた。
「仮にも聖闘士を目指す人間があんなことくらいでどうにかなるわけないだろう」
 そうは言っても、こちらは黄金聖闘士、相手はまだ聖闘士になってもいない子どもだ。氷河が拳を止めなかったら、よくて大けが、悪ければ───。
 人の命は儚い。
 年若くとも、完全なる健康体でも、ある日突然に命の火が消えてしまうことは皆無ではない。聖闘士を目指すからには、きっと、人よりずっとそのリスクを負っている。
 だが、一輝はそれには触れずに、ただ、氷河の背を何度も叩いて宥めた。
 氷河は、震える手を伸ばして、一輝の腕を引いた。氷河に誘われるままにベッドへ横たわり、氷河の背へ腕を回す。
 薄青の瞳は焦点の合わないまま無機質な硝子玉のように、眉間に皺寄せた一輝を映している。
「……あのひとを……また殺したかと……」
「『また』ってなんだ。普通、人間は一度しか死ねん。あのカミュはお前が死なせた『カミュ』じゃない。……だいたい、死ぬわけないだろう、あのくらいのことで」
 一輝の言葉が聞こえているのかいないのか、氷河は呆然と、怖かった、と繰り返す。
「……二度と俺の拳でカミュを死なせたくないのに、俺はまた……」
「氷河……いつまでも過去に囚われるな。まったく白紙から始めればいい。カミュはちゃんと白紙でお前のところに来た。問題はお前だ」
 氷河に言い聞かせながら一輝は己の拳を見つめる。

 ───幻魔拳。

 その葛藤は今まで何度も起きたが、これほど強く湧き上がったのは初めてだ。
 いっそ、氷河の中にある師の姿を醜く破壊してやるのが彼のためではないのか、と。愛情深く結ばれている師弟であったから、喪失の哀しみがこんなにも氷河を苦しめているのだ。
 師の命を奪ったのは一輝とて同じだ。だが、一輝が彼の師を思い出す時は、諦めに似た憐れみを感じるばかりで、そこに氷河ほどの葛藤はない。確かに畏怖すべき力は持っていたが、一輝が彼から何かを学んだとしたら、主に、彼の言動を反面教師として学んだものの方がずっと多いのだから。
 氷河の中における完璧な師との記憶が、思い出すのもおぞましいような醜い記憶へと変わってしまえば、あるいは。
 だが───氷河にはあれはもう通用しないことは証明済みだ。一縷の望みをかけて試してみる価値はあるが、師との記憶を穢すような手段を講じたとあっては氷河は絶対に自分を許すまい。
 やはり、これは氷河が自分で乗り越えねばならないのだ。

 強く握り締めた一輝の拳も震えている。
「氷河、カミュを誰か別の人間に預けてみるというのはどうだ」
「……だが、凍気使いはほかにいない」
「ならば、養成所で過ごさせる時間を長くしろ。とにかく、今のお前は必死すぎて距離感を見失っている。『いい加減な気持ちで子どもを教えるな』と言ったのは撤回する。お前はいい加減くらいでちょうどいい。たまにはカミュのことを考えない時間を作らなければこのままではカミュにもお前にもよくない」
「でも、我が師は、」
「お前とカミュとでは事情が違うだろう。ここは聖域だ。利用できるものは利用しろ」
 できない、と氷河は首を振った。
「気がつけば、一日中カミュのことを考えているんだ」
 一輝は唸る。
 どっちのカミュのことだか知らないが、これではせっかく立ち直りかけていたものが元の木阿弥だ。
「考えるのは勝手だが、あんなんじゃカミュはいつまでたっても聖闘士にはなれない。さっきのだって、戦闘中によそ見をするなと叱る場面だ。カミュに水をかけて叩き起こしていいくらいの失策をアイツは犯したんだ。普通の師匠なら間違いなくそうする」
 違う、違うんだ、一輝、と氷河はまた何度も首を振った。
「カミュのせいじゃない。本当は、カミュに当たる前に簡単に止められたはずだった。集中力を欠いていたのは俺の方だ。カミュが俺の名を呼びたいと言って……俺は、そのことに動揺して散漫になっていた」
 だからカミュに何かあったら、本当に俺のせいなんだ、と氷河は肩を震わせた。
 ───どうりで、聖闘士には日常的な光景のはずが氷河をあれほどまでに動揺させたはずだ。
 これは重症だ。
 一輝はため息をつく。
「自分でコントロールできないなら考えないでいられる時間を強制的に作ればいい。俺といれば少しはマシだろう?」
 氷河は長いこと考えていた。
 浅く早かった呼吸はいつの間にか落ち着いている。
 眠ったのだろうか、と思うほど氷河がじっと動かなくなったので、一輝は立ち上がろうとした。しかし、氷河は眠ってはいなかったようで、一輝の腕をつかんでそれを止めた。
 濡れた薄い色の睫毛で縁取られた瞳が縋るように一輝を見つめている。
 本心を見せようとしない、いつも何かが足らない言葉より、瞳はよほど雄弁に彼の求めを訴えている。堪らず、彼の瞳に引き寄せられるように一輝は氷河の唇を塞いだ。唇から、首筋、鎖骨、と舌を這わせていくと、氷河は喘ぎに紛れるようにして涙をこぼした。嗚咽を堪えるかのように引き締まった腹の筋肉が細かく痙攣している。
 氷河は両腕で自分の顏を覆って言った。
「……逃げているだけだな、俺は……」
 は、と一輝は笑う。
「俺はむしろ安心したぞ。少しは大人になったじゃないか。がむしゃらに真正面から突っ込んで行くばかりが正解とは言えない。体勢が崩れたなら一旦は退いて立て直す、そのくらいの知恵はあって然るべきだ。黄金聖闘士ともなれば、な」
 自分をコントロールできない黄金聖闘士などいるものか、と、苦しげな喘ぎとともに、それは氷河の唇から零れた。