寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。


◆第一部 ⑥◆

 自分は少しは先生らしいことができただろうか。
 一輝に言われた言葉が胸に突き刺さっていた。

『お前の師はそうやってお前を育てたのか?』

 カミュが、自分のことを慕ってくれてはいるものの、それほど尊敬されているわけではないことは気づいていた。だが、当然だと受け止めていた。自分は尊敬されるに値しない、と思っていたし、何より相手は『カミュ』だ。すぐに自分を超えていくに決まっているからそれでいいと思っていた。
 しかし、一輝に言われて気がついた。
 天賦の才だけで黙っていてなれるほど黄金聖闘士は甘くない。
 幼い時分から黄金聖闘士であった我が師は天性の能力のほか、彼をそう導くための良き師に巡り合えていたのだろう。
 カミュにとって、自分がそれにならねばならないのだと───理解だけはしていたはずが、まるで自覚が足らなかったことに氷河はようやく気づいたのだ。ある種、甘えていたのかもしれない。
 俺がカミュを導くのなら、今のままではだめだ。
 まず、俺自身を尊敬させねばならない。
 いくら教えても、尊敬していない人間の言葉など、少しも心に残らないだろうからだ。
 かつての師は、その佇まいだけで、圧倒的な威厳を放っていて、氷河もアイザックも自然とそんな師を尊敬していた。でも、自分には威厳も気高さも無縁だ。
 持っているのは、師から授かった、戦うための力、それだけだ。それだけだが───これほど頼もしい力はない。


 氷河は、宝瓶宮の書物庫へと足を踏み入れる。
 足元から天井までを埋め尽くす、本、本、本の山。壁と言う壁はすべて、ぎっしり本が詰まった書棚で埋め尽くされている。
 語学関係、物理関係、歴史関係……ありとあらゆる専門書がそこには所狭しと並べられていた。誰の手による整理なのか、とても几帳面に分類されていて、ちょっとした図書館のようだ。
 カミュはこれらの書物を全部読んだのだろうか。
 ……読んだのだろうな、きっと。あのひとのことだから。
 シベリアにもそれはたくさんの書物があって、カミュはいつも何か読んでは書きつけていた。

 何冊か手に取り、パラパラとめくる。
 傍線が引いてあったり、付箋がつけられたりしているものもある。

『今思えば、あいつも不安だったんだろうな』
 不意にミロの言葉が思い起こされる。
 氷河を教えることになったとき、カミュはまだ14歳だった。アイザックを教えはじめたのはさらにその1年前、13歳だ。その時点で既に黄金聖闘士として長く過ごしていたとはいえ……中身はただの人間だ。本来であれば、自分自身がまだ保護者が必要な年齢のときに、カミュは子どもを預かるという重責を与えられたのだ。どうやって教えたらいいのか、もしかして、これらの本を読んで、必死に研究しただろうか。
 手に取った本に、ポタリと滴が落ちた。
 それに気づくと、堰を切ったように次々と涙があふれた。
 本を抱えて、ずるずると冷たい書物庫の床に座り込む。
 14歳の少年だったカミュが、幻影となって氷河の目の前を行ったり来たり歩き回っている。
 幻影のカミュは難しい顔で書物を開いてはメモをとり、少し苛々とペンを噛んではまた次の本を取り出す。
 堪えきれず、氷河の唇から嗚咽が漏れる。
 今なら、今の俺なら、先生が俺を、俺たちをどんなに大事にしてくれていたかわかる。
 14歳……13歳。
 その時は気がつかなかった。8歳の自分にしたら14歳は十分に大人だったから。
 あのひとは最初から完璧な大人だったみたいな気がしていた。でも、今、8歳のカミュを前にするとそうではなかったことに気づかされる。
『カミュを神格視してやるな。あいつも一人の人間だった』
 再びミロの言葉が甦る。
「……っ」
 嗚咽は噛み殺しきれず、音となって、高い書物庫の天井に反響する。
 きっと迷い、葛藤し、揺れていた日々もあったに違いない。
 それなのにあのひとは、氷河の前では揺れる感情すべてを押し殺して、師であり続けた。
 ───揺らいだのはただ一度きりだ。
 その一度きりをうまく受け止めきれずに俺は……。

**

「おいで、カミュ」
 書物庫から氷河がカミュを手招きした。
 カミュは初めてその中に足を踏み入れる。
「う……わ……」
 思わずカミュは感嘆の声をあげた
「すごい……こんな量の本、初めて見ました」
「カミュ、読むのは好きか」
「はい!大好きです!」
「では、鍵は君に預けておこう。好きな時に好きなだけ読むといい」
「いいんですか!?」
「もちろん。知識は君を強くするのに役立ってくれると思う」
「はい!……先生は、これを全部読んだのですか?」
「……い、痛いとこつくな、君は」
「読んではいないんですね……?」
「だいたい!だいたいは、読んだ、かな。……読んでいない方が多い……かもしれない」
『先生』なんだし、全部読んだと、しれっと嘘をつけばすむところなのに、それをしない(できない?)のがこのひとだ。
 カミュは頬を赤らめている氷河の顔を見た。
 このひとのこういうところはかわいいと思う。でも、頼りないとはもう思わない。黄金聖衣をまとって戦う姿は、別人のような凄味があった。心の底からこのひとの元で指導が受けられて幸せだと思った。
「先生、この間の先生の技、あれは本当にすごかったです。すごく綺麗なのに……怖い、と思いました。凍気も極めるとあのような力強さに変わるのですね。早く俺も先生みたいになりたいと思いました。今すぐにでもあれを試してみたいくらい」
 氷河は安心したように少し微笑んだ。
「よかった。あの技は君に見せるために使ったんだ。でも……今すぐはまだ無理だ。あの技より、もっと基本的な技を先に習得して……いや、その前にまず理論かな。ほら、この本とか読むといい」
「はいっ。俺、もっともっとがんばります!先生、あの技、先生はどうやって習得したんですか?先生の先生から教えてもらったんですか?どのくらいでできるようになりましたか?」
 興奮状態で勢い込んで次々に質問を重ねるうちに、カミュは氷河の目の縁が赤いことに気づいた。
 先生……また泣いていた?
 書庫に長いこと籠っていたのはそのせいだったのか。
 氷河は、カミュの視線に気づくと、自分の顔を隠すようにカミュを抱き締めた。気のせいか、カミュを包んでいる身体が強張っている。

「……わたしは……我が師からあれを……学んだんだ」

『師から学んだ』
 たったそれだけの、考えようによっては当たり前のことを言うのに、氷河は長い長い時間をかけた。言葉を必死に探しているようにも、声が揺れるのを抑えているようにも見えた。
 カミュは氷河の背におずおずと腕をまわし、そっと撫でる。
 そして、不意にひらめく。

 先生が時々隠れて泣く理由。
 俺に似ていたというひと。
 先生、もしかして、それは先生の師だったんですか。


 一度、養成場で邪武に尋ねたことがある。俺に似たひとがいたんですか、と。
 邪武は、カミュを複雑な表情で見つめ、俺は直接見たわけじゃないからな、と何かを知っているような素振りをしたにも関わらず詳細を教えてくれなかった。
 大人たちは何か隠している。
 とても知りたいのに、氷河の様子を見ていると、子ども心にさえも軽々しく踏み込んではいけないことはわかり、だから、ずっともやもやしたままだ。

 氷河は身を固くしたまま、カミュをじっと抱き締めていたが、やがて、ぽつりと漏らした。
「カミュ……なるべくゆっくり大きくなってくれ」

 ……?
 きっとすぐにわたしを超えてゆけると言ったのに?
 俺は早く大人になりたい。
 早く大きくなって、強くなって、そして先生と同じ位置に立ちたい。

「なぜですか、先生」

 氷河は答えない。
 長い時間黙ってそうしていたが、やがて、静かに離れ、カミュの額にひとつキスを落とすと、はぐらかすように笑った。
「君は大人びているからな。一緒にいたらわたしが子どもに見えて困るからだ」

 氷河は、そこで会話を切り上げ、立ち上がって、わたしもカミュと一緒に読もうかな、と本を選び始めた。
 カミュはその背をじっと見つめる。

 また、だ。また、立ち入るな、と拒絶されたのだ、今のは。
 ほんの僅かも心を許してもらえないのは、師と弟子という関係性のせいだろうか。それとも、自分がそれに値しないほど子どもだから、だろうか。
 氷河が抱えているものに気づかないほど、本当に年齢相応の子どもであったならいっそ楽だったのに、これでは気になることが増えるばかりで落ち着かない。
 氷河の言葉とは裏腹に、早く、誰の目にも大人だと思えるほど大きくなりたい、とカミュは思った。

**

 慣れた石段をのぼって一輝は磨羯宮に辿り着く。
 主のない宮の夜はいっそ無気味なほどにしんと静まり返っている。
 柱にもたれて、瞬く星をぼんやり見つめながら、一輝は手の中の煙草の箱を弄んだ。
 吸うか、やめておくか。

 吸わずに待っていれば、来ない。たまに吸うと、まるでその瞬間を待っていたかのようにタイミング悪く現れて、顔を赤くして怒る。不思議だ。

 会えない日の方がずっと多い。
 曜日も時間も決めない待ち合わせでは会えることの方が奇跡だ。
 氷河がどの程度下りてきているのかは知らない。待ちぼうけを食らう頻度の高さからして、ほとんど来てはいないような気もしている。だが、「抜ける時間を作る」と言った氷河は確かに一輝との関係を継続させることに前向きであったはずなのだ。ならば、どれだけ会えない日が続いていたとて、一輝がここへ来ない理由はない。
 宝瓶宮の外へ抜けよう、という意志があるならまだ救いがある。
 氷河の世界が閉じていないとわかるからだ。
 すっかりとよい師をしているように見えて───カミュと二人きりの世界に閉じたのでは、結局、危ういままだ。
 不器用なヤツだ。
 ほどほど、というのがどうしてもできない。
 非情に戦え、と言われれば、不自然なほどに心を殺して、戦っていない時でも頑なに心を閉じてしまうような。
 ちゃんと『先生』をやってやれ、とは言ったが、こうまで没頭されると、大丈夫なのかと不安にさせられる。

 一輝は、薄暗い階段を見上げる。
 氷河、思い出せよ、俺を。
 お前のそれは、やばいんだ。

 ……今日は来ないな。

 しばらく煙草の箱を弄んで迷っていたが、一輝はそれをポケットにしまうと階段を下りて行った。