寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ本編:第


転生したカミュの師となる氷河のお話。


◆第一部 ④◆

 ……ついうっかり度が過ぎた。

 結局、氷河は意識を失ってベッドに沈んでいる。
 日頃淡白な人間に、(彼をそうさせたのが何であれ)あれだけ甘く求められては、大人らしく節度を保てというのが無理な相談というもの。
 途中からはさすがに疲れた素振りを見せた氷河の制止を一輝はすっかりと黙殺し、思うさま、素直な反応を返す身体を堪能して、くったりとのびた氷河を前にして、ようやく我に返った次第である。
 チラと時計を見たが、そろそろ夜と言うより早朝だ。
 宝瓶宮の朝が何時に始まるのか知らないが、コドモが目が覚めた時に、誰もいない、というのは酷だろう。
 おい、と氷河を何度か乱暴に揺すってみたが目覚める気配はない。
 仕方がない。送って行くしかない。

 一輝は氷河の服を整えてやり、自分の背に抱え上げた。
 はっきり言って、この状態で宝瓶宮までの階段を、しかも、途中に友人の目にさらされながら上るのは地獄だが、だからと言って放ってもおけない。
 一輝は覚悟を決めて獅子宮を出た。

 背中に負った体は予想したより僅かに軽い。
 アクエリアスとなった直後、喪失感と葛藤とを訣別しきれず抱え込んで、固く強張った無表情で宝瓶宮に立っていた、あの頃ほどではないが、それでも、理想とするウエイトよりいくらか足らない。
 無駄な肉のつかない薄い体は、彼を、いつまでも変わらぬ、少年のような繊細な容貌に見せているのだが、同時に、たったあれだけの運動で(というには少々激しかったかもしれないが)こうして意識を失うような体力のなさにもつながっているのだ。
 戦士としては弱点にもなる軽さに一輝は苛立ちを禁じえない。

 しかし、その体温は心地いい。
 しんと冷たい空気の中、触れているところだけはぽかぽかと温かい。

 8年。
 ───8年、だ。
 この穏やかで、多分、いくらか甘さを含んだ関係を築くまでに8年もかかった。
 氷河は表面的にはうまく自分の感情を制御しているように見えていたが、それは制御していると言うよりも、感情そのものを凍りつかせているだけで、感情を揺さぶる何かを一切寄せ付けないような見えぬ壁をいつも自分と他者の間に置いていた。
 鈍感を装い、壁の存在に気づかぬかのようにずかずかと踏み込んで。
 あるいは、問答無用で壁を打ち破って。
 死者の幻影と何度戦ったかしれない。
 あの手この手を尽くして、頑なだった氷河の心に変化が見え始めたのは1年前だ。
 21歳の誕生日。師が亡くなった歳を超えて、ようやく氷河の中の何かが変わり始めた。
 いや、きっかけはそれだけではなかったかもしれない。
 正攻法で壁を打ち破ることしか考えていなかった一輝が、壁の手前で座り込んで、わかった、お前はもうその閉じられた壁の中にいたままでいい。ただ、時折でいい、こちら側でお前を待っている人間がいることを思い出してくれさえすれば。そんな譲歩をすることを覚えて、多分、そのあたりから少しずつ二人の関係に変化が起きた。
 ああ、やっとだな、とそう思っていたというのに。

 俺が8年かかった境界を、あのコドモは出会った瞬間にもう超えてしまった。

 一輝は深くため息をつく。
 昨日、チラリと見た氷河の姿。
 氷河は───あんな顔ができたのか、と驚くほど、柔らかな笑みを浮かべてカミュに笑いかけていた。
 死者と戦うのは苦にならない。
 氷河がどんなに頑なでも、死者は二度と氷河に触れられない。
 触れられること、熱を与えてやれること、それは生者だけの特権だ。
 だからそれほどの焦りはなかった。

 だが、アレは反則だ。

 一輝自身はカミュの姿を見たことがない。しかし、瞬は「うりふたつ」だと言っていた。
 いっそのこと、本人が蘇ってきてくれた方がまだよかった。
 この8年をなかったことにするのは業腹だが、それでも、文句をしこたま言った後は、きっぱりと身を引いてやるくらいの潔さは持っている。(……かどうかはそうなってみないとわからないが、だが、選択肢としてはありうる、という話だ。実際に本人を前にしてみたら、やっぱりお前には返せない、となる可能性もないではない)

 だが───相手があんな年端もいかぬコドモでは……。
 身を引いてやることも争うこともできない。
 こうして、帰したくもないのに、コドモのもとへ氷河を返すべく、長い石段を上る羽目になってしまっている。
 俺は一体何をしているんだろうな、と一輝は何度目かのため息をつく。


 深夜ということもあって、友人たちは一輝の気配を察知しても、わざわざ出てきて声をかけることもなかった。(情けのわかる奴らでよかった)途中、誰にも会わないまま、一輝は宝瓶宮へと辿り着いた。
 何度も訪れた勝手知ったる宮だ。迷うことなく寝室へ行き、氷河の体をベッドへと下ろす。
 やや乱暴に背から落としたせいで、氷河は己のベッドへ沈んだ瞬間、ん、と目を開いて瞳を瞬かせた。
「……?」
「起きたか。宝瓶宮だぞ」
「ああ……悪いな。でも、助かった。何時だ?」
「もう1時間もすれば夜明けだ」
「そんなに?お前がしつこくするから……」
「嫌なら次はもっと早く会いに来い」
「えっ……うーん」
「悩むな、おい!お前は本当に冷たい!」
 氷河は笑った。
「じゃ、月に一度くらいなら」
「少なすぎるだろ!2日に一度!」
「多すぎだろ!週に一度」
「3日だ。それ以上は譲歩せん。3日たって来なけりゃ俺がこっちに来る。……それだと困るんだろうが」
「……じゃ3日でいい」
「せいぜい俺を忘れないようにするんだな」
「今までだって別に忘れていたわけじゃない」
 一輝は氷河のおとがいに指をかけて上を向かせると、キスをおとした。氷河は一瞬応えかけ、が、そういえばキスはしないのだった、と一輝を睨む。
 一輝は肩をすくめて氷河に背を向けた。
「一輝、煙草、やめろよ」
 氷河はその背に声をかける。
「吸ってないか確認しにこいよ」
 一輝は振り向かないまま手を振った。

 残された氷河はベッドの上へ起き上がる。体は酷く怠いがここで寝てしまってはしばらく起きられそうにない。シャワーでも浴びて目を覚ますか、と氷河は寝室を後にした。

**

 カミュがリビングに足を踏み入れると、師がソファへ横になって眠る姿が目に飛び込んできた。

 ……?
 なんでソファで寝たのかな。

 胸の上に本を開いたまま、だらしなく四肢を投げ出している。
 本を読んでいてそのまま眠ってしまったのか……。
 困ったひとだな。

 カミュは膝をついて、氷河の寝顔をまじまじと見た。
 見れば見るほど整った顔をしている。
 氷河が養成場に姿を現すと、訓練生たちは一気に色めき立つ。ほかの黄金聖闘士が姿を現しても、みんな興奮するが、氷河の場合はそれとは違う意味合いが多く含まれている。
 どうやら、氷河は、カミュが来るまでは、一度も養成場に姿を見せたことがなかったようだ。
 姿を見たことがない、ミステリアスな存在として噂されていたようだが、カミュと一緒に現れたその姿が、あまりにも『アクエリアス』そのものの涼やかな美形であったため、訓練生達は一気に心を奪われたようだ。氷河が近づくと、ほんの少しでも目にとめてもらえないかと、必死に皆、存在をアピールする。
 だが、氷河はあまり誰にでも声をかけるわけではない。(みんなは何か誤解して、『孤高の人』とか『氷の貴公子』とか言っているけど、カミュは知っている。このひと、単に面倒くさがりだ。)
 だから、幸運が重なって声をかけてもらえた者は赤くなってしどろもどろになって俯いてしまうのだが、それでも、周囲から羨望の眼差しで見られることになる。

 そんな周囲の様子はカミュに優越感をもたらす。

 俺は、先生の『特別』。
 先生が外に出るのはそこに俺がいるから。俺が、先生を変えた。

 みんな、このひとの綺麗な顔に騙されているけど、寝起きは頭もボサボサだし、今だってだらしなく口を開けて寝てるし、実はちょっとドジだし、中身は外見ほどに近寄りがたい感じじゃない。
 でも、絶対みんなには教えてなんてやらない。『特別』な俺だけの秘密なんだ。

 もう一度師の顔をよく見る。
 長く伸びた前髪が目にかかっている。邪魔にならないのだろうか。カミュ自身は顔に髪がかかるのは好きじゃない。前髪は短い方が好きだ。
 カミュは氷河の瞼にかかった柔らかい前髪をそっと後ろに流してみる。
 そうしてみて初めて、左目の上にかすかな傷痕が残っていることにカミュは気づいた。
 過去の戦いにおける名残なのだろうか。そういうのを見ると、ああ、やっぱりこのひとも聖闘士なんだな、と思いだす。
 もったいない。こんなに綺麗なひとの顔に傷痕なんて。
 でも、氷河自身は、自分の外見の美醜に全く興味はなさそうだ。
 前髪だけではなく、後ろの髪も、意図して伸ばしているというよりは、ずいぶん長いこと放置されていただけのようで、腰まで伸びた髪の毛先は乱雑にあちこち跳ねていて揃っていない。
 手入れされていなくてすら、それは、日に当たるとキラキラと輝いてとても美しいのだが、ほんの少し手をかけただけできっとこのひとは見違えるに違いない。
 ───いつか機会があったら俺がどうにかしてあげよう。
 黄金聖闘士だっていうのに、やっぱりちょっと頼りなくて抜けた人だという印象は変わらない。今までどうやって生きてきたのかとても不思議だ。自分がしっかりして、このひとをお世話してあげなくちゃ、という気にさせられる。

 氷河はすうすうと子どものような寝息を立てている。
 睫毛がとても長い。
 眠っているので、その瞳が見られないのが残念だ。
 カミュは氷河の瞳の色がとても好きだった。青と呼ぶにはもっとずっと淡い色。透明な薄い色の瞳はちょっとお目にかかれないほどの澄んだブルーだ。
 でも、カミュがそれをじっと見つめると、氷河はいつも、少し赤くなって目をそらすので、なかなか瞳を長く見つめることはできない。
 他人の目を見るのが苦手なひとなのかと思ったが、カミュ以外に対しては目をそらすことはあまりない。
 それだけではない。カミュが見つめると目をそらすくせに、カミュが背を向けているときなどはじっと見つめられていると感じることがある。一度などは、不意打ちで振り向いた時に、その瞳に光るものを見つけたことがあった。
 何ごともなかったような顔で氷河がそれに言及することはなかったが、多分、あれは涙だった。
 きっと、最初の日に、泣いたのと同じ理由だ。
 自分によく似たという人。
 知りたい、と思った。
 涙の理由を本人に聞いてしまうのは無粋なことであると、幼心にも感じてはいるから口にはしないが、だが、知欲の強いカミュは、自分が知らないことがある、というのが落ち着かないのだ。
 いつか誰かに訊いてみよう、と、カミュは胸に誓うのだった。

 さて。
 この様子ではとてもすぐには起きそうにない。
 カミュはくすっと笑って立ち上がり、自分の毛布をもってきて師の体にかけてやった。
 どうせ午前中は養成場へ行けばいいのだから、用もないのに無理に起こすこともない。
 カミュは書置きを残して、宝瓶宮を後にした。

**

 おおかた正午の声が近くなった頃、真っ赤な顏をした氷河が慌てた様子で養成場に姿を現した。
 先生ってば……すっごい寝癖。
 カミュは吹き出す。
 周りの訓練生が、「あの麗しのアクエリアスの氷河様」が一体どうしたんだろう、という顔で見ている。カミュは、こっちが素なんだとおかしくて仕方ない。
 ミロは氷河の姿が見えるや否や早速飛びついて、それから盛大に首をひねった。
「氷河?今日どうしたの。なんかいつもと違うね」
 カミュはミロにやや遅れて氷河の元へ辿り着き、先生、おはようございます、と頭を下げた。
 氷河はますます顔を赤くした。隣でミロが、今頃、朝のあいさつ?一緒の宮にいるのに?という顔をしている。
「その……ええと……す、すまない」
「大丈夫ですよ、先生。体の具合はどうですか?風邪をひいているのでしょう?」
「なんだ、氷河、具合が悪いの?寝てないとダメじゃん」
「ぐっ具合が悪いというか……ええ……そ、そう。か、風邪だ。ゴホゴホ」
 カミュは笑いを必死で堪えた。二人だけなら笑うところだ。周囲の目があるので、一応、師の体面のためにその下手な演技を大真面目な顔で受け止める。
 ミロが、どこがどう具合が悪いの?頭痛い?喉が痛い?と心配している。氷河はこれ以上は赤くなれない、というほど赤い顔をして、それを見たミロがまた、大変だ、熱がある!と騒ぎ始める。
「そんなに具合が悪いのに養成場に来てくれるなんて……先生、ありがとうございます」
 周囲の訓練生たちが、なんだ、そうだったのか、さすがは氷河様だ、具合が悪くても指導を忘れないとは、という顔になって、氷河はさらにいたたまれなさそうに身を縮めている。

 苛めすぎたかな。

 さすがにカミュも氷河がかわいそうになってきた。
 先生、具合も悪いことですし、もう帰りましょうか、と視線で呼びかける。氷河は、こくこくと頷き、カミュを連れてそそくさと養成場を後にする。

 が、数刻後。
 ミロが「お見舞い」と言って、リンゴを持ってきたことで、後に引けなくなってしまった氷河は結局一日をベッドで過ごす羽目になった。
 カミュは神妙な顔で師にリンゴを剥いてやった。
 目を白黒させて、リンゴを受け取る氷河の姿が、なんだかとてもかわいい、と思った。