サンサーラ本編より数年前。
2222キリリクより 「一氷はじめて話」というお題でした
◆新しい聖域で ②◆
聖域を再建させてゆくのは漠然と想像していたものより、ずっと忙しいものだった。
十二宮の守護だけだと思うのは大間違い。聖闘士養成のために人材発掘に出かけたり、歳若い聖闘士候補生の訓練を手伝ってやったり、女神のお供で外遊することも、不穏な気配を察知すれば偵察、討伐任務もある。
数か月もすると、沙織の守護を星矢、聖闘士養成方面は紫龍や瞬、というように、なんとなく得意分野が分かれはじめ、結果的に、氷河と一輝が偵察、討伐任務を請け負うことが多くなっていた。
だが、人手不足の聖域だ。二人一緒の討伐任務に就くことはまずない。その上、宮の位置も離れているため、二人が顔を会わせる機会はほとんどなくなっていた。
**
獅子宮へ続く石段を氷河が上ってきている。
一輝はそのことに気づいて、宮の出口まで進み出た。
ここのところ、互いに不在が続いていて、一輝は数カ月ぶりに見る氷河の姿だ。
「おい、任務だったのか。どこへ行ってた?」
一輝は目の前を通り過ぎていく背に声をかけた。氷河は聞こえなかったはずはないのに、立ち止まらずに進んでいく。
「おい……おい!」
一輝は氷河の手を引いて留めた。
氷河は声をあげて驚き、初めて自分がどこにいるか認識した、という顔をした。
「……一輝か……驚かせるな」
「獅子宮を通っていて、俺がいることに驚くお前がおかしいだろうが。……何かあったのか」
「?別に。ちょっと考え事をしていただけだ。………用がないなら行っていいか」
氷河にそう言われて初めて、ずっと腕をつかんだままだったことに一輝は気づき、その手を離した。
氷河はさっと踵を返し、マントを翻して去って行く。
一輝は自分の手を見た。
今つかんだ腕。
戦士のそれじゃない。
お前……もしかして痩せてないか。
腕だけでなく、背を見せた時にふわりと髪の間からのぞいたうなじもずいぶんと細く見えた。
思わず舌打ちが漏れる。
……ったく!何やってんだ!
意外にもまともに黄金聖闘士を務めあげているようだと思って安心していたら、コレだ。めそめそ泣いて、飯も喉を通らない、とかふざけたことを言っているんじゃないだろうな。
すぐに後を追いかけてやろうかと思ったが、入れ替わりで自分はこれから任務で出る身である。
改めて夜に様子を見に行くしかない。
一瞬、途中の宮の友人たちの顏が浮かんで、心底げんなりする。
そうそう言い訳などたくさん種類があるわけない。夜更けにどこに何をしに行こうとしているのか、不審に思われるに決まっている。
正直に、氷河の様子が気になるから見に行く、と言ってもいいが、曲がりなりにも、氷河にもプライドはあるだろう。本質的には多分、星矢に近い末っ子気質の自由人なところがあるくせに、なぜか氷河はやたらと彼らの前で「兄貴」ぶりたがるのだ。
どうやら星矢含めてほかの奴らには精いっぱい虚勢を張って何も悟らせていないようだ。
色々と苦しい言い訳を考えながら、なぜ俺がこんな苦労を、と眉間に皺寄せながら一輝は苛々と獅子宮を後にした。
**
「また抜けて来たのか……お前と来たらフラフラと。一カ所にとどまっておく、ということが何でそんなに難しいんだ」
深夜、眠りにつこうとベッドに横たわっていた氷河は、一輝の気配を感じて(今度はちゃんと気づいた)、私室のドアを開けた。そして、予想通りそこに一輝が立っていることをみとめると氷河は呆れたように頭を振った。
「お前に説教される筋合いはない」
「俺じゃなきゃ、誰の言うことなら聞くんだ、お前は。お嬢さんにでも叱ってもらえばいいのか?それほど宮を抜け出したいならせめて行き先は瞬のとこくらいにしておけばいい。なぜ、よりによって端っこの俺のところまで来るんだ。さっさと帰れ」
「用がすんだら帰るさ」
「こっちは用なんかない。さっさと帰って寝ろ」
そう言って、氷河は一輝の鼻先でドアを閉める。しかし、わずかに一輝の足が挟まれるのが早く、そのまま力任せにこじ開けられた。
「なんなんだ、一輝。おやすみのキスが欲しいならほかの奴に相手にしてもらえよ。あいにくと俺はお前につきあってやるほど暇じゃない」
氷河に好き勝手言わせたまま、一輝はその二の腕を掴んだ。やはり細い。
一輝が眼光鋭く氷河を睨み付けると、ややたじろいだ様子で氷河は一歩下がる。一輝が一歩近寄る。氷河が下がる。そうして、どんどん部屋の奥へ追い詰め、氷河の膝裏がとん、とベッドの端にぶつかった瞬間、一輝は足払いをかけて、氷河の身体をベッドへと転がした。
おい、なにする、と憤りの声をあげる氷河に構わず、パジャマの裾を大きく上にたくし上げて、思わず息をのんだ。
バカが。
想像以上に悪い。
己の肉体を研ぎ澄まさないといけない聖闘士としては些か頼りなさすぎるほど薄い身体をしている。
今ならきっと、もともと食が細く肉がつかない体質の瞬の方がよほど肉がついている。
いくら、凍気、という特殊能力を用いて闘う彼であっても、こんなに薄い身体をしていては、体力がもたないに決まっている。
しかし、それに輪をかけて驚かされたのは、氷河の身体に残る新しい傷痕だった。
一瞬のうちに一輝の心が灼熱の島に引き戻される。
ねっとりと絡みつくような熱波に包まれた島で見た光景が幻影となって甦る。
彼女も頼りないほど細い体をしていた。主人に常に鞭で打たれて白く滑らかな肌は傷だらけだった。なのに、いつも笑顔で人のことばかり気遣っていた、自分の目の前で死んでいった、あの……。
幻影のブロンドが目の前にいる相手と重なる。
救えなかった魂。無力だった自分。
パジャマの裾をたくし上げて掴んだまま、動きを止めてしまった一輝の体を氷河は下から蹴り上げた。
構えることすらせず棒立ちになっていた鳩尾にきれいにヒットして、一輝は思わずよろめいて片膝をつく。しかし、逆にその程度ですんだことに戸惑いを感じる。
……まさか、今の軽いのが本気、とか言うわけじゃないだろうな。
「なんなんだ、一輝。夜中に来たかと思えば、いきなり」
「お前……その傷どうした」
氷河はそれに触れてほしくなかったようで、聞こえなかったふりでさらに続ける。
「ハ!もしかして、本当はお前の方が一人で寝るのが寂しいんだろう。だが、あいにくこっちはお前なんかに用は」
「おい!!」
一輝は身を起こし、氷河の首を片手で締め上げるように掴んでその言葉を止める。けほ、と苦しげに顔を顰めて、だが、氷河は一輝を振りほどこうとしない。───できない、のだ、たぶん。
「その傷はどうしたと聞いたんだ、俺は!」
「……なんでお前に言わなきゃいけない?お前には関係ない」
「氷河!」
「耳元でうるさい、一輝!なにをかすり傷くらいで大げさに騒いでいるんだ!……この間の任務でちょっと下手うっただけだ」
お前にだけは知られたくなかったのに、という顔で、氷河は悔しそうにしぶしぶそれを告げた。
下手うった……だと?
任務って言ったって、聖戦の終わった今となっては、偵察だとか、今までの敵からしたら考えられないくらいの小物相手の討伐だ。お前の実力は、その拳を受けたことのある俺が一番知っている。その傷は、わざと受けたか、さもなけりゃ、それほどまでにお前の体力が落ちてるか、どっちかだ。どっちにしても、お前は今崖っぷちだ。そんな『黄金聖闘士』があるものか!
「ちょっと来い!!」
一輝は氷河の腕を取って乱暴に立たせると、キッチンへ向かう。
「お前いったい何食って生きてんだ!」
そう言いながら冷蔵庫を開けて呆れる。
「調味料しか入ってないじゃないか!!……しかも、なんで歯磨き粉とか入ってるんだ!」
「冷たいのが好きなんだよ。ほっといてくれ」
「食べ物みたいに言うな!この阿呆が!!」
どうりで痩せたはずだ。
氷河は気だるげに髪をかきあげ、もう行っていいか?俺、朝早かったから眠くて、と言った。
城戸邸にいた時は普通に食べていた。
自覚があるのかないのかわからないが、聖域に来てからまともに食べていない、んだな。
どうしてお前のそれは、内側に向かってしまうんだ。
氷河が多分抱えている苦悩は一輝自身にも覚えがある。
一輝の場合、ままならない現実に対しての無力感や喪失感が破壊衝動となって他者を傷つける方向に現れた。氷河の場合は、意図しているにしろしていないにしろ、それがすべて自分を傷つける方向に向かって発露しているだけだ。根っこは同じだ。だが、目に見えない分、氷河の方が性質が悪いともいえる。
俺をこっちの世界に引き戻したお前自身が、そんなふうに境界の向こう側を向いて立っているのは許せない。
無性に腹が立って仕方がない。
怒りや苛立ちと共に、心臓をぎゅっと掴まれたかのような息苦しい感覚が湧き上がる。それは、手に入らないものを熱望して焦がれる苦しさのようでもあり、痛々しくいじらしい姿を愛おしく思う気持ちのようでもあり、また、そのどちらでもないような気もした。
くそっ、なぜ俺がこんな、と悪態をつきながら、一輝はキッチンの戸棚を次々に開け始めた。
「……おい、一輝、何をしている」
「米くらいはあるだろう。女神が確か皆に……これか。未開封とはどういうことだ」
「だって俺は米の食文化の人間じゃ、」
「今から炊くぞ」
「はあ!?お前な、夜中に宮を放棄してきて何を勝手なことを。腹が減っているなら帰ってから食えよ!!」
「食べるのはお前だ」
「はああああ!?勝手にお前がそれを決めるな!もう食った、俺は!」
「何食った」
「……そりゃあ……いろいろだ」
その返事はちゃんと食べた人間の返事じゃあない。一輝は氷河の抗議を無視して勝手にキッチンを使い始めた。
**
食べていない、というのは当たっていた。
聖域に来て、氷河は初めて自分が『食べられない』、ということに気づいた。
まがりなりにも黄金聖闘士になったのだ、それも水瓶座の、という自覚が、聖闘士として過ごすことについては冷静さを保たせていた。
が、食べるということは命をつなぐということ。
よくよく考えてみれば、今までずっと誰かの手による食事ばかり続いていたのだ。
日本では城戸邸に滞在していたし、あの、カミュの気配が濃厚に残るシベリアですら、ヤコフが食事の世話に来てくれていた。自分で自分自身の命を繋ぐ作業をする、という環境におかれて初めて、それができないことに気づいた。
料理そのものはできる。シベリアでカミュに教わった。
だが、何を作ってもカミュの味になる。当たり前だ。カミュに全てを習ったのだから。
師の命を奪った場所で、師に教わった味で自分の命を繋ぐという行為。
それが生きることに必要なのだと頭では知りながら、どうしてもそのために自分自身の身体を使うのが酷く億劫で、一向に食べる気力がわかないのだった。
一輝が懸念したように、体力が持つわけがない。
『下手をうった』のは嘘ではなかった。
それでも、自分ではどうしようもなかった。このままでは聖闘士としてやっていけなくなる、きちんと食べなければ、と焦れば焦るほど、状況は悪くなっていった。
誰かを頼るにはプライドが邪魔をした。
自分では気持ちに蹴りをつけた。だからこそ、こうして水瓶座の黄金聖闘士として宝瓶宮で過ごしている。今では、師を思って涙をこぼすようなこともない。
俺は、ちゃんと、師の教えを継いでアクエリアスとして務めあげている。
なのに、独りでは食事がのどを通らない、なんて、情けなさすぎて誰にも言えるわけない。
結局、どうしたらいいのかわからず、誰にも言い出せないままここまで来てしまっていた。
**
「……どんなすごいのが出てくるかと思ったら」
「米と調味料しかないのにどんなすごいものが作れるのか俺こそ聞きたい」
ソファに座った氷河の前にはてんこ盛りの塩むすびが置かれている。
意外とちゃんとした形に仕上がっていて、氷河は少し驚いた。俺より器用なのか、とちょっと負けた気がして悔しい。
「食え」
「夜中に食ったら胃がもたれる」
「お前は中年サラリーマンか!育ちざかりの男ならもりもりと食え!」
一輝は無理矢理氷河にひとつ持たせて、仁王立ちになってじっと見張る。
氷河は、どうせ食べられないに決まっている、コイツの前では醜態をさらしたくない、そう思ったが、一輝がしつこく促すので、しぶしぶ、といった様子で口に運んだ。
しかし、一口食べても、二口食べても、いつもの拒絶感はやってこない。気づけば次々に口に運んでいた。
ようやく一輝も氷河の隣に腰をおろして、自分も一緒につまむ。
氷河ははぐはぐと夢中で食べている。
別にハンストしてるわけでも、何も口にできないほど弱ってるわけでもないんだな。
「なんで食わなかった」
「へ?ふっはへひっは」
「食ってからしゃべれ」
「………………食ったって言っただろ」
「ちゃんと食べた人間の食い方じゃないぞ、それは」
「うるさいな。『育ちざかり』なんだよ。……水」
へえへえ、とキッチンへ水を取りに行く。背中で、そうか、米は食べられるんだ、と呟く声が聞こえた。
米が食べ物だと知らなかったのか、あいつは。
五合も炊いたのに、一輝も少しは食べたとはいえ、皿の上はすっかり空になった。満腹になると気持ちがまるく落ち着いてきたのか、少し気まずそうな声で氷河が言った。
「……うまかった」
「米が食い物だと気づいたか?」
「ああ」
素で肯定された。本当に気づいてなかったのか。
変なヤツだと思っていたがこれほどとは。
隣に座る氷河の横顔を見る。少し血色がよくなったようだ。
やれやれ、世話がやける。
「悪かったな、一輝。助かった。もう大丈夫だから宮に戻れ。あんまり遅くなるとお前も明日大変だろう」
殊勝なことを言う氷河は珍しい。よっぽど『米の恩』は効いたらしい。
素直だと、かわいいんだがな。
いつもキャンキャンと噛みついてくるから、こっちも売り言葉に買い言葉だが、こんなふうに素直だと、ついうっかり優しくしてしまいそうになる。
満足げにソファへ身を預けて、少し眠そうなそぶりを見せている氷河の横顔を一輝はもう一度そっと窺い見る。
柔らかい金糸で縁取られたその顔は、何度見ても同じ男とは思えないほど整っている。貴公子然とした相貌には、隠しきれない豊かな感情がいつも滲んでいて、甘い男め、と思う反面、そういうところに惹きつけられてもいて、時折、彼が隠そうとしているものを全て剥き出しにさせてやりたいというぞくぞくするような欲望が湧き起こる。
今もその衝動は一輝とともにあった。
一輝は氷河の肩をトン、と軽く突いた。
ずいぶん薄くなった身体はあっさりとソファへ転がる。
一輝はそこへ覆いかぶさるように身を乗り出して氷河の顏を間近で見た。
「……?なんだ?またおやすみのキスでもしたいのか。お前、日本人にしてはキスが好きなんて変わってるよな。ほら、こいよ。今日は許す」
挨拶代わりにキスをする国で育っているせいもあるだろうが、今日はそこへ『米の恩』が加わって、ずいぶんガードが緩い。
一輝は吹き出した。
氷河の方はなぜ笑われたのかわからず、俺なんか変なこと言ったのか、とまじまじと一輝の顔を見上げている。
一輝は氷河の両腕を顔の横で押さえつけた。
「痛いぞ、一輝。させてやるって言っているのにこの仕打ちはないだろう」
「振りほどいてみろ」
「キスしたいのかしたくないのかどっちなんだ」
「いいから、やってみろ」
変なヤツ、と言いながら氷河は両腕に力を込める。が、びくともしない。
あれ、おかしいな、上に乗られているのだから振りほどくのが難しいまでも1ミリも動かないってことはないはずだ、と再度、今度は渾身の力を振り絞るがやはり同じだ。
一輝はため息をついた。
やっぱりだ。
痛々しすぎて欲情もできやしない。
氷河は、しばらく顔を赤くしてがんばっていたが、途中で諦めたようだ。お前、重いからな、と最後に言い訳して力を抜いた。
炭水化物ばかりを胃につめこんで(多分久しぶりに満腹になるほど)、その上、一輝の少し高い体温を肌に感じて氷河は眠くなったようだ。一輝に両手首を掴まれたまま、うとうとしはじめる。
ついには、すうすうと寝息を立てて寝始めた。
お前、どこまでバカなんだ。
その警戒心のなさは一体何なんだ。今、俺を振りほどけなかったばかりだろうに。無防備にもほどがある。
よっぽど俺のことを景色の一部くらいにしか思っていないに違いない。
面白い。だったら意識せざるを得ないようにさせてやろう。
ただし、それはこんな状態の今じゃない。
一輝は完全に眠りに落ちてしまった氷河の身体を抱きかかえて、寝室へと向かう。やはりそれはびっくりするほどに軽かった。