サンサーラ本編より数年前。
2222キリリクより 「一氷はじめて話」というお題でした
◆新しい聖域で ①◆
「俺たちを黄金聖闘士に?」
「ええ、引き受けていただけませんか」
久しぶりに城戸邸に五人全員揃ったタイミングで、沙織から相談がある、と告げられ、星矢達はその打診を受けた。
戸惑ったような声で瞬と紫龍が声をあげる。
「でも、僕たちが黄金聖闘士だなんてとても……」
「俺の力など、まだまだ黄金聖闘士の域には遠く及びません」
沙織は静かに首を振った。
「あなた達をおいてはほかにいません。あの聖戦を共に戦った私が言うのです。間違いはありません」
沙織の言葉に、聖戦で各々纏った借り物の黄金聖衣の重みが五人の心に喚起される。
神に最も近い最高位の聖衣の重みが。
「まだ、じゃないかな、俺たちは」
多分、最も重みを身を以て知っている星矢がポツリとそう漏らす。
「いいえ。聖衣にはそれ自体に意志があります。私にもその意志を左右することはできない。どんな状況であっても、例え、私を護るためであっても、纏うに値しない者に聖衣が力を貸すようなことは決してありません。あなた達が一度なりと黄金聖衣を纏えたこと、それが星の導く答えです」
力強い女神の言葉だが、あまりに気高かった黄金の戦士たちの記憶も新しいうちに、では、と簡単に頷けるものでもない。
各々が自分の思考に深く沈むのを、沙織が困った顔で見渡した。
助けを求めるように、沙織は、皆から少し離れて壁にもたれて立っている最年長者へと視線を滑らせる。だが、一輝は関心が薄そうに肩をすくめたのみだ。
一輝からやや離れて、同じように壁にもたれている氷河は、長い前髪に目元を隠すように腕を組んで俯き、沙織と視線を合わそうともしない。
もう!と沙織は、神の顏ではなく、少女の顔で少し拗ねた声を出した。
「十二宮をいつまでもあのままにはできない、と言っているのです。まさかなんの守護もない空っぽの聖域に私一人でいろと?それとも辰巳にでも守護させておけばよいのですか?」
辰巳が宮の守護を?と、多分、想像したのだろう、星矢がぷはっと吹き出した。
少しだけ緩くほどけた空気で、でも、なあー、とまだ少し迷いに揺れている中、今まで微動だにしていなかった氷河が顏を上げた。
「……引き受けよう」
「え?」
「俺が我が師の聖衣にふさわしいかどうかはわからない。だが命に代えて宮を護ることくらいはできる」
しん、と沈黙が下りた。
氷河の言葉に込められた重みを誰もが知っているためだ。
水を打ったかのような静けさに、言葉を発した氷河は少し困ったような顏をし、「………次代のアクエリアスが現れるまで、でよければ、だが」と小さく付け加えた。
沙織が立ち上がってそっと氷河に近寄り、その手を取る。
「あなたが次代のアクエリアスですよ、氷河」
沙織に手を取るに任せた氷河は、肯定も否定もせず、ただ、また前髪に隠れるように俯いた。
重い空気を振り払うように、よっし、と星矢が勢いをつけてソファから立ち上がる。
「やってみるか!黄金聖闘士!お嬢さんの頼みとあっちゃ仕方がない」
「あは。無人よりはマシ、かもね」
星矢の言葉を瞬が引き継いで、紫龍が頷く。沙織も安心したように表情を綻ばせ、再び皆の中心へと戻る。
「よかった。生活の場もうつるわけなので……色々準備もあるでしょう。大変なこともあると思いますが頼みましたよ。では……また聖域で」
なんとなく、全員の顔が引き締まったところで、沙織は部屋を出て行った。
結局、最後まで一言も発することはなかった一輝は、チラリと氷河の様子を窺った。
緩く解けた部屋の空気に合わせるように、口角は上げられているのに、壁伝いに伝わる空気が固い。
どんなつもりで氷河があれを発言したのか。
声をかけるべきか少し躊躇い、だが、一輝はそうはせず、ただ黙ってその部屋を後にした。
**
「星矢、あなたに射手座の聖衣を授けます」
「瞬、あなたには乙女座の聖衣を」
「紫龍、あなたには天秤座です。一輝、あなたは獅子座を」
教皇の間において、女神のいでたちをした沙織から、恭しく黄金聖衣を授かる。
最後に、氷河の前で沙織はとりわけ優しい声でそれを告げた。
「氷河……あなたに、水瓶座の聖衣を。あなたに……あなた達すべてに星の加護のあらんことを」
氷河を抱き締めるようにそっと触れ、そして沙織はまた玉座へと戻る。
「全ての宮に守護者が揃うにはまだ時間がかかります。ですが、あなた達が宮に居てくれれば私はとても心強いです」
最後は少し『沙織』の顏に戻って、そう厳かに告げた。
五人は頭を垂れてそれを聞き、一人、また一人と教皇の間を抜けて、守護を任されることになる宮へと下りて行く。
氷河だけは頭を垂れたまま立ち上がらない。四人の背を見送って、最後に、沙織と二人きりになってようやく氷河は口を開いた。
「お嬢さん……いえ、女神。ひとつ、お願いがあります」
「なんでしょう。氷河」
「十二宮の外に……危険に赴くような任務の必要性が生じたら、できる限り俺に回して欲しい」
「それは……なぜです」
氷河は黙り込む。沙織は氷河が答えるまで静かに待った。
「……宝瓶宮はここから一番近くて便利だから……」
やがて自信なさげに揺れる声で告げられた氷河の答えはとうてい沙織を納得させるものではなく、真意を窺うようにさらに氷河の顏をのぞきこむ。
しばらく考え、氷河は諦めて言った。
「あいつらには……家族がいる。星矢には姉、紫龍には春麗、それから一輝に瞬……なのに、宮の位置的に俺より前線に立つ羽目になる。ならば、せめて、それ以外の任務を引き受けて、危険負担を減らしてやりたい」
「氷河……」
沙織は思わず玉座を下りて、氷河に近づいた。その肩に優しく手をかける。
「あなたも、ほかの四人と同じように私にとってはかけがえのない人物なのですよ、氷河」
「……光栄です」
「星矢達も、同じようにあなたのことを家族だと思っていると思いますけれど……」
「……」
「誰を派遣するかは、その時その時の適性を見て決めることになるでしょう。ただ……あなたの気持ちは受け止めました」
「よかった。……あいつらには黙っていて欲しい」
「わかりました。でも、あのひとたち、納得するかしら。なんだか、ひとところに留まるのが苦手なひともいるから、あなたばかり外に派遣していたら私恨まれそうなのですけど」
「それは、一輝のバカのことだな?」
最後は『女神とその戦士』からただの沙織とただの氷河の顔に戻って二人は顔を見合わせて笑った。
氷河が、背を向けて教皇の間を去って行くのを沙織は慈愛に満ちた眼差しで静かに見送る。
**
わずかばかりの階段を下りて、宝瓶宮へと着く。
ほぼ2年ぶりに見る宮は、変わらず威厳と寂しさを湛えていて、胸が苦しくなる。
最後にここをゆっくり訪れたのはミロとだったか。
裏手へ回り、確かこのあたりだったかな、と傷跡を探し、それが変わらずあることを確認する。
何度か指でそれを撫で、氷河は立ち上がると、ゆっくりと宮の中へと足を踏み入れた。
足を踏み入れた瞬間、宝瓶宮での戦闘の記憶が、氷河の心に嵐のように蘇ってきた。思わず立ち止まり、その衝撃に耐える。その記憶は氷河の柔らかな心に爪を立て、牙を剥きだし、容赦なく責め立てる。大きく肩で息をして、唇を噛んで耐えかけ、一瞬のちに、そうだった、今は『泣いてもいい時』だった、と気づいて、感情を素直に解放させる。抑圧させ続けるだけが感情の制御方法ではないと学んだ。時に哀しみに身を任せることも、前を向くための一つの手段だと今はもう知っている。だが、それを教えてくれた人も……もう、いない。
長いこと流していなかったためにもう涸れ果てたのだと思っていた涙が次々にあふれ、嗚咽がもれる。がくりとくずおれた膝を冷たい石造りの床について、宮そのものを抱き締めるかのようにそっと手を床に触れる。頬を伝って落ちた雫が、乾いた石に次々吸い込まれては消えていく。
アクエリアスとして宝瓶宮を任されること。
この上ない名誉だ。
───なぜアクエリアスが空席になったかを考えないでいられるなら。
普通なら誉れあるべき継承がこんなにも苦しいのは、全てそこに起因する。
何度も何度も反芻した、最後の戦い。
違う、あれは戦いと言えるようなものではなかった。
あれほどまで厳しく、氷河に女神を護ることを説いた師は、最期の瞬間は、女神の聖闘士として、ではなく、ただ、氷河の師としてのみ存在していた。
だからあれは、戦いなどではない。師の全身全霊をかけた、最後の授業。
氷河は、傍らの聖衣箱を抱きしめるように引き寄せた。
託された、のだ。
自らの拳で女神を護ることではなく、氷河にそれを託したカミュの気持ちを思えば、どうして恥ずかしく逃げるような真似ができようか。
それでも───たまらなく、苦しく、寂しく、切なく、胸を引き裂かれそうな痛みが差す。
氷河は手のひらで涙をぬぐってのろのろと立ち上がる。
聖衣箱を、まるでそのひと自身であるかのように優しく抱えなおして宮の奥へ進む。
青銅聖衣に比べてとても重い。
聖衣それそのものの重さより、もっと多くのものがそこには乗せられているがゆえに。
俺は師にはきっと、遠く及ばないことだろう。
だけど、アクエリアスの名を穢すような真似だけは絶対にすまい。
初めて宝瓶宮の奥へ足を踏み入れる。
ずっとシベリアで修行していて、宝瓶宮へは火時計に火が灯ったあの夜に初めて来たのみだ。
そこに師の痕跡が残ってはいないかと、わずかに期待していたのだが、私室として使っていたと思しき部屋は綺麗に片づけられていた。ベッドのシーツも新品のようだ。
きっと、主が入れ替わることになり、改めて整えられたのだろう。残念に思うと同時に、やや安堵もする。師の痕跡が色濃く残っていれば、きっと精神は限界まで振り切れたことだろう。
全ての部屋を、ひとつひとつ確認して歩く。
冷え冷えとした宮の静寂が、堪らなく寂しい。また涙が氷河の頬を伝う。今日だけだ、と氷河は溢れる感情を放出することを自分に許し、止める努力もせずに咆哮にも似た嗚咽を漏らす。
カミュのいた場所だ、ここは。
カミュが生き、カミュが護り、そしてカミュが……死んだ場所だ。
───今日からここで生きていくのか、俺は。
お嬢さんに本当のことを言えばよかった。あんな、かっこつけた理由なんかじゃなく。
本当は、あまりに苦しすぎて、俺が宮にずっととどまっておく自信がないのだと。
カミュの不在を今もまだなお受け止めきれていない、自分は弱い人間なのだと。
だが、口にできるわけがなかった。
カミュにいまだに覚悟のできていない弟子だと思われたくはない。
「せんせい……」
**
魂を引き裂くような嗚咽の果てに、せんせい、というどこか幼さすら残る呼び声が漏れるに至って、一輝は握ったまま回すことを躊躇っていたドアノブから手を放した。
チ、と無音で舌打ちをし、やっぱりな、とため息をついて、ドアの外の壁に背をつけ、腕を組む。
冷静でいられるわけがないことは目に見えている。なのに、なぜ、自らを追いこむような真似をする。
氷河が一言、俺は断る、と言いさえすれば、沙織ですら強要しはしなかっただろうに。星矢たちが継承を逡巡したのは、自分達の力が足りているかどうか、ということを心配したのではない。宝瓶宮で過ごすことになる氷河の気持ちを慮って、皆、逡巡していたのだ。
もう少し時間が欲しい、と言ってしまってもよかったんだ。まだたった二年だ。克服しきれていなくとも、誰も笑いはしない。なのに、なぜ、平気な顔をしてみせる。
氷河の性格はよく知っている。一輝であっても同じようにしたかもしれない。だが、なぜかそのことが一輝を苛立たせる。
これ以上ずかずかと踏み込めるようなものでもなく、かといって、あまりに痛々しい嗚咽をそのままに立ち去ることもできずに、一輝はじっと漏れる声を聞く。
長い長い時間をかけて泣き声は次第に小さくなる。
放っておいても大丈夫そうではある。
──当たり前か。氷河とて歴戦の戦士だ。いまだに己をコントロールできない子どもではない。己の感情を制御できる、と踏んだからこそ宮の守護を引き受けたのだろうから。
だが、念のための駄目押しだ。
どうせここまで来たのだから、おせっかいの一つでもやいておこう。
一輝はその場を一旦離れ、しかし、今度は足音高く戻って来た。
ほとんど蹴破らんかの勢いで、ガンガンとドアを蹴る。
「おい!寝てんのか!」
少し時間を置いて、ドアが開けられた。
薄く開いた扉の間から不機嫌さを隠そうともせずに氷河の青い瞳が一輝を見上げる。
擦りでもしたのか目の縁が赤い。が、さすがによく取り繕っている。涙痕はどこにもない。
「うるさい、一輝。こんな夜中に何の用だ」
「バカかお前は。宮の守護に昼も夜もあるのか?俺がここまで素通りできたのが問題だ。これが敵ならお前は初日で死んでたな」
氷河はぐっと返事に詰まったようだった。が、すぐに小ばかにするような笑みを口元に湛えて一輝を斜に見る。
「ふん。俺はお前だと気づいていたから無視しただけだ」
嘘をつけ。ドアを蹴るまで俺がいることに気づいてもいなかったくせに。
それは告げずに、一輝は、どうだかな、と氷河の額を小突く。
氷河は、やめろ、と一輝を睨み、反撃するかのように声を張り上げた。
「だいたい、お前こそ、もういきなり初日から宮を放棄しているじゃないか!まさかこんなつまらないテストのためだけにここに来たわけじゃないだろうな?…………よく考えたら、お前、獅子宮は今、実質、第一の宮じゃないか!帰れ、帰れ、今すぐ帰れ!!」
「そう噛みつくな。要は上まで行かせなきゃいいんだ。何かあったらここで食い止めるさ」
「お前な……『何かあったら』って意味がわかっているのか?お前がいなきゃ瞬のとこが第一の宮になるんだ。ここで食い止めなきゃならない事態になるということは瞬が……冗談でもやめろ、こういうことは。後悔するのはお前なんだぞ」
声を落として、ごく真面目な顔になって窘める氷河に一輝は無性に苛立つ。
いつもそうだ、お前は。
人の心配をするほど余裕があるのか、お前が。
いつだって危うく、寂しがりで、情に飢えているのはお前の方のくせに、訳知り顔で俺達兄弟のことに口を挟みたがる。
「心配しなくても用が済んだら帰る」
「用が済んだらと言わずに今すぐ回れ右しろ。………用?そもそも本当に何しに来たんだ?お前は」
流石に怪訝に首をひねった氷河に一輝は不敵ににやりと笑った。氷河の体をドアに押し付け、逃げられない様に両手をその顔の横につく。
「『おやすみのキス』がまだだろう?」
途端に氷河はげんなりとした表情になる。
「『ニホンジン』におやすみのキスなどという習慣はない!」
「そうだ。俺には、な。だがお前には必要だろう?」
そう言って一輝は、バカじゃないのか、と絶対零度の視線で己を見返す氷河の唇に問答無用で己の唇を重ねた。
実はキスをするのはこれが初めてではない。最初のきっかけがどうであったのかはもう忘れた。
今のように一輝が強引に奪うばかりのものだったが、氷河は、女々しくいやだと声をあげることが負けだと思っているらしく、たいてい逃げずにそれを受けた。受けておいて、あとで拳で反撃されることも多かったが、最近ではそれすら面倒になってきたのか、無反応で返されることも多い。
今も、瞳を開いたまま、氷河はただ黙って一輝が離れるのを待っている。
「……目ぐらい閉じろ」
「なぜだ」
「普通そういうもんだ。ムードの欠片もない奴だな」
「なんでお前相手にムードなんか作らなきゃいけないんだ。お前のバカ面見て笑ってやるためにわざと開けてるんだ」
「だったら開けてられない様にしてやろう」
一輝は氷河の髪を掴み、再び口づける。今度は、唇を触れさせるだけではなく、深く。
氷河は、やはり無反応に、その青い瞳で一輝を見返す。
至近距離で視線を合わせたまま、長く深く、重ね合わせていると、次第に唇の間から、微かに吐息が漏れ始める。
一輝が、氷河の舌を柔らかく二度三度と扱くように吸い上げると、氷河は堪らず呻くような声をあげ、その瞳を閉じた。
一輝は満足して氷河を解放し、その頭をガシガシと乱暴に撫でると言った。
「用が済んだから俺は帰る。一人寝が寂しくても我慢しろ。俺は『宮の守護で』忙しい。お前にはつきあってやれん」
「だ、だ、誰が寂しいものか!」
勝手にやってきて、勝手に引っ掻き回して、そしてまた勝手に去っていく一輝の背に、氷河はこっそり凍気をお見舞いしておく。
ふん、今夜寒くて眠れないといい。
氷河は苛々と扉を閉め、そしてまだ糊のきいたシーツのかかったベッドにどさりと身を投げ出した。
あいつ本当にバカじゃないのか。
初日くらいは、あのひとに思いを馳せて静かに過ごそうとしていたのがあいつのせいで台無しだ。
苛々と一輝に対して怒りを感じて身を横たえているうちに、だが、氷河の瞼は重くなりはじめ、次第に眠りに落ちて行った。