寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編Ⅰのどこか。カミュ聖域に来た少し後くらい
100000キリリクより 「青銅たちに構われる氷河」というお題でした


◆聖域に昇る陽 ③◆

 次に目覚めた時もまた一人だった。
 星矢への義理で眠ったふりをしていただけのつもりだったが、いつもの体調とは違うせいか、瞼を閉じてわりとすぐに、本当に眠りに落ちてしまったようだ。
 星矢がいつ帰ったのかまるで気づかなかった。

 まだ身体は熱い。
 氷の聖闘士だからというわけではないのだが、暑さにはめっぽう弱く、それだというのに自分自身がその熱源となっているこの状況は必要以上に氷河を疲弊させていた。
 だが、肉体的には疲労していたが、星矢と話した余韻からか、さほど気分は悪くない。星矢の持つ前向きな明るさは陰鬱なものを吹き飛ばす力を持っている。

 少し起き上がってみようと片腕をついて、氷河は己の喉が酷く乾いていることに気づいた。
 壁際の明かり一つだけ灯された薄暗い室内へ視線を巡らし、サイドテーブルに乗せられた氷水の張られた水盥の横に、水差しとグラスが置いてあることを発見する。
 用意したのはきっと瞬だろう。(星矢ではなさそうだ)
 ベッドの上から手を伸ばして届く距離ではない。
 気怠い身体に鞭打って、しっかりと上体を起こせば、激しい頭痛と眩暈が一息に襲ってきた。しばし身を屈めてその嵐がおさまるのを待ち、そろそろと氷河は身体を回転させて床へと足を下ろす。
 己の身体はこんなにも重かっただろうか。
 かつて、白鳥の名を冠していただけあって、氷河は聖闘士の中でも身軽な方だ。
 本当に翼でもあるかのような軽やかな身のこなしは、白鳥座を辞し、水瓶座となっても変わらぬ彼の武器であったのだが、今は自分の四肢が自分のものではないように重い。
 重力の違う世界へ場違いに紛れ込んでしまったかのような違和感を伝える身体をどうにか操って、氷河はおそるおそる立ち上がった。
 が、立ち上がり、一歩踏み出した拍子に、おさまったはずの眩暈が氷河を再び襲う。まずい、と支えるものを探して伸ばした指先は、サイドテーブルの縁をすべり、その上に乗っていた水盥へとぶつかった。
 自分の身体でさえ支えきれていないというのに、哀しいかな、咄嗟の本能で、氷河は水盥を受け止めようと腕を伸ばした。
 結果、完全にバランスを失って、揺れたその丸い器もろとも、氷河は床へと転がった。
 ガランガラン、と床の上で水盥が円を描いて転がって揺れる。
 中身は。
 中身だけは、氷河自身がしっかりと受け止めていた。
 ───要はびしょ濡れである。
 一体何をやってるんだ俺は、とこみ上げる笑いが乾いた音となって空気を震わせる。
 頬へ散った水滴が重力に従って唇へ落ちて来たのを、氷河は舌で舐めとった。
 喉が渇いていたんだ。目的は(だいたい)達したからまあいいか。
 負け惜しみではない。
 大らかな(と言えば聞こえはいいが、大雑把にすぎる、と師からは時折指摘されていた)氷河の気質は、この状況をそんなふうに受け止めさせ、濡れた身体を笑いで引き攣らせながら氷河は大の字になって天井を仰いだ。
 石造りの床にぶつけた肩がひどく痛んだが、ひんやりとした床の感触は意外にも火照った身体には気持ちがよかった。
 風邪を引いているのとはわけが違うのだし、このままここで眠ってもいいような気がする。
 立ち上がって、濡れた衣服を着替えて、それから床を片付けてベッドへ戻る、という一連の動作に使うエネルギーを考えれば、ただ、瞼を閉じればよいだけ、というその誘惑には抗いがたかった。

 そのとき、とん、と軽いノックの音が扉に響いた。
 タイミングからして、扉の数歩手前で既に、氷河が転がった派手な音を聞いたに違いないのに、むやみに踏み込まずに入室の許可をまずは取ろうとする礼儀正しさは、氷河の知る限り聖域では一人だけだ。
 びしょ濡れで床の上に転がっている、という、格好つかない状況ではあったが、彼ならまあいいか、と氷河は取り繕うこともせず、入れよ紫龍、と扉の向こうへ呼びかけた。

 扉から顔をのぞかせたのは、果たして、天秤座の守護である長髪の青年だった。
「何か音がしたようだが……」
 と、紫龍はまずはベッドのあたりへ視線をやったが、そこに主はない。
 主の姿を探して左右に視線をやった紫龍は、床の上で大の字になっている氷河を発見し、怪訝な表情を見せた。
「……何かあったのか……?」
「別にたいしたことじゃない」
 紫龍が近寄って、氷河のそばへと膝をつく。そこで初めて紫龍は床も氷河の身体もしとどに濡れていることに気づいた。
 転がったままの空の水盥と氷河の顔を紫龍の視線が交互に往復する。
「熱さに耐えかねて水浴びでも、ということか?」
「まあ、そんなところだ」
「……しかし洋服は脱いでからにした方が良かったと思う」
「次からはそうする」
「ベッドの上でしなかったことは賢明だったが」
「俺も少しは頭を使った」
 ごくごく大真面目な顔でそんなやりとりを交わして、そこで二人は顏を見あわせて同時にふっと吹き出した。
 災難だったな、と言いながら紫龍は、氷河の肩を支えてゆっくりと抱き起こす。
「星矢と交替で来たんだ。汗をかいているようだったら着替えを、と瞬が言っていたが……」
「汗は今流して済んだ」
「そのようだ。しかし着替えはした方がいいように思う」
 面倒がって、着替えを回避しようとする氷河に紫龍がきっぱりとそう告げる。
 重ねて、着替えはどこだと問われて、氷河は諦めたように腕を持ち上げて部屋の片隅を指さした。クローゼットから取り出した着替えやタオルが何セットか、瞬によってそこへ積み上げられている。
 氷河の指した先を見て、紫龍はなるほど、と頷くと、立ち上がってタオルを取った。
「自分でするよ」
 指先ひとつさえ動かすことが億劫で、濡れた床へ転がったまま眠るという選択をする直前だった癖に、氷河はそう言った。
 紫龍は、そうか、と言って、それを氷河へと渡し、自分は袖をまくり上げて床へとこぼれた水を拭き始めた。
「水を、」
 飲もうとしたんだ、という言葉は省略したが、紫龍は、ああ、とすぐに察し、立ち上がるとサイドテーブルから水差しとコップを取った。
 なみなみと注がれた透明な液体でようやく完全に喉を潤し、それから氷河は濡れた髪をタオルで無造作にかき回した。
 紫龍は、その間、手際よく床を拭き、水差しの水とベッドのシーツを交換してゆく。

 紫龍の作業がひととおり終わっても、氷河はまだ、新しい綿の寝衣に袖を通して息をついて一休みしていたところだった。熱のせいなのか、指先が細かく震えていて、小さな釦を留める、という、たったそれだけの動作に手間取っているのだ。
 二、三度空振りを繰り返したところで、別に留めていなくていいか、とにかく着替えた、と氷河は諦めて、ベッドの足へ背をもたれさせて、深く息をついた。
 窓際で腕を組んで成り行きを見守っていた影が、ふと動き、氷河の前へ移動したかと思うと、目の前で長い黒髪がさらりと揺れる。
 紫龍の腕が肩と膝裏へかけられ、氷河の体はふわりと持ち上げられて床の上から糊のきいたシーツが張られたベッドの上へと移された。
 ベッドの上へ横たえ終えた腕が去り際に、それとわからぬほど自然に、だらしなく開いていた氷河の寝衣の前をかきあわせて釦を留める。
 あまりに気負いない動きだったから、「自分で」と辞することも忘れて思わず氷河は紫龍の指先に見入った。
 ほのかな光源であっても器用にするすると動く指先。
 氷河は、紫龍、と見上げた。
「お前、目はもうすっかりいいのか」
 戦いの最中、その双眸は何度も光を失った。
 平癒したと思えばまた失い、失っては平癒し、多分、戦士としての時間のそう短くはない時間を彼は光無きままに戦った。
 完治と言える状態に戻ることはないのか、どうかすると、戻って来たはずの光も時折朧となっているらしいことに気づいている。
 看病に来たはずが気遣われてしまった、と紫龍は苦笑して、氷河の瞳を真っ直ぐにのぞきこんだ。
「心配無用だ。今はお前の美しい瞳の色もよく見えている」
「……恥ずかしいことを真顔で言うな」
「お前が聞くからだ」
「俺が聞いたのはお前の目のことだ。俺の瞳の話じゃない」
 氷河の渋い顔に、紫龍は、ははっと笑った。
「近頃は視覚ばかりに頼らないよう心がけて生活しているから見えることを特別に意識はしていないが……それでも、色彩がわかる、というのはありがたいものだな。世界の美しさは、豊かな色彩で構成されていたのだと、光を失った最初の時に気づかされた」
 だからお前の瞳を見るのは好きだ、俺の知る最も美しい青だ、という紫龍に、氷河は、今度はただ頷くに留めた。
 視覚という、戦士にとっては致命的とも思える一部を失ったことのある彼の言葉は重い。
 失ったものが多いほど、残されたもの、今あるものへの慈しみは強く、鮮烈になっていく。
 たくさんの喪失感を抱えて生きる氷河には、彼の言葉のひとつひとつが深く心に染み入る。

「そうだ、これを、と思っていたんだ」
 会話の流れで思い出したのか、紫龍が胸のポケットへ手を入れた。
 取り出したのは小さな白い紙包みだ。
「?何だ?」
 受け取って無造作に開こうとする氷河の手を、紫龍が掴んで止める。
「ゆっくり開かないと飛び散るぞ」
「飛び散る?一体何が入っている?」
「薬だ」
 くすり?と怪訝に聞き返す氷河に、紫龍はもしかして苦手か?と笑う。
「老師秘伝の特別調合だ。俺も目を悪くした時には飲んでいた」
 へえ、と氷河は白い包み紙の上に乗った粉末をまじまじと見つめた。老師秘伝、というだけで、ものすごくありがたい薬のように見えるから不思議だ。
 薬はあまり好きだとは言い難いが、我が儘をいっていられる状況ではないのは確かだ。苦手なのかと聞かれた手前、本当にそうだというのも癪だ。
 飲むよ、と視線でグラスを探せば、阿吽の呼吸で、紫龍が水を差し出した。
 そこまでお膳立てされては後にはひけない。
「それで、これは効いたのか?」
 そう問いながら氷河は上を向いて、口を開け、さらさらとその粉を舌の上へ落とした。
「いや、あまり効かなかった」
「っふぁ!?」
 紫龍の答えに咽たと同時に、急激に刺すような苦味が口の中に広がり、氷河は目を白黒させながら慌てて水を流し込む。
 げほっごほっと激しく咳き込みながら喉の奥に苦味の塊を押しこんで、涙目になりながら氷河は紫龍を見上げた。
 大丈夫か、と背中を擦る紫龍の顏は真に友を気遣うそれだ。
「……お前は真顔で冗談を言うから怖い」
 冗談?と紫龍は首を傾げていることに氷河は慄く。
「冗談なんだよな?」
「効かなかったぞ?」
 なぜそんなものを俺に飲ませようと思ったのか、その理由を聞きたい、と氷河は思ったが、これできっとよくなる、と満足げに頷いている紫龍の姿に、喉奥に引っかかる苦味と共にその疑問は飲み込んだ。


「もう少し眠るといい。夜明けまでにはまだ時間がある」
 紫龍の勧めに、ああ、と氷河は大人しく目を閉じた。
 冷水を浴びて心地よく冷えていた身体は、再び内側で籠る熱に火照り始めている。
 微睡むには熱すぎる空気を纏い、氷河は落ち着かなく何度か寝返りを打って身体の位置を変えた。
 おさまりのよい位置を結局見つけることはできずに、諦めて薄く目を開けば、こちらをじっと見返す黒曜石の瞳と目が合った。
「……眠れないか」
「まあな」
「子守唄でも?」
 お前が歌を?と氷河は目を瞠り、そしてすぐに調子っぱずれの子守唄を思い出してふっと吹き出した。
「歌なら星矢が歌って行った」
 そうか、ならば俺は本でも読んでやろう、と紫龍は何故か目を閉じた。
 そしておもむろに、「子曰く、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟……」などとブツブツ言い始める。
 何かを詠唱しているようだ、と氷河が気づくのに、数瞬かかった。
「本を読んでやろう」と言ったくせにそれでは「読んで」いないじゃないじゃないか、と笑いかけ、はたと気づく。
「視覚ばかりに頼らないようにしている」と紫龍は言った。
 もしかして、これが紫龍にとって「本を読む」ということか。
 目の前にある文字を追うのではなく、記憶の中にある文字を「読む」のだ。
 知識の泉と言ってもいい彼は、師亡き後はその拠り所を書物に求めてよく宝瓶宮の書庫へと訪れていた。
 きっと、再びその瞳からいつ光が失われてもいいように、と出来る限りの文字を頭の中に焼き付けていたに違いない。
 お前は本当にたいした奴だよ。
 どんな時も軸のぶれない、真っ直ぐな紫龍の生き方には何度も刺激を受けてきた。

 もしかしたら。
 老師秘伝───師から授かった薬の効能を、紫龍は心底信じているのかもしれない。「自分には」効かなかったことはまた別の話なのだ。
 それが(紫龍に)効かなかったからといって、師のすばらしさ、というものが色褪せることはない。師の教えによる調合の薬であれば、邪眼の魔力を打ち払えるに違いない、と、信じる気持ちは氷河にも痛いほど理解できる。
 師と弟子の絆は、時を超えてもますます強固で、それは失われることはない。

 効くといい。
 ほかでもない、紫龍のために。

 呪文のように不思議な抑揚で、流暢に「読み上げる」紫龍の落ち着いた声は耳に心地よい。
 喉奥にまだひっかかる苦みも今はもうあまり気にならなかった。