寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編Ⅰのどこか。カミュ聖域に来た少し後くらい
100000キリリクより 「青銅たちに構われる氷河」というお題でした


◆聖域に昇る陽 ④◆

 暗闇で氷河は目を開ける。
 紫龍の気配はもうない。
 眠った自覚はあまりなく、さほど時間が経過したようにも思えなかったが、それでも紫龍が帰った瞬間を知らない、というのはいくらか眠ってはいたのだろう。
 身体は気怠いようなそうでもないような、どちらともつかぬ中途半端な状態だ。寛解に近付いているのか、自分の身体の方がこの状態に慣れてきたのかはよくわからない。
 深い息を一つ吐いて、寝返りを打ったその瞬間、氷河はハッとしてベッドの上に跳ね起きた。

 この攻撃的な小宇宙は……!
 くそっ。聖域にいないはずじゃなかったのか。

 別に顏を会わせたくないほど嫌いだというわけではない。相手が傷つくことよりも己のちっぽけなプライドを守るのに必死だった、そんな、少年期の突っ張り合いはもうとうに卒業した。
 先に「大人」になったのはどちらだったのか。
 ある日突然に二人の関係が劇的に変化した、という記憶はない。
 身体を繋ぐ行為を伴う関係、という意味では、ほかの誰とも違う特別な関係がそこにはあったが、二人の間では、一線を越えたことは何かの転機になったりはしなかった。
 甘い疼きの余韻がまだ漂っている時間でも相変わらず些細なことで喧嘩は起きていたし、触れられるのは不本意だ、というスタンスを氷河が長く崩すことはなかった。
 それでも、長い時間の間にかつての少年たちはいつしか緩やかに大人へと変化していた。今では、二人の間にうっかり甘い空気が落ちたからと言って狼狽えることもなく、ごく当たり前にそれを受け止める幾ばくかの余裕はある。
 ただ、だからといって、譲れぬ一線というものは変わらず存在している。
 一輝の中にも氷河の中にも互いを踏み込ませぬ領域はあったし、聖闘士として対等であることは常に意識していた。

 聖闘士としての一輝の闘い方は氷河とは(そして星矢達とも)まるで違う。
 できる限り最小限の戦いで事を終える氷河とは違い、彼の戦い方は力で強引に捻じ伏せ、完膚なきまでに相手を叩きのめし、時には残酷とも言えるダメージを相手に与える。
 あそこまでやる必要があったのか、とそれは口論の元にもなった。
 お前は甘い。
 そう返されてカッとなり、そう言うお前は痛めつける過程そのものを楽しんでいないか、と心無い言葉を返したことがある。
 一拍遅れて、だったらどうした、結果が同じなら楽しんで何が悪い、と不敵に嗤った彼の本心が別のところにあった、と今では知っている。
 露悪的に振る舞い、時に冷たく、非情に思える行動を取る男だが、その実、存外と情は深い。
 中途半端な情けをかけるより、再起不能な深刻なダメージを与えた方が最終的に流れる血が少ないこともあるのだ。
 非情に徹しきれない「甘い」自分たちのために、彼がその汚れ役を進んで負ってきたのではないかという推測は、多分、そう的外れではないはずだ。
 お前の拳ばかり血に濡らさずとも俺達にも相応の覚悟はある。
 常日頃、言葉で、態度で示してきたはずが……
 ───とても奴には「こども」にやられて臥せっている姿など見せられるものではない。

 氷河は立ち上がる。
 こめかみを冷たいものが流れ、目の前でチカチカと星が飛んだが、ぐっと臍の裏へ力を込めて揺れる身体に芯を通した。
 すばやく視線を巡らし、この部屋の中でもっとも「病人っぽさ」を演出しているベッドサイドの水盥を掴むとそれをさっきまで寝ていたベッドの下へ押しこんだ。
 慌てたせいか床へ半分以上水が零れたが気にしている場合ではない。
 部屋の片側へ積み上げられていた替えのシーツやリネン類ももしかしたら奴は不審がるかもしれない、とまとめて掴んで、ベッドの下へ押しやる。
 ガタ、と嫌な音がして水盥が傾いたような気がしたがそれにも目を瞑る。
 足でぐいぐいと押しこんで、ほかにもう何もないか、と顏を上げたのと背後の扉が開いたのはほとんど同時だった。


「………………」
「………………」
 男はノブを握ったまま、虚を突かれたように目を瞬かせている。
 氷河の方も、ベッドに入って寝たふりをしておく予定が(まだ夜は明けていない。具合が悪くなくても、横になっている方が自然な時間帯だ)、間に合わず、夜更けにベッドサイドにただ立ち尽くしているこの状況の言い訳をなんとするか、答えが見つからないまま硬直した。

「……ノックくらいはしろ。…………というか、カミュがいるのだから無闇にここへは来るなと言ったはずだが」
 ようよう絞り出した氷河の言葉に、男は眉間に深い縦皺を刻んで、それを揉むように親指と人差し指をそこへ押し当てた。
「ちょっと待て。一体お前は何をしている?カミュは今ここへはいないだろう?」
 カミュがいないことを知っているということは、とやや動揺したが、だからと言って、まあそうなんだ実は、と、あっさり路線変更できるものでもない。
 夜更けに何をするでなくベッドサイドにただ突っ立っている、という不自然さをものともせず、クールに氷河は腕を組んだ。
「何って……お前こそこんな時間に何しに来た。任務はどうした、一輝」
 ほの暗い室内においてもその立ち姿は貴公子とうたわれただけあってさすがに様になっている、なっているのだが、と一輝は扉へ片手をついて、はあ、と大きなため息をついた。
「……なんとなくお前の考えが読めてきたぞ……」
 一輝は扉を閉じ、氷河に数歩近寄った。
 寄るな、と氷河の全身が構えて、緊張を漲らす。
 手負いの獣そのものだ、と一輝は苦笑した。
「お前の茶番に付き合ってやるために来たわけじゃない。悪く思うな」
 ゆっくりと近づくと見せかけて、最後の一歩、一輝は鋭く踏み出し、同時に、握った拳を勢いよく突き出した。
 熱で霞む視界で捉えるにはあまりに速いそれを、氷河は本能のみで躱す。
 シュッと空気を切る音が氷河の耳元で響き、拳圧で柔らかなブロンドが舞う。
 氷河の今の状態を鑑みれば、棒立ちで一輝の拳を受けなかったことは上々と言えたが、それでも、一輝は呆れたように息をついて拳を下ろした。
「まるで遅い。どうせ立っているのもやっとなんだろうが」
「……なんのことだ。俺に拳ひとつ当てられもしないくせにわかったような口をきくな」
 少年期に戻ったかのような挑発的な物言いで、氷河はうまく己の状態を隠したつもりだったが、哀しいかなそれは裏目に出た。
 は、と乾いた笑いをひとつ吐いて、煽ったのはお前だからな、と一輝は言うや否や、氷河の後ろ髪を掴んだ。
 今度の速さは避ける間もなかった。
 後頭部を引っ張られた反動で上向いた唇にそのまま一輝は己のそれを重ねる。
 拳、と言っただろうが、と氷河が目を剥いて怒るより早く、だが、一輝は熱いものに触れでもしたかのように(というか実際に熱さに驚いて)氷河から飛び退った。
「とんでもなく熱いな、お前!?」
 予想以上だぞこのバカ、と一輝が氷河の肩を押せば、動かぬ証拠を押さえられてさすがに観念した身体は簡単に脱力して、ベッドへと仰向けに沈んだ。

「……なんで帰ってきた」
 顏を両腕で隠して、不貞腐れたように投げかけられる氷河の問いに、一輝もベッドへ腰かけながら答える。
「日頃は好き勝手にふらふらするな、と煩いくせに、帰ったら帰ったで邪険にするとはどういうことだ。任務が終わったからに決まっているだろうが」
「瞬が知らせたんだろう、どうせ」
「おい、任務が終わったからだ、と言った俺の言葉は無視か」
 こら、と一輝がベッドサイドへ投げ出している氷河の足を蹴った。
「……偶然任務が終わったにしてはタイミングがよ……悪すぎる」
 拗ねた氷河の言葉に、一輝はもう一度、氷河の向こう臑を蹴る。
「いい加減にしろ。お前が倒れたって聞いて俺が任務を置いてすっ飛んで帰ったなどと侮辱する気なら、今度からお前の行く先々、保護者面して付きまとってやるから覚悟しろ」
 怒気を孕んだ強い声に、さすがに氷河は黙り込んだ。
 しばしの沈黙の後に、悪かった、と氷河が口を開きかけたが、それを遮るように一輝が言った。
「聖域に戻ったところまでは偶々だ。帰るなり瞬が、氷河が大変なんだ、と飛び込んできた」
 結局瞬に聞いたから来たんじゃないか、と今度は氷河が一輝の向こう臑を蹴り飛ばす番だ。
 死にかけていると聞いたのにずいぶん話が違うぞ、と軽く笑って、一輝は己もベッドの上へと倒れ込んだ。不寝の任務から帰還したばかり、柔らかく沈むベッドに包まれながら、それほどの元気があるなら何より、と一輝は彼に気づかれぬよう深い息を吐く。
 枕代わりに腕を組んで、頭をそこへ乗せながら一輝は天井を見つめて言う。
「別に看病に来てやったわけじゃないからそう尖るな。死にかけているならとどめくらい刺してやろうかと思っただけだ」
「残念だったな。まだ死なない」
 ふ、と一輝は目を閉じたまま満足げに頷いた。
 腕を伸ばして氷河の額へと手をやり前髪をかき上げて直接肌に触れる。今度は氷河は大人しく彼に自由にさせた。
「人間、ここまで熱くなれるもんなんだな」
「そうらしいな。お前の手が冷たく感じる」
 日頃は一輝の高い体温を嫌がって、暑い時期には傍へ寄るな、と鬱陶しがることも多いのだが、今は氷河は一輝の手を自ら取って、氷嚢代わりに自分の額に、頬に押し当てて、あー気持ちいい、と目を閉じている。
 お前な、と一輝は苦笑した。
「氷の聖闘士の姿じゃないぞ、それは。いつもの凍気はどうした」
 凍気か、と氷河は己の手のひらを顔の前に翳した。
 長年自由自在に操ってきた白の嵐は今はすっかり鳴りを潜めている。
 内なる銀河を呼び覚まそうと内奥へ意識を向けても、禍々しい靄霞が阻むように広がっていて、己自身のことだというのにすっかりとままならない。
 もしも、このままの状態が続くなら。
 命あることを喜べるものではない。
 小宇宙燃やせぬでくの坊ではアクエリアスは名乗れない。
 聖衣はどうなる。まだ道半ばのカミュは。

 氷河が何も答えなかったことで、一輝もある程度を察した。
 凍気を操れないとなれば、氷河は聖闘士として死んだも同じ。
 わりあいに元気に見えるが、なるほど、皆が心配するわけだ。
「一体何にやられたんだ」
 ごく当然の成り行きで発せられた一輝の疑問に、ぐ、と氷河は喉を詰まらせた。
 何に、と訊かれれば、自分の甘さに、というのが氷河の答えなのだが、一輝の問うているのはそこではないのは明らかだ。
 己の甘さ含みの経緯を事細かに説明するのは気が進まない。言い訳がましく子どもの姿だったと言えば、この男はまた、進んで汚れ仕事ばかり引き受けるようになるのだろう。
 それで氷河は短く、ここに、と自分の額の中心を指差した。
「魔の瞳を持っていた」
 それ以上を氷河は説明しなかったが、一輝にはそれで十分通じた。
「なるほど、邪眼か」
 それはやっかいなものをまた、と一輝の鼻の頭に皺が寄る。
 姿を視認した瞬間にはその魔の視線に射抜かれている、という。
 正体に気づいた時が命果つる時。
 いざ尋常に参る、と、正面から名乗りを上げて対峙することに慣れている聖闘士たちの公正さは時として諸刃の剣となって彼ら自身の足元を掬う。
 不意打ちを許さぬ女神の清廉さに、相手が正攻法で応えるとは限らない。時に正体を隠して巧みに弱者に擬態して、時に卑劣な駆け引きをつかって、それは正義の聖闘士たちの身を危うくする。
 だからこそ、困った跳ねっ返りだと女神にため息を吐かれても、自分のようなひねくれ者もこのお人好しの集団には必要なのだと一輝は自覚している。柄ではないにも関わらず、宮ひとつ任されて聖域にとどまっているのもそのためだ。
「よく……戻ってこれたな」
 真っ直ぐにぶつかることしか知らない星矢や、生真面目な紫龍、敵に対してすら傷つけることを厭う瞬に比べれば、氷河はどちらかと言えばそこまで頭が固い方ではない。必要とあれば、敵の裏をかくような戦術だって進んで取ることもある。
 それでも、常に世を斜に構えて見ている自分とは違って、元来、素直な性質であることにおいては星矢達と大差がない。
 だからそれは、そもそも聖域に戻ってこられなかった可能性だってあった危機を巧みに切り抜けたことに対する、一輝なりの敬意と労りを含んだ言葉だったのだが、氷河は、痛烈な皮肉と受け取ったようで(一輝の日頃の物言いからしたら無理もないことだ)、こんな状態で恥ずかしげもなく戻ってきて悪かったな、と拗ねたようにそっぽを向いた。
 長い時間を共に過ごしてきたが、どうかすると、氷河と一輝の間ではこうした感情のかけ違いが往々にして起こる。
 互いにあと一言ずつが足らないのだ。あるいは、一言ずつが余計か。
 すれ違いをいちいち正して、真意を伝える努力などはしたことがない。
 上っ面の言葉遊びで揺るがないだけの盤石な信頼関係があるからだ、と言えば聞こえはいいが、単に、皮肉や煽りの言葉無しに会話ひとつ満足に交わせなかった不器用な少年期の名残がまだ残っているだけなのだった。

 今もまた誤解を誤解のままに捨て置いて、一輝は重く沈む空気を纏わせている氷河へ、ことさら軽薄な調子で言葉を重ねた。
「喜べ。邪眼なら打つ手はなくもない」
「……なに……?」
「聞いたことがないのか?邪眼の苦手なもの」
「苦手なもの?」
 氷河の鸚鵡返しの問いは、知らない、と否定の意を伝えていた。
「効くかどうかは俺も知らん。だが、それを象った邪眼避けの魔除けを見たことがある」
「……魔除け……」

 魔の瞳を持つ類のモノは複雑多岐に分化していて、棲息地帯も様々だ。人知ならざる能力に人々は古来より、どうにかその魔力から逃れる方法はないのかと知恵を絞ってきた。
 残念ながらその魔力に抗う術はない。
 それでも、どうやら苦手なようだ、効いたかもしれない、程度の効果しかないが、まじないのような魔除けの装飾品も多々作られてきた。
 棲息地帯も姿かたちも呼び名も様々な邪眼だが、苦手とされるものは不思議に一致している。
 ひとつには目玉を象った護符。
 目には目を、の洒落の類、というわけでもないのだろうが、船の舳先に無事の航海を祈り、邪視避けとして大きな目玉が一つ描かれることは多い。
 それも青い目玉が最も有効とされている。───ちょうど氷河の瞳のような。
 青の瞳自体に魔力が宿ると恐れられた時代もあったのだと思えば、その氷河が邪眼の魔力に倒れているとなればこれほどの皮肉もない。
 目玉の護符が効かないとなれば───

 もうひとつ、邪眼の苦手とするもの。

 一輝は半身を捻って、氷河の方へ身体を傾けた。
「日本でもやるだろう。玄関に盛り塩とか、あの類のまじないみたいなもんだ」
 気休めだが試してみるか、とニヤリと一輝は笑ってみせたが、そもそも盛り塩が氷河には通じなかったようで、モリシオ、とおかしな抑揚で眉を顰めた。
「もったいぶるな。何か知っているならさっさと言え」
 苛立つ氷河をさらに焦らす、というような加虐的嗜好は一輝にはない。
 捻った半身をさらにもう半回転させて氷河に覆いかぶさり、一輝は耳元で短く答えを告げた。
 下手をしたら言った瞬間に怒って下から蹴り上げられるな、と、念のために腹に力を込めて衝撃を覚悟していたが、ヨウブツ?と「モリシオ」とまるで同じ抑揚で問い返して首を傾げた氷河には全く言葉の意味が通じなかったようだ。
 そのものずばりの答えを教えてやったのに、氷河の日本語能力のせいで却ってまだるっこしくなったな、と一輝は苦笑しながら、己の体躯の下で無防備に大の字となっている氷河の寝衣の裾をたくし上げた。
「……おい、一輝、何をしている……?」
 膚の上を蠢く男の手がもたらす刺激に反応すまいと、貴公子然とした美貌は顰め面に歪んでいるのだが、そんな表情をしていてすら、たいして彼の見目良さは損なわれてはいない。
 むしろ、男の節くれ立った指の軌跡に添って粟立つ肌を恥じるように、禁欲的に固く引き結ばれた唇は却って淫靡にその美貌を彩っている。
「未通娘でもあるまいし。何をしているのかぐらいはわかるだろう」
「……ふざけるのはやめろ、一輝」
「ふざけてはいない」
「だったらなおのことやめろ。とてもじゃないがそんな余力はない」
「だからこそ、だろうが。『気休め』を試してみるか、と言っただろう」
「……これのどこが……」
「今、答えを教えてやっただろう」
 お前の言葉は難しくてわからん、と会話を放棄しようとする氷河の大腿へ、既に半ば勃ち上がり始めている下肢の間の熱塊を押し付けてやれば、何拍かの沈黙の後にようやく氷河に遅い理解が訪れた。
「……はあ……!?自分に都合のいい嘘を堂々とつくな……!そんなものが魔除けになどなるか!」
「嘘なものか。ちゃんと魔除けとして信じられている」
「俺は聞いたことがない!」
「そりゃ引き籠っていれば聞く機会もないだろうな。俺の放浪癖も無駄ではなかったというわけだ。陽物信仰のある地域は意外と多いぞ」
「知るか!……ちょ、まて……っ……一輝……アッ……そんな……バカな話があってたまる……か……ン……ッ」
 てっとり早く直截に中心を刺激し、手慣れた仕草であっという間に火種を熾す男の指に、発熱した氷河の身体に、違う種の熱が混じり始める。
 こうなるともう言葉でどれだけ抵抗しても無駄だった。
「お前、本当に熱いな……」
 漏れる吐息を唇を噛んで堪える姿に煽られて、そう耳元で漏らした男の声も負けず劣らず熱を帯びていた。

**

 部屋に色濃く漂っていた夜の気配は窓辺から徐々に纏った闇色のベールを脱ぎ始める。
 もうすぐ夜が明けるのだ。
 ほんのりと射し込む光はまだ薄もやのごとき幽きもの。うっすらと開かれた氷河の瞳にまだ朧げな世界の輪郭が映る。
 何度か瞬きをして氷河はゆっくりと身体を起こした。
 するりとベッドの縁から落ちたシーツを手を伸ばして拾い上げ、気づく。
 身体を重く支配していた厭な感覚が消えている。
 氷河は自分の手をまじまじと見下ろした。
 軽く握っていた指先を開いてみれば、特別な労なくして、ぼう、と青白い炎のような小宇宙が薄闇の中へ浮かんだ。

 ───戻ったのか……?

 現実味のない感覚に、それが夢ではないことを確認するように、氷河は手のひらの上で凍気を遊ばせる。
 きらきらと生み出される白い結晶はやがてすぐに小さな塊へと収束して、ころん、と氷河の手のひらの上へと落ちた。
 思わず氷河はそれを握り締め、両の手を祈るように組み合わせると、額へと押し当てた。
 安堵と感謝と虚脱と。
 重ねられた指の節は込められた力を示すように白く浮き出て微かに震えていた。
 時間の感覚がなくなるほど、祈りは長く、長く───。
 部屋に射し込む光の量が増え始めたのを瞼の裏で感じて、氷河は最後に一度、祈る手を胸へと押し当て、衣の上からそこで常に彼を護る十字の飾りへとそっと触れると、弾みをつけて立ち上がった。
 全身の感覚を確かめるように、四肢や肩をぐるぐると回してみたものの、疲労感が僅かに残るばかりで大きな違和感はない。
 己の状態を確信して、ようやく氷河は固く結んでいた口元をほっと綻ばせた。

 部屋に一輝の姿は既にない。
 一輝どころか、きちんと整えられた寝室の中には、氷河以外の人間がいた痕跡はどこにもなかった。
 入れ替わり立ち替わり、誰かが常に共にいた気がするのだが、さて、どこまでが現でどこまでが幻か。発熱している間中、ふわふわと漂っていた意識の境界は曖昧だ。
 ふと思い出して、氷河は部屋の隅の屑箱をのぞく。
 カサリとひとつ、折り目の残った小さな白い包み紙。
 途端に舌の上に粉っぽい苦みの記憶が戻る。

 幻でも夢でもない。
 ずっと誰かがそばにいた。

 どれが効いたのか。
 女神の癒しか、瞬の自己犠牲か、星矢の天性の明るさか、紫龍の「老師秘伝」か、それとも……

 最もバカげた最後のアレでないといいのだが、と氷河の頬が熱くなる。
 ありがとう、お前のおかげだと頭を下げるにはあまりにも───

 ……特定のどれか、ということでは断じてない。どれも等しく効いたのだ。───そう思っておく。


 気を取り直して、氷河は部屋の外へと出た。
 軽く冷水のシャワーを浴びて、汗を流し、改めて身支度を整える。
 頭から無造作に浴びた冷水のおかげで、幾ばくか残っていた疲労感もすっきりと消え去った。
 宮の入り口まで出てみれば、遠くに連なって見える山々と空との境目がくっきりと白く輝き始めていた。
 女神のところへ顏を見せるには今少し時間が早い。
 思案しながら入り口の柱へ肩をもたれかけさせ、氷河は小宇宙を燃やす。朝もやの中、氷河の生み出した無数の六花は生まれたての光を反射させてキラキラと輝きながら空中を舞った。
 多分、十二宮内の仲間にはこれで「アクエリアスの帰還」が知れただろう。
 今ごろ、やれやれ、心配させやがって、と何人もが息をついているのかと思えば、やはり少し居たたまれない。
 徒に聖域に帰還して皆に無用な心配をかけるのではなかった。なぜ俺はシベリアへ帰るということを思いつかなかったのだろう、と氷河はぼんやりと眼下へ広がる景色を見下ろした。
 乾いた風が通る石造りの要塞群は、聖闘士として愛着こそあれど、過ごした時間の長さの割にさほど郷愁を誘うものでもない。
 氷河の心を温かく懐かしく呼ぶ故郷と言えるものは、やはり白銀の大地にある、雪と氷に閉ざされた小さな小屋だけだ。
 だが───

 氷河は目を閉じた。
 閉じていても山際から昇り始めた朝陽は眩しく瞳を差す。

「場所」ではない。
 人は、自分を待つひとを目指して帰るのだ、きっと。
 シベリアでも聖域でも日本でも。
 あいつらがいるところが、俺の帰る場所だ。
 大切なひとと幾度も別れて来たが、全てを失ったわけではない。

 氷河は目を開く。
 見下ろした白と褐色ばかりの景色の中で、鮮やかな赤が動くのが見えた。
 せんせい、と息せき切って石段を上る小さな肩。肩の上で跳ねる、柔らかな赤毛を陽がやさしく照らしている。
 最近新しく加わった、「かけがえのないもの」のひとつ。
 大事なものはこうして増え続けていく。命ある限り。

 じわりと胸が疼く。
 痛みはない。温かな疼きだ。

 新しい「アクエリアスのたまご」は、長い石段を休みもせずに氷河の前へ一息に駆け上がってきた。
「あの、いつ戻っていらしたのですか……!?」
 はあはあと乱れた息もそのままに、勢い込んで訊ねるカミュに氷河は苦笑で応えた。
「まあ、今しがた、かな」
「でも……?」
 カミュは不思議そうに小首を傾げて、ちらりと石段の下へ目をやった。カミュがいたはずの下の宮を通らなかった、と言いたいのだろう。
 通らなかったことを知っている、そして、氷河の小宇宙を敏感に捉えて飛んできたということは、こんな早朝だというのにカミュはもう起きていたのだ。
 師が帰るのを待ち侘びていたのか。それとも慣れぬ寝具に困って早く目が覚めたか。
 氷河はカミュの頭に手を乗せて柔らかな笑みを浮かべた。
「昨日は帰らなくて悪かった。何ごともなかったか?」
 疑問に対する答えが得られなかったことを困惑しながらも、カミュは律儀に、はい、と頷いた。
「星矢さんのところにいました。俺はここで先生の帰りを待ちたかったのですが、皆が、一人では駄目だ、と」
 たった今、そう言われたかのように、カミュは不満げにぎゅっと拳を握る。
 年齢以上に大人びたところのあるカミュは、子ども扱いされるのを嫌がる。だから、というわけではないが、彼の早熟さに引きずられて、(そしてかつての師の面影が重なって)氷河もしばしば彼を一人前の大人と同格に扱うことは多かった。
 年齢相応の扱いを受けたのでは、だからカミュはさぞかし悔しかったことだろう。

「星矢はどうしている?」
「……まだ、高いびきで寝ています」
 黄金聖闘士なのに、と、生意気にも非難めいた色が混じった声を嗜めることもできず、氷河は曖昧に笑った。
 確かに、預かった子どもが勝手にベッドを抜け出しているのを気づかない星矢もどうかと思うが、そもそも、今日の朝寝の原因は、深夜に自分のところへ看病に来ていたせいだ。庇わないわけにはいかなかった。
「星矢は面白い奴だったろう。わたしといるよりよほど楽しく過ごせたと思うが……そうだ、たまには星矢にも教えてもらうといい。氷の聖闘士と戦い方は違うが、あの速さはきっと君の役にも立つ」
「………………先生がどうしてもって言うのなら」
 星の子学園で子守りに重宝されていた星矢だ、さぞかしカミュに好かれたことだろうと思ったのに、意外にも気乗りしない様子の返事に、思わず氷河はカミュをまじまじと見つめた。
「星矢と何かあったか?」
「……あのひと、ちょっと……だって、先生のことだってあんな、」
 耳をほんのり赤くして拳を握っているカミュの姿を見つめながら、氷河は朧げな記憶を探る。
 そういえば星矢が何か言っていたのだったか。
 えーと。
 お前の……お前の先生、でーべー……そ……?
 チラチラとカミュの視線が時折氷河の腹の中心へ彷徨うことで、疑念は確信へと変わる。
 星矢の奴。
 冗談交じりに大げさに話を誇張したわけではなく、子ども相手に本当にやらかしていたとは!
 この様子では、カミュの方も本気になって応戦したというのも混じりけなく本当の話だったようだ。
 星矢、お前ってヤツは本当に!と唸りつつ、だが、普段見ないようなカミュの子どもらしい表情を見ているうちに氷河の中にもむくむくと悪戯心が湧き上がってきた。
 あんな失礼な嘘ばかり、と思い出してまた怒り始めているカミュへ、氷河はごく真面目な顔を向けて、「もしかして、」と服の上から自分の臍のあたりを押さえた。
「星矢からわたしの秘密を聞いてしまったか?」
「!?……それは、でも、星矢さんが、」
 嘘をついて、と口の中でもごもごと繰り返すカミュに向かって、氷河は人差し指を己の唇に当てて見せた。
「誰にも言うなよ。ミロとかすぐに言いふらしそうだからな」
「!?!?!?……い、言いません……」
 え……でも、本当に……?と混乱に陥っているカミュの視線を感じて、氷河は必死に笑いを堪えた。
(なんのことはない、氷河もまた星矢と同じレベルなのだった)

 山の端から顔を出していた太陽はすっかりと姿を顕わにし、辺りはもう爽やかな朝の空気で満ち溢れている。
 日の光が、下に見える宮の屋根に乗った朝露にきらきらと反射していた。
「おいで、カミュ。すごく綺麗だ」
 師の重大な秘密を抱えて神妙な顔をしていた(臍ひとつでそんな大げさな、とまた笑い出しそうだ)弟子を手招きすれば、カミュは氷河の横へ素直に並んだ。
 氷河の指さす先を見ようと、彼の爪先が必死に伸びをしているのを発見し、ああ、と氷河は少し屈んで、一回りも二回りも小さな身体を抱き上げた。
「……っ!?せ、んせい、このようなこと、していただかなくともちゃんと見えます……っ!」
「だが、この方がよく見えるだろう」
「でも、だ、抱っこ、などしていただくような年ではありません……!」
 真っ赤になっているカミュに氷河は笑う。
 そういえば、カミュにこんなことをしてやるのは初めてだ。
 まだまだ、星矢のからかいに簡単にのってしまうような子どもだったのに。気づく余裕が自分の方になかった。
「カミュ」に対する形容としてそのような言葉を使うことは畏れ多い気がしたが……小さな身体で、真っ赤になって子どもではないと主張している「子ども」はどうしようもなく可愛くて、温かく胸が鳴った。
 カミュは、氷河が下ろす気がないようだということを悟ると暴れるのをやめ、おずおずと氷河の首に腕を回してきた。
 まだほんのりと赤いあどけない頬は、だが心なしか嬉しそうに緩んでいる。
「せんせい、」
「ん?」
 間近で呼んだカミュへ首を傾ければ、朝焼けの空の色を映した瞳が、恥ずかしそうに何度か瞬いた。
「あの、言い忘れていました」
「……うん……?」
 氷河の首へ回っていたカミュの腕の輪がキュッと縮まる。
「……お帰りなさい、せんせい」

『お帰りなさい、せんせい』
『ただいま、氷河、アイザック』

 懐かしい声が一瞬甦って、そして消える。

 明るく昇り始めた陽を眩しそうに目を細めて見て、氷河は笑った。
「ただいま、カミュ」

 ───ただいま。


(fin)

(2014.5.8~8.12UP)