寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編Ⅰのどこか。カミュ聖域に来た少し後くらい
100000キリリクより 「青銅たちに構われる氷河」というお題でした


◆聖域に昇る陽 ②◆

 カラコロと氷の塊がぶつかる音が響き、ややして、額に冷たいものが当てられた。
 濡れたタオルが乗せられていたのだ、と、新しいものに交換されて初めてその事実に気づいた。あまりに自分の体温と同化していたものだからその存在に気づかなかった。
 音のする方へとのろのろと首を傾ければ、今し方乗せられたばかりのタオルがずる、とシーツの上へ落ちた。
 持ち上げようとした腕がひどく怠く、動かすのがとても億劫だった。
 気配で気づいたのか、氷水の張った水盥にタオルを浸していた瞬がくるりとこちらを振り向く。
「あ、ごめん。落ちちゃったんだね」
 言いながら瞬は慌てて近寄ってきて、シーツを湿らせたタオルを拾って氷河の額へと戻す。
 落としたのは俺なのに、なぜお前が謝る。
 必要以上に周りに気を遣ってばかりの彼へ、謝るな、と氷河は目線で告げた。
 長い付き合いだ。氷河の瞳に含まれた言葉に気づいて、瞬は、居心地悪そうに肩を竦め、それからすぐに、いつもの氷河で安心した、と表情を緩めた。
 花がほころぶような優しげな笑みに、気怠く身体に纏わりついていた重いものが少し払われたような心地がする。

「ここは宝瓶宮か……?」
 十二宮のつくりはどこも似たり寄ったりだ。
 それでも、独特の雰囲気や置いてある物から、自宮とほかの宮を間違うことはまずないのだが、なんとなく氷河がそう問うたのを、瞬がそうだよ、と頷いてみせる。
「貴鬼が君を抱えてきて、沙織さんも血相を変えて下りてきて、さっきまでここは大騒ぎだった。沙織さんの小宇宙で君の顔色が少し戻ったから、今ようやくみんな持ち場に戻ったとこ。何も覚えていない?」
 覚えてはいないが女神の小宇宙が色濃く残っていることは目が覚めた時から気づいていた。
 言われてみれば、薄らぼんやりと霞む意識の切れ切れに、たくさんの声を聞いたような気もしなくもない。
 夢を見ているのだと思っていたが現実だったのか。
 大変でやんす、と連呼していたのはきっと市だった。
 コイツしぶといから死ぬもんか、と怒った声を張り上げていたのは邪武だっただろうか。
 心配させて悪いと思うより、弱った姿を(それも任務でへまをして、だ)皆に見られた羞恥が先に立ち、今すぐ起き上がって、たいしたことではないんだ、と打ち消して歩き回りたい気分だった。
 腕一つ持ち上げるのに難儀している時点で『たいしたことない』事態ではまるでないのだが。
 これほどの魔力、並みの人間ならばひとたまりもなかっただろう。
 もちろん聖闘士といえども、人間であることには変わりがない。
 女神の加護に包まれている聖域に辿り着くのにもっと手間取っていれば、あるいは、という可能性は十分にあった。
 己の甘さは危うく『アクエリアス』を再び空席にするところだったのだ。
 氷河の身体の中では、まだ邪眼の残した魔が燻っている。
 ぞわりと身体の内側を剥き出しの爪が引っ掻き回しているような感覚には始終吐き気と寒気を覚え、ひどく不快で仕方がなかった。
 時間と共に軽快するような類のものなのか、植えつけられた病禍をこの先もずっと身の裡に飼っていなければならないのか、幾分の苛立ちが氷河の表情を曇らせる。
 正体に気づいておきながらこんな事態を許したとはアクエリアスの名が泣く、例え相手が幼子の姿だったとて、とギリギリと奥歯を噛みしめて、氷河はハッと目を見開いた。
「カミュ……!」
 ここが宝瓶宮ならカミュがいるはずだ。
 その姿を探して、氷河はベッドの上へ半身を起こす。
 が、くらくらと眩暈を覚えて、起きた反動そのままに氷河の上体はぐらりと揺れた。
 咄嗟に肩を支えた瞬の腕が、そのまま、熱を帯びた身体を再びベッドの上へと横たえさせる。
「お願いだから大人しくしていて。カミュはいないよ」
「……カミュは俺のことを……なんと?」
 恥じ入るように長い睫毛を伏せる氷河の姿に、瞬は一瞬の戸惑いに瞳を揺らがせた。
 今のは『弟子を気づかう師匠』の顏だろうか、それとも『師匠に叱られる弟子』の顏だろうか、と。
「どっちの『カミュ』だろう……」
「何がだ?」
 思わず漏れた独り言を拾われて、慌てて瞬は首を振る。
「……ごめん、なんでもない。余計なことだった。……えーと、カミュ、ね。そう、カミュ。君の弟子の。……カミュは君が戻った時はまだ養成所の方へいたから何も知らないんだ。君は任務で遅くなるからって言って、今夜は星矢が預かることにしてある。でも、聡い子だから、何かあったと気づいているかもしれない。聖域の空気が乱れた上に女神の小宇宙が一時的に増大したからね。そう長くは隠し通せないかも」
「そうか……悪いな」
 任務を完遂したはいいが、己も無事とは言い難いこの状況はあまり小さな弟子には知られたくはない。
 単に『氷河』としてなら、幼い弟子相手に虚勢を張ったりはしない。
 実像以上に己をよく見せようと取り繕ったりはしない、それが氷河という人間だ。
 だが今は『アクエリアス』だ。
 あの紅い双眸の前では、恥じることなく強く誇り高い戦士で在り続けたいもの。(日常生活はどれだけ小さな弟子に世話を焼かれていても、だ。真に聖闘士が在るべき戦場に於いては、情けない姿は絶対に見せられない)
 それなのに。
 まだだ。
 まだ、未熟な俺は貴きアクエリアスの星には届いていない。
 噛みしめた奥歯がまた、ギリ、と音を立てた。


 再び、瞬が氷河の額のタオルを取り換えた。いくらも経っていないのにそれは氷河の熱を吸って、ほかほかと湯気でも立てそうな勢いだ。
 氷河はタオルに添えられた瞬の指を掴んだ。
「もういいさ、瞬。キリがない」
 氷河の言葉に瞬は困ったように眉を下げて、それから天を仰いで大きなため息をついた。
「本当に何てひどい熱だろう。一向に下がる気配もない。冷凍庫の氷だってもう切れそうなんだ。『宝瓶宮』で氷が切れるなんて事態が起こるなんて!」
 ものすごい皮肉だ、と顏を顰める瞬に氷河は微かに笑った。
 ならば俺が、といつものように氷を生み出すことさえもできない弱った氷河の姿に、気遣わしげに瞬がベッドサイドへ腰をかける。
 氷河の頬へ、熱の高さを確認するためにあてられた瞬の手に氷河は己のそれを重ねた。
「心配するな」
「氷河のそれは、兄さんの『どこへも行かない』と同じくらい、当てにならないもの」
「心外だな。一輝と一緒にするのか?アイツよりは当てになるはずだ」
「兄さんも同じこと言ってたけど」
 心配ばかりさせる困った二人なんだから、と微かに瞳を潤ませる瞬の姿に、氷河は気まずく視線を逸らす。
「………………一輝は任務か?」
 聖域にいないことは暑苦しい小宇宙を近くに感じないことでわかっている。
 黄金聖闘士ともなれば、気配を完全に消してしまうことだって容易いというのに、一輝の小宇宙は、逃げも隠れもしない、我、ここにあり、と常に己の存在を誇示するかのように燃えている。
 一輝が獅子座を継承した際は不死鳥ではない彼に違和感を覚えたものだが(そしてそれはどうやら本人も同じだったようだが)、そうした、堂々たる王者の風格を自然に纏わせている彼は、今となっては最初から百獣の王を名乗るために生まれてきたようにも思えるから不思議だ。
 その小宇宙を感じないからには、彼が聖域にいないことは明白で、だから氷河の訊ねた意図としては、「しばらく帰ってこないんだろうな?(帰るまでには快復して平然としていてみせる)」という念押しでしかなかった。
 だが、真意はうまく伝わらなかったと見え、少女のような細面に疑問符をいくつか貼りつけたまま、もしかして、と瞬は小首を傾げた。
「看病、僕じゃなくて兄さんに来てもらった方がいい?後で沙織さんに言って兄さんを、」
「やめてくれ!!絶対にアイツには言うな!!」
 最もあり得ない誤解に慌てて氷河は跳ね起きた。
 勢いで、額に乗せたタオルが完璧な放物線を描いて床まで飛んだのを、瞬が反射的に追いかけ、そして、手を伸ばして屈み込んだまま、俯いて激しく肩を震わせ始めた。
「………………笑うな」
「ご、……ごめ……でも、氷河ったら、」
 女神の手を煩わせたほど弱っているとは思えぬ勢いで、必死に首を振った姿に、そこまで嫌なんだ?と今度は笑いを堪えるための涙が瞬の眦に浮かぶ。
 言い訳を繰り出そうにも、突然に飛び起きた反動で、氷河の視界はぐるぐると回り、ブラックアウト寸前だ。
 その様子に瞬が慌てて、ごめん、と氷河の身体を支えた。
 氷河に触れた手のひらを通じて、瞬の体温すら上がるほど氷河の身体は発熱している。
「……また熱が上がったみたい。僕が余計なこと言ったせいだね。ごめん」
 今度は、謝るな、と窘める元気もない。荒い息で氷河は微かに首を振るに留めた。
「……少し休んだ方がよさそう。このまま眠って、氷河」
 そう言って、瞬は己の小宇宙を燃やし始めた。
 氷河の命の危機に、かつてもそうしたように。
 今度も己の小宇宙で氷河を少しでも癒したい、と瞬が衝き動かされたのは、ごく自然な成り行きだった。
 だが、やめろ、と氷河は首を振って瞬を押し返すしぐさを見せた。
「瞬、だめだ……お前は無理をしすぎる」
「冷静に考えて、今、ずっと『無理』な状態にいるのは氷河の方だと思うけど?」
「だが、」
「氷河」
 まるで少女のような優しげな声で。
 なのに、ただ名を呼んだだけの瞬の声にはハッとするほど有無を言わせぬ強さがあった。
「君があんまり僕たちを頼ろうとしないことはもう嫌ってほど知っているけど。だけど少しくらい力にならせて欲しいんだ。……ううん、違う。君のためってわけじゃないよ。カミュのためだって言えば納得してくれるかな。もう君は一人じゃないんだ。『師が任務に出たまま帰りません。聖域中がざわざわしています』カミュの元に、早く『師匠』を返して安心させてあげたいって思わない?」
 これほどの説得の言葉はない。
 カミュが───師の方の───シベリアを不在にする時はどれほど心細かったことか。それが、どれだけ短い期間でも。共に寄り添う兄弟子がいても。
 ひとつ息をついて氷河は頷く。
「……だが、無理はしないでくれ」
「ん。約束する」
 瞬の小宇宙が氷河の身体を包み込むように大きく燃やされる。
 小宇宙とは、その者の本質を体現したエネルギーだ。
 瞬の小宇宙は受容と慈愛に満ちていて、それに包まれれば疲弊していた身も心も緩やかに解ける。
 すぐに瞼を持ち上げていることが難しくなり、氷河の意識は夢の世界へと滑り落ちていく。
 直前の会話のせいか、馴染みの雪の中の小屋が脳裏へ浮かぶ。
 今帰ったぞ、と入り戸を開く師の息は、いつもほんの少し乱れていた。
 そうか、先生も俺達の待つ家に早く帰るために無理をしたことがあったのかもしれないな、と不意に気づかされる。
 閉じた瞼の裏で、懐かしい姿がじわりと滲んで、そして消えた。


**

 どれほど眠っていたのか。
 目を覚ました時には、いつの間にか部屋の中に人の気配は消えていた。
 額に乗ったタオルはまだ冷たさを保っている。
 きっと、瞬が去ってからいくらも経っていないに違いない。
 彼のところにも幼い弟子はいるのだ。氷河につきっきりというわけにはいかない。
 氷河は軽く肩をひねって寝返りを打った。眠る前よりいくらか身体が軽い。
 女神でさえ、氷河の中から完全には追い払えなかったほどの魔力だ。自分の身体が軽くなった分だけ瞬に負担がかかったのではないだろうか、とそれが気になって、もう一度眠ろうと瞼を閉じても、一向に睡魔は訪れない。

 しん、と空気を刺す静寂が耳に痛い。
 独りでいる空間など慣れているはずだが、身体が万全ではないせいか、どことなく落ち着かない。
 多分、ここが聖域だからだ。
 聖域における静寂は、無人の宮が墓標のように連なっていた頃を思い起こさせる。
 不意打ちで思い起こされた寂しい光景に、じわりと胸の奥が疼いた時、「それ」が響いた。
 ドサッ、バサバサ、という物音と、あっちゃあ、という小さなつぶやき。ガン、ゴン、とずいぶんにぎやかな音を立てて、それはこちらへと近づいてくる。
 やがて、中の気配を伺うようにそっと開かれた扉から栗色の髪がのぞく。氷河と目が合うと、星矢は、ごめん、やっちゃった、と片手を顔の前で手刀のようにかざした。
「起こした?起こした、よな?」
「いや……お前が来る少し前から起きてはいた」
「悪い。バレてると思うから白状するけど、隣の部屋、間違ってはいっちまった」
「ああ」
「で、積んであった本?の山、崩した」
「ああ、だと思った」
「……なんかまずかった?」
「いや…………大丈夫だ」
「あ、今、間があった。本当は大丈夫じゃないんだな」
 正直に言えば、あまり大丈夫ではない。綴じが緩んだ古い書籍の装丁を外して、頁順に並べて積んでおいたのだ。暇を見て綴じ直すつもりで。
 あの山を崩したということは。
 無惨に部屋中に飛び散った大量の紙切れを、もう一度順立てて並べ直さなければならなくなったことを考えれば熱が上がる気がした。
 が。
 我が師ならきっと「そもそもは作業を途中やめにしておいたお前が悪い」と叱っただろう。(我が師がしていたように美しく綴じ直す自信がなくてぐずぐずと先延ばしにしていたのだ)
 氷河は首を振って、いや、処分のために出しておいたものだから気にしなくていい、と言った。
 ならいいけど……ほんとだろうな?と多少の猜疑を残しつつ、星矢はずず、と木の椅子を引っ張り寄せてベッドの脇へと腰かける。
 だいぶつらそうだな、と言って星矢は、氷河の額のタオルを取り去って、直接彼の額を氷河に押し当てた。
「わ、なんだこれ。氷河、でこで目玉焼きできそう」
「まさか。大げさだな、お前は」
「大げさなもんか!試してみたっていいぜ」
 本気で卵を取りに行きそうな風情を見せる星矢の手を慌てて氷河は引いた。
 冗談だって、と星矢は笑ったが、の、割には目がしごく残念そうに何かを訴えていた。
「星矢、カミュはどうしている?お前が預かってくれたんじゃないのか」
 星矢の気を目玉焼きから逸らそうと、氷河はそう問うた。
 窓の外には月が昇り、星も輝いている。養成所はとっくに閉まっている時間帯だ。
「ああ、宮にいるよ。お子さまは早寝するもんだ。飯食わせて風呂入れてちゃんと寝かしつけてから来た」
 言って、星矢はへへんと鼻の頭を擦った。
 きらきらとした瞳が、褒めて、と訴えているように見えたから、苦笑しつつ、しかし感謝をこめて星矢の頭へ手のひらを乗せる。

「カミュは何か言っていたか?」
 自宮へ戻されず、隣とはいえ、他宮で一晩過ごすことになってどうしているだろうかという、師としてごく当たり前の疑問を口に乗せれば、星矢は黒目がちの大きな瞳をくるくるさせながら、それが聞いてくれ、とばかりに身を乗り出した。
「言ってた、とかそんな生ぬるいレベルじゃないって!二言目には『先生が』『先生が』ってお前の話ばかりだ。『先生がこう言った』『先生ならこうする』『それは先生に確認してみます』『先生、今頃どうしているんだろう』……そりゃ、俺とアイツの共通の話題って言ったらお前のことくらいだけど、あそこまでお前のことばっかりだとは思わなかった!ほんと参った」
「そう……なのか」
 どちらかと言えば、カミュは口数が多い方でもなく、べたべたと氷河に甘えて纏わりつくようなこともしない。
 嫌われている、とは思ってはいないが、あまり顏を合わせる機会がないミロの方が、氷河氷河と屈託なく慕ってくれているようだな、という印象すら抱いていたのだが。
 小さな弟子から寄せられた意外な親愛の情がどうにも面映ゆい。
 自然と氷河の口元は綻びかけたが、それが笑みへと変わる前に星矢の言葉が続く。
「でもさあ、あんなに先生先生言ってたらさあ、ちょっとつっついてみたくなるよな。お前の先生でべそーってさ」
「でべ……って、おい、お前は子どもか。残念だがカミュはそんな子どもだましの安い挑発には乗らないぞ」
 高貴な黄金位を戴くようになって、どことなく『そう』あろうと、外では努めて落ち着いた佇まいを見せるようにしているようだが、元来、星矢は歳より子どもっぽいところがある。(無類の子ども好きでもあるのだが、彼が子ども好きなのはきっと同レベルで気が合うせいだ、と氷河は踏んでいる)
 気心知れた仲間しか知らぬ一面を垣間見せた射手座の黄金聖闘士は、氷河の反論に、ところがどっこい、とぐっと胸を反らせた。
「と、思うだろ?それが乗ったんだなー、これが」
「……………お前ホントに言ったのか」
 それは、「つっついてみたくなる」じゃなくて、「つっついた」と言うんだ。
 なんとなく星矢にカミュを預けるのは不安になってきた氷河をよそに、星矢は、ああ、言った言った、とこともなげに答えた。
「カミュ、顏を真っ赤にして怒ってたぜ。『先生はでべそじゃありません!!』見たことあんのかよ?って言ったら悔しそうに俯いて、ないって言ってたけどな。あいつ、チビどもの喧嘩であんなにムキになることないのに、お前のこととなると頭に血が上るみたいだな。よっぽどお前、いい『先生』やってんだな?俺、魔鈴さんのこと尊敬してるけどあそこまでじゃないぜ」
 かつてのいたずらっ子はまだまだ現役だったようで、そう言って少年のようにニッと笑って氷河を見た。
「お前と言う奴は……」
 頭が痛い。
 物理的に、ではなく、突拍子もない展開について行けない、という意味での頭痛だ。
 百歩譲って、師と離れて他宮で過ごすことになったカミュの緊張を和らげてやろうとしたんだと解釈するにしても、だ。
 でべそとはなんだ。
 カミュもカミュだ。いつもミロを軽くいなしているように、さらりと流せばよいものを。
 クールになりそこなった弟子の代わりに、氷河は星矢へ冷たい視線を投げて寄越す。
「今時3つや4つの子でもそんな低レベルな喧嘩をふっかけないぞ。第一、それは臍が出ている人間に対して失礼な言い草だろう。臍が出ているのは別段悪いことではないのだから貶し言葉としては弱いな。そもそも星矢、お前は黄金聖闘士だろう。黄金聖闘士というのは、だな、」
 人格がどうの、とか、言動がどうの、とか、どこかで聞いた受け売りを滔々と続けようとしたのに、星矢はおいおい待てよ?と氷河の言葉を遮った。
「やけに庇うんだな、でべそ」
「え?」
「もしかして、氷河、ほんとにそうだったりして?」
「……え……」
「そう言えば俺もお前の臍、見たことない。お前、みんなの前で脱がないもんな」
「………普通はそんなに気軽に脱いだりはしない」
「だって紫龍は、」
「特殊事例と一緒にするな」
「あ、紫龍に言っとこ。氷河が露出狂って言ってたって」
「……言ってない」
「言ってないけど思ってるみたいだって言っとく」
「いや、星矢、お前それ、」
 会話の間にも、星矢は椅子から腰を浮かせてじわりじわりと氷河ににじり寄る。本能で危険を察して、氷河の方も上体を起こしてベッドの上で後ろへと後ずさる。
「隙ありっ!」
「嘘をつくな、隙などないっ!」
 小動物のような身軽さで星矢が氷河へ飛びかかる。
 会話のずいぶん初めの方からそれを予想していたというのに、思うように己の肉体を操ることができず、氷河はみすみすと星矢が己の上へ馬乗りになるのを許してしまう。
 対する星矢は、当たり前だが一級の戦士だ。ここのところ任務もなく、力が余っていると言ってもいい。
 星矢は目にもとまらぬ速さで氷河の両腕をひとまとめにして、軽々と片手でそれをシーツの上へと縫い留めた。そして間髪入れず、空いた手をシャツの裾へと掛け、光速でそれを捲り上げる。
 全ての動作を1秒にも満たぬ僅かな時間で為した彼は、そこでようやく、己が触れている氷河の身体が「目玉焼きが作れそうなほど」熱いことを思い出したようだった。
「………ごめん、俺、看病に来たんだった」
「………思い出してくれてよかった」
 あー、やっちまった、ほんっっとゴメン!と項垂れて星矢は氷河の上から滑るように下りた。
 だが、どうやら目的は達して済んでいたようで、猫背となって椅子の上に納まり直した星矢は、恨めしそうに上目づかいに氷河を見、「……お前、臍の形まで嫌味」とぼそりと呟いた。
 嫌味な臍の形ってなんだ、と氷河は笑った。
 一緒にいると、どうも氷河は星矢のペースに引きずられてしまい、年を経て身につけたはずの落ちつきがどこかへ行ってしまう。
 だが、嫌ではない。
 身体は多少気怠さを増してはいたが、星矢のおかげで、重く垂れ込めていた気鬱な気分は軽快していた。


 星矢が瞬よりはずいぶん雑な動きで、ざぶざぶと氷水へタオルを浸して、それを氷河の額へ乗せる。
 賑やかに登場した彼は、ようやく本来の目的へ辿り着いたのだ。
 今度はきちんと看護人の役を果たしてみせようと、星矢は椅子に座ったまま、真面目な顔で氷河をのぞきこむ。
「冗談抜きでさ、カミュ、本当にいい子だと思うぜ。聞き分けよすぎるところが珠に傷だけどな。ま、それでも俺に食って掛かれるくらいだから見込みはありそうだ」
 聞き分け良いところが欠点だ、とは星矢らしい評だ。
 そうだな、と氷河も目を閉じて頷く。


「……子ども、だった」
 氷河を休ませようという気づかいからか、黙り込んでしまった星矢に氷河はそう口を開いた。
 星矢が黙っているのが落ち着かなかったのだ。今は静寂よりも会話を欲していた。
「カミュに似ていた。いや……違うな、まるで似てはいなかった。だが、一瞬、カミュを思い出した」
 何の話が始まったのかと目を瞬かせていた星矢は、ああ、とやっとそこで合点した。
「お前が戦ったやつ?」
「ああ」
「でも違った。そう見えた、というだけだ。人間の子どもに見えたがあれは違うものだった」
「そうか」
「惑わされた。俺は甘いな。未だ変われないままだ」
 片腕で、己の顏を隠すように覆うと、星矢の腕が伸びてきて、その指先を軽く握った。
「でも、最終的に氷河は封じた。だろ?」
「……自分もこのざまだ」
 自嘲して隠した腕の下で唇を歪める氷河の胸を星矢は反対側の拳で軽くたたく。
「ま、確かにそこは甘かった、かな。だけどさ、俺たちの中でその状況で迷わなかったヤツ、いると思うか?俺は無理だ。わかっていたって子どもの姿をしていたら迷わずにはいられない。………沙織さんだって、そうじゃないかなあ」
 星矢の言葉はありがたかったが、そう言われて喜べるものでもない。氷河は、醜く歪む顏をますます腕で覆い隠して星矢から顔を背ける。
「……我が師なら多分迷わなかった。ミロも。ムウも」
 あの時代を生きた尊き先代たちならば、きっと。
 いまなお、彼らの背に教えられることは多い。
 星矢が、まあ、それはそうかもな、と否定しなかったことが氷河には嬉しかった。
 氷河ぁ、と星矢はつないだ指先をぶんぶんと振る。
「あの人たち、すごすぎるよな。生きる覚悟がまるで違った。追いつける気がしねえもん。いつまでたっても、さ」
「お前でもか」
「俺でもって言い方はひどいだろ。俺だって何も考えてないわけじゃない」
 ぷっと頬を膨らませた星矢は多分、氷河の少ない言葉の真意を誤解した。
 星矢ほど彼らの位置に近づいた人間はいない、と一目置いているからこその言葉だったのだが。
 子どもと同じレベルで喧嘩するような奴だが、ひとたび聖衣を纏えば、その覚悟たるや彼らにも十分引けを取らない、と氷河は思う。
 だが、氷河の真意を誤解したまま、星矢はポリポリと鼻の頭をかいた。
「でも、考えたって仕方がない。俺達は俺達で精いっぱいやるだけだ。追いかける存在があると燃えるしな」
「そう……だな」
 考えても考えても答えなどでなかった。
 己がこの宮に相応しいのかどうかなど。
 ならば、力の限りそうあれるように生きるしかない。

「少し休めよ、氷河。俺が看病したら熱が上がったってなことになったら、俺、ほんとに沙織さんに怒られちまう」
 話し込んでいては回復の妨げになると思ったのか、星矢は氷河の胸のあたりをトントンと叩いた。
 俺、寝かしつけ得意なんだ、と子守唄まで歌いだす。
 一定のリズムで刻まれる手の動きは寝かしつけにしてはやや力が強く、耳元で響くテノールが紡ぐ旋律は、時折、ひとつふたつ調子を外す。
 これで寝かしつけが得意というのは本当なのか、と笑いがこみあげてきて堪えるのにずいぶん苦労した。