サンサーラ本編Ⅰのどこか。カミュ聖域に来た少し後くらい
100000キリリクより 「青銅たちに構われる氷河」というお題でした
◆聖域に昇る陽 ①◆
砂煙の向こうに石の要塞が見えてきた。
白亜の要塞は夕日の色を映して赤く染まっている。
暮れる日の中を歩む青年の纏った聖衣の靴底が、じゃり、と乾いた砂の上で音を立てた。
身に纏った黄金聖衣がピシピシと電流のような共鳴を起こし、その波動でふわりとマントが翻る。
女神の領域に、今、還ったのだ。
ようやく辿り着いた、と息をひとつ吐いて、第一の宮を臨む最初の石段に足をかけたと同時に、氷河の視界は大きく傾いだ。
く、と転倒を堪えるために石段についた片膝が細かく震えている。
罅割れた石段に、ポタ、とこめかみから汗が滴り落ち、乾いた石の表面を湿らして消えた。
汗を拭うために持ち上げた拳に輝く黄金の手甲が、身に纏った鎧の重みを氷河に思い出させる。
く、と歯を食いしばって氷河は顏を上げた。
『アクエリアス』が。
こんなことで膝をつくわけにはいかぬというのに。
歯痒さと、悔しさで氷河の顏が歪む。
気力を振り絞って踏み出した二歩目はどうにか氷河の身体を次の段へと押し上げた。
久しぶりの聖域外任務だった。幼いカミュを預かるようになってからは初めての出来事だ。
だから鈍った、という言い訳は通用しないしする気もない。
深手を負って聖域に帰還、などという事態を招いたのは、結局のところ捨てきれぬ己の甘さに起因したにほかならない。
聖域より遙か東の小さな村を禍が襲ったのだ。
毎夜ごとに人が死ぬ。
野良帰りの父は畦道で。人目を忍ぶ恋人たちは路地裏で。水を汲みに出た子は庭先で。
夜が明けて冷たい骸を発見する悲鳴が珍しくなくなる頃には、集落ひとつ分にも上るほどの命が喪われていた。
死者たちには外傷はなく、突然死をもたらす流行病かに見えたが、不思議と彼らがどのように死に至ったのか見た者はない。二人、三人と同時に同場所で亡くなっていることも多々あり、そしてそれは常に「戸外」だった。
何らかの魔が跋扈して害を為しているようだ、という報告を受けた聖域は、奇禍の正体を探索の上速やかに討伐せよ、との命を氷河に課した。
聖域外任務に就くことが多い星矢や一輝でなく、弟子を取ったばかりの氷河をそれでも敢えて指名したあたり、既に彼らの神はこの奇禍の正体を見抜いていたのかもしれない。凍気という特異な技を持つ氷河は、重用される場面も多い。
任に就き、多くの命が奪われて人けのなくなった集落の中を探索して歩く氷河の中には、この集落を襲った奇禍の報告書を目にした時から既にひとつの仮説があった。
魔が跋扈する際には多かれ少なかれ、その姿形について恐ろしげな噂が広がるものだ。耳元まで口が裂けている、とか、山のような大男だ、とか。
それがまるでない、誰も『それ』の姿をチラリとも見たことがない、ということに正体を見極めるヒントがある。
『見れば死ぬ』類の魔物か。
考慮に値する可能性の一つだ。少なくとも、その可能性を排除すべき明確な理由はどこにも見当たらなかった。
苦い記憶が甦る。
かつてむざむざと石化させられたゴルゴン三姉妹の一人を冠した盾。
打ち克つために友がその両の瞳から光を失った、あの。
月の光を浴びて、禍の源を探して村の中を歩く氷河の背後で、おん、と空気が震えた。
───いる。
さあ振り向け、そして見よ、と『それ』は禍々しい気配を隠そうともせずに氷河の背中をじっと見つめている。
抗うことが耐え難いほどの強いプレッシャーが、氷河に『見よ』と命じる。その人知を超えた感覚に、やはり、と氷河は確信する。
己に害を為そうとするモノに背後を取られているのは気持ちのよいものではない。
皮肉なことに戦士としての本能までもが氷河を振り向かせようと苛む。
だが、もう実戦経験のなかった少年の頃とは違う。
目を閉じて、空気の流れを静かに読む氷河の背で、おん、と再び空気が震えた。
ふ、と氷河は薄く笑って振り向いた。重く淀んで纏わりついた空気が、獲物がかかった気配にざわりと舌なめずりに揺れる。
だが、それも一瞬の出来事。
長いブロンドが夜の空気を撹拌して、青白い小宇宙と共に空を舞った。
冷たい焔が闇を白く染め上げ、ブリザードを呼び起こす。
ホワイトアウト。
氷河が振り向き終えるよりも早く、渦巻く白い氷礫によって辺りの視界は消失した。
緯度の低いこの地に雪はまず降らない。突如として現れた冷たい嵐に予想外の反撃にあって戸惑ったのか、渦巻く気流の中心で、おんおんと何かが震える音がした。
氷河は己の生み出した絶対零度の嵐を、小宇宙だけで捉えた闇の気配に向かって収束させていく。
夜を撹拌していた凍気がすべて収束し終えた頃、そこには、氷河の背丈ほどの歪な氷の柩が出現していた。
氷河の生み出す柩はいつもは玻璃のように美しく透き通っているが、今は白く濁っている。外界と『それ』を視覚的に遮断するために、氷礫の組成に意図的に不純物を多く含ませ、光を通さぬ白い氷と為したのだ。
断末魔の悲鳴すらも凍りつかせた『それ』が、だから、実際のところどんな姿形をしていたのかは氷河にも知ることが叶わない。
視線で害を為す類の生物は一種類だけではない。人型をしていたのか、禽獣のようなものか、それとももっと直截に、目玉の化け物のようなものだったのか。
興味はあったが、無用なリスクは冒す必要がない、と、氷河は生み出した白い柩をさらにいつもの透明な柩で覆ってみせた。
視線を遮断するために含ませた不純物が強度に影響を及ぼすことのないように、との慎重さからだ。
月の光を乱反射させているその柩は、まるで美しいオブジェのようだった。このままここへ置いておいても永遠に融けることはないが、それでも己らの愛しい人の命を奪った魔物がここへ封じられていると知ればつらい思いをする者もあるかもしれない、と氷河はそれを山中深くへ移すことを決めた。
だが、柩へと手をかけたその時だ。
不意に氷河の耳に甲高い泣き声が届いた。
ハッと氷河は耳をすませる。
人けのない集落。だが、まるきり無人ではない。
魔物の跋扈する恐ろしげな夜は早く終わりますように、と息を潜めて隠れるいくつかの気配は感じていた。
何かあったのか、と家々の間を慌てて探し出せば、細い路地にぺたんと座り込み、こちらに背を向けてわあわあと泣いている幼子の姿があった。
年の頃はカミュくらいか。背に流れる赤みがかった栗毛もどことなくカミュを彷彿とさせる。
驚かせないよう、努めて柔らかな声で、どうした、大丈夫か、と氷河は声をかけて近寄った。
が。
その幼い肩に手をかけた瞬間、氷河を小さな違和感が刺した。
俯いているあどけない頬が、泣き声の大きさの割にまるで濡れていない。
しまった、と思ったのと、幼子が──幼子に見えた『それ』が立ち上がって氷河を振り仰いだのとは同時だった。
イーヴィル・アイ。
幼子の額にぽっかりと深淵のように開いた亀裂の奥に、第三の瞳が光っていた。
やはりこの村を覆う魔の気配は『邪眼』と呼ばれる魔の類であったか。
二体いたのか、あるいは封じたと思ったのは影でこちらが本体か。
思考が巡るより早く、闇を飲み込むその黒い裂け目が嗤うかのように細められ、金色の光が放たれた。
それでも、違和感を得ていた分だけ氷河の反応は早かった。
咄嗟に片腕だけで凍気の膜を張って視線を避け、再び蒼白く冷たい小宇宙を燃やす。
視界を遮断する手段さえ持っていれば黄金聖闘士にとっては恐れる相手ではない。だからこそ氷河が選ばれた。
再び封印の柩を生み出すまでに、そう長くの攻防は必要としなかった。
美しく、だが酷薄な凍気は蒼白く燃え上がり、異形の魔物に永遠の眠りを与えて、そしてようやく村は穏やかな夜を取り戻した。
───そのことに気づいたのは帰路を半分すぎたあたりだ。
妙に身体が重い。
単なる疲れとは違う厭な感じに、氷河の眉根が歪む。
完全に防いだつもりであったが。
紙一重、足らなかったか。
邪眼はやけにあっさりと氷河の凍気に斃れたように見えたが、それは、氷河を既に魔の視線で射抜いていたことを確信していたせいか。
女神の聖闘士に一太刀浴びせたからこそ、ならば痛み分けよ、とほくそ笑んで氷の棺の中で永遠の眠りにつくことに甘んじたか。
既に視線の主は絶対零度の柩の中であるというのに、ひと睨みで命を奪うというその視線の影響力は絶大だった。
じわりじわりと、それは氷河を蝕んでゆく。
四肢が重く痺れ、発熱でもしているのか、身体が燃えるように熱く、それでいて、背には冷たい汗が下りる。
自身の小宇宙で、体内を侵食していく魔を封じ込めながら、足だけは無意識に聖域へと向いていた。
女神のところへ、か。仲間のところへ、か。それとも、どうせなら手間を省こうと聖闘士の埋葬地でも目指そうとでもしたか。
いずれにしても、朦朧として霞む意識は氷河に還る場所として、聖域を選択させていた。
「氷河!?」
自宮近くに現れた乱れた小宇宙をいち早く感じ取ったのだろう、貴鬼が宮の入り口に顔を出していた。
貴鬼、いたのか、と氷河は荒い息で顏を上げた。
つい先頃、晴れて宮を任されることになった少年は、とはいえ、まだそのほとんどの時間をジャミールで過ごしている。聖衣の修復に必要な環境はそちらの方が整っているためだ。
彼がいなければ、(そしてつい最近までは実際、第一の宮に主はなかった)はるか見上げる獅子宮まで不在の宮が続く。その獅子宮とて聖域外任務の多い主のせいで不在がちときている。
氷河の今の状況を鑑みれば、第一の宮にその少年が偶々いたことは僥倖と言えた。(もっとも、年下の少年相手に情けない姿を曝した、と氷河は後で唇を噛んだのだが)
貴鬼は、飛ぶような勢いで石段を駆け下りてくる。
「どうしたの……!?氷河、ひどい顔色してる」
「なんでもない」
「いや、なんでもないって顔じゃないよ!」
うるさいぞ、貴鬼、という氷河の声は既に音とならなかった。
立ち上がることができないほど疲弊している、年上の黄金聖闘士の様子に、まだ少しあどけなさの残る少年の顔に緊迫が走る。
「とにかく女神のところへ……!?」
氷河の身体を片腕で支えて、背へ引っ張り上げようとする貴鬼に、氷河は切れ切れに呟いた。
「……貴鬼……カミュには言わないでくれ……」
支えた身体が燃えるように熱いことに慄きながら、貴鬼はぐっと両足に力を込めて、それを背へと抱え上げた。
「あと……一輝にも言うな……」
「そんなこと言ってる場合!?」
氷河のばか、と短く叱った貴鬼は、石段をこれ以上ないスピードで駆け上がっていく。
揺られながら、そうか、シベリアへ身を寄せればこの情けない姿は誰にも見られずにすんだのだった、なぜそうしなかったのだろう、とぼんやりと氷河は瞼を閉じた。